墓と薔薇

5章 流転する運命(5)

 冷たい風が窓を軽く叩く音にぱっちりと目が醒めて、デュシアンは寝台より起きあがった。 カーテンを開けると空はまだ紺藍色。しかし地上に近い部分はこれから顔を出す太陽の光に微かに薄紫がかっている。
 冬の日の出は遅い。起きても差し障りのない時間だと判断するとすぐにも夜着を脱ぎ、 女中が昨日渡してくれた新しい服へと袖を通した。腰に短剣を忍ばせ、上質な外套を羽織ると荷物を持って部屋より出る。
 階下へと下りると女中の一人と出くわし、デュシアンは 主に挨拶なく出て行く非礼を詫びた。詳しく何か聞かれるかと思いきや、女中はそれで納得し、 『お気を付けて』と言いながら玄関を開けてくれた。
 少し拍子抜けしたが、すんなりと外へと出れた事に浅はかながら喜び、 出迎えてくれた冷たく強い潮風に身を震わせて、歩きながらマフラーを隙間無く巻き直す。その手がずきん、と痛んだ。
 マフラーから手を離し、包帯を巻いた手を視線の高さに上げる。
 昨日お風呂に入ってから女中に巻き直してもらったのだ。それを何故か寂しく感じたのだが、 その寂しさの理由は自分であまりよくわからなかった。
――それにしても……
 こうして行動に移すとなんと非礼なことをしているのかと罪悪感が増す。 デュシアンは前庭の中腹で足を止めるとなんとなく屋敷を振りかえって仰ぎ見た。数十ある殆どの窓のカーテンが閉じられている。
 忙しい彼を煩わせるのが嫌だった。それでも彼へ礼も述べず屋敷を後にするのは褒められたものではない。 だが会えば、きっと話さざるを得なくなる事は明白だった。
 彼を煩わせたくない、というのはデュシアンなりの彼への配慮であるが、 彼がアイゼン家の人間であるという事実も忘れてはいけなかった。
 デュシアンはアイゼン家に対して別段敵対意識も競争する気持ちもない。しかし格式高いラヴィン家の当主が、 神殿の象徴の双頭として対をなす家系の者、それも公爵の位をまだ継いでいない公子に助力を受けるのは如何なものか、 という貴族としての考え方があった。いわゆる面子の問題である。
 デュシアン自身は貴族としての矜持などどうでも良かったが、公爵としての彼女はそれでは済まされないのである。 些か気負いすぎなのは否めないが、貴族の矜持を持っていない彼女だからこそ、 ラヴィン家が笑いものにされない為にそれなりの振舞いをする必要があると考えるのであった。 もちろん公子が自分を一蹴して笑い者にするような人柄にはとても思えない。だが、 何かあるたびに誰かに助けられたり、誰かにどうしたら良いのかと尋ねるのは、 ラヴィン家の当主として情けない気がしたのだ。
 だから自分が一番そうするのが正しいと思う方法を取るのであった。
 モーリスの村へ行き、エレナ・ルインスキーから話を聞く。
 これが一番の最善の策である事をデュシアンは自分へ言い聞かせ、 身体の向きを直すと今度は止まらずに前庭を滑るような足取りで進んで門をくぐった。
 二度ほど父に連れられてレムテストを訪れたことのあるデュシアンは、街の中心地がだいたいどの辺りにあるのかは把握していた。 たいていお目当ての場所も中心地にある。ということで、 自然と自分の足はそちらへと向いていた。
 こんな朝靄の立ち昇る時間から、路上市場の至る所で仕入れて来たのであろう品物が並べられていた。 赤々とした林檎が店頭に並んでいるのを美味しそうだなと横目で見ながら、 デュシアンはギルドの記号を掲げる建物を探した。
 市場を抜け、しばらく歩いた先のパン屋と鋳物屋の間に、煉瓦作りの壁に赤錆びた扉をはめこんだような小さな建物が見えた。 高い位置に掲げられた銅製の看板は、職人の魂が篭められているような難しい紋様が刻まれている。それがギルドの印だ。
 ギルドの主な役割は仕事の斡旋や情報の売買である。その他諸々の雑務を引き受けてくれるのだが、デュシアンの用事は馬だった。
 モーリスの村まで街の馬車で行こうとすると二日近くかかる上、すぐにモーリスへ行ってくれる馬車が見つかるとは限らない。 それに仕事が空いている馬車を運良くすぐ見つけても、護衛の傭兵がいなくては馬車は街より外には出てくれないのだ。 しかし単独の馬であれば自分一人で良いし、しかも一日で着く。 とにかく一日でも早くモーリスへと着きたいデュシアンにはギルドで馬を借りるのが一番の早道であるのだった。
 立てつけの悪い扉を開けて建物へ入ると何も無い部屋に、地下へ降りる為の階段があるのだろう、 穴がぽっかりと空いていて微かな光がそこから漏れていた。
 二階分下りていけば、まるで酒場か何かと間違えるような装いの広い地下室へと出た。湿気が溜まるのか、少々黴臭さが鼻につく。 まだ朝が早いながらも仕事を求めて傭兵らしき男たちが奥のテーブルを囲んでいる。 談笑していた彼等は娘が一人が降りてきたことに気付くと黙り込んでこちらの動向を窺っていた。
