墓と薔薇

5章 流転する運命(9)

一瞬にして視界全体に真っ赤な炎が広がった。
赤い、炎。
赤い……。

 ちりちりと焼けるように熱く乾いた空気を吸い込んでしまい、喉が痛いほどカラカラに渇く。 空気中の水分を全て奪いながら温度を上げていく真っ赤な炎が目の前に広がり、肌を刺すような痛みを伴う熱さが感じられる。 それなのに身体中の筋肉はまるで寒さに震えるように収縮する。歯を合わせればカチカチと音がし、 力が抜けた指先から短剣が零れ落ちた。
  「ああああああああ」
 一瞬、その声が自分のものであるかと錯覚する。自分が上げた声で我に返ったのだと、デュシアンは思った。 しかしそれは自分の発したものではなく目の前の男のものである事を認識すると、 膝から力が抜けおちた。激しく胸を叩くように脈打つ心臓を鎮めるように胸元を押さえる。 今自分は何を思い出そうとしていたのか――それを意識したくなくて、デュシアンはぎゅっと目を瞑り、 慌てるような早さの呼吸を繰り返した。
 急激な温度の低下を感じ取って身震いが起きる。座り込む場所は僅かに湿っているのか足元が冷たい。それが体力を奪うのだろうから、 本来ならすぐにも立ち上がるべきなのだが、まるで何かに囚われたように身体が動かなかった。
 しばらくして絶叫が収まった事からデュシアンは瞳を開いて男を見上げた。 男はしきりに首を振り、何かを振り払うように『ちがう』と呟いている。そして事切れたかのように急に力無く地に伏した。 跳ね上がった足元の水分が顔にかかり、デュシアンは震える手の甲でそれを拭った。
 一体何が起きたのか。
 分からずにふと瞳を横へと向ければ見覚えのある青年たちが佇んでいるのが、無数に飛び交う小さな光の玉越しに辛うじて見えた。
 その彼らの姿に、デュシアンは自分の置かれている状況を瞬時に思い出す。 ここは《北の守り》であり、そして自分は今さっき地に伏したブラウアー子爵に首を締められていたのだ。 それからすぐにも父アデルのような声がして……。それから何が起きたのかはあまり思い出せなかった。
 誰かに尋ねようと思い、一番近い位置にいるウェイリード公子を窺った。けれども彼の瞳はいつもとは違い虚ろで、 こちらを見ているのに視線が交わらない。まるで彼らしくない。
「ウェイリード、公子?」
 怪訝に思って名を呼べば、彼は夢から覚めたかのようにはっと灰の目を見開き、数度瞬きをしてからやっと焦点を合わせたようだった。
 しかし久方ぶりに出した声が乾いた喉を擦り、 ともすれば嘔吐するような勢いで咳を要した為に折角交わった視線はほんの一瞬で外れてしまった。
――どうしたんだろう? あんな目をして……。ううん、そもそもどうして公子がここに?
 肩を上下させて荒く呼吸を繰り返しながら、疑問に頭を廻らせる。
 彼はレムテストに居るはずだった。市長の強引な取り付けで、 もう一度会談する事となった為に自分たちとは一緒に首都には帰って来れないはずだったのだ。
 鮮明になった意識が次々と疑問を作りだしていくが、今重要なのはそれを彼に聞く事ではない。
――お礼を言わなきゃ……
 恐らくは命を救ってくれたのは彼だ。まず礼を言うべきだと思い、デュシアンは喉の調子を整えてから顔を上げると、 その異変に気付いて息を飲んだ。光の玉の軌跡が晴れた視界で見えたのは、 まるで罪人のように首に長剣を添えられたウェイリード公子の姿だった。
 一体誰の剣なのか――もちろん彼の横にいる青年、グリフィスのものではなかった。彼はだらんと下げた右手に剣を持っているだけだ。
 公子の首に添えられた剣を辿って持ち主を見れば、セレド王子の後ろにいつも控えている円卓騎士の姿を確認できた。
――なんで、円卓騎士が公子に刃を向けているの?
