墓と薔薇

5章 流転する運命(8)

 ウェイリードはため息を吐くと、羽ペンを元の位置に戻した。 今まで書いていた神殿へ提出するレムテストの件の報告書を他の書類の上にぞんざいに放り、背もたれに背を預ける。
 書類を早めに書き上げようと思っていたが、 どうしてか定期的に沸きあがってくる不安に筆を止めては昨日の早朝出立した彼女の事を考えてしまった。 市長との最後の話し合いがなければ彼女の背を見送ることなく共に首都へと帰り、 いらぬ心配が募って苛立ちを感じるまでになる事はなかった。話し合いを持ちかけてきた市長に対して辛辣な言葉まで思い浮かぶ。
――ただ自分の見える範囲に彼女がいないだけだ
 それだけなのに、随分と苛ついている自分には驚くばかりだった。だいたいここで何か考えたとしても彼女には何もしてやる事はできない。 つまりは何も意味がないのだ。
 頭では理解しているのだが、何故か繰り返し彼女の事を考えてしまう自分の思考をウェイリードは持て余していた。
 彼女がビビと似ているからこのように気に病むのかもしれない、ともう一度ため息を吐く。身近にあのような人種は二人といらない、 とも思う。だが彼女はあの従妹のようにあまりに無鉄砲すぎるというわけではない。ビビは実力があるし、 自分の力に絶対の自信を持っているからすぐにごり押しをしようと試みる。あれは見ていないと何をするのか分からない。 だが彼女はビビとは違う。ある程度自分が弱い人間だと分かっていて行動する。ある程度周りを見て行動する事ができる。 だからある程度危険なことには躊躇する。
――本当に、ある程度、だが……
 それが問題だった。どうやら彼女は好ましくない選択肢を選びやすい性質を持っているいるようなのだ。 一人でウォーラズ―ル山脈を越えてモーリスまで行こうとした前科がある。 どう考えても自分から危険に踏み込んで行く素質があるように思われる。しかもビビとは違って身体能力に長けているわけでもないようだし、 危険を自ら跳ね除ける力も養われているようにもとても見えない。 それなのにそんな性質を潜在的に持ち合わせているのだから、たちが悪い。
 考えれば考えるほど不安は膨らんでいく。もちろん彼女の護衛を任せた船乗りたちは海賊とも渡り歩く信頼のおける歴戦の戦士であるし、 カーリアの地理に慣れているから首都までの道中など心配はしてはいない。
 つまりは首都に着いてからの彼女の行動が気がかりなのだ。
 彼女はあの巫女が頼んだように、円卓騎士団へ行く 前にブラウアー子爵のところを訪れるのだろうが、まさか一人で子爵の所になど行くほど愚かではないだろう、と思いたかった。 例えば子爵と二人きりで話し合う、なんて状況を間違っても選ばないだろう、と自信を持って頷きたかった。
 けれども危険だと思う状況には立ち入らない、と彼女に関してはっきり断言できない部分があった。 愚かではないのだが、人を信じ過ぎる部分があるのだ、しかもほぼ無条件で。口上手くどこかに連れ出されて……、 ということだとて考えられる。
――子爵が《北の公》自身をどうにかしようなど考えるとは思いたくないが……
 ただ名声欲は一歩間違えば簡単に道を踏み外しやすい。 自分が精神魔法の研究によって得た名声の裏にはあまりに大きすぎる過ちがあったように……。
「精神魔法……」
 その言葉を口に出し、はっとする。自分が今まで探し求めていたものを見つけたように、 すうっと喉元から何かが胸へ落ちたような気分になった。
――魅了……、そうか! 
 何故今まで気付かなかったのだろう?
 ウェイリードは己の愚かさに愕然とした。自分が感じていた漠然とした不安はここからきていたのだと気付いて初めて理解した。
 彼女の行動が不安なのではない。自分が無意識で気に留めていたのは子爵の事だったのだ。
――子爵は《強化アミュレット》の保持者だ……
 どんなに膨大な魔力の器の持ち主であっても、どんなに熟練した魔道師であっても、精神魔法に弱い人間はいるものである。 また精神魔法は恐怖を誘うものだ。完全に精神魔法を弾く《強化アミュレット》を持ちたがる人間は多い。
 だが強化アミュレットが壊れてしまったとしたら?
 壊れている事に気付かずに、何の精神的備えもなくいつものように《北の守り》の視察をしてしまったら?
