赤い西日を横に受けた施工途中の巨大な橋は、寒々とした海流の上にぽつんと放っておかれ、誰からも見向きもされていなかった。
大勢の人で賑わうこの場所で、誰一人それを立ち止まって見上げる事がないのはとても異様な光景だ。
デュシアンは観光客のように気が済むまで橋を見上げると、中型船が肩を並べて停泊する波止場を振り返り、歩きはじめた。
街の中心地方面の入り口ではなく、港方面の入り口から商業都市レムテストへ入ってしまったのは、ウォーラズール山脈を下山した後、
四方を緑にだけに囲まれた道を歩く事に心許なさを感じてアリアバラス海峡沿いを南下してきたせいであった。
波止場には、寒いのに袖を肩まで捲り上げてよく日に焼けた筋骨隆々の腕を披露しながら荷物を倉庫へ運んでいる船乗りや、
彼等に指示を与える鮮やかな衣裳を纏った南方貿易商人、忙しなく動き回って商人や船乗りたちに御用聞きをする小間使いなどしかおらず、
素人はデュシアンぐらいである。
目が疲れるほど大勢の人間が所狭しと動きまわっているこの場に多少眩暈を感じたが、
たくさんの人に紛れることにデュシアンは安心感を覚えた。ウォーラズ―ル山脈で感じた孤独が嘘のようである。
「おっと、ごめんよ」
ぼうっと辺りを見まわしていたデュシアンに、荷物を運んでいる船乗りがぶつかり、危うく海流へと落ちそうになった。
それを他の船乗りが寸での所で腕を掴んでくれて危機を脱する。
「危ないぞ、嬢ちゃん。今ここは混雑してるから、早いとこ街へ戻った方がいいぞ」
厳つい船乗りが真っ白に輝く歯を見せて無骨な笑みを浮かべ、中心地がある方向を指差した。
デュシアンはその船乗りに頭を下げて礼を言うと、彼が指差した方向へと進むことに決めた。
中心地へ向かう為に桟橋を渡ろうと思ったのだが、桟橋にはそこを越えた先にある倉庫へと積み荷を運ぶ船乗りの流れが出来ており、
その足早な流れに乗るのはなかなか一苦労であった。
船乗りに埋もれながら前へと進んでいると、しばらくしてデュシアンは何か違和感を感じはじめた。
これと言って嫌な感じではないがどこからか視線を感じるのだ。気のせいかと思いながらも前方の隙間をキョロキョロと見まわしてみると、
桟橋を越えた先にその違和感を与えてくる存在をはっきりと確認した。
「あ」
つい間の抜けた声を出してしまう。
視線の主も気付いたようで、組んだ腕を解いて驚いたようにこちらを見つめてきた。そう言っても、
彼の表情は変化に乏しい。だがいつもより大きく開かれた灰の瞳から察するに、確かに驚いているようだった。
デュシアンは一応瞬きをして彼が幻ではないか確認してから、彼がそこに居る事を認めた。
「本当に会えた」
気付くと自分の口から安堵の息と共にそう漏れていた。無意識の言葉であったので、
自分自身に驚いて口元に手をあてた。
彼は彼で呆然としてこちらを見ている。当然だろう。こちらは彼がこの街にいることを知っていたが、
向こうはまさかこのような場所でラヴィン公爵と出会うと思ってもみなかったのだろうから。
無表情に近い彼の表情を驚きに彩らせた事がなんだか嬉しく誇らしくなって、
デュシアンは嬉々とした足取りで桟橋を渡りきると彼の前へと近づいた。しかし彼の表情が見る間に険しくなっていくのに気付き、
足が止まりそうになった。
自分が何かしたかなと思ったが、全くわからないので首を傾げる。
「こんにちは、ウェイリード公子」
「君はどうやってここまで来たんだ?」
挨拶もなくきつい口調で問われ、デュシアンは少しだけ残念な気持ちになったが、その質問を頭で反芻させると納得した。
自分が来た方向を考えればそのように怒りの混じった物言いをされるのも仕方がないからだ。彼は職業魔道師であるから、
こういった事にはイリヤと同じように神経質なのであろう事は想像がついた。
「船ではないです」
たまに南方貿易商の船がアリアバラス海峡を逆流することもある。その船に密かに乗せてもらったのかと思われたのだろうと察し、
違うと答えると彼は眉根を寄せた。少ししてからもっと表情を険しくさせると、もう一度質問してきた。
「……では、どうやってここまで?」
「歩いて」
「どの道を通ってだ」
いつになく急かすような口ぶりはまだ怒っているようにも思える。
「……ウォーラズ―ルです」
そう答えると目の前の公子は盛大なため息を吐いた。額に手を当てて、しばらく沈黙する。
「君は」
手を下ろし、呆れたようにもう一度ため息を吐かれた。
「あんな危険な所を通ってきたのか? 護衛は?」
「護衛はいないです。急だったので、信頼のおける人を雇うこともできなくて」
「神殿騎士がいるだろう? 急でも理由を話せば一人ぐらい簡単に借りれる」
「……え、と」
その理由が話せないから一人で来たのだ。デュシアンは俯いた。