 自分が彼等を呼んだのは、ブラウアー子爵を捕まえてもらう為だった。決して公子を捕らえてもらう為ではない。 一体どうしてこのような間違いが起こっているのかデュシアンには全く見当がつかなかった。
「どうして……?」
 疑問が零れ落ちる。
 その声に反応したように公子はもう一度こちらへと視線を向けた。その口元が不快なのか悦楽なのか想像しがたいように歪んでいたが、 自分と目が合うと急にそれを引き締めた。迷ったような瞳もすぐにもいつもの憮然とした色で覆い隠されてしまう。
 その彼の一瞬の変化にデュシアンの胸中が酷くざわついた。いま彼が隠した感情は何だったのか。 無表情で毅然とした彼の仮面の下に蠢く感情は一体何なのか。どうして隠すのか。 それを知りたいという欲求がデュシアンの心に確かに芽生えたのだった。
 その時、円卓騎士であるジェノが長剣を軽く握りなおしたのか、ちゃり、と金属が擦れる小さな音が聞こえた。
 その音に背筋が粟立ち、自分の中に起爆剤が放りこまれたかのように抑えられない感情が爆発した。
「どうして?!」
 叫んだと同時に首がじくり、と痛む。たった薄皮1枚切られたぐらいなのにひどく痛む。けれども今はそれを気にしている暇もなかった。
 何故彼は黙って剣を向けられているのか。どうして彼が剣を向けられなくてはならないのか、どうして剣を向けているのか。 そんな疑問ばかりが頭を埋め尽くす。
「公子は、助けてくれたのよ?」
 理不尽極まりない円卓騎士の行動への批判と、その理不尽を受け入れる公子への苛立ちが募り、糾弾する気持ちを込めてデュシアンは叫んだ。
 激しい咳を催しても後悔はしない。水よりも、理由が欲しかったのだ。
「ウェイリード・アイゼン公子。第一級危険人物保護法第3条、第1項において、円卓騎士ジェノライト・アリスタが御身を預かる。 抵抗すれば同法第3条第4項の規定通りとする」
 デュシアンの欲しい答えが無かった代わりに、円卓騎士ジェノライト・アリスタの声が響いた。
――危険、人物……?
 頭の中が真っ白になった。
 熱で膨張した感情に冷水を引っ掛けられたように、急激にデュシアンの意識はしぼむ。
「連れて行け」
 ジェノライトの命令に従って、後ろに控えていた二人の円卓騎士がウェイリード公子の左右に付く。 それを見て怒りが再燃し、デュシアンは彼等を睨みつけた。
 まるで犯罪者扱いなのだ。それなのにそれを公子は当然のように受け入れて、抵抗するそぶりもない。理解しがたい現状に、 デュシアンはただ叫ぶしかなかった。
「公子っ」
 名を呼ぶのに、彼は振り向かなかった。
 その背がどんどん遠ざかって行く。
――いやだ……
 連れて行かないで!
 デュシアンは立ち上がってその背を追おうとするが、こちらへと近寄ってきたジェノライトに意図的に遮られてしまった。
「大事ありませんか、ラヴィン公」
 そんな形式ばった気遣いなどいらない。デュシアンはジェノライトを睨みつけた。
「どうして、どうしてですか! 公子は助けてくれたんです!」
 感情に任せたまま叫んだせいでまた激しい咳が襲う。その苦しみも、この間の結界構築魔法時の衝撃と比べれば大したことはない、 と自分を励ましながらデュシアンは胸元を抑えた。
「ラヴィン公、落ちついてください、彼は大丈夫ですから」
 先ほどから背を丁寧に撫でてくれる女性騎士が諭してくれるが、落ちついてなどいられなかった。 彼等の意図が全くわからないのだから。
「わたしが円卓騎士団に頼んだのは、ブラウアー子爵です! どうしてウェイリード公子を捕まえるのですか?!」
 声の後半は掠れてしまった。けれどもジェノライト・アリスタには十分伝わったはずである。
「彼が《危険人物》として元老院に認定されているからです」
 ジェノライトの毅然とした答えが頭上より降ってくる。
――危険人物……?
 その言葉を以前どこかで耳にした覚えがあった。記憶を辿り、それがティアレルとの会話であった事を思い出す。 円卓騎士団の仕事の一つには、《危険人物》を監視する役目がある、と彼女は言っていた。
 その監視される存在が、ウェイリード公子だというのだろうか?
