墓と薔薇

5章 流転する運命(7)

「レセン、いったい何の話をしているの?」
 肩を揺さぶってくる異母弟の手を取り、デュシアンはその顔を覗き込んだ。 興奮のあまりレセンの頬は赤く上気している。
 最初こそ驚いて呆然としてしまったが、よく考えれば全く身に憶えのないこと。 デュシアンは顔を顰めて首を傾げながら詳細を語るよう促した。
「姉上とヘスターの婚約について話しているのです! もしかして脅されたのですか?!」
 心配そうに、けれども怒りをあらわにした表情を浮かべる弟は明かに本気で言っているようだった。 嘘を吐いているようにも冗談を言っているようにも思えない。
 しかしデュシアンには婚約を交わした憶えは一切なかった。確かにしつこく婚約するよう小父のダランベール伯爵は迫ってきてはいたが、 いつも突っぱねてきた。第一、 ラヴィン家一族を取り纏める地位であるはずのラヴィン公爵が何も知らずに自身の婚約話が進められているはずもない。 何か勘違いをしているのではないか、とデュシアンは弟を訝しげに見上げた。
「脅されてって、何の話か全くわからなのだけど」
「ですが、婚約の文書はダランベール家によって神殿に提出されているのですよ?!  文書に押された印は確かにラヴィン家の当主のみが持つ印のものでした。それを姉上ではなくて誰が押すのですか!」
「――文書に、捺印?」
 口の中が一気にからからに乾いた。転がす言葉の意味をすぐに理解するのを頭が拒否する。 それほど衝撃的な言葉だった。
「そうです! 正式文書に押す、二つとない金印で、です!」
 レセンは力無く掴むこちらの手を乱暴に振り払い、反対に力強く姉の腕を掴んでもう一度揺さぶった。 反応の鈍い姉に痺れを切らしたのであろう。
 デュシアンの瞳は視線を合わせて少しだけ背を屈める弟の憤った姿を映していたが、彼女が知覚していたのは虚空だった。
――金印を使用、された……?
「姉上、脅されたのならそう仰って下さい!」
 そうであって欲しいというレセンの切なる願いは、デュシアンの耳には届かなかった。
――小父様が、関与している……の?
 サイモン・ダランベール伯爵は分家の中で一番発言力を持つ狡猾で好色な侮れない人物である。 前ラヴィン公である父アデルが亡くなった後、後継者の決まっていなかったラヴィン家当主を誰にするかで迷走していた親族論議の時に、 デュシアンと自分の息子ヘスターの結婚を勧めてきたは他でもないダランベール伯爵自身であった。 もちろんラヴィン家の覇権を奪おうとする企みがあってのこと。しかし結局デュシアンが爵位を継いだ事で婚約話は立ち消えたはずなのだが、 伯爵は全く諦めた様子はなく、未だにラヴィン家を乗っ取る為にヘスターとの婚姻を勧めてきていた。
 その小父が、盗まれた金印で押された文書を神殿へ提出したという事には一体どのような意味があるのか、 それがわからない程デュシアンは愚かではない。
――小父様自らが文書を作り出して盗まれた金印を手に入れ捺印したのか、 すでに捺印されていた文書を詳細も知らずに手に入れただけなのか
 そのどちらであるのかは伯爵に聞かなければ全く見当がつかない。
――後者にしても、わたし自身に確認を取らなかったのだから、それがわたしの意思でない事は分かっていて提出したはず
 日頃からラヴィン家を欲しがっていた貪欲な小父だ。この好機をものにしない訳がない。
 一度神殿に提出されてしまった正式文書を覆すには、破棄するよう神殿へと申し入れする必要があるのだが、 事はラヴィン家当主の婚約だ。しかも分家が提出した婚約文書を本家が破棄するよう要求するのである。 一体何事かと騒がれるであろう事は容易に想像がつく。それで分家が本家を乗っ取ろうとしているなどと露見すれば良い笑いものであるし、 公爵家として示しがつかない。分家を抑えられない無能な公爵だと思われればラヴィン家の格を下げる。
 ラヴィン家は貴族の頂点となるべき家としての尊厳を守る必要がある。その尊厳を損なう事態は避けなければならない。 なんとも厄介な状況に陥れられ、デュシアンは悔しさに唇を強く噛んだ。
「閣下……」
 エレナの心配気な声色に、デュシアンは我にかえった。隣りに佇む彼女へと視線をやり、 今自分がやらねばならない事が何なのかを思い出す。
 いま重要なのは婚約を破棄することではなく、ブラウアー子爵を説得して円卓騎士団へと自首してもらう事であった。 婚約と小父については後回しにすべき事柄なのだ。もちろんヘスターとの婚約を今すぐにも破棄したい気持ちは強いのだが、 焦っても仕方がない。デュシアンは小さく息を吐いて自分を落ちつかせた。
 そうしてレセンへと視線を向ける。
「婚約の文書にわたしは印を押した覚えはないよ。明日ダランベール家に行き、詳細を伺います。 今はそれより先に片付けなければならない事があるの」
「それより先に片付けること?! 姉上、ダランベール伯爵は婚約の事を公に触れ回っているのですよ?!」
 金印を取り戻しても、家名が邪魔をして覆す事が出来ないよう布石を敷いているのだ。小父の抜け目の無さに、 デュシアンは堪らず瞳をぎゅっと閉じた。
 しかし次の瞬間にはもう覚悟を決め、強い意思でもって顔を上げていた。
「広まってしまったなら、それこそいつ伯爵の所へ行っても同じこと。――エレナさん、行きましょう」
「は、はい」
 悔しげに拳を握り締めるレセンを背にし、デュシアンは神殿へと石畳の道を歩き始めた。その後ろをエレナは少し駆け足で追いかける。
「あ、あの。閣下……」
「大丈夫です。エレナさんは自分の事だけを心配して下さい」
「――はい」
 エレナが悲痛そうな面持ちで頷くのを確認し、デュシアンは外套の下のアミュレットにそっと手を伸ばした。
――ヘスターと結婚したくないとか、そういうのじゃない。小父様にラヴィン家を取られるわけにはいかないだけ……
 この婚約に潜む乗っ取り劇をどうすればいいのか、デュシアンには良い打開策が思いつかなかった。

