墓と薔薇

5章 流転する運命(12)

 冷めたジンジャークッキーを箱へ詰めて小さな生花の飾りが付いた蓋を閉めてから、 ふと思い出したようにデュシアンは自分の服装に視線を落とした。 家着は常に女性らしい格好を、との母のたっての願いに抗えるはずもないので、 公爵となる以前と同じような膝下辺りでひらひらと裾が揺れる女の子らしいスカートを現在着用している。 その裾を掴みながら、他家、それも大貴族であるアイゼン家へと訪れるのには相応しいとは言えない格好であることに眉を寄せた。
 踝まで隠れるほどの裾の長さが貴族の子女として当たり前、膝下、膝上までの丈しかないスカートを履くのは下働きの女たちの格好である、 という貴族なりの≪常識≫がある以上、公爵たる自分が膝が辛うじて隠れるぐらいのスカートで他家へなど訪問できるはずもない。
――着替えなくちゃ
 不足の無い格好に着替えようと思い立ち、デュシアンはエプロンを外してクッキーの箱をそのままに厨房を後にした。
 屋敷の一階東側奥にある厨房から歩いて数十歩。天窓から日差しの入るエントランスへ出ると、そこから伸びる階段を昇る。 二階へ上がって右手へ曲がり、四つ目の部屋。そこがデュシアンの部屋だった。
 いつものように思いきり扉を開けて室内へ一歩踏み出そうとした時、デュシアンは室内の異変に気づいてその一歩を踏みとどまった。
「部屋、間違えた」
 慌てたように廊下を振り返る。しかし扉の横に掛けられてある、眠る猫が描かれた小さな絵は、位置的に間違っていない事を教えてくれる。 だからもう一度室内へと視線を戻し、ぐるりと見回してみた。
 白い調度品の配置、床に敷かれた深紅の絨毯、淡い黄色のカーテンの布地、寝台の上にかかっている刺繍の施された豪華なカバー、 窓辺のテーブルの上の花瓶。とにかくそれら思い出せるかぎりの全てのものが、自分の部屋のものと遜色なく同じだった。 確かにここは自室なはずであった。
「あの、母さま?」
 自室であるはずなのに自分の部屋ではないと思わせた要因は鏡台の前で鎮座する継母だ。デュシアンは恐る恐る声をかけてみた。
「デュシアン」
 継母は何故かとても勇ましい顔をしている。そしてその後ろに控える、継母が気を許している年かさの二人の女中たちも、 まるで戦場にでもいるような気難しい顔をしていた。
 明らかに様子がおかしい。デュシアンは気圧されて心なしか半歩後ろへと下がってしまった。
「お入りなさい、ここは貴方のお部屋です」
 扉に隠れるようにして険呑な母たちを窺うデュシアンに、母は有無を言わせないような珍しくも強い口調で命じてきた。 仕方なくデュシアンは室内へと入り、扉を閉める。
「話はグレッグから聞きました。母としては、いえ、父上も、きっと申し分ない相手と判断なされる事でしょう」
「母様?」
 継母が何を言いたいのか分からなかった。デュシアンが瞳をぐるりと回してから軽く首を傾げると、 継母は膝上に行儀よく載せられていた手にぐっと力を入れて立ち上がった。
「アイゼン家の嫡子とあれば相手に不足ありません。彼の公子とは数度お会いした事がありますが、 なかなか気概のある好青年でした。それに何よりもアデル様がたいそう気に入られていた青年です。 わたくしに異存はありません」
 まるで演説でもするかのように胸に手を当てながらきびきびとした口調で語る継母を、 デュシアンはただ呆然と見つめていた。
「ですがデュシアンがそのような相手をもう見つけていた事を気づけなかったなんて、母として情けない限りです」
「かあさま?」
 勇ましく吊り上げられていた眉が下がり、嘆き一色に継母の表情が染まると、デュシアンは弾かれたように我に返って継母を窺い見た。
「でも、貴方の口から聞きたかったわ」
「か、かあさま?」
 寂しいです、と恨みがましくハンカチを握り締める継母に対し、隠し事がたくさんあるデュシアンは後ろめたさに瞳を瞬かせた。
「それにしても、手作りのお菓子を持っていくなんて、なんていじらしい娘心でしょう?」
