墓と薔薇

5章 流転する運命(6)

 宿そなえ付けの食堂で夕食を済ました後、デュシアンはウェイリード公子に全てを聞いてもらう為に、 自分にあてがわれた部屋へと彼を強引に招き入れた。
 最初こそ、太陽の沈んだ時間に妙齢の女性の部屋へと入るということで渋っていた彼も、『別に下心がなければ全く問題ないはず』 とのデュシアンの主張に、諦めたように大きな溜息を吐いて入室してくれた。ただし、自分は扉から一番遠い窓辺に陣取り、 デュシアンには扉のそばに座ることを要求した。
 そんななか、エレナの事情とブラウアー子爵の事を掻い摘んで話しはじめれば、 すぐにもウェイリード公子は顎に手を当てて考え込み始めた。話し終えた時にはその表情は険しいものとなっていた。
「……随分と短絡的な計画だな」
「え?」
「働いている巫女を使っている時点でおかしいとは思っていたが……。巫女は人事院でその詳細を登録されている人間だ。 その巫女を使えば足がつきやすい」
「あ……」
 確かにそうだな、とデュシアンは頷く。
「……ブラウアー子爵はそこまで頭の回らない人間には思えないのだが」
 理解できないと言いたげに彼は深いため息を吐いて首を軽く振った。
「そもそも、どうしてブラウアー子爵がこのようなことをなさったのでしょうか。 わたしを貶めても、子爵には何も有益なことはないと思うのですが……」
 素直にそう呟いて彼の意見を求めた。
 しかし彼はするりと視線をこちらから反らしてしまった。向きを変えた彼の顔は闇に隠れ、その表情を読み取る事はできない。 だが、雲から抜け出た月の光が急に窓から差し込み、彼の半身を青白く浮きだたせ、半身の影を更に濃くさせた。 光と闇とにくっきり分かれた彼の妖しさに、デュシアンは心臓が大きく脈打つのを感じながらも次の言葉を静かに待った。
「……自分の研究を披露し、賞賛を得たいという気持ちは研究者なら誰しも少なからず持っているものだ」
 軽く眉を寄せて視線を落とす彼は、いつもの覇気に欠けているように思えた。どうしたのかとの問いが喉を掠めたが、 淡い月の光を眩しそうに見上げる彼へと尋ねるのは何故か憚られた。仕方なく彼の言葉を脳内で繰り返す。
――研究を披露……。子爵の研究は確か……
 ブラウアー子爵は《北の守り》に使用されている結界の特別共同研究室の首席研究者である。 その共同研究は《北の守り》か《第二の守り》に何かあった場合にもう一枚結界が敷けるよう研究しているもので、 その二枚に何かない限りはその研究結果が日の目を見る事はないものだった。
――その研究を披露って事は……
「わたしが《北の守り》を壊すのを子爵が望んでいた、と公子はお考えなのですか?」
 子爵が研究を披露するには二枚の結界の内どちらかが使いものにならなくなる必要がある。 もちろんこれまで数十年《第二の守護者》として過ごしてきたアイゼン公の守る《第二の守り》よりは、 北の公となったばかりのデュシアンが守る《北の守り》の方が使いものにならないよう細工するのは容易い事だ。 だからその為に文書を盗んだのか、とデュシアンは問いかけた。
 疑問に対してウェイリード公子はすぐに首を横へと振った。
「私の思い過ごしであればいいと思っている。……子爵はこのような事をしなくても十分に優秀な研究者だと認められていた。 ただどうしても同年のアデル公の影に隠れるような部分は否めなかった。まさか妬みでこのような大それた事をするとは思えないが……」
 デュシアンには子爵の印象はあまりない。こちらの事を良く思ってないのだろう事は感じてはいたが、 それは別段気になる程の悪意に満ちた敵意でもなかった。まさかこのような大胆な事をされるとは思いもよらなかったのだから。
「それより、この問題をどうするつもりだ?」
 彼の質問に、デュシアンにすぐにも答えることが出来なかった。ここに来る前は、 別段金印を盗んだ相手をどうかしようとは考えていなかった。返してもらえればいい、とだけ思っていた。 穏便に済ませたかったのだ、もちろんそれは自分の保身の為に。
 けれどもブラウアー子爵は仮にも防衛協議会に出席している人物だ。それも《北の守り》に関わる研究までしている。 その彼が、もしかすれば《北の守り》を決壊しかねない事態を招いた可能性があると知っては、 ただで終わらせるわけにはいかないと考えた。
――これ以上、子爵に《北の守り》に関わって欲しくない。あれは永遠に残さなければならないものだもの……
 デュシアンは自分の知覚した《北の守り》、つまり結界であるが、それがあまりに美しく均整の取れたものであった事をよく憶えていた。 いくら同じものが敷けると研究で示されていても、その同じものが今ある神によって作られた《北の守り》と同様に何十年、 何百年と保ち続ける事ができるものなのかは甚だ疑問だった。
 自らの研究を披露したいが為に、 今ある《北の守り》を壊しても良いと考える子爵をこれ以上《北の守り》に関わる責務に付いていて欲しいとは思えなかった。
 それにデュシアンはエレナとクロシア院長の事が気がかりなのだ。彼女たちはきっときちんと裁きを受けることを望むだろう。 裏取引で後ろめたさを残すよりは、正式に罪を償って心を晴れやか生きて欲しい、デュシアンはそう願っていた。
「……円卓騎士団に任せようと思います」
 ウェイリード公子は小さく頷いてくれた。
「賢明な判断だ。しかし君も管理不行き届きを問われるだろうが――」
「それは仕方のない事です。引き起こした現実と向き合います。それに、 文書を盗んでまでして北の公を陥れようとした人間を《北の守り》には入れたくありません」
「そうか。ならばもう聞く事はあるまい。長居は無用だ、これで失礼する」
 ウェイリードは窓枠へ預けていた身を起こすと、デュシアンの座る寝台をすり抜けて扉へと手を伸ばした。
「あ、あの」
 デュシアンは慌てて立ちあがり、その背を引きとめる。
 訝しげに軽く眉を寄せてこちらを振り返る彼に、デュシアンは話を聞いてくれたお礼を言うつもりであった。 しかし口から零れたのは言い訳めいたものだった。けれど、一番言いたいと思っていた言葉でもあった。
「わたし、その、ごめんなさい。貴方が良い方だとは分かっているんです。でも、どうしても一人でやらなくちゃって……。 公子は家の事とか、あまり気になさられてないのに、わたし一人で気にし過ぎてしまって……」
 一瞬きょとんとした表情を見せたウェイリードは、デュシアンが言わんとしている事を理解した後、目を僅かに細めた。
「……出会ったばかりの人間を信用しろという方が間違っている。君が気にする必要はない。私も大人気無かった」
 穏やかに話し終えた彼からは張り詰めた緊張感は感じられなかった。
 デュシアンは胸元を押さえながら安心したようにほうっと大きく息を吐き出した。彼が許しをくれたから安心したからなのか、 それとも拙いながらも自分の気持ちを伝える事が出来たから安心したからなのか、その両方なのかは判らなかったが、 はにかんだ笑みを浮かべた。
 すると、こちらの笑みに応えてくれるように彼は薄い笑みを浮かべてから、今度こそ扉の向こうへと消えて行った。
 デュシアンは、しばらくぼうっと彼の消えた扉を見つめていたのだった。