 受付台の向こうにいる厳つい顔つきの男は一度大きく欠伸をした後、 それからこちらを品定めするように上から下まで何往復もさせる露骨な視線を送ってきた。手招きされたので近づく。
「ちょっと地味だがよく見りゃあ上玉だな。お前さん髪は長い方がいい。その方が地味さが抜ける。 だが身体が資本の世界だ。外套を脱いでから細かい交渉といこう」
「あの……」
 身売りではないです、とデュシアンは口篭もる。
「なんだ、違うのか? てっきり借金で没落した貴族の子女かと思ったんだがな」
「貴族?」
「それだけ上質のもん着てりゃあ、金持ちだって触れ回っているようなもんだ」
「あ……」
 デュシアンは自分の外套を見下ろして、確かに、と頷いた。
「じゃあ何のようだい?」
 仕切り直しだ、と男は改めた。
「あの、馬を一頭借りれないでしょうか?」
「いつ頃の利用だい?」
 男は後ろの棚から分厚い記録帖を取りだし、何枚か捲り出した。 インクの蓋を開けて羽ペンを濡らす。
「え、と。すぐにも」
「すぐにもってぇと、今すぐかい?」
「はい、すぐにです」
 男の額の皺が一層深くなる。ぎょろっとした目が不快そうにひそめられた。
 その時誰かが階段を降りてくる音が聞こえたので男はそちらを確認するように一度視線を運ばせた。 すると太い両眉を高く上げて少々驚きを示し、軽く会釈するように首を竦めたのだが、すぐにもデュシアンへと向き直った。
「誰かが死にそうなのかい?」
「え? いいえ」
「じゃあ、親族のお産にでも立ち会うのかい?」
「いいえ」
「重要な書簡でも運ぶのかい?」
「いいえ」
「じゃあ無理だな」
 男は記録帖をばたん、と閉じて羽ペンを置いた。呆れたように受付台に肘をついて顎を手の平に乗っける。
「え?」
「お嬢ちゃん、貸して欲しいって言えば、すぐにも借りれると思ったら大間違いだ。 馬は生き物だよ? 誰かがどっかまで乗っていっちまったら、その馬が帰ってくるまでその馬の使用は出来ないだろう?  うちはね、三日前からの契約制。死に目やお産、重要な仕事以外の人間には急には貸せないんだよ」
 適当に頷けば良かった、とデュシアンは項垂れた。
 ここでは首都のギルドのように、【ラヴィン公爵】であるとは迂闊に口に出せなかった。 得体の知れない人間が奥にいるので簡単に自分の身分を明かしてしまって誘拐でもされたら大変な事になる。権力の行使はできないのだ。
 どうしよう、と口元に手を当てて困っていると、後ろに急に何かの気配を感じた。
「アイゼン家に縁の有る者だ。馬を出してやってくれ」
 その声に驚いて振りかえった。そこに居たのはいつもよりも眉間に深い皺を寄せた見知った青年だった。
「おお、ウェイリード公子のお知り合いの女性でしたか」
 男は驚いたようにデュシアンと、その横の青年ウェイリードを見合わせた。
「……君は屋敷の主に挨拶も言わずに出て行くような礼儀知らずなのだな」
 ウェイリード公子は少し疲れた表情でため息と共に言葉を吐き出した。 横目で見下ろしてくる灰の瞳が少々冷たい。
「あ……」
「馬が必要なのだろう? ガストン、馬はいるか?」
「ええ、臨時の馬は数頭います。二頭までなら無制限で予定は大丈夫ですぜ」
「そうか。……それで、場所は?」
 前半はギルドの主人ガストンへ向けて頷き、後半はデュシアンを見下ろして聞く。
「え?」
「君が向かう場所だ」
 少し苛ついたような声色だ。反射するようにデュシアンの背筋が伸びる。
「モーリスです」
「小さな村に行くもんだなぁ」
「ではアイゼン家の名で二頭宜しく頼む。一日で着くだろうから軽い食料と水も頼めるか?」
「受け賜わりました」
「二頭?!」
 ガストンが差し出した書類にさっさと署名している公子の横で、デュシアンは 少し間を置いてから素っ頓狂な声を上げた。
「……私も共に行く」
 羽ペンと署名した書類をガストンへと返しながらそう言う彼に対し、デュシアンは呆気にとられてしまった。
「ええ?! でも、何しに行くのか知らないのに、一緒に行くって……」
「……そうだな、だが生憎私が信頼しているアイゼン家の護衛はハバートの護衛で手一杯だ。君に紹介する暇がない」
「でも!!」
「公子、馬はすぐにも南門の方へ連れて行きますので、そちらでお待ち下さい。―― それと、痴話喧嘩は外でどうぞ」
「……失礼する」
 痴話喧嘩という言葉が気に障ったのか、公子は一層眉根をひそめてさっさと階段を昇り始めてしまった。
 デュシアンは、必死に笑いを噛み殺しているガストンへと一礼してから彼の後を追ったのだった。
「あの!」
 扉を開けて待っていてくれた彼へと追いついた。 外へと出るともう日が昇っていて辺りの白い建物に眩しく反射している。
 穏やかだが揺るぎ無い歩調で歩きだした 彼の横に付きながら、デュシアンは彼へと疑問をぶつけるつもりだった。
「モーリスまで一人で行くつもりだったのか?」
 しかし反対に質問を返された。
「はい」