 そう言いながら赤みを帯びた頬に手を当てて恥ずかしげに一人身を悶えさせた。
 短時間に見せる継母の激しい変化にとうとうデュシアンは対応しきれなくなり、口をぽかんと開けたまま見送った。
「貴方はぼんやりしているから、悪い男にそそのかされて しまうのではないかと心配していたのですが、今回の事を聞いて、しかも相手のお名前を聞いて、 わたくしほっとしたわ」
 瞳を輝かせて恍惚とした表情でこちらを見つめてくる。よくやりました、とその目が語っている。
 デュシアンは継母が何について話しているのか最初はわからなかったが、ここまで聞けば質問せずとも気づいた。 果てしない誤解をしているのだ、と。
 しかし誤解を解こうと口を挟む余裕もなく継母は続きを喋りだしてしまった。
「いつもの男のような格好でお会いするなど相手に失礼でしょう? それにやはり貴方には男のような礼服よりも、 あちらの方が似合います」
 継母が手をかざした先、寝台へと視線を動かせば、レースをふんだんに使ってはあるが、 子どもっぽさとしつこさを感じさせない清楚な訪問用衣服が数着置かれているのが見えた。 控えている女中たちがそれらの衣服を見えやすいように持ち上げてくれる。 そんな彼女たちの表情はどこか誇らしげだ。
「こんなこともあろうかと、新しいものを用意しておいて良かったわ」
 好奇心一杯の心を隠しきれないように継母は感嘆のため息を吐いた。そんな彼女たちの様子を見て、 期待を裏切って申し訳無いと思いながらもデュシアンはそれらの服を眺めた。
 継母の選ぶ服はどれも確かに清楚で可愛らしく、地味な自分を上手に引きたててくれるのはデュシアンもよく知っていたし、 着るのは決して嫌いではなかった。とりとめて何の変哲もない自分を愛でられる人形にでもなったかのような気分にさせてくれるのだから。
 自分以上に自分の事を分かってくれている継母の選択には信頼を寄せてはいるが、 あれではまるきり令嬢だった。まったくもって≪公爵≫らしくない。そうため息を吐きながらも、 服装の問題よりもまず先に誤解を解こうとデュシアンは視線を母へと戻した。
「あの、母さま――」
「紅も挿して―――」
「母様。母様は勘違いなされてます」
 一人楽しげに興奮しながら紅が入れられた小さな丸い容器を開ける継母へとデュシアンはなるべく柔らかく、 けれども強い口調で止めた。
「勘違い?」
 首を傾げて娘を見る継母はその娘と十歳以上も年が離れているようにはとても思えない無邪気さを感じさせる。
「わたしはお礼に伺うだけです。公子とは、そういった仲ではありません」
 ≪そういった仲≫という言葉を口にしてから急に、不思議と胸の奥に例え様の無いもやもやとした何かが沸き上がったように感じて、 デュシアンは自分の胸元に手を当てた。≪そういった仲≫ではないのなら自分と彼の公子の関係は一体なんと表したらよいのだろうか、 という疑問も頭を廻り出す。
「まあ……、そう、なの?」
 じっと見つめてくる好奇の見え隠れする蒼い瞳に、 自分でも答えの分からないものを見つけられてしまうのではないかという不安と羞恥心が膨らみ、デュシアンは表情を歪めた。
「公子にはとてもお世話になったので、お礼を述べたいだけですっ」
「そうなの? 本当にそれだけ?」
 強く言いすぎて、かえって母の興味を引いてしまったようである。デュシアンは力無く頷いた。
「それだけです」
 お礼を述べ、謝罪しに行くだけ。それから彼の公子の容態を聞く事も忘れずに。 ≪北の守り≫で自分を助けた後の彼はその様子がどことなくおかしかったのだから。
 本当にただそれだけなのだから、と自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
「そう。じゃあ、これから≪はじまる≫かもしれないわね?」
 子どものように無邪気な様子だった継母が、急にこちらを慈しむような優しい笑みを浮かべたので、 デュシアンはその言葉の深い意味を考えることなく、ざわつく胸元を押さえて継母を見つめ返すのだった。