 そんな疑問を持ちながらジェノライトを見上げる。
「精神魔法は人の権利を侵す魔法です。本来ならば《禁呪》として認定されるべき魔法なのです。 《禁呪》として認定されていないのは、人の手で紡がれたその力はあまりに微々たるものだからです。 しかし、ウェイリード公子はその微々たる力を際限無く発揮できる術を創りだしてしまった。 その為に、彼は国から《危険人物》という烙印を押されたのです。もちろん、 彼は研究が成功したあかつきにはその烙印を押されるのを分かっていて研究をはじめました。これは彼が選んだ道なのです」
「だからって、どうして……?」
 それが彼が捕まる理由となるのかわからないと、デュシアンは力無く首を振った。
「危険人物とは人智を越えた力を持つ《普通の人間》が、その枠組みに分類されます。 そしてその力は如何なる場合を持ってしても使用は不可。使用すれば犯罪者でなくとも捕縛令もしくは殺傷令が発動されます」
「な……」
 もう一度喉を締められたように、息が詰まる。
「公子の持つ力で一番問題なのは《破壊》です。非常に強力で厄介な魔法で、 人の精神を壊す作用があります。彼は《破壊》を使用すれば無条件で殺されても文句は言えない身なのです」
 殺されても文句は言えない身。
 その言葉に言い知れない大きな不安が膨らみ、デュシアンは胸を押しつぶされそうだった。
「それなのに、彼は《破壊》を使ったと言うのですか……?」
 デュシアンは、ジェノライトを見上げることができなかった。
「ブラウアー子爵はこの北の守りの《魅了》にかかっていたようです。つまりは正気を失っていたのです」
 そう話はじめたのは、横にいる見知った円卓騎士グリフィスだった。 軽く視線を向けると、いつもの穏やかな笑みを 浮かべてはいたが、どこかしら無理をしているように感じる彼の姿が目に入る。
 そういえば、この青年は公子と知り合い――、友人であるようだった事を思い出した。 彼なりの心配もあって、完璧な笑みを取り繕えないのだろうとデュシアンは親近感を覚える。
「《支配》では止めることができなかったので、《破壊》を使うしかなかったのです。 ウェイは相反する魔法を使うことで子爵の気を失わせるつもりだったのでしょう。子爵を止めるには、それしか方法がなかったのです。 彼の後ろに北の守りがある限りは物理的に下手なことはできませんので」
「……そんな」
 ブラウアー子爵の一番近くに居たのは自分だった。自分の位置ならば、《北の守り》へと影響なく捕まえることが可能だったはずだ。
――わたしが不甲斐ないばかりに!
 公子に《破壊》を使わせてしまったのは、間違いなく 自分だ、との激しい後悔の念がデュシアンの胸中に渦巻いた。
 そんなこちらの思考を理解しているのかグリフィスは続ける。
「安心して下さい。ウェイは四、五日の自宅謹慎程度で済むはずです。《北の守り》を守ろうとした為に使ったのですから、 咎めはほぼないはずです」
 自分を責めているデュシアンに気付いたのであろう、グリフィスは優しく微笑んでくれた。今度は完璧に。
 《北の守り》を守る為に《破壊》を使用した。
 グリフィスはデュシアンが自分を責めなくて良いように、優しい逃げ道を用意してくれたのだ。
 その気持ちは嬉しいかったが、素直に『そうだな』と思ってしまえる程、 デュシアンは自分に対して甘くはなかった。
「ラヴィン公。見守るだけでどうする事もできなかった不甲斐ない我々を恨んで頂いて構いません。 結果、公子に全て押し付けてしまったのですから」
 ジェノライトは潔く、危機が訪れている時からこの場に居たことを示唆する言葉を告げた。その誠実さに、少しだけ心が落ち着つく。
「……いいえ、不甲斐ないのはわたしの方です。子爵を止めることが出来る位置にいたのに、何もできなかったのですから」
 どうして自分が動く事が出来なかったのかと考えるが、思い出せない。体当たりだって出来たはずなのだ。 それだけで事足りたはずなのだから。どうしてそれが自分に出来なかったのか、と。 強引に思い出そうとして急激な身震いを感じた。きつく瞳を閉じて身体を抱く。
「首の手当てを致しましょう」
 円卓騎士の女性がデュシアンに身体に自分の外套を回してくれた。 瞳を開いて女性と視線を合わせ、『ありがとうございます』と礼を述べる。言葉を紡いだ自分の唇が軽く震えているのに気付き、 デュシアンは拳を握り締めた。