 アミュレットが守ってくれると過信していた人間が、急激に自分を襲う強い魔法の 力を解呪する事が出来るほどすぐに落ちつけるだろうか?
――強化アミュレットは、壊れる
 リディスとの共同の実験で、円卓騎士を使って何度も試みているが、『壊れることはまずない』 と創り出す人間たちが自負する強化アミュレットが一度だけ壊れたことがあった。 しかしそれはあまりに精神魔法を短期間に浴びせ続けたせいで、疲労からくる崩壊だと一蹴されてしまったのだが。
――もし、子爵のアミュレットが壊れているのだとしたら、【魅了】に汚染されている可能性だとて考えられる
 子爵は大それた事をするような人間にはとても思えない、真面目な研究者だった。もちろん名声を求める気持ちはあるだろうが、 《北の守り》の研究をしていてその偉大さに気付かない愚かな人ではない、とウェイリードは信じていた。
――子爵は正気ではない。【魅了】に汚染されている……
 それならば納得がいくのだ。あの【魅了の魔力】は普通の精神魔法とは違って《神》の力によって創りだされたものだ。 持続効果が長い。精神に根づいてしまう事もある。
――あの巫女は、子爵が正気ではないようだった、と話していた。きっと……
 ウェイリードは息を飲んだ。
 それならば、余計にラヴィン公が危険だと気付いたのだ。【魅了】で高揚している人間は何をするかわかったものではない、 もちろん北の公を傷つけることだとて。
 ウェイリードは椅子を蹴って立ちあがった。部屋の扉を勢いよく開けて、大股で階下の部屋へと飛び込む。
「マニ!!」
 イスラフル様式の部屋の中心にあるソファに優雅に腰をかけて書類を読んでいたマニは、 ノックもなしに扉が開いたことに驚いた面持ちで顔を上げた。
 寒さの苦手なイスラフル人は 【暖炉の炎】を強めに付ける為に随分と部屋が暑い。 どんな時でもイスラフルの伝統的な衣裳を脱がない彼女には丁度良い温度なのであろうが、 普段着とはいえきっちりと礼服を着用するウェイリードには不快さに眉を顰める程の暑さだった。
「どうしたのよ? ノックもしないほど慌てて」
 飲もうとしていたカップを置いて、マニは首を傾げた。
「今日小型船が出ると言ってたな?」
「ええ、首都へ上るのが昼過ぎに出るわよ」
「乗せてもらえるか?」
「……いいわよ」
 少し考えてから頷いてくれる。
「でも、帰るのは明日じゃなかったの?」
「急用が出来た」
 思い過ごしであって欲しい。ウェイリードは心から望んで答えた。
「そう。出る時呼びに行くわ。それまでに準備しておいてね」
 大丈夫だという確信はない。
 彼女たちは順調にいけば今日の夕方には首都に着いているはず。  ここから海峡を上って首都までは約二時。当然、歩きでウォーラズ―ル山脈を越えるよりはずっと早くに首都に着く。 彼女がブラウアー子爵と出会う前に自分が先に子爵と出会わなければ彼女が危険なのだ。もちろん子爵が《魅了》に汚染されていたとしたら、 という前提があるが。ほんの少しの不安要素であっても、それが自分の手の届く範囲で取り除けるならば、迷っている暇はない。
「船を昼前には出せないだろうか?」
「無理言わないで。積み荷の選別が滞ってるのよ。遅れそうなぐらいなのだから」
 マニは駄々をこねる子どもをあやすように優しく説いた。
 船は人を運ぶ為に首都へ流れるわけではない。商品を運ぶ為に首都へと流れるのだ。 仕方がない、と歯を軋り合わせる。
 ぎりぎり間に合うかどうか……。
 一瞬積み荷を運ぶのを手伝おうかとも思ったが、買い手のついている積み荷もある為、部外者が触るのは好ましくないだろうと思い、 諦めた。
「どうしたのよ、らしくないわね」
 マニの少し心配気な表情を横目に、ウェイリードは窓辺に視線を移した。いつのまにか細かい雨が降り始めている。 東南の方角の空はまだ昼間だというのに随分と薄暗く鈍色にくすんでいて、自分の瞳のようだと自嘲が漏れた。