「レムテスト近郊は首都よりも頻繁に野盗が出る。馬を走らせていても危険だ。 それに君は命の他にも守らねばならないものがあるだろう? 性別が分かった時点で宝石を持ち運ぶ商人と同じだけの危険がある」
「あ……、はい」
 女として自分が守らなければならないもの。
 顔に体中の熱が集まったのではないか、と思うほど頬が熱くなった。
「……それで、モーリスへは公務か、私事なのか?」
「どちらでもあります」
「……内容は聞かぬ方が良いだろうな」
「いいえ。一緒に行って下さる方に、理由も話さないわけには」
「……私はアイゼン家の人間として君についていくわけではない。護衛としてついて行くのだ。 別に話す必要性はない」
 アイゼン家の公子を護衛。
 なんて事を彼にさせてしまうのであろうか。デュシアンは真っ青になった。アイゼン家の公子たる身分の彼には護衛こそ付けども、 彼自身が誰かの護衛役になることなど有り得ないだろう。例え王国の王子であろうとも。
 彼はきっとこちらへの配慮でそう言ってくれているのだろうが、 そんな事をさせてしまうのだからきちんと理由を話さないわけにはいかないとデュシアンは思った。
「モーリスに、神殿の私の執務室へと入ったと思われる巫女さんがいるそうなのです」
「巫女……? 何か、他に無くなっていたのか?」
 察しの良さに、デュシアンは苦笑したくなった。
「……金印が」
「それは」
 彼の瞳が軽く見開かれた。
「本来ならコーエン男爵に申し出て処遇を待つべきなのでしょうが……。できるなら、 穏便にすませたいと思って、巫女さんを探しに来ました」
「……コーエン男爵なら悪いようにはしないだろうが、ラヴィン家を陥れようとする人間がいる、 との臆測で話が広がりでもすればアイゼン家として気持ちの良いものではない。真っ先に疑われるのはホルクス家であろうが、 アイゼン家とて例外ではないからな」
 ラヴィン家に何かしらの不祥事、不始末があって《北の公》の地位を剥奪されれば繰り上がってアイゼン家が《北の公》に、 ホルクス家が《第二の守護者》となる。ラヴィン家に何かがあって得をするのはその二つの家なのだ。疑われるのは当然であろう。
「だが……」
 彼の瞳がしっかりとこちらを捕らえていた。
「その話と、君がたった一人でウォーラズ―ルを越えてきた話は別問題だ。 魔物との戦いに不慣れな君がこれだけの傷で済んだのは不幸中の幸いだ。あの山には決して一人では登ってはいけない。 よく憶えておく事だ」
「はい」
「……それから、私は君を陥れるつもりは毛頭ない。アデル公に誓って約束する」
 もうこれ以上会話をする気はないという意思を示すように、ウェイリード公子は 真っ直ぐ前を向いてしまった。その横顔は今まで見た彼の表情の中で一番冷たいものであった。
 それが酷く心に突き刺ささり、デュシアンは小さく自分へ呟くような返事しかできなかった。
「……はい」
――この人を、この人の誇りを、傷つけちゃったんだ……
 彼は怒っているのだろう、呆れているのだろう。
 それもそのはずだ、彼の矜持を傷つけたのだから。
 彼は父との縁から自分へと良くしてくれている。そして巫女の事も知っているし、世話も焼いてくれた。 彼にはこの事を知る権利だって充分あるのに、自分は失せたものが増えた事を一言も喋らなかったし、ここへ来た本当の理由も話さなかった。 また、彼自身は家というしがらみに囚われずにこちらの助力になろうと接してくれていた。
 それなのに自分の方がアイゼン家の嫡子だからという理由で彼を跳ね除けてしまったのだ。 あれだけ今まで親身になって助けてくれていたのに、こちらからその助力を突っぱねたのだ。
 【ラヴィン家の当主として】という建前にばかり囚われ過ぎていた自分にデュシアンは嫌気がさした。 今までの彼の言動で彼が十分信用に足る存在であると判っているのに、彼を一人の人間として信じるよりも、 彼をアイゼン家の人間として警戒してしまったのだ。彼は聡いからそんな自分の思考など気付いているだろう。
 デュシアンは彼の横顔を見上げた。
――謝りたい
 けれども彼へと『ごめんなさい』と謝るのはそれもまた筋違いな気がして、心の中で彼へと謝罪する事しかできなかった。


 南側街境の門でしばらく待っていると、葦毛の馬と栗毛の馬がギルドの人間であろう男に引かれてやって来た。
「可愛い」
 むっつりだんまりは彼の性格なのだろうが、 明らかに機嫌も悪い空気を醸し出すウェイリード公子の横で待ち時間ずっと萎縮していたデュシアンだが、 馬の登場でそれを吹き飛ばしたのか玩具を見つけた子どものように瞳を大きく輝かせて、 こちらへと歩を進めてきた栗毛の馬へと手を伸ばした。
「嬢ちゃん、乗馬は大丈夫かい? そっちは少し気性が荒いぜ?」
「はい、大丈夫です」
 これから半日近く乗せてもらうのだから挨拶をしなければいけないと思い、デュシアンは馬の頬に手を当ててそっと頬を寄せた。