「エレナという娘から軽く話は聞いております。続きは詰所の方で」
 ジェノライトの言葉に頷いた。
「歩けますか?」
 グリフィスが心配そうに覗き込んでくるが、ラヴィン公たる者が神殿の道をふらふらと歩くわけにはいかない。 膝に力を入れて、力強く頷いた。


 騎士宮にある円卓騎士団所有の建物内の簡素な客間に通されると、デュシアンは二人の女性円卓騎士にまず怪我の手当てをしてもらった。 といっても喉の傷は浅く、消毒をするのみ。あとはコップに入った水を頂いた程度だった。
 どうやらこちらに心理的外傷があるのではないかと危惧しているのか、 二人の女性騎士たちはまだ具体的な話を聞き出そうとはしてこなかった。それともそれは他の人物の役目なのだろうか、と考える。
 二杯目の水を飲み干した後、それを待っていたように二人の女性騎士たちは名乗らなかった非礼を詫びてから、 簡素に自己紹介をしてきた。
 女性騎士たちはそれぞれ『セイニー』『イルーダ』と名乗った。
 セイニーは先ほど《北の守り》にてデュシアンの背を擦ってくれた騎士だった。女性にしては長身で、 短い茶色の髪に孔雀石のような鮮やかな色の瞳を持つ、毅然とした人だった。 すっと伸びた背筋と立居振る舞いは騎士らしいのにどこか女性的で、『男装の麗人』という言葉が似合う。
 もう一人イルーダは艶やかな長い黒髪の持ち主で、神秘的な黒い瞳の美しい女性だった。 身長はデュシアンよりほんの少し高い程度で体つきも到底騎士とは 思えないほど細い。その二の腕も、腰に下げた長剣を振るえるようには思えない細さだ。しかしその物腰は優雅ながらも機敏で、 どこか獣的な張り詰めた緊張感と鋭さを持っていた。
 この二人の姿こそ、自分が求める理想の公爵像であるのに気付き、小さく嘆息した。 到底自分には持ち得ないであろう内面の強さが窺える。
 所在なさげに二人を観察していたその時、控え目に扉がノックされた。
 セイニーが了承すると静かに扉が開き、デュシアンにとってはあまり会いたくない相手が中へと入ってきた。 最後に会った時の会話があまりにも気まずいものであったからだ。
「ダリル将軍は今、ブラウアー子爵を診ておられるダグラス将軍に付いてますの」
 厚手のショールを羽織っていても手に取るようにわかる華奢なからだの輪郭。顔色の優れない様子で室内へと足を進めてきたのは、 ティアレルだった。
「ティアレル、どの」
 言葉を飲み込むように名を紡ぐと、彼女は軽く微笑んだ。
「きっと疑問がありますでしょうから、自分が行くまでにお答えするようにと、ダリル将軍から言付けられましたの」
 ティアレルは椅子に座るこちらへと寄ってきてしゃがみ込むと、じっと喉の怪我を見つめてきた。 すぐにはしばみの瞳の端に涙が溜まるのが見える。泣くのではないかと一瞬どきりとした。
「なんて酷い……」
 軽く首を切られただけなのになと、デュシアンは思った。そんなに大それた怪我ではないはずだ。 感受性豊かな人なのだと視線を反らす。
 溜まった涙を払うとティアレルは身体を起こしてテーブルを向こう側、デュシアンの正面の椅子を引いた。 座った時には彼女の表情はもうすでに落ちついていた。先ほど揺れ動いていた感情の変化が全く無かったかのように思えてしまう。
 そんな彼女を見て、これが公私混同しない《仕事》をする人間の態度なのだと意識した。自分にはまだ身に付いてないものだ。
「閣下。疑問がございましょう。円卓騎士団所属分析官ティアレル・アリスタがお答え致します」
 その名前に『あ』と小さく声をあげた。円卓騎士ジェノライトと同じ姓なのだ。兄妹なのだろうかと、 今の状況には全く関係の無い疑問が浮かんだが、すぐにも掻き消えた。今一番知りたいのは、 何よりも自分のせいで捕まってしまった公子の事だからだ。
「ウェイリード公子はどうなるのですか?」
「公子は五日間の自宅謹慎処分になります。それ以上の処分を我々は望みません。元老院もこの事に関しては口を挟まないでしょうし、 はさませるつもりもございません」
 彼女の強い口調に、何かしらの強い意思を感じ取る。
 五日間の自宅謹慎。それが重い処分であるのか、軽い処分であるのかデュシアンには判断できず、安心しても良いのか眉根を寄せた。
「一番軽い処分です、どうぞご安心下さい」