 呆けた状態から抜け出すと、デュシアンはそっと背を寝台へと預けた。少し固い寝台だが身体は喜んで受け入れた事で、 自分が随分疲れていることに気付かされた。ここ数日はあまりに目まぐるしい体験をし過ぎている。 急激な変化に耐える為に身体も心もかなり疲労しているらしい。
 額に手を乗せると、少しいつもよりも熱く感じる。長い間穏やかな日々を過ごしてきたからか、まだ変化のある日常に慣れきれてはおらず、 疲労が溜まるとこうして微弱ながらも熱が出てしまうのだ。そんな自分を弱いなと思いながら、天井の木目をじっと見つめた。
――彼女の『帰る場所』を思う気持ちを利用した子爵を、わたしは許せない……。きちんと制裁を受けて欲しい……
 『帰る場所』がどれだけ人にとって尊いものであるのか、デュシアンは誰よりも知っている。 だからそれを軽んじる人を許せないのだ。
――エレナさんが重い罪に問わないよう、ダリル将軍にうんとお願いしなくちゃ……
 被害者たる自分がエレナの罪を軽くするよう頼めばきっとどうにかなる、と考えた。
 そして、ふと過ぎる不安は自分の事だった。
――わたしはやっぱり、退任かなぁ……
 それでも、自分が退任することになればどうせ《北の公》になるのはラヴィン家に一番近しいラシェだ。 従兄には大変申し訳ないことだが《北の公》になってもらうしかない。そののちの事は後でゆっくり話し合えばいい。
 デュシアンは誘う夢のちからに負けて、重たい瞼を閉じた。