「……これを忘れていた」
 馬より離れたデュシアンの手のひらに言葉と共に手袋が放り込まれる。 そういえば手袋の片方は魔物の爪で引き裂かれて、彼に取り上げられたままだったのを思い出した。
「ありがとうございます」
 寒さと緊張からか強張る頬で微笑んでみた。見上げた彼は 少しだけ眉根を寄せた、怒っているというよりは考え込んでいるような表情をしている。
 そんな彼を見て、何か顔がおかしいかな? とデュシアンは真新しい手袋を通した手で頬を撫でつけたのだった。
「フードを深く被れ」
 馬へと跨ると、彼自身もフードを深く被る。
 軽く腹を蹴って前方より吹きつけてくる冷たい風を割き並行して走り始めていると、 思い出したようにウェイリードはこちらをちらりと見やった。
「……一つだけ守って欲しいことがある」
 腰に差した剣を確認しながら彼は続けた。
「もし襲ってきたのが盗賊ではなかった場合、君は相手に名乗るんだ」
「え?」
「フードを外せば恐らく納得するだろう。君には害を与えない。決して手だししてはならない」
「あの、どういう意味ですか?」
「……君には関わりのないことだ」
 彼は『少し飛ばす』と小さく呟き馬の脚を早めさせた。デュシアンはその早さに合わせながら、 半身先を行く彼の後姿をじっと捕らえていた。理由は聞いてもきっと教えてくれないだろう。 その背を見てデュシアンは彼の拒絶を確信したので問わなかった。
――盗賊ではない相手。私には害は無くて、手だしはしない……。私には関わり無い……
 デュシアンは、以前にも似たような言葉を聞いた覚えがあった。それは彼からであったような気もした。
――私には、関わりのない……
 記憶の底から浮かび上がったのは彼と同じ声の主、カイザー公子の言葉だった。

『多分あんたには関わりの無い事だ。あんたは神殿の連中に好かれてるみたいだし』

 彼が自分に関わりがない、と言ったのは神殿内部の《暗殺》についてだった。
――暗殺? まさか。だってウェイリード公子はアイゼン家の公子だよ
 自分の勘違いだと、思い違いだと思いたいその脳裏にダリル将軍が残念そうに詰まらせて 呟いた言葉が思い起こされる。

『彼は少々、――神殿に敵が多い』

 神殿に好かれている自分は暗殺とは無縁だとカイザー公子は言った。
 では、その反対である『神殿に嫌われているから暗殺に無縁ではない』という命題が 成立するのかはデュシアンには到底わからなかった。
――……まさか。だって……
 何故彼に敵が多いのか。
 理由なんて思いつくはずもなかった。だから信じたくなかった。 目の前の青年が《暗殺》という非日常的なものの危険性に巻き込まれているなど。
 デュシアンは首を振って自分の中に広がった不安を頭の中から追いやった。そうしないと今から自分がしなければならない事、 エレナ・ルインスキーを探すという気持ちが疎かになりそうだったからだ。


 ウォーラズ―ル山脈以南はあまり農作物の栽培には適さないカラカラに乾いた黄土色の大地であった。雨量も多くなく、 背の低い草がところどころに生えるのみで鮮やかな緑が少ない事からか荒涼とした物寂しさすら与えてくる。 たまに吹く乾いた突風が土煙を起こして視界を妨げることもあるが、黄砂の固まった岩以外に障害物になるようなものはなく、 街から離れれば東西南北ともに地平線が見渡せる程視界が開けていた。 しかしながら巨大な黄砂の岩陰は盗賊のたぐいが身を隠すのは絶好の大きさであるから油断はできなかった。
 デュシアンは馬に乗りながらきょろきょろと視線をさ迷わせ、岩陰に誰もいないかつい探してしまった。 野盗の類などと争ったことがないから心配になってきたのだ。いくら護衛といっても隣りを走る彼だけに野盗と戦わせるわけにもいかないし、 徒党を組んでいたら自分だってきっと戦わなければならないと思っていた。 そんな不安から、服の上からデュシアンはあのアミュレットへ手を伸ばした。 しかしその手がアミュレットではない、もう一つ首から下げているものを掴む。
 それは出かける前に母がくれた金の指輪だった。鎖に通して首から下げている。 もし何かしらの出来事に巻き込まれてしまった時にお礼ができるよう、 もしくはこれで収まりが効く事があるかもしれない、と持たせてくれていたのだ。 かつて父が地方へ旅立つ時に母はいつもこうして用意して持たせていた事をデュシアンは見ていたので良く知っていた。
――盗賊が出たら、これで許してくれないかなぁ
 そんな事をぼんやりと考えながら、馬が軽く首を振ったことに驚いて慌てて考え込むのを止めた。 どうやら現実世界が疎かになっていた事に馬は気付いていたらしい。 ごめんと小さく口の中で呟くと馬の首を軽く撫でた。