神殿騎士は神殿の主要人物が地方へ行く際の護衛に貸し出されることも多い。
ラヴィン公爵もその主要人物に当てはまるから理由さえ正統ならばいくらでも騎士の護衛を借りることは可能なのだ。
ただし、理由が明確でなければならない。
「……それで、魔物は大丈夫だったのか?」
自分の無謀さに呆れられている様子に恥ずかしくなって、デュシアンは左手を後ろに隠して顔を上げた。
「――大丈夫でした」
――命を取られなかったんだから、大丈夫と言えるよね
彼の灰の瞳がくまなく自分の全身を映しているのに気付き、デュシアンも自分を見下ろした。
泥に汚れた長靴。擦りきれて埃にまみれている外套。特に魔物の爪先で引っ掻かれた部分がいかにも
『3本の爪を持つ生き物に引っ掻かれました』と現しているように破れている。
デュシアンは真っ赤になって、慌てて両手で埃を払い落とした。
「ちょっと転んじゃいました」
外套から埃を払い落とす為に忙しなく動くその手を――その左手首を急に掴まれて、高く上げられた。
不意の出来事に息を飲む。埃を落とすことに気がいってしまい、手を隠していたのを忘れて彼の目に晒してしまったのだ。
手袋は派手に破けて手の甲の血が見えているはずだ。怖くてまだ自分でも怪我を見ていない。
微弱ながら抵抗を試みるも手袋を外されてしまい、彼の表情が一層険しくなったのを見てデュシアンは居た堪れない気持ちになった。
恐る恐る自分の手へ視線を移し、手の甲の抉られたような爪痕と皮膚にこびり付く黒く固まった血痕が見えて吐き気がした。
一瞬、昔の記憶が過ぎったのだ。
すぐにも手首を一層強く掴まれたので視線を彼へと上げると、とても怖い顔と出会った。
そして手首を取ったまま大股で歩きはじめたので、ずるずると引っ張られてしまう。
「あ、あの」
まごまごしていると、ウェイリード公子は一瞥をくれた。
「化膿したらどうする気だ」
「あ、すみません」
彼の歩調に何とか合わせながら、流されるがままデュシアンは彼に連れて行かれた。
通されたのは首都のラヴィン家邸宅よりも大きな屋敷の中の一室。目にも鮮やかなイスラフル一色の部屋であった。
デュシアンの興味は自分の怪我よりも珍しい色でひしめく部屋へと向いていて、
引っ張られる手に少し抵抗しながら子どものように緑の瞳を輝かせて部屋を見まわしていた。
忙しなく動く瞳は南の大陸であるイスラフルの彩り豊かなタペストリーや家具、装飾品を順に映していく。
一年中太陽の沈まない大陸と言われる程暑い気候のイスラフルでは、特に黄金や橙、黄、
赤などの【太陽】を思わせる明るい色が好まれ、この部屋のさまざまなものにその特徴が現われていた。
例えば家具には淵に黄金をあしらって所々に太陽の細工が施されていたり、
カーテンはイスラフル染めで染められた赤丹色の布地を使用していたり、
大理石の床に敷かれた赤銅色の絨毯にはイスラフルの紋様が描かれていたりするのだ。
部屋中が目に鮮やかなもので統一されているのをデュシアンは綺麗で鮮やかだと心底感心した。
知らない所へ連れてこられて緊張している様子を見せないどころか楽しげにすら見えるデュシアンに、
ウェイリードが寧ろもう少し緊張すべきだと思っているなど彼女は知る由もなかった。
屋敷に入って一番最初に会った女中がぬるま湯の入った桶を持って部屋へ静々と入ってくると、デュシアンの詮索は中止させられた。
さっそく公子は、皮膚にこびり付いた黒く固まった血痕を桶のぬるま湯で丁寧に洗うよう指示をしてきた。
しかし、傷が痛むのでおっかなびっくり触れているデュシアンの様子に痺れを切らしたのか、その手を取ると、
少々強引に傷口を洗いはじめた。
デュシアンは傷の痛さよりもその彼の大きく節ばった手の感触に驚いてしまい、抗議をすることが出来なかった。
それに、こうして息も届く程近くから直に触れられてくすぐったさを感じ、早く離して欲しい思いに取り憑かれてしまう。
「痕が残りそうだな……」
白い手には見事なほど綺麗に抉られた3本の筋。
公子は残念そうに小さく呟きながら、デュシアンが逃げないように手をしっかりと掴んでから桶の上で消毒液を多量に塗布した。
当然沁みるので、手を引っ込めそうになるが、彼の手がそれを許さない。
しばらくしてやっと彼が納得する程消毒液がかかったのだろう、綺麗なガーゼで軽く手の水分を拭うと、
デュシアンの手を引いて近くの椅子へと座らせた。
彼も椅子を近づけて座ると横のテーブルの上にある包帯を取って手際良く巻き始める。
手の甲に怪我など淑女なら卒倒しそうなものなのだが、
自分の弱さが招いた結果であり嘆いても仕方がない事をデュシアンはしっかりと自覚していたので、
痕が残ると聞いても気にはならなかった。
「他に怪我は?」
手に丁寧に包帯を巻きながら尋ねられる。