 船が出発したのは予定よりも遅れた時刻であった。 ウェイリードが傍から見てすぐに機嫌の悪さを感じさせるほどの苛立ちの表情を浮かべるのは珍しいものだ、 とマニは思いながら彼の乗った船を見送った。
 海峡はどうやら大陸南の海上にある低気圧の関係で荒れている。何時もよりも水嵩は増し、 流れも速い。この分ならば首都まで二時とかからないで着いてしまうだろう。
「それにしてもウェイってば、何をあんなに焦っていたのかしらね」
 あんまりにも焦っていたから、本来ならば自分が首都へと行くつもりだったのをつい譲ってしまった。 荷物を際限まで積むうえに、かなりの小型船である為に乗り込める人員も限られているのだから。
「本当、カーリアって寒い」
 突然冷たく強い風が外套を掬う勢いで吹き荒れ、凍えるほどのその寒さにマニは身を震わせながら呟いた。外套の中は薄着だ。 寒いのも当然だろう。
「暖かいお茶でも飲んで身体を温めないと」
 こんな日に船になんて揺られなくてすんで良かったのかも。マニは陽気な思考で迎賓館へと戻る為に歩きだした。


 空は依然、東南の方角が暗い。船に乗っても結局厚い雲を振り切れなかったようだ。 船が首都に着いたのは予定していた時間より少し早かった。 それでも首都の波止場には見覚えのある船乗りたちが待ち構えていたのを目敏く見つけると、ウェイリードは舌打ちした。 あの船乗りたちはラヴィン公とエレナを護衛するよう頼んだ者たちだ。彼等がここに居るという事は、 彼女たちはもうすでに首都に着いている、ということになる。
 船乗りたちに『マニは遅れる』との言付けだけをすると、さっさと地上へ降り、すぐにも城――神殿方面へ向けて一気に走り出した。

 午後二つ目の鐘の音が聞こえたのはアイゼン家邸宅の前を通過した時。 鐘の音と共に敷地内から犬のような鳴き声が聞こえて、 カイザーが健在で有る事を頭の隅で意識した。しかしちらりとも自宅へと目をやる余裕はなかった。

「どうしたんだい、珍しく慌てて」
 神殿の建物に入ってすぐの鏡張りの廊下を抜けて岐路となる開けた場所で、 研究塔地区から宮殿へ抜ける東地区へと向けて歩いていた円卓騎士グリフィスと出くわした。
 円卓騎士は滅多に神殿にいる事はないと言われている。もちろん絶対数が少ないので宮殿に居てもその姿を見かけることは珍しい。
 ウェイリードはまるでとってつけたかのように神殿の廊下を歩いているグリフィスに驚きながらもすぐに思い出した。 グリフィスはその温厚な人柄と秀麗な容姿であることから相手へ強い好印象を与える為に、対神殿用の円卓騎士であるのだ。 いわゆる《広告塔》でもある。そんな彼が神殿に居てもおかしくはない。
「グリフィス、ラヴィン公は円卓騎士団のところに行ったか?」
 彼が今しがた歩いてきた方向を考えれば聞いても収穫が無い事は明かなのだが、聞かずには居られなかった。
「ラヴィン公? 私は今マウロ大司教のところにいたから半刻の間については分からないな」
「そうか。……悪いがブラウアー子爵の所へ付き合ってもらえるだろうか?」
 小雨が濡らした自分の前髪から水滴が滴るのを苛立ったように手で振り払う。
 そのいつもにはないこちらの表だった苛立ちに、グリフィスは目を軽く見開いた。
「今さっき入室記録を見せてもらったのだけれど、子爵なら今、《北の守り》に入っているみたいだよ」
「北の守り?」
 言葉で言い表せないような嫌な予感が過ぎる。ラヴィン公は子爵を説得るするようエレナという巫女に頼まれていた。 彼女も子爵を追って《北の守り》に入っている可能性が十分有り得る。 円卓騎士の誰かと一緒に入っているか、もしくは外で子爵が出てくるのを待っているならば心配ないのだが。
 大人しく外で待っているような性格だろうか? それに自首を勧めるならば騎士と共に入ろうとするだろうか?