 小雨が降り出した中、神殿の深閑とした前庭を抜けた。双子の美神が彫り込まれた柱が左右に構える門戸をくぐり、 建物内へと入る。丁度その時、街中へと時間を報せる午後二回目の鐘の音が響いた。日中、 一刻が過ぎる毎に街中の教会で鐘が鳴らされるのだ。
 エレナの案内でブラウアー子爵が在籍する特別研究塔一階の共同研究室へと足を運んだのだが、 そこには数名の研究者がいるのみで、ぐるりと見まわした広い室内には肝心のブラウアー子爵の姿は見つからなかった。
「あの、ブラウアー子爵は?」
 研究者の一人にそう尋ねると、ずり落ちた眼鏡を慌てて直して硬直しながらはきはきと答えてくれた。 どうやらデュシアンが《ラヴィン公爵》である事を知っているらしく、緊張しているようなのだ。
「子爵ならばお一人で《北の守り》に入られましたが」
「北の守りに……?」
 じわり、と言い知れない不安が胸に広がった。
――《北の守り》には、これ以上一人で入って欲しくない……
 あれ程美しく均整の取れた見事な神の結界を大切に出来ない人間に――自らの力を誇示する為に遺物を蔑ろにする人間に、 これ以上《北の守り》へと触れて欲しくなかった。
――わたしに壊させようとしたのだから。……ん?
 壊す、という言葉に何か引っ掛かりを覚えてしばらく考え込み、ある事実を思い出した。
――亀裂……
 時間をかけてじわじわと結界の構造の奥の奥から亀裂が深まるよう魔法がかけられていた《北の守り》。 あの亀裂は相当な力を持つ魔道師による所業だと言われている。 ブラウアー子爵は優秀な魔道師だからこそ《北の守り》の結界を研究する首席研究者となったのだ。 彼ならば《北の守り》を壊す動機も力もある。有り得ない推論ではない。
――だとしたら、また何か仕掛ける可能性もある
 不安は更なる広がりを見せ、心臓が強く脈打ちだした。
―― 一刻も早く子爵を外に……
 デュシアンは子爵が出てくるのを待つのではなく、自ら《北の守り》へと入り、子爵を外へと連れ出す決断をした。
 研究室を出て扉を閉め、デュシアンはエレナへと向き直る。
「エレナさん、ごめんなさい。わたしはこれ以上子爵に一人で《北の守り》に居て欲しくないんです。 中で自首を勧めてきますので、エレナさんは北の守りへ入室資格を持つ円卓騎士のどなたかを連れてきて下さい」
「は、はい」
 こんな時にティアレルから聞いていた円卓騎士団の役割が役に立った。
 円卓騎士には正規騎士にはない、貴族を積極的に捕縛可能な権限が与えられている。また防衛協議会の出席者と、 極一部の関係者のみ入室を許されている《北の守り》へと入室する許可が元老院から下りている騎士がいるのである。
 もしもの為にデュシアンは安全策として円卓騎士の助力を得ようと考えたのだ。 ただエレナの気持ちを尊重して、自首を勧める為に彼等よりは先に入るつもりだった。
 許される範囲の小走りで宮殿方面へと消えて行くエレナから視線をすぐに離すとデュシアンはアミュレットを握り締め、 《北の守り》へと通じる魔法陣がある部屋へと一人で入室した。