そういえば、と思い出したのは獣型の魔物に倒された時に胸元に爪を立てられた事。着込んだ服のおかげで大した傷ではないだろうし、
それを彼に言って消毒してもらう……というわけにもいかないない。
「特にはないです」
「……そうか」
手首の所で包帯の端と端とを結ぶと、彼はこちらの手から手を離した。その温もりが名残惜しい気もした自分の不思議な感情に、
デュシアンは軽く首を捻る。先ほどまでは早く離して欲しいと思っていたのにおかしい、と。
「それで、従者も付けずに何故このような危ない事を」
消毒液の蓋を閉めてから彼はこちらへと探るような視線を向けてきた。
デュシアンはその視線から逃げるように視線を落としてしばらく考え込む。
話そうか話すまいか。
話せばきっと楽になれるだろう事は判っていた。呆れらるだろうが、
見た目よりもずっと親切で親身な彼は頭も良いから何か他の解決策を見出してくれるかもしれない。
けれどもそれで良いのだろうかと自分に問えば、首を横に振らざるを得なかった。
彼は彼の理由があってこのレムテストにいるはず。自分のことで煩わせて良いはずはない、と結論を下す。
――それに、人に頼ってばかりいては駄目だよ。少しは自分で考えて動かなくちゃ
頼りになる人が傍にいると、甘えたくなるのは当然だ。しかし甘えてばかりいては自分が成長しない。自分で考えなくては駄目だ。
そう決めてデュシアンは瞳を上げた。しかし見上げた先の灰の瞳はどこか優しい光を宿しているように思えて、
決意が一瞬揺らいだ。けれども下唇を軽く噛むと、甘えそうになる自分を押さえた。
「レムテストの橋を見に来ました」
「ただそれだけか?」
そう聞かれるとまたも決意が揺らいだ。自制心がそれを止める。
「はい」
微笑んで答えると、彼はまだ疑っているのかじっとこちらを見つめてきた。デュシアンは微笑んだまま微動だにせず、
彼の探りが終わるのを待った。
しばらくして彼は納得がいったのか視線を反らしてため息を吐いた。デュシアンもほっと小さく息を吐く。
「そうか」
彼は自分を納得させるように呟くと、視線をデュシアンのやや左横、肩口へと移した。
「……それと、彼女が少し無理をしたようだな」
「彼女?」
「君の横にいる《樹木の精霊》だ」
ウェイリードの視線に合わせて自分の肩口を見るも、
精霊が契約をした相手に稀に与える《精霊の冠》を持たないデュシアンには当然見えるはずはない。彼へと視線を戻した。
「女の子なんですか?」
「……見た目はな」
「わたしには全く見えないのですが。なんだか公子はお化けを見る方みたいですね」
「……私にはお化けは見えない」
困ったように生真面目に答えるウェイリードの様子にデュシアンは苦笑した。
「その怪我を負わされた魔物はどうやって追い払ったのだ?」
デュシアンの苦笑に全く動じることなく、ウェイリードは話を戻した。
「えーと……。空の魔物は木が籠みたいに変化して……? そういえば、大地の精霊に力を借りただけのはずなのに、
木も変化しました。それは《樹木の精霊》の?」
「君は魔力を人並以上持ち合わせている。大地の精霊が必要としている以上の魔力が流れ出ていたのだろう。
《樹木の精霊》の方が余った君の魔力の波長に合わせて魔法を使ってくれたのだ」
「そっか……」
何気なく相槌を打っていると、ウェイリード公子の表情が少し険しくなった。彼はどうやら正の感情を現すよりは、
負の感情の方が顔や雰囲気に出しやすい事をデュシアンは掴んだ。
もしかしたら自分が彼を不快にさせやすいのかもしれないとも思ったが。
「……波長の違う魔力を拾うのは精霊にとってかなりの負担だ。寿命を減らすことにもなる」
寿命を減らすという言葉にデュシアンはひどく動揺した。
「特に《樹木の精霊》はとても弱い精霊だ。もう一度無理をさせた時――」
公子は言葉を止めた。目の前のラヴィン公が口元に手を当てて真っ青になりながら震えている事に気付いたからだ。
「わたし、そんな酷いことしていたなんて……。どうしよう、どうしたらいいんですか?」
服の下のアミュレットをぎゅっと握り、デュシアンは悔しそうに震えて俯いた。
しばらくしてから降り注がれたウェイリード公子の声は先ほどよりも穏やかで優しい声質だった。
「精霊が傍にいるとわかった人間は傲慢で無茶な事をしやすくなる。傍にいる精霊はその人間を助けようと無理をするからだ。
君が無茶をしなければ彼らも穏やかに過ごせる。――本来ならば精霊が傍に居る人間を見ても、
その精霊の為にその事を本人には言ってはならない決まりになっている。それが精霊を見ることのできる人間のモラルなのだ。
ただ、君の場合は精霊に頼りすぎることはなさそうだから、大丈夫だろう」
「……気を付けます。ああ、でも、この精霊さんに自分の家へ帰るよう言ってもらうことは出来ないですか?