 不安は増すばかりだ。
「……グリフィス、お前は確か北の守りに入れたな?」
「入れるけれど」
「端的に話すから歩きながら聞いてくれ」
「わかった」
 こちらの緊迫した状況が通じたのだろう。グリフィスは表情を引き締めて頷いた。
 道すがら本当に簡単に、ブラウアー子爵が《魅了》に精神を汚染されているかもしれない事だけを告げた。 それ以外の事は自分が話すわけにはいかないからだ。
 グリフィスはよく出来た騎士であるから、何故、という疑問はぶつけてこなかった。静かに聞き入って、 何やら考えているようだった。

「ブラウアー子爵はまだご入室中です」
「ラヴィン公爵もご入室されておられます」
 《北の守り》へと通じている部屋の守護をする神殿騎士たちが、交互にそう答えた。
 懸念した通り、ラヴィン公も中に入っている。何故こうも彼女は危険な方向ばかり選ぶのだろう、 とウェイリードは今すぐ彼女の首根っこを掴んで叱責したい衝動にかられた。
 先に魔法陣を作動させ、グリフィスが移動してくるのを待たずに薄暗い《柱の間》を走り抜ける。 もはや一刻の猶予もないと、警鐘を鳴らすように自分の心臓が激しく脈動する。煩わしく自分の身体に纏わりついてくる外套を脱ぎ捨て、 《蜜蝋の階段》を昇った。
 最上段へと上がり、広がった視界にはあの華奢な姿は映らなかった。その代わり、 《北の守り》の前にいるブラウアー子爵と思われる細く薄い男が背がこちらへ向けて立っているのが見えた。
――どこだ?
 焦りを覚え、視界を凝視する。
 その時何かがブラウアー子爵の腕からだらり、と力なく落ちたのが見えた。それが人の腕だと気付いた時、 思考よりも先に言葉が喉を震わせていた。
「ラヴィン公!!」
 迷わず彼女の名を叫んだウェイリードの声に、《北の守り》の前でこちらへと背を向けていたブラウアー子爵が振り返った。 その半身が翻ったことで、見えない結界壁へと背を押し付けられ、子爵にその細い首を締められているラヴィン公の姿が見える。
 彼女の手がだらりと力無く下がってはいたが、苦しそうに歪める表情はまだ小刻みに震えている。辛うじて意識はあるようだ。
 ぎり、と強く奥歯を噛み締めて、怒りを抑え込んだ。
 ブラウアー子爵は予想外であるはずの人間が現われても動じる風体はなく、 視線をこちらに向けてもただ不気味に微笑んでいるだけだった。
 その目に浮かぶあまりに異様な光にウェイリードは瞬時に子爵が《魅了》で精神を汚染されていると判断した。 残念なのは、もっと早くに気付けなかった事だ。
「その手を離せ! 貴方は今、正気ではない、正気になれば後悔する!」
 ウェイリードが腰にさげる剣に手を触れながら走り寄ろろうとすれば、 子爵は片手を離して素早くラヴィン公の腰に付いていた護身用の短剣を抜き、片手を添える彼女の喉元へそれをぴたりと当てた。
 離れた場所でウェイリードは足を止めるしかなかった。
「止まりなさい。後ろの貴方もです、円卓騎士殿」
 何時の間にか追いついていたグリフィスも、剣を抜いて走り寄ろうとしていたが制された。
 ウェイリードは自分たちが来た事で、彼女が今すぐ殺されるわけではなくなった事に少なくとも安心した。 子爵が少しでも手を加えれば、自分たちが何かするまでもなく彼女の命は簡単に奪われてしまう。それこそ一瞬で。 しかし、今の子爵の手元を見ればわかるように、子爵は彼女の首を締めるのを止めている。未だに左手は彼女を首を掴んではいるが、 その手にあまり力は入っていない。子爵が彼女を殺すとすれば、彼女を楯に取って自分たちを殺してからか、 もしくは追い詰められた時だ。
 ラヴィン公の顔色は蒼白で、すぐにも意識を手放しそうな表情だった。首元はきつく締められてはいないとは言え、 子爵の手が添えられている。またご丁寧に短剣も食い込むように首元に当てられている。普通の人間がそれに恐怖しないわけがない。
「こちらへ向かってくれば、この剣でラヴィン公の喉元を一気に引き裂きます」
 抜き身の短剣が彼女の白い喉へと押し付けられる。あれで一気に引けば、ただの怪我では済まされないだろう。
 彼女が恐怖の為か一層息を飲むのが手にとるようにわかる。
「ブラウアー子爵。グリフィス・クローファーが円卓騎士の権限において御身を預かります。 ラヴィン公爵をお離し下さい」
 グリフィスの声がいつもより低い。相当苛立っているのであろうか。
「良い筋書きが浮かんだ」
 しかし子爵はグリフィスの警告をまるで無視して、狂気地味た笑みを浮かべていた。
「《破壊》に囚われたラヴィン公を止める為に《北の守り》へと入ってきた公子と円卓騎士は、 彼女の箍の外れた魔法で射殺されたのです」
