異母姉が首都に帰ってきて二日後。
ほのかな甘い香りが厨房より漂ってくるのを嗅ぎ付けたレセンは、厨房前の廊下でぱたりと足を止めた。
朝食が終わってすぐの時間にここが使われている場合は大抵母か異母姉のデュシアンかが料理の仕込みの為に使用している事が多い。
そう思って、手に授業の為の書物を持ったまま厨房内を覗き込んだ。
室内では厨房主のグレッグが気難しげに顔を顰めて灰金の顎鬚に手を添わせながら窓辺の椅子に座っていた。
どうやら手伝いを拒否されたらしい事が彼の渋い表情から読み取れる。それでも厨房から出ない所が彼らしいのだが。
天火
の前に立ってこちらに背を向けている異母姉の姿を確認してからグレッグへ目配せをし、レセンは厨房へと足を踏み入れた。
「あの。姉上」
「あ、レセン。これから学校?」
異母姉は振り返ると満面の笑みをくれるが、それに対して軽く視線を反らすのがレセンの条件反射となっていた。
直視すると、色んな感情が筒抜けてしまいそうで怖かったのだ。
「ええ。あの姉上、朝から何をなされているのですか?」
「ジンジャークッキーを作っているの」
そう言って横の台の上の麺棒で伸ばし途中の生地を指した。どうやら天火ではもう型抜きされたものが焼かれているようだ。
午後のお茶の為に何やら焼いているとすれば時間的に随分と早い気もする。
何か漠然とした嫌な予感というものも感じながらレセンは尋ねた。
「午後のお茶の時間には少し早くありませんか?」
「人様のおうちへ持っていくの。箱の中で蒸れないように冷まして持っていくから、早いうちに焼いておかないとね」
「人様? まさかダランベール家ですか?」
「違うよ。あ。もういいかな?」
異母姉は疑問に答える前にこちらへ背を向けて
天火を開けたので、
ほのかな甘い香りが鼻孔をくすぐった。すると控えていたグレッグが身を乗り出してきて中を確認し、
掴みを持ってプレートごと取り出した。なかなか良い仕上がり具合なのだろうグレッグが頷いてみせると、
まず見た目は彼の承認を得る事ができたようなので異母姉は嬉しそうに喜んでいた。
「レセンもグレッグも、味見をしてくれる?」
頼まれるもすぐにグレッグは円形のクッキーへ手を伸ばす。瞳を閉じて味わうと静かに何度も頷きはじめたグレッグを見て、
異母姉の表情は一層歓喜に彩られた。料理の腕は天下一品とグレッグを褒める彼女にしてみれば、
彼が納得してくれた仕上がりになった事が大変満足なのだろう。
そして更なる満足を得る為に姉の視線が自分の方へ向いてきたので、レセンは仕方なく四角いそれを口に含むしかなかった。
姉や母に付き合ってはいるが、実はあまり甘い食べ物は得意ではない。
朝からこの匂いだけで胸焼けがしそうなのをなんとか耐えているのだから。
「どう、レセン」
上目使いで一心に見つめられたら緊張して、喉を通るものの味なんて分かる物ではない。
レセンはグレッグが良いと言ってるのだから美味しいのだろうと思い、適当に頷いた。
「いいんじゃないですか? 程よい甘さで」
「そう、良かった! 甘いものが苦手なレセンが大丈夫ならいいよね」
「何がですか?」
苦手と知っているのか、と少しだけ嬉しく思う。
「男の人って甘いものが苦手な人が多いでしょ、これなら誰でも――」
「は? おとこ!?」
あまりの驚きに声が上擦ってしまうが紅くなっている場合ではない、とレセンは食い入るように異母姉を見た。
「うん、そうだよ」
異母姉はこちらの過剰反応に気づくことなく、肯定してにこにこと微笑んでいる。
とうとうこの日がやってきたのか――。これから起こりつつあるこの世の破滅を宣告されたような空虚感がレセンの心を取り巻いた。
しかしただ黙って世界の破滅を待っているほど自分は諦めが良くないと、
戦意を露わにその宣告を与えてくる人物の特定にとりかかった。相手によっては叩きのめすつもりだ。
「どこの、どいつですか?」
レセンの脳内にはもうすでに、地に伏したヘスターの背に片足を乗せて勝ち誇った冷笑を浮かべる底意地の悪い従兄の顔が浮かんでいる。
想像しただけで怒りに頬を痙攣させた。
しかし異母姉は表情一つ変えずに軽く小首を傾げる仕草をしただけで、
やはりレセンの変化に気づきもしないでいとも簡単に答えた。
「ウェイリード公子だよ。アイゼン家の」
一瞬にしてレセンの脳裏では、灰色の眼差しの男が従兄を押し退けた。
長身で無口な漆黒の公子が、荒廃した大地を背景にまるで≪魔王≫のように君臨する姿が思い浮かぶ。
――アイゼン家の、ウェイリード公子……
立居振る舞いは流石はアイゼン家の嫡子、揺るぎ無く堂々としている。所謂一般的な≪貴公子≫像とは少し外れる、
騎士と肩を並べて全く劣る事の無い体躯の持ち主で、研究者として名の通った優れた魔道師だ。
父とは親交があったようだが、異母姉とまで何かしらの関係があったとは聞いていない、とレセンは酷く焦った。
――まてよ、アイゼン家といえば同じ協議会出席者じゃないか、父の誼みで向こうから積極的に声をかけてきたのかもしれない!