 しんと静まりかえった《北の守り》はいつにも増して不気味に思えた。 それは自分を陥れようとしたブラウアー子爵がいると分かっているからだろう。
 魔法陣のある部屋に外套も荷物も置いてきているので身軽であったが、その身軽さがかえって心許なさを感じさせる。
 緊張と怯えを抑える為にアミュレットを取り出して握りしめながら、確かな足取りで《柱の間》を通り抜け、 《蜜蝋の階段》を昇った。
 最終段を昇りきるとすぐに《封印の間》と呼ばれる玉座があったはずの広間に出る。 真正面は《悪神》が太古より封印されている《北の守り》、結界部分だ。その結界の手前に、 まるで闇に囚われるようにして立っている人物がいる事にデュシアンはすぐにも気付いた。
「これはこれは、ラヴィン公」
 結界を背にこちらを振り返ったのは、ひょろりと細く背の高いコール・ブラウアー子爵その人である。 彼は液体瘴気を踏みしめながら近づいてくるデュシアンへと慇懃に礼をした。
 父と同年代の人間にこうして頭を下げられるのはあまり良い気分ではない。それは相手も同じであろう。
 デュシアンは警戒の為に十歩ほど離れた位置で足を止め、顎を上げて背を伸ばし、毅然とした態度を装って相対した。 緊張を億尾にも出さないよう細心の注意を払う。
「ブラウアー子爵。率直に言います。円卓騎士団に自首して下さい」
 こちらの要求に子爵は一分の動揺もなく、薄い髭の生えた口元に笑みを浮かべたままであった。 それがとても不気味に感じられる。
「何故私が?」
 余裕があるその様に、デュシアンは自然と嫌な予感がした。何が、という具体的なことはわからないが。
 嫌な汗が背を伝う感触に耐えながら、 デュシアンはふとブラウアー子爵はこのように不気味な笑みをずっと浮かべているような人であっただろうかと疑問を持った。 十歩離れたこの位置からは正確にはわからないが、子爵の瞳がこれ程までに鈍い光を宿していると思ったことはなかった。 こちらへと向けられた視線に一種狂気じみたものすら感じられる。 子爵を良く知るエレナが『正気だったとは思えない』と言っていたのを思い出して、デュシアンはたじろぎそうになる気持ちを、 もう一歩前へ出る事でかき消した。
「巫女の一人が自供しました。わたしも執務室へ巫女が入ったことを公表するつもりです」
「ふむ。では私もこれまで、と言う事なのでしょうかね?」
 全く観念した様子はみられない。寧ろ楽しげである。その異常な反応に、デュシアンは一人で入るべきではなかったのかもしれない、 と今更ながら後悔した。
 しかし今更前に出した足を後ろへ退く事は出来ない。
「そうですね。金印をお返ししましょう。貴方にこの手でお返しし、自首すれば少しは刑が軽くなるでしょうし」
「……ご理解頂けて幸いです」
 罪の意識があまり感じられないブラウアー子爵であったが、自首をする、と言うのであれば何も文句はなかった。 一先ずエレナの気持ちが少しでも救われるであろう事がデュシアンは嬉しかった。
「では、こちらに」
 懐から大事そうに取り出した金印を見せ、デュシアンを招く。
「ああ、失礼。ラヴィン公に取りに来させるなど。私の方から出向きましょう」
 そう言って、ブラウアー子爵はこちらへと大股で歩み寄って来た。
 デュシアンは近づいてくる子爵に理由のわからない恐怖を感じ、胸元のアミュレットへと手を伸ばして身体を半歩後ろへと反らした。 見えない空気の壁でもあるかように、彼が近づくごとに後ろへ後ろへと押されるような気がする。
 しかし逃げるわけにはいかなかった。いつまでも《猛々しい公爵》を演じるのではなく、 公爵に相応しい中身が備わるように弱虫な自分を変えたいと願っていたから。 だからデュシアンはここで悲鳴を上げて逃げるわけにはいかないと思い留まった。その判断が、 正しかったのかどうかはすぐにも身を持って理解することとなるのだが……。
 目の前まで来た子爵は軽く震えるラヴィン公爵に何かするわけでもなく、手に持つ金印をそっと差し出してきた。 それ以上の動きはなかったし、動きそうにも思えなかった。