 子爵の周りに水蒸気が集まったように宙が揺らめいた。それがすぐにも氷の粒になると、集まり出して無数の鋭い刃の形へと変化させる。 そしてまるで弓で引かれた矢のような勢いで二人へとそれらが飛んでくる。
 慌てることなくグリフィスは剣で叩き落し、ウェイリードは自分の前に《防御壁》 を厚く敷く事で無数の矢のような氷を硝子が砕け散るように霧散させた。 この程度の魔法を打ち破るなど二人にとっては造作もない事だ。
「さすがはララドで名声を得た魔道師、そしてダリル将軍の目のかかった円卓騎士といったところでしょうか」
 自らの魔法が二人に簡単に跳ね除けられても全く驚く事も無く、寧ろ楽しげに子爵は笑っていた。 このような子どもだましでねじ伏せられるわけはない、それは子爵とてよく分かっているのだろう。 だからこそ、子爵は自分たちより先に彼女を殺さないのだから。
「では、これでどうでしょう?」
「やめろっ」
 子爵はその手に持つ短剣を軽く引いた。彼女の白い喉に 赤い線が薄っすらと引かれるのが遠目越しでもはっきりと見えた。銀色の短剣に赤い液体が滑るように伝い、 柄の淵に溜まって床に落ちていく。液体瘴気と反応するのか、しゅうう、と嫌な音がした。
「貴様!」
 《魅了》に精神汚染されているとはいえ、抑えきれないほどの明確な憎悪が沸き上がる。
「次に魔法を避けられたら、私は驚きのあまり、この手にもっと力が入ってしまうかもしれませんね」
「は……う」
 彼女は何かを訴えるように小さくもがいていた。息苦しさ、痛さに苦しんでいるのか、 それともこれから起こり得る出来事が理解できて止め様としているのか。じたばたと暴れる足が、子爵の脛を蹴り飛ばすと、 ブラウアー子爵の瞳がこちらから離れて彼女へと向けられた。
「煩い小娘だ。死ぬ前にもっと痛い目を見たいのか?」
 ウェイリードは子爵の視線が彼女へと向いているのを見計らって、 腰に下げる剣を鞘ごと乱暴に取り、グリフィスへと放った。
「ウェイ?」
「止まらなければ、斬れ」
 グリフィスの表情が一瞬にして凍りついたのを無視して、ウェイリードはそっと自分の右瞳に手を翳して瞳を影に包み込んだ。
――《支配》ならば、大丈夫だろう……
 自分を納得させるように瞳を閉じた。
――契約を実行せよ
 ウェイリードが《呼ぶ》のは契約の相手、名を持つ《闇の精霊》だった。名と固有の性格、精神を持つ高位の精霊と契約を結べば、 魔方陣の手順を踏まずに助力を得ることができる。――もちろんその代価は高くついたが。
 ウェイリードが精神魔法の成功率を高めることに成功したのは、他ならない《闇の高位精霊》 との契約に成功したことが大きな要因の一つとなっていた。
『下級の闇の精霊が多い。我の力が精神魔法のような強い魔法に入れば奴等は騒ぎだす』
 聞こえるのは契約した高位精霊の声。本来ならば精霊は特有の言語を話すものなのだが、 古い昔から存在する高位の精霊にはこうして人語を解するものも存在する。
 高位精霊が警告するようにここは闇が濃かった。精霊は住み心地の良い場所に集まりやすい。 《悪神》の眷属たる闇の精霊たちにとっては、この場所は特に心地よさを感じる場所なのだろう。 そんな場所に高位の闇の精霊を呼べば、 辺りの闇の精霊たちが歓喜に騒ぎだす。もし力の連鎖が起きたりでもすれば……。その不安を振り払う。
――元より承知だ。力を貸せ、ヴェルグ=ヴェルド
 名は契約執行の証。瞬時に自分の瞳が熱くなる。精霊の力が瞳に宿ったのだ。
 ウェイリードは翳していた手を取り払い、闇の精霊の力の篭もった瞳を光の元へ解放した。
 他者から見れば、ほんの数秒の出来事であっただろう。しかしそれは魔法を発動するのに十分な時間であった。
 その数秒の間こちらへの注意を疎かにしたブラウアー子爵の手が急にがたがたと震え出す。 彼女へと恨み言を呟いていた口も止まる。そして握っていた短剣が床に落ちた。
「は……」
 彼女の小さな息遣いが感じられた時、その首に残っていたブラウアー子爵の手がすぐにも離れた。 ラヴィン公は自身の足で立てる程の力が残っていないのか、崩れるように床へと座り込んで喉を押さえながら咳き込んでいる。
「な、なんだ、この……力は! そうか、《支配》……、 ウェイリード公子か!!」
 狂気に彩られた瞳が見開かれ、視線だけで殺すようにウェイリードを睨みつけてくる。
「私がこのような禁忌の魔法に負けるとでも思ったか!!」
 ブラウアー子爵はまるで身体中を締めつける見えない縄を引き千切るようにぶるぶると腕を震わせて、 叫ぶと同時に《支配》を打ち破った。ぜいぜいと激しく荒げた息遣いで肩を上下させ、足元にうずくまるラヴィン公へと手を伸ばす。
――神の《魅了》には勝てないのか?!