いくら気をつけようとしても、わたし……」
情けなさから言葉の続きを言えずに噤んでしまう。
「残念だが私は精霊特有の言葉までは理解できない。ただ彼女にも君の意思は伝わっているようだ。首を横に振っている。
君の傍を離れる気はないのだろう」
デュシアンには精霊は見えないけれど、肩口へもう一度視線を向けた。心の中で小さく謝罪を述べ、ため息を吐いた。
――わたしの傍に居ても、わたしは何もしてあげられないのに……
「あらあら。可愛い子を連れこんだと思ったら、泣かせてるの?」
やや低めの陽気な声に顔を上げると、戸口に立つ小麦色の肌を随分と露出させた女性と目が合った。
彼女は靴の踵の音を響かせながら部屋へと入ると一直線にウェイリードの座る椅子へと近づく。
「罪作りねぇ。私っていう女がいるのに」
「マニ……」
女性は椅子に座るウェイリード公子の首へ腕を回してわざとらしく胸を寄せ、
鈍い光沢を持つ金色の爪の指先を彼の頬へ這わせた。
公子の責めるような呆れたような視線にも全く動じることなく、彼女は離れない。
それどころか勝ち誇ったような漆黒の視線をデュシアンへ送ると、妖しいまでに艶やかな笑みを浮かべた。
ともすれば娼婦のように猥らに見えなくもない濡れた唇は、
彼女にどことなく漂う気品と優雅さをかえって引きだ立たせていた。
「はじめまして、お嬢さま。わたくし、ウェイの《愛人》です」
「……あいじん」
デュシアンはマニと呼ばれた女性とウェイリード公子を交互に見て、目を丸くさせた。
マニはイスラフルの衣裳を身に纏った高身長の派手目の美女だ。薄い布地から覗く豊かな谷間は健康的でいやらしさを感じさせなかったが、
露出した細い腰から下のなだらかな曲線が鮮やかなイスラフル染めの巻きスカートに消えて行くさまは艶めかしい。
肩の上で切りそろえられた真っ直ぐの黒髪に、くっきりした黒い瞳はとても神秘的だ。
礼服を着こなす堂々とした装いのウェイリード公子の横にいて、全く霞まないどころか、
相反する程お堅い彼の傍がとてもしっくりときていた。二人が並ぶ姿は見てはいけない大人の世界のようであり、
デュシアンは何故だか頬を紅潮させてしまった。
ぼうっとするデュシアンに対し、マニはにっこりと笑いかけた。
「本気にした?」
マニは公子から身体を離す。男へしな垂れる媚態はもうなく、さばさばとした様子でくすくすと笑い続けている。
「え……、と」
デュシアンは何が何やらよくわからず、ウェイリード公子へと助けを求めるような視線を送ると、
彼はため息を吐いた。
「マニ。初対面の相手をからかうのはよせ」
「あらあら、ごめんなさい。じゃあ、邪魔者は退散するわネ」
「ああ、待ってくれ。彼女を部屋に案内してやって欲しい」
「え?」
デュシアンは驚いて目を丸くさせた。すると公子はマニからデュシアンへと視線を移す。
「……君は私が連れてきた。その君を街へ追い出すようなことはアイゼン家の人間として出来るはずもない。
レムテスト滞在中はここに泊まるといい」
「あの、でも……」
デュシアンが戸惑っていると、ウェイリード公子が良い言葉を咄嗟に思いつかない質であるのを知っているからか、マニが口を挟んだ。