 太陽が頭上に輝く時間、ぶつかった小川の傍で一旦休憩を取ることとなった。軽食で腹を満たした後、 川の水を飲む馬の首を膝を曲げて撫でながらデュシアンは傍らに立って遠くの方を警戒するよう見つめているウェイリード公子を見上げた。 その顔は朝よりは幾分穏やかな表情になっているように 思える。機嫌が少し戻ったのかなと思ってデュシアンは気になっていた事を聞いてみることにした。
「お仕事は大丈夫なのですか?」
 逆光となるのか眩しそうに彼はこちらへと瞳を細めて見下ろしてくる。
「……公務なら昨日でほぼ終わっている。君が気にする必要はない」
「マニさんが、何だか大変なことになったと話していたのですが……」
「……どの事を言っているのかわからん」
「……そうですか」
 公子は話したくないのかもしれない。デュシアンはその話題をそれ以上聞くのを諦めた。 第一彼からしてみたら大きなお世話なのかもしれない。何で聞いてしまったのだろう、とデュシアンは自分を責めながら、 せっかく直りかけた機嫌をまた損ねたのではないかとため息を零した。彼の言葉じりが少々きつい気がしたからだ。
 何時なしに足元の小石を川に投げ込むと、ぽしゃん、という音と共に底へと沈んだ。軽く跳ねた水と音に驚いたのか、 水を飲んでいた馬は首を上げると軽く嘶いて抗議を示した。
「あ、ごめんね」
 結果的に八つ当たりみたいな事をしてしまった自分に気付き、立ちあがると馬の頬を撫でた。
――うまくいかないんだなぁ……
 デュシアンは小さくため息を吐いた。
 何をしても上手くいかない。これはもはや神様が自分に与えた運命なのかもしれない、とデュシアンは密かに思った。 横に立つ青年の境遇も気になって不安と心配と混乱とが心を占めてきたせいで、どうしても思考も暗くなってしまっていた。
――もし本当に暗殺の危険があるっていうなら……、私に何かできないのかなぁ……
 そんな事をぼんやり考えながら、ウェイリード公子が『出発する』というまで思考の波に飲まれていた。


 モーリスに着いたのは西の空が茜色に染まる頃合いであった。
 モーリスは帝国領への道が開けている国境都市ブレミスと商業都市レムテストとの間にある宿場街でも有る為、 小さい村ながらも旅人が多い場所であった。
 デュシアンは道行く村人らしき男性にエレナの所在地である【モーリス孤児院】の場所を聞くと、 すぐにも東の高台の上だと教えてもらえた。
「私は宿の手配をしてくる」
 ウェイリードはそう言うと、二頭を連れ立ってさっさと踵を返して行ってしまった。 つい彼も孤児院まで一緒に行ってくれるものと思っていたデュシアンは、彼の背中を見つめながら心細さが膨れ上がる自分に気づいて、 知らぬ間に彼に依存していた事を恥じた。
 高台へと歩く道すがら、周りを見渡せば枯れた畑が多く見受けられた。 もちろん冬野菜は土に埋もれているものが多いことから地上から見ると寂しく見える事もあるのだろうが。
 目に付く土壌は東カーリアの農村地帯のしっとりとして黒々とした土とは違って黄みを帯び、 カラカラに乾いている。そっと膝を曲げて畑の土に触れるとダマになって固まった土は乾いていて硬く、 割るとさらさらの粉末状になった。これでは作物の栽培にはあまり適さないように思える。
「これだと、大変だろうなぁ」
 ラヴィン家邸宅の一部を母と共に菜園にしているデュシアンには、 この土が農作物を栽培するにはあまりに貧弱で苦労をしているであろうことが簡単に見て取れた。
 しかし同情している暇はないな、と立ちあがって外套の埃を払うと歩を進めた。
 高台の上の孤児院へと続く石の階段を上っていると、だんだんと子どもたちの元気のよい声が聞こえてきた。 見えてきたのは赤褐色の懐かしさを感じさせる古びた建物。 孤児院の看板を掲げた門とその建物との間にある前庭には駆け回って遊んでいる十数人の子どもたちの姿があった。
「そろそろお部屋に入りなさい」
 子どもたちの声と一緒になって響くのは母親のような優しさと威厳を持った女性の声だった。 子どもたちと視線を合わせる為に腰を低くして喋っているその声の主の姿が門より見えた時、 デュシアンは自分で探しておきながら、探さなければ良かったのかもしれない、と思った。
 子どもたちとあまりに楽しげに笑う彼女。子どもたちが慕って抱きつく彼女。
 声をかけれず、じっと門より彼女を見つめていると、子どもたちの方が気付いてこちらを指差してきた。 子どもたちが指差す方向へと視線を向けた彼女とデュシアンは目が合って少し慌てた。
 すぐにも彼女のはっと息を飲む様相が見て取れた。
 笑顔だった彼女はみるみる青ざめていき、こちらが言葉を繕う前に建物内へと駆け込んでしまった。
「あ! 待って下さい!!」
 その背を追おうと門より庭へ入ると、子どもたちが待ち構えていた。
「エレナおねえちゃんをイジめるヤツは追いはらえー!!」
「わ、わ、わ……」
 どうやら彼女が真っ青になっていくのを直で見ていた子どもたちは誤解したらしい。 ぐいぐいと小さな腕で後ろに押してくるのでデュシアンはされるがまま後さずりしてしまった。 十人ぐらいの七、八歳程度の子どもたちは一生懸命に悪者を敷地内から排除しようとしているのだ。 デュシアンはそんな子どもたちを邪険にできず、ただただ従う事しか出来なかった。
