墓と薔薇

5章 流転する運命(3)

「薔薇をね、送って欲しいのだよ」
 寝台に横たわるのは弱弱しい男だった。頬はこけ、口元に皺が刻まれて、瞳には生気がない。実年齢より十歳は年を取って見える。
 この男は一体誰なのだろう?
 【誰】であるかを知っているのに、認めたくないと自分の心が疼く。
 死期を予感できるくらいになった男を自分の知っている恩師であると認めれば、 途端に世界が崩れていってしまうような感覚が自分の中にはある。それを分かっているから認めたくなかった。
「あの子は私がいなくなればきっとずっと泣いているだろう。あの子にとって私は母に代わる救い主だったのだから。 五年前にあの子を見つけた時、あの子の瞳には生きる力が宿っていなかった。それもそうだろう、 あまりに惨いかたちで母を亡くしたのだから……。そのあの子があそこまで感情豊かな娘に戻れたのに、 またその心を傷つけてしまうのが心残りなのだよ」
 男は元来そんなにお喋りな人ではなかった。そんなに堰を切ったように話せば、 まるでもう自分には喋る時間があまり残されていないと知っているかのように思えてしまう。
 もう喋らないで欲しい――、その願いに反して男は喋り続けた。
「あの子が笑っていてくれるなら、私はなんでもしたかった。それが私のラトアンゼへの償いであるし、 あの子への愛情の示し方でもあった。あの子は薔薇を送られると殊更喜ぶのだよ。とても可愛い笑顔で、 世界で一番幸せだというような笑みを見せてくれる。泣いていても薔薇を渡せばすぐにも笑みを見せてくれるんだ」
 まるで今もその手の中に彼が慈しむ娘が存在するかのように、自分の手を見ながら嬉しそうに話す。 そのしわがれた声に耳を塞ぎたくなった。
「私がいなくなれば、あの子はきっと泣き続けるだろう。だから私の名で、あの子に薔薇を送ってやって欲しい。 薔薇があの子の癒しだから。あの子が一人で前に進めるまで、あの子に薔薇を送って欲しいんだ。ウェイリード」
 男は優しく微笑んだ。
 こちらが断らないと分かっているからだろうか、それからすぐに男は安心したように眠りについた。