「つまりね、どうぞ泊まって下さいって事。じゃあ、行きましょ。えーと、名前は?」
右手を取られ、少々強引に立ち上がらされた。
「デュシアンです」
「……デュシアン、ね。私の事は、マニって呼んでね」
デュシアンが名乗った一瞬マニの表情に驚いた節が見えたが、すぐにもそれは消えて彼女は微笑んだ。
引っ張られながら軽く後ろを振り返ると、顎に手を当てて考え込んでいる風体の公子と目が合う。咄嗟に彼へと何か言おうとしたが、
何も頭に浮かばず、そのまま廊下に出てドアが閉められてしまった。
「あの、わたしはご迷惑ではないのでしょうか?」
廊下を歩きながら、デュシアンは前を行くマニへと心配げに問いかけた。
「大丈夫よ、気にしなくても。ここはアイゼン家所有の迎賓館だから、貴方が滞在するのに問題は何もないもの。
部屋は有り余っているのだし」
「あの、でも――」
「心配しなくてもいいのよ。アイゼン家の嫡子は連れこんだ女性を用事が済んだら外に放り出すような懐の狭い男じゃないのよ?」
階段を昇りながらそう諭されると、デュシアンはここは大人しく言う通りにしとくべきだと気付いた。
もちろん彼が体裁だけを気にするような人柄でないことは十分知っているが。
「この部屋を使ってね」
二階の廊下をしばらく歩いた先の広い客室へと通される。ここはイスラフル風ではなく、カーリア風の寝室だった。
イスラフルの色は好きだが、疲れている時は見慣れた色合いが一番だとデュシアンは密かに思った。
ぐるりと部屋を一周した視線が最後に向いた先は、見るからに柔らかそうな寝台であった。
今の自分に必要なものをそこで得られる気がした。
そんなデュシアンをマニは覗き込んでくる。
「貴方、一眠りした方が良さそうね。とても疲れた顔してるのよ。首都から来たのでしょう?
夕食前には起こして上げるから、少し眠りなさい」
頬に触れるマニの手の平は少しひんやりとして、女性にしてはやや硬かった。彼女の手の平は、
船に乗って男まさりに帆を張ったり船乗りと共に重い荷物を運んだりする事で擦りきれて豆も潰れ、
皮が硬くなったのだとデュシアンが知るのはまだ先の事である。
しかし何も知らずとも、その手から彼女の歴史を感じ取り、デュシアンはマニへと好感を持ったのは確かだった。
ぱさぱさと布地が擦れる音に聴覚が反応して目が覚めた。忍ぶような足取りだが、踵の高い靴のせいで僅かに床に響く音が聞こえる。
誰かが室内へと入ってきたようだ。
デュシアンは眼を擦りながら薄明かりに包まれた室内を凝視して、その音の主を見ようと身体を起こした。
「ああ、起きた?」
「……あ」
女性にしてはやや低音な声質。聞きなれないその声に一瞬自分の置かれた状況が理解できなかったが、
ぼんやりとした明かりの中でも色褪せない彼女の鮮やかな巻きスカートを見て全てを思い出した。
自分は今レムテストのアイゼン家邸宅にいて、客室を借りて眠っていたのだ、と。
そんな寝ぼけたデュシアンに彼女――マニはにっこりと艶やかな笑みを見せながら、
手に持っていた金属製のトレイを淡黄色の月光が差し込む窓辺のテーブルへと置いた。
「ぐっすり寝ていたから、起こすのが可哀相で夕食に起こさなかったのよ。もし良かったらベーグルでも食べない?