「これ、貴方たち! 何をしているのです」
 その声と共に建物から出てきたのは、老年の女性だった。
 子どもたちが一斉にデュシアンの足や腰から離れ、その女性の傍へと駆け寄って行く。
「あのお姉ちゃんがエレナお姉ちゃんを苛めたの!!」
「はいはい。わかりましたから、お部屋に入りなさい。手を洗って、うがいをするのですよ?  ああ、アンリ。貴方は足を洗ってからお部屋に入りなさい」
 子どもたちを捌き、彼等が建物へと走り込んで行く姿を見届けてから、その女性はこちらへと向き直った。
「エレナにご用事でしょうか?」
「……はい」
「中でお話を伺いましょう。私はこの孤児院の院長クロシアと申します」
 丁寧にお辞儀をされたので、デュシアンも腰を折ってから名乗った。
「……デュシアン・ラヴィンと、申します」


「エレナが真っ青な顔をして建物内へと入ってきたので、何かあったのかと思ったのです。 思い当たることがありましたので」
 クロシア院長はエレナ・ルインスキーの消息を求めてここへ現われた首都貴族を不思議には思わないのか、 疑問をぶつけてくる事もなく静かに院長室に通してくれた。
 院長室と言っても子どもたちがここで遊んだりするのであろう、部屋中に玩具の入った箱が無造作に置かれてあった。 本棚に目をやれば、神学書よりも絵本がずらずらと並んでいる。
 子どもたちの暴挙を止めてくれた老年の女性は孤児院の クロシア院長。年齢に相応しい皺の刻まれた優しい面差しを見て、デュシアンは祖母がいたらこのような感じだろうかと思った。 自身の両祖父母はどちらも会う前に亡くなっていたから希望のこもった想像であったが。
 そんな彼女を前にして、デュシアンは口を開く事が出来なかった。子どもたちと楽しげに遊び、 子どもたちに慕われていた先ほどのエレナを思い出すと、 この施設の管理者であるクロシア院長に全てを話すことに気が引けてしまっていたのだ。 エレナはこの孤児院で育った孤児で、帰れる場所はここしかないはずだ。 話してしまえば彼女が帰る故郷を彼女から奪ってしまう事になりかねないからだ。
 そう悩んでいると、何か察したらしいクロシア院長は自ら語りはじめてくれた。 その表情は何かを決意したような堅く強張ったものであった。
「エレナは三ヶ月ほど前に神殿を辞めてここへと帰ってきました。 その手には巫女として頂くよりははるかに高い給金が握られておりました。どうしたのかと尋ねると、 お世話になった貴族の方から頂いた、と。 あの子ももう二十三。私は情をかけられた貴族の方からの手切れ金ではないか、と思いましたので、 深くは尋ねることは致しませんでした。あの子は帰って来てからずっと何か悩み苦しんでいる様子だったからです」
 クロシア院長は膝の上の指を組替えた。
「この辺りは作物が取れづらい、大地の女神の慈悲も届かぬ土地」
 窓の外へと視線を移すのに従ってデュシアンも視線を窓の外へ移す。 赤い日差しの下に映るのは道すがら見たのと同じような貧弱な畑。
「国からの援助金があっても暮らして行くには一苦労なのです。首都より離れた土地での孤児院では自給自足をする必要があります。 地方領主の治める自治区であるなら国の援助金と領主の両方から援助金が得られるのですが……」
 自重ぎみに苦笑する。
「アリアバラス海峡を渡って東カーリアへと行きたいと願っておりました。 あちらはこちらとは違ってもっと肥えた土地で作物が多く取れますし、地方領主制を取る自治区もあります。ここは良い村ですが、 子どもたちの事を思えば致し方ないのです。 けれどもこれだけの人数の子どもたちを馬車で移動させる事や移動先の土地、建物を確保するにはお金がかかります。 その為に援助金を頂こうとずっと国と掛け合っていたのですが、 なかなか資金援助がおりずにいました。それを半年ぐらい前に一度こちらへ里帰りしてきたエレナに話したのです。 あの子は巫女としてある程度勤めたらここで働きたいと申していたので、内部事情を包み隠さず話しました」
 一旦息を吐き出し、続けた。
「そして、あの子は三ヶ月前に大金を持って帰って参りました」
 クロシア院長はその茶色い瞳を潤ませてデュシアンを見つめてきた。そのあまりに物悲しい視線から、 デュシアンは目を反らしたくなった。
「あの子は、何かしてしまったのですね……?」
 首を縦にも横にも振る事ができなかった。
 自分がここへ来たのは彼女を捕まえる為ではなかった。彼女を影で操った人物が誰なのか聞きに来たのだ。 金印さえ返してもらえればいいと。彼女を責めにきたわけでも、 せっかく東へと渡れる資金が手に入った孤児院の希望を断ちにきたわけでもないのだ。
 けれども自分がここへ現われた事は彼女が罪を問われる事、 孤児院が希望を断たれる事と同義である事にデュシアンはやっと気付いたのだった。