 朝、馬を引き連れて村外れでエレナを待っていると、ぐずる子どもたちに囲まれながらエレナがやってくるのが見えた。 その様子を見てデュシアンはちくり、と胸に小さな棘が刺さったような気分になる。 子どもたちが必要とする彼女を子どもたちから奪ったのは自分の至らなさだ、と痛感する。しかし、 俯き加減で胸を押さえる自分を見つめる灰色の視線がある事などデュシアンは気づかない。
 子どもたちとクロシア院長、それから孤児院の他の先生たちと別れを済ませたエレナはこちらへと歩み寄って静かに、 深深と頭を下げた。それに対し、デュシアンは公爵らしく落ちついた笑みを浮かべて頷き応えた。
「馬車だと時間がかかりますし、ここで馬は借りれないみたいなのです。ですからわたしの後ろに乗って下さい」
 デュシアンは自分の馬の頬に手を当てながら、先ほどまでの沈んだ気持ちを隠すように無理をして明るく振る舞った。 しかしエレナはデュシアンのあまりに警戒心の薄い言葉に驚いて、黒い瞳を丸くさせていた。
「二人乗りできますから心配しなくても大丈夫ですよ」
 エレナが驚いたのは違った理由であるからそもそも論点がズレているのだが、デュシアンは全く気付かずに、にこにこと微笑むだけ。
「閣下は、私の事を信用されておられるのですか?」
 エレナはおずおずとそう申し出た。
「閣下とウェイリード様がご同乗なされた方が宜しいのでは、と……」
 恐る恐るといった態でエレナはウェイリード公子を伺い見るも。公子は表情一つ変えずに淡々と答えた。
「私は彼女の護衛で来ている。守るべき彼女と共に乗れば戦いづらい」
「ということです」
 デュシアンはウェイリード公子の言葉に頷いた。
 それでもエレナとしては納得がいかないらしく、続けた。
「閣下は私が、後ろからぶすり、と刺すとはお考えになられないのでしょうか?」
 そんな事は考えも及ばなかったためにデュシアンは緑の瞳を瞬かせ、エレナをじっと見つめてから軽く首を傾けた。
「ぶすり、と刺すのですか?」
「滅相もございません!!」
 首が千切れ飛ぶのではないかと思われるぐらいエレナは勢い良く首を横へ振り、真っ青になって断言した。
「じゃあ大丈夫じゃないですか」
 何が大丈夫なんだ――根拠のないデュシアンの言葉にウェイリードが呆然としながら頭の中で突っ込んだ事をデュシアンは知らない。
「わたしは貴方が悪い方であるようには思えません。貴方の事を信用してます」
 デュシアンはエレナを安心させるようににっこりと笑った。そうする事でエレナの気持ちが少しでも落ちつけば良いのだが、 と思っての微笑みだった。だがエレナに対する過剰なまでの感情移入が、信用という言葉を口にさせたのが事実である。
 しかし『信用する』と言葉を発したデュシアンに対して、泣きそうなまでに崩れたエレナの表情は、 誰が見ても悔恨に彩られたものであった。そのことにウェイリードが僅かに安堵したのを、デュシアンは知らない。
「さ、行きましょう」
 クロシア院長と子どもたちが見守る中、三人を運ぶ二頭の馬が地を蹴り、レムテストへと走りだしたのだった。


「あの、閣下」
 行きでも一休みした小川のほとりで軽食を摂っている時、水を飲む馬の顔を撫でているデュシアンに、 エレナはおずおずと声をかけてきた。
「はい」
 馬から手を離し、エレナへと向き直る。
「……ブラウアー様は本当に悪い方ではないのです。自首するよう説得願えませんでしょうか?」
「自首、ですか」
「はい。私は知識と給金が欲しくてブラウアー様の元で雑務をさせて頂いていたのです。その時にとてもお世話になりました。 私に閣下の部屋へと盗みに入れ、と命じられた時のブラウアー様はまるで何かに憑かれているかのように狂気染みていて……。 正気だったとは思えないのです。もしかしたら、正気に戻って悔やんでいらっしゃるかもしれません……」
 そう話すエレナはぎゅっと強く自分の拳を膝の上で握っていた。その手の震えを見て、デュシアンは安易なほど簡単に頷いた。
「わかりました。説得してみましょう」
「ありがとうございます!!」
 エレナは本当に嬉しそうに微笑んだ。そんな彼女を見て、 ブラウアー子爵が一体どうして彼女をまでも貶めるような行動を取ったのかと疑問が深まったのだった。