ちょっとお嬢様には禁断の時間かもしれないけど」
「……頂きます」
マニはテーブルの上の《明かりとり》に手をかざし、部屋を明るく燈してくれたので、
デュシアンは寝台より降りるとテーブルの席についた。
向かいに座るマニは、瓶に入った何かのジャムをスプーンで掬うと硝子製のカップに落とし、少量の酒をそこへ混ぜた。
何をしているのかな? と思ってデュシアンは静かに見つめていると、彼女はそのカップにポットの紅茶を注いだ。
軽くかき混ぜてから差し出してくる。
「はい、どうぞ」
見た事のない淹れ方にデュシアンは当然飲むのを躊躇した。しかし人の好意だし、興味もあったので一口飲んでみる。
するとほんのり甘酸っぱい味が口に広がってとても美味しかった。
飲んでいるうちに、その意外さに驚いて瞳が見開かれていくデュシアンを、マニは苦笑して見守っていた。
「美味しいです」
カップから口を離し、呆然としたように目を瞬かせるデュシアンにマニは満面の笑みを送る。
「でしょ? イスラフルの果実のジャムが入っているのよ」
マニがスプーンで掬ってくれたジャムをデュシアンはひとさじ舐めると、食べた事の無い不思議な甘酸っぱさに一瞬で魅了された。
「イスラフルのジャムかぁ……。今度買おうかな」
「なら、ハバート商会を宜しくね」
妖艶なウィンクに、デュシアンは微笑みを返した。
暖かい飲み物にふんわりと胃を刺激されて小腹が空いているような気がして、目の前に置かれたベーグルサンドに手を伸ばした。
ベーコンとチーズとトマトが挟まっている。一口食べると胃が大歓迎してくれた。
「貴方、美味しそうに食べるのね」
まるで小さな子どもの食事を見守る母親のような優しい微笑みを浮かべながらマニがこちらを見ていたが、
別段気にすることもなくデュシアンはベーグルサンドを頬張った。
綺麗に平らげると、もう一つと皿へ手を伸ばす。するとその手がずきりと痛み、視線を包帯の巻かれた左手の甲へと落とした。
ウォーラズ―ル山脈を降りてからレムテストへ着くまではこの傷が痛む度に魔物に追いかけられた恐怖を思い出していたのだが、
今は不思議とその恐怖よりも自分の手を掴む力強い手の感触が思い起こされた。
――そういえば、手当てのお礼を言い忘れちゃった……
連れてこられたあの部屋から出て行く時に振りかえってまで彼を見て何が言いたかったのかと自分でも不思議に思っていたのだが、
それはきっとお礼だったのだと合点がいった。けれど何か少しだけ違うような気もした。
しかしその違和感の答えがすぐ出るようには思えなかった。
もしかしたらもう少し彼を見ていればそれが何か分かるかもしれないと思い至り、マニを伺い見た。
「あの、公子は?」
そう聞いてしまってから、デュシアンは口元に手を当てて頬を紅潮させた。
横の窓から空を見上げれば分かる事だが、もう月と星と闇が占める時間である。
ウェイリード公子の所在を聞いても会いに行けるわけもないし、第一、男性の夜の所在地を聞くなんて無粋な事だった。
つい公子にしな垂れかかったマニの姿を思い出して、変な想像ばかりが膨らんでしまい、デュシアンは慌てて頭を左右に振った。
羞恥に頬を染めて首を振るデュシアンを、可愛いなと思いながらマニが目元を綻ばせていたことなどデュシアンは知らない。
「ウェイなら市長たちと会談中よ。といっても、もうお酒が入ってるわ。私はちょっと貴方の様子を見てくるようウェイに頼まれたの」
「……そういえば公子は仕事をしにこちらに来ておられるんでしたね」
まだ頬が熱いので、デュシアンはイスラフル式の紅茶を一口飲んで自分を落ちつかせた。
「神殿に頼まれた仕事よ。市長と私たち南イスラフルの商人を説得しにね」
「それは……、レムテストの橋の建設の件で?」
「ええ。でも細かく言うと、防衛維持費の費用の問題よ。つまりお金」
マニは長い指先でベーグルを取ると、デュシアンの口元へ押しつけた。
「貴方、もう少し食べた方がいいわよ」
マニの囁きに『え?』と問い返したその口に、ベーグルを軽く突っ込まれた。
少し驚いたが、デュシアンはベーグルを受け取って口に入った分を咀嚼する。
「細過ぎるよりはちょっと柔らかいぐらいの肉付きの方が、男は喜ぶのよ?」
そう言って、マニはデュシアンの鼻を軽くつついてくるのだった。
一瞬何の事を言われているのかわからなかったのだが、見当がついてデュシアンは目を白黒させた。
豊かでメリハリのあるマニの肢体を羨ましいなと密かに思っていたデュシアンは、自分の胸をちょっとだけ見下ろしてから話を戻した。
「あの、お金って神殿へ払うお金ですか?」
「そ。地方に配置された神殿騎士の給料はその地方の税金で賄われるでしょ。神殿騎士が増えれば給料へ回す税金も増える。
それから神殿騎士を借り出す人数に比例して神殿上層部へのお布施も多くなる。レムテストに関しては、
そのお布施の半分は私たち商人が出すのだけどね」
「でも、仕方ない事ではないのですか? そういったお布施で神殿騎士の養成機関とか、
職務中に亡くなってしまった方の遺族への保証金とかを賄っているから……」
『手が止まっているわよ』とマニはデュシアンに食事を促しながら応えた。
「まあね。そうなのだけど、神殿上層部の人たちの懐へ入る分も多いのを知っていると、どうも値切りたくなってね。
それに市民も納得してないのよね。レムテストは野盗もいるけど比較的治安も良いし、
暇を持て余している神殿騎士をよく街の酒場で見かけるわ。今の数でも仕事にあぶれている騎士がいるのに、
『まだ騎士を増やす必要がある』なんて言われても、簡単には納得できないものでしょ?