 自分の気持ちを悟られたようであまり良い気持ちはしなかったが、ティアレルの その言葉にほっと安堵の息が漏れる。いつのまにか無意識に握り締めていた拳から力を抜いた。
 そして、次に生まれた疑問は自分より早くに円卓騎士団へと入った彼女の事だった。
「エレナさんはどうなるのですか?」
「彼女は協力的ですし――」
「悪い方ではありません。孤児院の為に仕方がなかったのです」
 遮るように付け足した。
 それに驚いたようにティアレルは目を軽く見開くが、すぐにも穏やかな笑みを浮かべた。
「事実関係を確認し、しかるべき処置を致します。恐らく、 信頼のおける人物の元に預けることになると思われます」
 信頼のおける人物とは一体誰の事なのかは良くわからなかったが、牢へと入れられるわけではない事に胸を撫で下ろした。
 それから思い浮かぶのは倒れた子爵の事。
「ブラウアー子爵は、大丈夫でしょうか?」
「ダグラス将軍に診て頂いております。《破壊》と《魅了》の力がぶつかったので、意識を失っただけのようです。 あとは、精神に根づいた魅了を取り除いてから事情聴取を行います」
「そう、ですか……」
 《魅了》が精神に根づいていた、と聞いて納得できる気もした。
「子爵は魅了にかかっていたのですね。どうりで目が異常だと思いました」
「公子の話を信じるのなら、子爵の持つ強化アミュレットが何らかの機能異常を起こし、 《北の守り》の視察段階でかかる強力な《魅了》にかかってしまったよう だと言う事です。激しい自己陶酔と全能感を精神の根底に焼き付けてしまい、今回のような行動になったと思われます」
「激しい自己陶酔と全能感?」
 その言葉にひっかかりを憶えるのは二度目だった。 精神魔法に詳しい公子にいつか聞いてみようと思って放っておいたことでもある。
「北の守りの《魅了》は、悪神がかけてくる《魅了の魔法》ではないのですか?」
「北の守りの魔法は《魅了の魔力》です。文書に正式に記載されていないのは、 あまりはっきりしたことが分かっていないからです。どちらにしろ、 悪神の《魅了》である事には代わりないのでそのままになっているのです」
「そう、ですか」
 腑に落ちないものを感じたが、取りあえず今自分が気になっていたことに対する答えが出た事で、ざわついていた心が落ち着いた ようにデュシアンは思えた。
「他に何かご質問は?」
「……いいえ」
 その時、軽いノックが響く。ティアレルが了承すると、ダリル将軍が室内へと入ってきた。 デュシアンは急激な緊張感に自分が包まれるのがわかる。どうもこの将軍が若干苦手のようなのだ。
「少し、お話を宜しいですか?」
 ダリル将軍の方も身体を強張らせたデュシアンの小さな変化に気づいたのか、眉を軽く上げた。 しかしすぐにも穏やかな表情を浮かべてティアレルが譲ったデュシアンの前の席に座った。 ティアレルはそのまま退室する。
「まず金印とアミュレットの方をお返ししておきます。アミュレットは外傷はないと思われますが、 お時間が許す時にリディスのところへ行くことをお勧めします」
「……はい」
 ダリル将軍は隣りに立つセイニーに渡し、セイニーがそれらをこちらへ手渡してくれる。 デュシアンは受け取ったアミュレットをぎゅっと手の平で包み込んだ。
「エレナ・ルインスキー嬢からある程度の話は聞きましたので、後は間違いがないか貴方からお聞きすることもあると思いますが、 一つだけ問題があります」
「なんでしょうか?」
「金印が貴方の元から紛失したかどうかを公表するかしないか、です」
「公表してもらっても――」
 考え無しに答えようとした言葉を遮られた。
「先日、つまりは貴方が首都を離れている時に、 ラヴィン家の分家であるダランベール伯爵家から貴方とヘクター・ダランベール卿との婚約届が提出されました。 本家である貴方の手からではなく分家の方から提出された事に疑問を持ちましたので、文書の方を調べさせていただきました」
 そんな事まで調べあげている抜け目なさにデュシアンは辟易した。
「その文書には紛れも無く、ラヴィン公爵のみが持ち得る金印での印が押されていました。その印が盗まれていた期間に押されたものなのか、 それとも金印が失せる以前にアデル・ラヴィン公もしくは貴方自身の手で押された印であるのか、 それを知ってからでなくては我々は公表できません」
 答えは簡単だ。デュシアンも、そして父だとてそのような婚姻を望んだことは一度だってない。 あの婚約文書は金印が手元に無い時に押されたものであるのだから。