 しかしラヴィン公は、液体瘴気の中に落ちている短剣を必死になって拾い、手を伸ばしてくるブラウアー子爵へ刃を向けていた。 いくら令嬢とはいえ短剣を使った護身術ぐらい習っているはずだ。伸びてくる子爵の手を剣で軽く振り払った。
 人質がいなくなれば彼がやりそうな事はただ一つ。狂ったように魔力を放出しながら子爵は北の守りへと手を伸ばした。
「こうなれば、《北の守り》もろとも……!!」
 急激に室内の熱量が増すのは子爵がありったけの魔力を使って火の精霊の力を引き出しているからだ。
 思った通りの展開になるとウェイリードは舌打ちし、両の瞳を閉じた。 子爵のすぐ後ろには北の守りがある事から無茶な魔法は打てない。かといってここから走って力任せに止めるのも間に合わない。
――《破壊》しか、ない……
 できるなら使いたくなかった。しかし止められる位置にいるラヴィン公はあまりに巨大な炎に身を震わせて怯えている。 とても何かの動きを期待は出来ない。
 《破壊》の為に、契約を交わした闇の精霊にもう一度助力を請うと急激に一人の男が思い浮かんだ。 顔も、名前も覚えていない。ただ、何十件もの快楽殺人を繰り返した死刑囚とだけ記憶している。
 過去の忌まわしい記憶を振り払うように、ウェイリードは閉じていた両の瞳を見開いて、子爵のみを捉えた。 その端々に歓喜する闇の精霊の姿が映り込む。
 すると、北の守りへと身体を向けていた子爵の動きがまるで《支配》を受けたかのようにぴたりと止まった。 彼だけが時が止まったように微動だにしない。 彼の手に集まっていた炎の精霊の力も魔力のコントロールを断ったことで一気に霧散して水蒸気が立ち昇った。
「ああああああああああ」
 子爵が表現しがたい声を上げて発狂したように叫び出した。
 その声を聞いて、ウェイリードは耳を塞ぎたくなった。
 《あの男》も最初こそ静かに震えているだけだったが、次第に発狂したように叫び出した。 自分が殺した女、子どもの亡霊に泣き喚きながら謝り、爪で頭皮が血だらけになるまで髪を掻き毟り、 最後には口の端に泡を吹いて何事か聞き取れない言葉をぶつぶつと呟きはじめた。 薄気味悪さと、彼をそんな風にさせてしまった自分の力とに驚いて、身体中が硬直したように動くことができなくなった。 丁度、今のように力の止め方も分からなくて。
 でもあの時は師がいた。師が止めに入ったから……。
――だが今、師は、いない……
 闇の精霊が騒いでいる。高位の精霊が力を貸しているから自分たちも貸そう、と歓喜に包まれている。 そのせいで《破壊》は強力になるばかりで弱まる事はない。止まることもない。
――駄目だ、止まらない……!