「私はどのような事でも受け入れるつもりです、どうぞお話下さい。あの子がこの孤児院の為にしてしまった事です。 私にも罪があります」
 クロシア院長の膝に置かれた手が小刻みに震えていた。彼女の罪を自分のものと感じているのだろう。 このまま話さなければきっと彼女は自分の養い子が起こしたことが何なのかに悩み苦しむ事となるかもしれない。 しかし話しても良いことなのか、デュシアンには判断が下せなかった。
 犯罪を犯した人間はその理由を問わず等しく裁かれるべきだとは思うし、そう有るべきだとは思う。だけれども、 デュシアンにはどうしても人事に思えなくて、彼女の犯罪を彼女の《親》であるクロシア院長に伝える気持ちにはなれなかった。
 例えば継母が同じように困っていたら、レセンが食べるのに困っていたら。自分ならどうするかと考えると、 デュシアンには同じ事をしないと言い切れない自分がいる事に気付いていた。
――私だって同じ事をしちゃうかもしれない……。母様やレセンの為なら……
 そっと胸に手を当てて、継母とレセンを思い出すも、あの二人が自分のせいで悩み苦しむのも嫌だと思った。
――二人がクロシア院長のような苦しみを負うのも嫌……
 ではどうすれば良いのか、と考えると良い案なんて思いつかなかった。きっとエレナも同じだったのではないか、 とデュシアンは思う。きっと彼女も苦しんだのだ、と。そう結論付けた。
「……私がもし彼女と同じ立場なら、きっと心が揺れると思います。自分を育ててくれた愛する《親》が困っている、 大切な《弟妹》たちにお腹いっぱい食べさせてあげたい……。エレナさんはきっと、 藁にもすがる思いで飛びついたと思います。そして、きっと悩んでいるとも思います」
 同じ、親や兄弟を思う人間として、デュシアンは痛いほどその気持ちがわかった。もちろん彼女が自分と同様に、 血の繋がりのない人に愛情を持って受け入れてもらった境遇だから同情しているのかもしれないと気付いていた。 不必要なまでに共感してしまっているのかもしれないとも分かっていた。
――でも、私は罪を裁く裁判官でも、罪を犯した人を拘束する騎士でもないもの。それに……
 デュシアンは、身体中を小刻みに震わせながら全く視線を反らす事無く事実を受け入れようとしているクロシア院長を見つめ、 喉につまった熱い感情を吐き出すように小さく息を漏らした。
「きっと、彼女はわかってくれると思います。誰が一番辛い思いをするのかを……」
 自分なら、自分の大切な人がこのような表情をしているのを知らん振りなんて出来るはずがない。 親にこのような顔をされて、心が痛まないはずがない。
 罪を犯して後悔するのは自分だが、泣くのは親だ。心有る人間が、自分が犯した罪のせいで親が苦しんでいる姿を見て、 どうして自分を責めないでいられようか。デュシアンはきつく唇を噛み締めた。
 その時、扉の向こうで何か物音がした。クロシア院長ははっとして立ち上がると駆け寄り、 扉を開けた。そこには膝から崩れるように座って顔を手で覆って打ち震えているエレナの姿があった。 デュシアンも立ちあがって近づき、静かに二人のやり取りを見守った。
「エレナ」
 クロシア院長はエレナの肩を取り、力を込めて抱きしめた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、院長先生、私、わたし……」
 彼女は廊下から中の様子をずっと伺っていたのだろう。涙に濡れた頬を上げると抱きすくめてくるクロシア院長の背に手を回した。
「エレナ、私のせいね、ごめんなさい……」
「院長先生、院長先生にまで迷惑を……、私、どうにかしたくて……。院長先生や子どもたちを楽にさせてあげたいって、 そう思って、それなのに、かえって迷惑を……」
「エレナ……」
 二人のしっかりと抱き合った様子に、デュシアンは自分と継母セオリアを重ねた。 彼女たちと同じように自分も継母と血は繋がってはいない。けれど、継母は有り余る愛情を持って自分を愛してくれている。
 もし自分がエレナと同じように過ちを犯してしまったら、継母は一緒に泣いてくれるだろうか? ふとそんな疑問が沸いた。
 一緒に泣いて欲しい。泣いてくれると思う。そう期待する自分がいた。
――それなのに、私は……
 しっかりとクロシア院長に抱きしめられて一頻り咽び泣いた後、息を整えたエレナはクロシア院長の腕から離れ、 デュシアンの足元に平伏した。
 デュシアンは思考を停止させ、気分は良くないが彼女を見下ろした。
「申し訳ありませんでした、閣下。私に金印と文書の一部を盗むよう頼んできたのは、ブラウアー子爵です」
 エレナは悔恨で一杯の表情で顔を上げ、しっかりとデュシアンを見つめてきた。こんな状況なのに、 彼女のその瞳は澄んでいてとても綺麗だ、とデュシアンはぼんやりと思った。こんな事がなければきっと子どもたちの良い教師であり、 良い母親代わりとなったであろう。