 昼食を挟んで半時近くの時間を継母との訪問着論争に費やしながら、自分を貫き通すことに成功したデュシアンは、 いつものような礼服でエントランスへと下りた。母は半分むくれてしまい、見送りには来てくれない。
「イリヤ」
 外套を肩にまわしてくれる若執事へと視線を向けると、いつも真摯な青い瞳が下りてくる。
「なんでしょう、お嬢様」
 イリヤに≪お嬢様≫と呼ばれる度に、デュシアンは『お前など主と思えるか』と言われているような気分になった。 もちろんそれは思い過ごしであり、イリヤが自分の事を仕えるべき家の娘として大切に思ってくれている事は重々承知していた。 けれどもたまに今のように、 自分は≪お嬢様≫という守られるべき存在ではなくこの家を守る存在である≪主≫なのだと強く主張したくなる時もあった。
 しかしその思いをぐっと飲み込んで、毛足の長い黒い襟巻きを首に巻いて、話を続けた。
「私が居ない間に母様がダランベール家へ行かないよう見ていて欲しいの」
「……ダランベール家へ?」
「そう。理由はわかる、よね?」
「はい」
「お願いね?」
「畏まりました」
 こうべを垂れるイリヤを見て、デュシアンはとりあえず安堵した。イリヤに任せておけば大丈夫だ、と。
 デュシアンは、イリヤの融通は利かないが真面目な人柄を頼もしく思っていたし、尊敬もしていた。 だからこそそんな彼に≪主≫と言って欲しいと思うのかもしれないな、と考えながら屋敷と外とを隔てる扉を開けて、 外界へと歩み出した。


 亡き主が大切にしていた≪お嬢様≫を見送ったすぐ後、階段から下りてくる足音に気づき、イリヤは振り返って仰ぎ見た。 降りてきたのは亡き主が≪お嬢様≫と同じだけ大切に思っていた≪奥方様≫だった。
「デュシアンは行きましたか?」
「はい、奥様」
「ねぇ、イリヤ、貴方はどう思う?」
 ≪奥方様≫はこちらの前で足を止めて質問してきた。
「どう、とは?」
「デュシアンはウェイリード公子に気があると思う?」
「グレッグさんの話から考えれば、もしくは、とも」
 ≪奥方様≫はグレッグの話を少し飛躍して考え過ぎているように思っていたが、 イリヤは特にその感想は述べずに口元に手を当てて言葉を濁した。
 しかし≪奥方様≫が軽く眉根をひそめて遠くを見つめるように≪お嬢様≫が出て行った玄関の方へと視線を向ける姿を見て、 ≪奥方様≫はこちらの明確な答えを期待しているわけではない、とイリヤは聡く気がついた。すると案の定、 ≪奥方様≫は複雑な胸の内を語りだした。
「公爵となって苦しい事ばかり続くのではないかと心配もしているのだけれど、 今までよりも視野が広まって、多くの良い出会いや新しい発見があるのではないか、とも期待しているのよ」
 それでもとても不安なんだけれどね、と≪奥方様≫は小さく苦笑した。
「デュシアンには、自分で相手を見つけて欲しいの。出会って、恋をして、相手を深く知って、 愛情を持ち、その人の子を産む。普通だけれども、とても幸せなこと。その幸せを自分で見つけて欲しいの。 それがアデル様の望みでもあるから……」
 そう語る≪奥方様≫を見つめながら、イリヤは≪奥方様≫がその言葉を枕詞にして次に何を言い出すのか想像がついた。 そして自分が≪どちら≫に従うべきか、しばし悩んだのだった。


(2005.3.7)

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