「ウェイリード、公子」

 自分の名を呼ぶ掠れた弱弱しい声に、はっと我に返った。その声に、忌まわしい記憶と力を止めることのできない、 という思い込みの自分一人の世界から解放される。
 その時、瞳に宿っていた《闇の高位精霊》の力がすうっと抜けていく感覚があった。 代わりに額を覆う汗が頬を伝わって顎にたまる細微な感覚が自分を襲う。 そして、喉元にひやりとした感触がある事に気付き自分の置かれた状況を瞬時に理解した。 しかし刃を突き付けてくる相手が自分の思った人物ではない事に眉を寄せる。
 グリフィスは目の前にいる。誰かを睨むように表情は険しい。 では自分の首に今刃を向けている人物は一体誰なのかと視線をさ迷わせた。
 真正面には自分が与えた《破壊》の影響で意識を失って地に伏しているブラウアー子爵と、 その傍で力無く座り込んで激しく咳き込むラヴィン公の姿が見えた。
――無事か……
 彼女が無事だと分かると、全身に激しい疲労感が襲いかかった。身体中を覆っていた緊張が解けた上、 魔力を大量に消失したことを意識したからだ。
 ウェイリードは顔を動かすのも、瞳を動かすことすらも煩わしく感じ、咳き込む彼女から視界を動かす気力が持てなかった。
 その彼女に駆け寄る黒い人影を見た時、自分の首へと剣を当てる人物に見当がついた。
――他の円卓騎士団が来たのか
「……見ておられたんですね」
 そう尋ねたのはグリフィスだった。こぶしを握り締め、視線はこちらの横へと向いていた。まるで仇を睨むように見上げている。
「我々ではどうにも出来ないだろう?」
 横から聞こえるその声で、自分へと剣を向けるのは想像した通りの人物であると知れ、 何故か笑いたい気分になった。
 その声の主は騎士として、そして貴族として常に尊厳を忘れることのない頑なな人物、 ジェノライト・アリスタ。筆頭円卓騎士でありながらセレド王子の側近を務める優秀すぎる男。 この男ほど完璧な貴族の若者などいないだろうと思わせる、嫉妬すら沸かない立派な人物だ。
 その彼が何故ここにいるのか。それはエレナが居ないことから考えれば想像は容易に出来る事だった。
――少しは頭が回るようだな
 考えが浅はかな所がある彼女だが、何の予備もなく一人で突き進むような無鉄砲すぎる人間ではない事に少しだけ安堵の息が漏れた。
「傍に居たのなら剣を向けろ。どんな理由があるにせよ《破壊》の使用は即捕縛令が出る事を忘れるな」
 ジェノライトはグリフィスに向けて冷静に言葉を落とす。 ウェイリードは彼の言葉に心の中で賛同した。そうして貰えないと自分としても困る、と。
「忘れてなど、いません」
 視界の隅のグリフィスが、拳を一層強く握るのが見えた。ダリル将軍も、筆頭騎士たちも、 宮殿や神殿の人間からも信頼されるグリフィスが、 友人だからという理由で自分に対して剣を向けるのを一瞬でも途惑うのは有ってはならない不名誉な事だとウェイリードは考えた。 彼にそんな不名誉を与えたくないとも思った。
「ならば剣を抜け。甘えは許されん。公子が正気でなければ一瞬の気の迷いが命取りになる事を忘れたのか」
「……申し訳ありません」
「グリフィス」
 名を呼べば彼はこちらへと視線を移した。複雑そうな胸中が顔に現われている。 笑みで思考も感情も隠すグリフィスは常に無表情に近い自分と似ていると思っていたが、彼の方が隠すのは苦手のようであった。
 こちらを見つめてくる彼に、視線でラヴィン公への方へ行くよう促す。グリフィスは女性にも受けが良いし、 それに彼女と顔見知りだと聞いていた。彼女を落ちつかせる為に傍に居てやって欲しい。視線に思いを込めると理解してくれたのか、 頷いてラヴィン公の傍へと行ってくれた。
 走るグリフィスの背を視線で追いながら、その視界の端にブラウアー子爵を認めた。 神の《魅了》と自分の《破壊》があまりに両極端な作用をもたらす為に精神内部で反発が起き、 疲労に意識を手放したのであろう。それは彼にとっても自分にとっても幸いな事だった。 意識さえなければ狂う事もないからだ。
――あの男のように……
 転がるブラウアー子爵を見てもう一度思い出したのは、まだ精神魔法の実践研究の日が浅い時期に、 自分が廃人にしかけてしまった死刑囚の事だった。
 名声を得る為とそそのかされて、精霊のちからを充分に借りた状態で精神魔法の中で一番強力な《破壊》を死刑囚にかけた。 しかしあまりの力の強さに自分で制御できなくなり、処刑が決まっているとはいえ、まだ生きている人間の精神を危うく壊す所であったのだ。 気付いた師が止めに入ってくれたことで事無きを得たが、自分が名声を得ようとした結果がそれだ。