大型貿易船が入ってくるなら色々と問題は増えるだろう事はわかっていても、まさかここまで海賊が入ってくるとはあまり思わないわ。
備え在れば憂い無しって精神は大切だけど、今を精一杯生きる人間が《備え》
なんて不確定なものに投資する事に躊躇するのは当然だと思うわ」
「それは……」
確かにマニの言う通りであると口篭もった。
騎士たちがその真価を示すことが出来る機会、
つまり今後予想される有事がもし全く起きなければ騎士を増員する理由を分かりやすく市民に示す機会はないのだから。
しかしそう思ってはいても、有事が起きては困るのもまた事実であった。
「だから市長はね、神殿騎士を増やすんじゃなくて自警団を組みたいって言い出したのよ。市民の有志を集えば安上がりだし、
自分たちの手で街を守るとなれば士気も高いでしょうね。でも、
もちろんそんな勝手な申し出に神殿は激怒したけど、防衛費を私たち南イスラフルの商人たちが一部捻出する予定になってる以上、
神殿も表立って喧嘩は売れないのよ。それでこうやってアイゼン家を通して穏便に済まそうとしているのよ」
「神殿はどうして穏便に済ませたいのですか?」
アッシュグリーンの瞳に疑問を浮かべながらデュシアンは問いかけた。
内部にも外部にも威圧的に政策を進める神殿のその姿勢が珍しく思えたのだ。
「神殿はイスラフルの貿易品を必要としているからよ。薬や祭事に使う陶器の器、神殿を彩る磁器の置物、宝石、植物、建築用機材、
医療器具、東の大陸の古文書などなど。この大陸にはないものを神殿はイスラフルの商人から多量に買っているの。
貿易を行えなくなったら神殿もとても困ったことになるからね。だから南イスラフルの商人と仲良しのアイゼン家が頼まれたのよ」
マニの説明はとてもわかりやすく、神殿から受け取る防衛関係の書類ではわかりづらかった事情も大分理解できた。
「それで、会談はどうなったのですか?」
「……交渉は成立したけど、問題は深刻化した、とでも言うのかしらね?」
マニは渋い顔でため息を吐いた。
「え?」
「カーリアの宮殿には頭の良い獣が隠れていたわ」
「獣?」
「そ。若くてまだまだ子どもだと思って問題外だと思っていたのだけど。道化の皮を剥いだら立派な鬣を持った獅子が隠れていたのよ。
……これにはさすがに困ったわ。ヨアヒムも口を塞ぐわけよね……」
語尾は自分に言い聞かせるように小さくなっていった。
「あの、どういう事なのですか?」
「そのうち分かるわ。ウェイのように見当違いの責任を押し付けられないように貴方も気を付ける事ね、ラヴィン公爵閣下」
マニは目を丸くさせているデュシアンへ、悪戯っぽい笑みを浮かべて敬礼をしてみせた。
「あの、――どうして私が公爵だと知ってるんですか?」
身分がばれているとは露にも思わず、獅子の正体を聞くのも忘れて大きな目を更に大きくさせた。
すると驚いているのはデュシアンの方であったはずなのに、マニも驚きを表情へと表した。
「あら、本当に公爵閣下なのね」
「え?」
「カマかけただけよ。デュシアンっていう名前に金髪で緑の目の若い娘だったから」
「……そうだったんですか」
「うーん、貴方が公爵ねぇ……。ちょっとおっとりしすぎじゃないかしら? トロくさいとも言うわね」
トロくさい、とは弟や口厳しい従兄によく言われる言葉だ。
「公爵向きじゃあないわね。それもアデル公の後釜なんて」
言葉の中身はとても厳しい指摘なのに、マニの口調はどこか楽しげでもあった。こちらに呆れるとか、
馬鹿にするような意図は全く感じられなかったので、デュシアンもあまり気を落とすことはなかった。
ただ、出会ったばかりの人に本質を簡単に掴まれてしまった情けなさには肩を落としたが。
「でもね、私も二十歳ぐらいの時はそんなだった。色々考えが足りなかったり、失敗もたくさんして、
取り返しのつかないこともしちゃった……」
過去の何かの出来事を思い出したのか、彼女の艶やかな口元が真横に引き結ばれ、黒い瞳が大きく揺れた。
余裕たっぷりで落ちついた物腰で話す彼女らしくない様子だ。
「マニさん?」
心配になって覗き込むと、マニは自虐的な笑みを見せて吐息をもらした。
「……ちょっと酔ってるみたいね。……さて、そろそろ戻るわ」
「あ……。あの、色々ありがとうございました」