――ブラウアー子爵が、子どもたちから彼女を奪った……
 そう思うと同時に、自分も彼女を探し出す事で子どもたちから彼女を奪う事の同罪であると自覚した。 こちらが被害者であっても、それは拭い様の無い事実だった。
「お金を置いてここから消えるつもりだったのです。こうやって追いかけて 来られるかもしれないから……。でも本当は、心の底では、追いかけてきて欲しかったんです。私の罪を裁いて欲しかったんです。 私、もう耐えられない……。毎日カーラ様に許しを請いました。自分の犯した過ちの大きさに、耐えられないんです……」
 エレナの表情には後悔がありありと浮かんでいて、デュシアンは今まで堪えてきた涙を奥歯をぐっと噛み締めることで堪えると、 エレナの前に跪き、床へついた彼女の手を取った。驚いたように瞳を大きく開く彼女に軽く微笑んで見せる。
「話してくれてありがとうございます。貴方の事は決して悪いようには致しません」
「申し訳ありません、閣下。首都へ、行きます。証言させて下さい……」
「……はい。お願い致します」
 デュシアンは大きく頷いてから彼女の手を取ったまま自分と一緒に立たせた。
「これを資金に当ててください」
 デュシアンは思い出したように首から下げていた鎖から金の指輪を外し、エレナへと差し出した。
「閣下……?」
 不思議そうに受け取ったエレナの表情はすぐにも真っ青となった。
 そんな彼女にデュシアンは微笑みかけた。
「証言してしまうとエレナさんが持ちかえったお金は使う事ができないと思います。いま持ち合わせはこれくらいしかありません。 足りない分はラヴィン家が必ず援助致します」
 実はデュシアンは自分の家の財力をよく把握してはいない。けれども孤児院の移動資金ぐらい仮にも公爵家なのだから大丈夫だろう、 とたかを括っていた。
「閣下、しかしそれでは」
 驚いたように首を横へと振るクロシア院長に、デュシアンは安心させるように大きく頷いた。
「偽善だからといって何もせずに屋敷に帰ってから後悔するよりは、自分がそうしたいと思った事をしたいです。 三年のみの公爵職ですが、私なりにできることをしたいんです。それにエレナさんの気持ちは痛いほどわかるので……」
「……貴女は神殿の貴族であられるのに、私の知っている方々よりもずっと優しい心をお持ちなのですね……」
 クロシア院長は悲痛そうに眉を顰め、古い記憶を探るように瞳を閉じた。
「クロシア院長も神殿にお出でだったのですか?」
 そう聞くと、彼女は苦悩に満ち溢れた瞳を開いた。
「……古い昔に十一年ほど閉じこもっておりました」
 十一年ほど巫女をしていたのだろうか、デュシアンはその言葉の深い意味を悟ることはできなかった。ただ、 あまりにその瞳が悲しく苦しみに満ちたものであったので、その言葉はデュシアンの心に深く刻まれたのであった。



 茜色から藍色に変わったその空の下で、孤児院の門に背を預けて立っている長身の人影が見え、デュシアンは驚いたように駆け寄った。 それはやはり思った通りのウェイリード公子だった。
 彼はこちらに気付くと門より背を離し、組んでいた腕を解いて見下ろしてきた。
「……会えたのか?」
「はい。……明日一緒に首都へ行ってくれるそうです」
 沈んだ気分でそう頷くと、彼は神妙な面持ちでこちらをしばし見つめた後、軽く目を細めてから何も言わずに踵を返して歩きだした。 デュシアンはその後を追う。
「あの、わざわざ迎えに来てくれたのですか?」
 遠慮して半歩後ろを歩きながら聞くと、こちらを振り向かない背越しに答えが帰って来た。
「……君は宿の場所を知らないだろう?」
「あ、はい。ありがとうございました」
 怒っていてもやっぱり親切で紳士である事には代わり無い公子に好感を抱き、 デュシアンは彼が自分の行動を快く思っていなかったのを忘れて不思議と笑みを零した。 エレナとクロシア院長の事を思うととても笑えるような気持ちにはなれなかったはずなのに、 彼の様子を見て心を解きほぐす自分がいたのだ。
 そんなデュシアンを横目で見下ろしながら、ウェイリード公子は彼女の足元へ手をかざした。
「あ」
 高台から降りる階段は薄暗くて覚束ない。 彼は《明かりとり》と同じ原理のものを光の精霊の力を借りる事で簡単に作り出してデュシアンの足元を照らしてくれたのだ。
「ありがとうございます」
 彼は振り向かずにどんどん先を行く。足元の橙色の光はとても穏やかで目に優しい。
 こんな些細な事が嬉しくて、堪えていた涙が一筋の弧を描いて頬を伝わった。
 彼は決して振り向かない。何故かそう確信が持てて、デュシアンは袖口で目許を押さえながら静かに泣き、彼の背を追うのだった。


(2004.9.13と24と29)

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