焦る気持ちがレセンの口元を引き攣らせた。
「なぜ公子にクッキーなど?」
「ちょっといろいろお世話になったの」
「いろいろお世話……」
≪お世話≫と名がついた新手の接近術ではないのかと、レセンは顎に手を当てて姉から視線を外して考え込んだ。
異母姉は男からの直接的な接近はすぐに逃げ出すたちだが、
間接的な隠れた接近に対しては無防備なところがある。
レセンは警戒を呼びかけようと異母姉へと視線を戻し、しかしすぐにも目をはっと見開いた。
異母姉は視線を落として噤んだ唇をきつく横へ結んでいた。しかも長い睫毛越しに見える瞳はうっすらと潤んでおり、
まるで何かに悩み苦しんで耐え忍んでいるような表情を浮かべているのだ。
異母姉の事情を知らぬレセンがそんな様子を見て、想像を膨らますのも無理はなかった。
――くそっ! 静かなナリをして、随分と積極的じゃないか
姉上にこんな顔をさせるなんて。
「上等だ」
宣戦布告はこちらから。敵として不足なし。寧ろ自分にとって高い壁となるぐらいだ。
握る拳にも力が入る。
「ん? 何が?」
怒りのあまり心の声が漏れてしまったせいで、異母姉が反応して顔を上げた。
「あ、いいえ。姉上のクッキーが随分と上物だ、と」
慌てて笑みを取り繕ってぼんやりとした異母姉を言い包めた。それくらい造作ない。
「そう、良かった。きっとウェイリード公子も食べてくれるよね?」
「え、ええ……」
異母姉は飛び跳ねかねないような勢いで喜んでいる。
それを見て、余計なことを言ってしまったのだろうかとレセンは肩を力無く下げた。
しかし、レムテストより帰ってきてからずっと沈んだ面持ちだった異母姉が、
こうして元気を取り戻してくれたのは弟としては嬉しかったのも事実だった。
けれども弟ではない≪もう半分の自分≫が、『相手は食べてくれるだろう』と頷いた事で嬉しそうに表情を弛めた異母姉を見て、
公子に対する醜い嫉妬心を膨らませたのもまた紛れもない事実だった。
――ウェイリード公子、か
もう一度、彼の公子を思い浮かべる。双子の弟とは違って無駄口はたたかず、
落ちついた雰囲気の優秀な研究者だという事ぐらいしか知らない。細かい性格や性質、
女性関係がどうであるのかなど詳しいことは聞き及んでいない。
――父上の分もしっかりと品定めしなければならないな
異母姉にお見合いすらさせようとしなかった父の確固たる意思は継いでいるつもりだった。
必ず、本人が望む幸せな結婚をさせる、と。
その為にはまず異母姉に近寄る男は全て確認するのが自分の役目だと自身に言い聞かせた。胸の奥で疼く複雑な心境を押さえ込む為に、
違う方向へと視線を向けることでレセンは自分を制したのだった。
――取りあえずは、ヘスターもラシェも御免だ
血縁の人間になど渡すものかとむきになるのは、自分が異母姉とは≪半分は他人≫という中途半端に諦めのつかない関係であるからだと、
レセンは自覚していた。
異母姉と自分とを繋ぐラヴィン家の≪血≫を引く者になど、決して異母姉をやるものか。
レセンは握り締める拳へと視線を落とし、その手首に浮かぶ青い血管を憎憎しげに見つめるのだった。
(2005.2.20)
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