 若気の至りであると言う事と、未遂で終わったことから、きつく叱りを受けるのみで済んだのだが、 未だに自分の脳裏には壊れかけたあの時の男の姿が鮮明に焼きついていた。 師が慌てて止めに入らなければ、自分の力は止まらずに彼の精神を壊していただろう。 あの時初めて自分はなんと恐ろしい魔法を研究してしまったのだろうと恐怖を憶えた。 相手を一睨みするだけで全てが事足りるのだから。
―――人間らしからぬ力
 僅かに嘲るように自分の口元があがる。
 このまま狂ったふりをして、ジェノライトが構える剣に喉を突かれてしまった方が良いのではないか、と思い浮かんだ。 その方が世界の為になるのではないのか、と。自分のような、 危険分子が生きていてはいつか誰かを本当に壊してしまうのではないか、と……。
「どうして……?」
 そのかすかな疑問の声に、まるで《破壊》から解放されたかのようにはっとした。
 彼女は円卓騎士のセイニーとグリフィスとに介抱されながら、愕然としたようにこちらを見つめていた。しっかりと視線が交わる。
 彼女は何も知らないのだな、と何故かほっとした。
「どうして?!」
 目が合うと、まるでこちらを批難するように声を張り上げた。しかしすぐにも激しく咳き込む。その背をセイニーが優しく擦っている。
 彼女の隣りにはグリフィスがいる。信頼している彼の姿を見て安心し、気だるい体に力を入れた。 膝から折れそうになるのを辛うじて留める。円卓騎士に拘留され、 更には膝まで付くような無様な姿を晒したくないと思ったのは格好つけているからだろうか、と苦笑が洩れた。
「公子は、助けてくれたのよ?」
 悲痛そうな面持ちで、首を抑えながらこちらを見つめる緑の瞳が揺らめいている。
 泣きそうな顔だ。
――そういえば、アデル公は彼女を随分な泣き虫だと言っていたな
 不思議と張り詰めていた気分が和らいだ気がした。
 こんな力だが彼女を助ける事ができた。どんな名声よりも、それが尊いことであると胸に響く。
 何故このような危険な魔法の研究をしてしまったのかずっと悔やんでいたが、彼女を助ける事が出来た事にはこの力に感謝したかった。 この力を正当化しようとは思わないが、彼女を助ける為にこの力を研究してきたのだと思えば、気持ちは少しは晴れる。
 あのララドでの事件を機に自分を覆った暗い影に、一抹の光が差したような暖かさを感じたのだった。
「ウェイリード・アイゼン公子。第一級危険人物保護法第3条、第1項において、円卓騎士ジェノライト・アリスタが御身を預かる。 抵抗すれば同法第3条第4項の規定通りとする」
 騎士としての威厳を際限無く発揮する堂々とした風体のジェノライト・アリスタを見やり、不謹慎にも苦笑が漏れた。
「……迷惑をかける」
「何の役にも立てなかった上に、御身を拘束する事を恨まないで頂きたい。数日の辛抱だ」
「当然の処置だ」
 そう告げれば、ジェノライトの表情は歪んだ。
 彼だとて好きこのんでこちらを拘束するわけではない。それはグリフィスだとてわかっていること。 ウェイリードももちろんこの職務に忠実な騎士の心情を理解していた。だからこそ、恨み言など言うつもりはなかった。
「連れて行け」
 そう命令すると、ジェノライトは剣を退いた。後ろで待機していたシーンともう一人の円卓騎士が、 重々しい雰囲気でこちらへ寄ってくる。
「歩けるか? 精神魔法は魔力の消失が尋常じゃねぇんだろ?」
 シーンはいつもの軽そうな口ぶりで覗き込んでくる。
「肩を借りる気はない」
 重い体を持て余しながらそれでも皮肉を言って歩いてみせると、シーンは肩をすくめた。
「それだけ口が達者なら、大丈夫みたいだな」
 こちらが無理をしているのを分かっている癖に、シーンは背中を容赦無く叩いてきた。
「貴様……」
 恨めし気に睨みつければシーンはカラカラと明るい笑みを見せていた。
 そんなシーンの明朗さに助けられたようにため息を吐いて、ウェイリードは両脇を見知った円卓騎士に囲まれながら歩き始めた。

「公子っ」
 彼女の声が背に響くが、彼女に手を差し伸べる事ができる人物が彼女の傍にいるならば、 わざわざ自分が彼女に手を差し伸べる必要はないと思った。
 けれども、できる事なら自分が手を差し伸べたい。そう自分を掻き立てる感情の名前をウェイリード自身が意識することはなかった。


(2004.11.8と15)

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