 もうすぐ。
 もうすぐ迎えが来る。
 それが分かるくらい、男は弱りきっていた……。
――頼む……。連れて行かないでくれ……
 誰に頼んだのかそれは自分にもわからなかった。冥府の守護者に頼んだのか、男の周りにいる光の精霊たちに頼んだのか、 それとも信じてもいないカーラ神に頼んだのか。
 恩師の存在は大きすぎた。人として知りすぎた事実を共有していたのだから。
 その存在は双子の弟とは違った、不思議な運命を感じるものであった。 その運命を立ち切られ、これからはたった一人で≪あの事実≫と向き合っていかなければならない恐怖とどうにもできない虚無感とが、 自分を苛んでいた。
 恩師は父のような、兄のような、とても親しい友のような、そしてその全てであるような存在だった。 その彼を失うのは、父と兄と友を一片に失うような喪失感を与えてくるものだ。
 喘ぐように息をしていると、光の精霊たちが光を発し、男の身体を包みこみはじめた。
 男の身体が急に歪んだかと思うと、まるで粘土のように辺りの色彩を凝縮しながら丸まり、 そこから銀鼠色の長い毛に覆われた優美な猫が一匹飛び出てきた。呆気にとられていると、 猫は高貴な一声を聞かせてさっさと窓より飛び降りて行ってしまった。
 その姿を追おうと窓辺へ足を動かすと、もうそこは一面に白詰草が広がる大地となっていた。 先ほどまでの部屋もベッドも窓もない。ただ呆然と、自分がその白と緑の絨毯が敷かれた大地に立ち尽くしていただけだった。
 不意に高貴な鳴き声を聞き、一つ高い丘へと視線を動かした。丘からは穏やかなそよ風が吹き降りてきて、 足元の可憐な花を細波のように揺らす。
 丘にはこちらの慎ましやかな花とは違った、自らの存在を主張するような姿と芳しい匂いを放つ南国の植物が群生しており、 その木の下を先程の声の主である猫が優雅な足取りで歩いていた。
 猫は木陰に座って膝に何かの花を広げている少女の膝元を通りかかると、 彼女にひと撫でされていた。気持ち良さげに目を細めると、少女の膝の上から花を一輪咥えて豪華な銀鼠色の毛を揺らしながら、 素走っこく丘を下ってこちらへと走ってきた。
 少女も慌てて立ち上がり、つんのめりそうになりながらスカートの裾をはためかせて、花一輪の為に追いかけてくる。
――アデル公?
 声は出なかった。
 こちらへと白詰草をかき分けて駆け下りて来る猫に頭の中でそう問うと、猫は翡翠色の瞳を数回瞬きさせて歩を緩めた。 なんとなく腰を屈めて手を伸ばせば、まるで自ら掴まりに来るかのように猫は手に収まった。
 身体を起こすと静かに抱かれる猫のふわふわとした毛に覆われた喉を撫でる。ごろごろと喉を鳴らすその猫は、 いつのまにか口から花を離し、白詰草の上へと落としていた。
 それを拾い身体を上げると、目の前に彼女が走りこんできた。ここを漂う南国の香とは違った良い香りがふわりと鼻孔を擽る。
 たっぷりとした金髪を風に煽られて少々ぼさぼさに縺れさせ、大きな緑の瞳を瞬かし、彼女はこちらを物言いたげに見つめていた。 しかし息が切れて言葉が紡げないのだろう、頬を紅潮させて苦しそうに上下する胸元を押さえている。
「これか?」
 そう言って、彼女へと手に持った花を差し出した時、初めてその花が薔薇であることを知った。
 彼女はそれを受け取ると、花が綻ぶように微笑んだ。
 その表情が、この時より少し大人びた短い金の髪の彼女と重なり、はっと息を飲んだ。

 はっと息を飲むと、白いシーツが目に飛び込んできた。
 身体は横向きに寝転んでおり、腕の中には猫の感触などなく、目の前にいたはずのあの少女は姿かたちもなかった。
 しっかりと覚醒した意識が、自分の置かれている状況を瞬時に理解させてくれる。
――夢……か
 疲れたように大きく息を吐いて、ウェイリードは仰向けになった。
 それは何度も見ては肺を押しつぶされるような思いをする夢だった。 もしかしたら恩師が見せているのかもしれないと考えている。
 彼女と植物園で出会ったのは恩師が亡くなるよりずっと前、自分がララドへと留学をする少し前の四年前の事だった。 時間的に逆行してまで二つの場面を繋げるこの夢に恩師の意図が こめられているように思えてならなかったのだ。
 どちらの場面でも、主となって自分へとその存在を感じさせてくる娘。
 彼女は恩師から聞いていた通り、幼さを残した頼りない娘だった。世間知らずで、危うく、 公爵としての器を感じられないような娘だ。だからこそ目が向いてしまう。彼女の失敗は託された自分の失敗であるように感じるから。 多分そう自分に思わせているのは、恩師だ。
――そんなに心配しなくても、貴方の大切なご息女の事は影ながら見守るつもりです
 恩師はどうしようもなく娘に甘い人であった。いつもは穏やかに話をする彼だったが、 娘の事になると途端に瞳を輝かせて嬉々として語り聞かせてくれるような人だった。 どうして自分にそんな事を話すのだろうと不思議に思った時期もあったが、今なら何となく理由が分かった気がした。 あの時から、彼は自分の死期を感づいていたのかもしれない、と。