 どうやらこちらが手を伸ばして金印を受け取らなければ何も始まらないのだとデュシアンは気付き、 少々警戒をしながらも、手を伸ばした。
 デュシアンの右手が金印に触れるか触れないかのギリギリの手前で、 子爵の手から金印が離れ、真っ直ぐに床へと落ちていく。
 ぽしゃん、と床に溜まった液体瘴気の中に金印は落ち、その波紋が広がるのを見送った。
「あ」
 金印の行く手を驚いて見つめていたデュシアンは、宙へと差し出したままだった自分の腕を掴まれて、はっと息を飲んで顔を上げた。 見上げて飛び込んできたのは、口角を厭らしい形で最大にまで上げ、 両目を三日月の形にしてこちらを嘲笑うブラウアー子爵の表情だった。
 引き攣った悲鳴がデュシアンの喉の奥から上がる。
「離して!」
 強い力で腕を掴まれ、痛みに顔を歪ませながらデュシアンは危険を感じて叫んだが、相手はただ笑ってもっと力を込めるだけであった。 胃に冷たい氷を詰め込まれたかのような悪寒を感じる。
 反対の手が伸びてきて、反射的に瞳を閉じてしまう。すぐに恐る恐る目を開ければ、 子爵の手にはこちらのアミュレットが握られていた。
 父の形見に触らないで――と叫ぼうとした時、勢い良くアミュレットは引っ張られ、鎖が引き千切られた。
「な……」
「貴方のアミュレットは、強すぎる恨みの念のこもった《悪神》の魔力によって跳ね飛んだのです」
 液体瘴気の充満する床にアミュレットは投げ捨てられた。
 デュシアンは投げられたアミュレットへと掴まれていない方の手を伸ばす。しかし強い力で引っ張られ、その手が掴んだのは宙だけだった。 無情にもアミュレットは弧を描きながら床へと落ちていく。それを悲愴の表情で見つめる事しか出来なかった。
 ブラウアー子爵はデュシアンの腕を掴んだまま、結界近くまでずるずると引っ張っていく。 それに対してどうにか抵抗しようと魔法を試みるが、反応した水の精霊の氷の刃は、 簡単にブラウアー子爵の周りを覆う完璧な《防御壁》によって霧散してしまった。
 結界を目の前にすると、今までよりも強い力で乱暴に引き寄せられ、両肩を掴まれて結界の境目へと背中を押し付けられた。 すると背に跳ねつけるような力の衝撃がかかる。脳天から踵までを激しい痛みが何度も走り、デュシアンはうめき声をあげた。
 直接的な壁は無いが、結界には見えない膜が存在し、入ることは出来ないようなっている。無理に押し入ろうとすれば、 結界自体が持つ防御反応によって押し入る者を跳ね除ける力を作り出すのだ。
 何度も襲い来るその痛みだけでデュシアンの体力は擦り減り、 押し付けてくるブラウアー子爵の腕へと抵抗する力が身体中からどんどんと失せていく。
 辛うじて開く瞳には、至近距離で見つめてくるブラウアー子爵の不気味な光を宿した目が映る。 その気味の悪い瞳の色に、膝ががくがくと震えた。
「貴方は視察を行う為に《支配》と《魅了》を跳ね除けたが、アミュレットが外れていて《破壊》を振り払えなかった」
 捕まれた右手が首を締めるような形で自身の喉にあてがわれた。その右手を覆うブラウアー子爵の手に軽く力が入る。
 喉の圧迫感により急激な息苦しさを感じた。空気が欲しくて口を半分開いたが、肺へと送る為の空気を吸う事はできず、 辺りの空気を求めるように喘ぐだけだった。息苦しさに眩暈がする。
「《破壊》に囚われた貴方は、自分の無力さと愚かさに絶望して自らの首を自らの手で締め、自殺を図るのです」
「は……、う」
 首を締めるように置かれた右手の上にかぶさったブラウアー子爵の両の手に、力が篭められた。
 気の遠くなるような息苦しさの中デュシアンの左手は子爵の腕へと回ったが、その手がだらりと力なく下がった。

 朦朧とする意識の中、デュシアンの耳には微かに父の声が聞こえたような気がしたのだった。


(2004.10.26)

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