デュシアンが微笑むと、マニも表情を弛めて微笑んだ。
「いいのよ。貴方が元気な事をウェイに伝えておくわ。それから、沐浴なさいな。
一階に下りたら右奥――、下に女中さんがいるから一声かけて行くといいわよ。
着替えを用意してくれるから。ああ、破けた外套の代わりはこれ。
これを着てね」
マニはテーブルに上質な生地の外套を置いた。
「え? でも……」
外套は明日街の既製品店にでも寄って新しいのを買おうと思っていたデュシアンは、
そこまで彼等に世話になるのもどうかと躊躇した。
「あのね、お客様のお洋服が破れているのに、替えの一つも用意できないような招待主は笑われるものよ。
ありがたく受けとっておきなさい」
それは迎賓館へと泊まるよう説得されたのと同じ理由だった。
ことにアイゼン家は財力がある。それを誇示する訳ではないのだが、
【客へのもてなしに出し惜しみをするケチな家】と思われるのはとても不名誉な事なのだろう。
ここは当然断るべきものではないと判断し、頷いた。
「はい。ありがとうございます」
「うん。それでいいのよ女の子は」
張りのあるふっくらとした頬をマニに軽く突付かれた。彼女がとても陽気で快活な人柄であるからか、
子どもを相手にするように触れてくる彼女に悪い気はしなかった。
「じゃあね、また明日」
そう言ってひらひらと手を振りながらマニは部屋から退室した。
――何だか、すっかりお世話になっちゃってるんだなぁ……
ため息交じりの苦笑が零れた。市長との会談をしているはずなのに、
彼がその間もいちいちこちらの事を気に留めてくれたのが純粋に嬉しいかったのだ。
もちろん屋敷の主人となるなら招待した客に対してきめ細やかな配慮をする事も当然なのかもしれないが。
――それにしても、どうしよう。明日顔を合わせたら、きっと今後の予定を聞かれるよね
彼はレムテストに居る間はこの迎賓館に滞在するようデュシアンに勧めてくれた。
ここに滞在するとなれば大まかな滞在期間や簡単な予定を聞く権利を向こうは持つ。
滞在期間がたった一日だけであると告げれば彼はきっと疑問を抱くことだろう。
例えばラヴィン公爵だと公言して、レムテスト神殿騎士団の査察や、市長らに伴われながらの橋の視察といった公務をし、
今後は市長の迎賓館に泊まる予定であるならばまだ説明がつく。しかし公務もせず、
ただ一人ひっそりと橋を見上げる為だけに護衛も付けずにあの危険な道のりで来るなど彼は納得しないだろう。
――でも公子だって忙しいんだ。わたしの事ばっかりで煩わせちゃ駄目だよ。わたしのせいで廃嫡になりかけたばかりじゃない……
あともう少しで彼の人生を粉々に打ち砕くところだったのだ。そうまで貶めてしまった相手に、
これ以上迷惑はかけたくない。
気を回し過ぎるきらいのある彼ならば、もしかしたら理由をもう一度聞いてくるかもしれない、
何かあったのかと勘付かれるかもしれない。
しかしもちろん彼がこちらが頑として話さない内容を強引に聞いてくる理由も根拠もなかったが。
どちらにしろ、神殿の仕事できている彼をこれ以上煩わせる事になるのは嫌だった。
だからと言って市長などとお忍び視察をする余裕もない。そんな事になったら数日はこの街から出られなくなるからだ。
――それなら、会わなければいいんだ
デュシアンは、公子と会わなければ予定も滞在日程も聞かれる事はないと気が付いた。よく思いついたと自分を褒めたくなる。
だがさすがに今これから屋敷を抜け出すのはかえって心配をかけてしまう。
――早朝……かな
問題が解決してすっきりしたので、今度は身体をすっきりさせようと湯浴みの為に立ち上がった。
強い潮風に長い間吹きつけられていたことから髪はぼざぼざ、ぱさぱさになってしまっていて、
実はずっと手櫛の通らない自分の髪の毛を気にしていたのである。
【明かりとり】の明るさを落とせば、舞台の照明のような淡い光が窓辺を闇から際立たせた。
ふと空を見上げれば、まるでにやりと口を開けて笑っているかのように見えた三日月が視界に映りこみ、
不思議な胸騒ぎを覚えて軽い身震いが起きる。例え様の無い不安が、デュシアンを包み込んだのだった。
(2004.9.4)
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