 レムテストに着いたのは夕暮れ時。幸運なことに、賊の類にはまったく居合わせずにレムテストへと帰ってこれた。 それでもこれから首都へと向けて帰るには無理がある。とりあえずアイゼン家の迎賓館へと泊まっていくようウェイリード公子の提案を受け、 デュシアンは受け入れた。
 次の日早々首都へと発つつもりでいたデュシアンは、ウェイリード公子からアイゼン家と縁の深い護衛を紹介された。 どうやら首都までこの高貴な護衛は付いて来てはくれないらしい。 レムテストにまだ僅かにやらねばならない仕事を残すウェイリードは首都へと一緒に帰るわけにはいかないそうなのだ。
 ウォーラズ―ル山脈を通る道のりであったのだが、行きとは全く別で、 何事もなくレムテストを出て二日目の夕方に首都カーリアへと着く事ができた。 送り届けてくれた護衛は傭兵ではなくハバート家の商船に乗る船乗りで、 このまま首都の港の船の様子を見に行かねばならないとの事から城下街の門で彼等と別れたのであった。
 デュシアンとエレナは当初の予定通り、神殿へ向けて歩きはじめた。 この時間ならばまだブラウアー子爵は神殿内の研究室にいるはずであるとエレナが言うので、 二人はその足で子爵へと自首を勧めに向かうことを決めたのだ。
 城下街の門から四半刻。神殿への道のりで最後に待ちかまえているのは左右に貴族の邸宅が建ち並ぶ大通りであった。 その一角にラヴィン家の屋敷も構えられている。母や弟に無事に帰った事を知らせたかったのだが、 子爵に会う事が先決だと二人が待つであろう屋敷を素通りした。
 その時、前方から見覚えのある若い女性が歩いて来るのが見えた。彼女の着る制服はまさしくラヴィン家の使用人のものだ。 彼女はどうやらこちらに気付いたようで、手に持つ荷物を落としそうになる程の驚きを見せてから、 慌てたように走り寄って来たのだった。
「ヴェラ、ただいま」
 にこやかに挨拶すると、走り寄って来た女中のヴェラは軽く膝を折って主人へと挨拶をした。
「デュシアン様、お帰りなさいませ。あの、お屋敷にはお寄りでは?」
「うん、先に神殿に――」
「ど、どうか一度お屋敷へお戻り下さい」
「え? もしかして誰か具合でも悪いの?」
 さっと青ざめるデュシアンに、安心させるようにヴェラは首を横へと大きく振った。
「いいえ、違います、そうではないのですが……」
「二人は健在なのね?」
「はい」
「そっか。なるべくすぐ戻るから、わたしが元気だって伝えておいてください」
「あ、あの――」
「ごめん、ヴェラ。急いでるので話は帰ってから聞きます」
 物言いた気に口篭もるヴェラを置いて、デュシアンはエレナを伴い歩き始めた。 取り残されたヴェラは先ほどの勢いで走り出したのか、ラヴィン家邸宅へと駆けこんで行く音が聞こえた。
 しばらく歩いていると、何か遠くで声が聞こえたような気がした。ヴェラと出会って三軒の屋敷しか越えていない時である。
「姉上!!」
 もう一度聞こえてきたのは鮮明な、姉を呼ぶ少年の声だった。
 どんなに遠くても、どんなに人ごみにいても聞き分けられる自信がデュシアンにはあった。 背後から聞こえた声は、あきらかに自分の弟のものだ。
 振り返るとレセンが物凄い勢いでこちらに駆けてくるのが見える。少しぐらいの会話なら足を止めてもいいだろうと思い、 エレナに一言断ってからデュシアンは足を止めると可愛い弟に手を振った。 帰って来た自分の為にこうして物凄い勢いで駆け寄って来る弟が可愛くて、デュシアンはにこにこと微笑んだ。
「レセン、ただいま。もしかしてヴェラさんに聞いて追いかけ――」
「どういうことですか?!」
 目の前まで来た彼は声を張り上げて怒鳴ったので、デュシアンは慌てて耳を塞がなければならなかった。
「どういう事って?」
 耳から手を離して首を傾げると、レセンは滅多に見せないほど苛だった表情でデュシアンの 両肩を掴んで乱暴に揺さぶってきた。
「なんであんなに嫌がっていたヘスターと婚約などされたのですか?!」
「え?」
 こちらの肩をきつく掴む手を払う事もせず揺さぶられたまま思い出すのは、金髪碧眼のヘスター・ダランベール。 父アデルの従兄であるサイモン・ダランベール伯爵の一子で、 父の葬式のすぐ後にデュシアンと婚約話が持ち上がったラヴィン家の分家の人間であった。



(2004.10.13)

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