 けれどもここでそう答えれば、分家であるダランベール家がブラウアー子爵と共謀したと思われてしまうかもしれない。 それではあまりに体裁が悪い。
「すぐにお答え頂く必要はありません」
「え?」
 驚いて顔を上げればダリル将軍は当然のように頷いてくれた。
「ブラウアー子爵の《魅了》を解くのにしばらく時間がかかります。お答えの方は数日後で構いませんので」
「……お心づかい、感謝致します」
 ダリル将軍は真実がどうあるのか分かっているようだった。そしてこちらの体面に配慮してくれているのだ。握り潰しても、 公表しても、どちらでも良い、と。
 金印が盗まれていた事を公表すれば、その時期にしかも当主であるデュシアンが首都を離れている時に提出されたあの婚約文書の印は いつ押されたものであるのかが問題視されてくる。ダランベール伯爵家がもしや金印紛失の片棒を担いでいたのではないのか、 と噂が広がればラヴィン家一族の名に傷が付く。 かといってそんな事態を避ける為には金印が盗まれる以前に印は押されたものである、とデュシアン自身が証言しなければならなくなる。 そうなれば正当な婚約文書を破棄するのが難しくなる。
 それらの事情を考慮して、ダリル将軍は時間をくれると言ってくれたのだ。デュシアンはその好意に甘えることにした。 ダランベール伯爵と話し合う時間も必要であるし。
「あの、将軍。お話の方はもう宜しいでしょうか?」
 口を挟んだのはティアレルだった。何時の間にか室内へ戻って来ていたらしい。手の平に収まるぐらいの小さな箱を持っている。
「ああ。取りあえず、今日はこれでお帰り頂くつもりだ」
「デュシアン様をご自宅へお送りする前に、喉の痕を消した方が宜しいかと思うのです」
「……確かに。しかし消えるのかい?」
 ちらりとダリルの視線が喉元を掠める。穏やかだった表情も少し強張る。
 二人の言っている事が理解できなくてデュシアンはそっと自分の首に触れた。 しかし先ほど治療してもらった薄い傷しか指には感じられない。
「デュシアン様、どうぞ」
 ティアレルに手渡された手鏡を覗き込んで、デュシアンは『わ』と驚きの声を上げた。
 くっきりとまではいかないが、赤黒い痕が首に残っているのだ。このまま帰れば母は卒倒してしまうだろう。
「わたくしにお任せ頂けますか?」
 鏡より視線を移すと、ティアレルはにっこりと笑って手に持つ装飾の施された箱の蓋を開けた。
「それは?」
「おしろいです」
 見せてくれた中身は、人肌色の凝乳状のおしろいだった。
「失礼致します」
 ティアレルに顎を持ち上げられ、そのままの状態でいるよう指示される。取りあえずそのままでいると、 ティアレルの繊細な指先が喉に触れる感触があった。急激に、先ほどの首を締められた時の事を思い出して身震いしたが、 『大丈夫ですか?』というティアレルの言葉にはっと我にかえって『大丈夫です』と答える。
 しばらくして、ティアレルがにっこりと微笑んで鏡を渡してきた。 覗き込めば、あの痕は殆どわからない程度に消え失せていた。
「すごい」
「薄く少しづつ伸ばして、何度も重ね塗りしていけばなんとか消えるようです。お持ちになってご使用下さい」
「でも、こういうものはとても高価かと」
「わたくしには少し濃い色なのです。どうぞお使いになって下さい」
 あまりごねて断るのも失礼だと判断し、デュシアンは在りがたく頂く事にした。それに化粧に疎い自分はこのような代物を持ってはいない。 数日は消えないであろうこの痕を毎日消さなければならないのだから、ティアレルの申し出は嬉しいものだった。
「ありがとうございます」
 以前のこちらの非礼を全く覚えていないかのようなティアレルの親切な態度に、デュシアンは瞳を伏せた。
 自分をずるい、と思う。いや、彼女をずるい、と思う。この間、最後に交わした時のあの言葉を撤回したい、と思ってしまうのだから。 そして彼女は自分にそう思わせてしまうのだから。
「お送り致します」
 セイニーのその声に、デュシアンはのろのろと立ちあがった。その視界の隅にティアレルの心配そうな表情が映ったが、 何も言わずに、何も言えずに礼をするだけしかできなかった。


(2004.11.27)

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