『ウェイリードには会わせてあげないよ。持っていかれたら困るからね』

 四年前にそう言って笑い、彼女に会うなと釘を指されたことを思い出す。
 こちらは別段会いたいなんて言った憶えもなかったし、会いたいとも思わなかった。 ただアデル公がとても可愛がっているという理由においては少し興味はあったが。けれども釘をさされてすぐに、 植物園で先ほどの夢のように出会う事になったのだ。
 その時、物思いに耽っていたその耳に扉が静かに開く音が聞こえた。すぐにもウェイリードは枕元の剣に右手を這わせて息を殺した。
「あらあ、目ぇ、覚めてたの?」
 低くて少し擦れたようなその女性の声に緊張を解くと、剣より手を離した。
「……人の部屋に勝手に入るな」
「うふふ。怖い怖い」
 威圧的な言葉に物怖じもせず部屋へと入ってきた女性は寝台へ近づいてくると、 髪を押さえて覗き込んできた。
 彼女はハバート商会の代表マニ・ハバート。ハバート家の娘で商才があるということから、 二十九歳という若さながら大きな仕事を任されている才気ある優れた女性だ。健康的な小麦色の肌を惜しげもなく露出させ、 南国風の鮮やかな模様が描かれた布地のイスラフルの伝統的な衣裳を常に身に纏っているイスラフル人だ。
 アイゼン家とハバート家は百年以上前からの仲であり、彼女ともまた幼い頃から互いを見知った仲だった。 マニはこちらを弟のように思っていることから、からかってくるのも常だった。
「あまりにも遅いから起こしにきたのよ。といってもまあ、 貴方はこの数日殆ど寝ないで首都とこことを行ったり来たりして相当疲れているでしょうから寝坊も当然でしょうがね」
 確かにマニの言う通り、ウェイリードは協議会を挟んだ前日前夜は殆ど寝る暇を惜しんでレムテストと首都を往復していた。 協議会が終わった日の夕刻にはカーリアを出発し、マルカレイスで数刻の休息を取った後ウォーラズ―ル山脈を登り、 月が街を照らし始めた頃にレムテストへと着いた。レムテストのアイゼン家所有の迎賓館に着いてからはこの通り、 まるで冬眠に入ったかのように深い眠りに陥り、一度も目を覚まさず眠っていたようだった。
「……寝坊、か」
「ヨアヒムも待ってるわよ」
「すまない」
「いいのよ。時間に遅れるのはいつも私たちの方だし、たまには待たされるのもいいかしらね」
 寝坊と言われては何時までもまどろみに身を置いているわけにもいかないと思い、 ウェイリードは身体を起こして寝台より降りた。乱れた髪に手をかきいれると、マニの視線を感じる。
「逞しい体だこと」
 はだけている上半身を見ながら、マニはにこにこと微笑んでいた。
「貴方、剣士の方が似合ってるわよ。研究職なんて勿体無いわ。うちの用心棒にならない?」
 マニキュアが綺麗に塗られた指を、露わになっているウェイリードの肌に添わしながら、 長い睫毛越しに見つめてくる。小麦色の肌も大粒の黒曜石のような双眸もこの国にない神秘的な妖艶さを持つ。
「……からかうのもいい加減にしてくれ」
 女性としての魅力に溢れたマニの手をうっとおしそうに払いのけながら、ウェイリードはボタンの外れたシャツを脱ぎ捨て、 出て行くよう手で合図した。
「うふふ。気にしなくてもいいのに」
 マニは艶やかな微笑みを浮かべると、橙色と黄色を主とする鮮やかな巻きスカートの裾を揺らしながら出ていった。
――少し、頭を冷やした方がいいな……
 卓の上の水差しから杯へと水を注ぎ、それを一気に飲み干した。
 夢見があまり良くなかったので、苛々しているのは自分でもなんとなく分かっていた。 いつもならマニのあの程度のからかいなど気にも留めないのだが。
 自分が父の名代、アイゼン家の代表としてレムテストへ来ている事をまず意識しなければならないと頭を切り替えた。
 そもそもウェイリードがレムテストへ来たのは神殿に頼まれた仕事の為であった。 レムテストに駐在する神殿騎士を大幅に増員する件とその経費諸々など、 神殿が提示したレムテストの防衛強化に関する最終的な案に譲歩するようレムテスト市長を説得しに来たのだ。
 現レムテスト市長は南イスラフルの商人たちと深く繋がりがあるのだが、 アイゼン家もまたその南イスラフル商人たちの主要団体であるリッツバーグ商会とハバート商会の両方の人間と深い繋がりがあった。 顔が利くという理由で、神殿より秘密裏に交渉役を頼まれたのである。
 ウェイリードはあまり神殿の内部に関わるような仕事は好まないのだが、今回の件に関しては神殿の言い分に賛同する部分があり、 積極的に関わる気になれた。
 レムテストは今まで南方貿易船がそのまま入ってくることはなかったのだが、近年、 元老院が巨大な貿易船をアリアバラス海峡へ侵入させる許可を出したのである。
 古くからアリアバラス海峡では拠点防衛の為に入り江の街アリアラム以北には、 巨大な南方貿易船が入航出来ない様に東カーリアと西カーリアを繋ぐ橋の高さを低く作ってきた。 その為に貿易船の積み荷は一旦全てアリアラムで下ろされ、 食物や植物など氷室結界を必要とするものは橋を越えられる高さの中型か小型の船に積み替えて首都方面へと運ばれ、 それ以外は陸路を通って主要都市へと運ばれて行くのが常であった。しかし陸路で運ぶには首都まで二十日。 あまりに時間と手間と費用がかかるという事で、それを短縮する為にアリアラムからレムテストまでの橋の高さを上げて、 レムテストまで直接貿易船を入れてしまおうと決めたのである。
 ただ、貿易船を装った軍隊やアリアラム近郊の海洋で暴れる海賊がレムテストまで入ってくる可能性があり、 レムテストの警備強化を考えねばならなかった。
 前レムテスト市長は神殿騎士の増員には納得していたが、この市長が昨年急逝してしまい、 その息子が市長となってから『市民の若者で有志を募り、自警団を作って街を守りたい』と言い出したのだ。 どうやら神殿騎士を増員するにあたって必要とする莫大な金額に腹を立てたのだろう。また、 神殿のこれ以上の権力と財力の拡大をよく思わない宮殿側の貴族がリッツバーグ商会の上層部と密に繋がっており、 市長の『自警団設立を』との頑なな主張を助長し、支援する話し合いが持たれているようなのだ。
 ウェイリードとしては、海賊の脅威と勢いをハバート商会の人間から直接聞いている為に、 ある程度養成された神殿騎士が防衛にあたるのが当然だと思っていた。海賊には魔道師もいる。 一般人を集めての自警団でどこまでその海賊に相対できるのか、たかが知れている。それに恐れるべきは海賊だけではない。 レムテスト近辺には野盗の類も存在する。地の利を持つ陸の盗賊と、力と数、 移動力を持つ海の盗賊とが手を組んだりすれば、それは大きな脅威となる。
 しかし宮殿の貴族の中には海賊がそこまで入ってくるはずがないと考えたり、海賊の勢いを理解していない者も多い。 建国六百年、紛争というものが殆ど首都付近で起きることがなかったせいで、 平和ぼけのためか防衛に関する認識が甘い貴族が多いのも事実だった。
 首都に近い大都市で貿易が活発に行われるようになる事を考えれば、警備の神殿騎士を増員する事に賛成せざるを得ないはずだった。 ウェイリードは市民の命と拠点防衛の二つの意味から神殿の案に賛同し、 アイゼン家の持てるつてを使ってこうしてハバート商会のカーリア代表のマニと、 リッツバーグ商会レムテスト支部での代表補佐の地位にあるヨアヒムを呼んだのである。彼等との秘密裏の話合いはこれで三度目となる。 そして市長との会談は今夜であった。


 顔を洗い着替えると自室を出、客間となっている一階の部屋の扉を開けた。南国風に彩られた壁紙がすぐにも目に飛び込んでくるが、 いつ見ても派手で慣れないものだと密かに思いながらウェイリードは中へと入った。
「おはようさん、ウェイ。随分とぐっすりだったね。マニのおかげかな?」
 白い皮のソファに座る黒髪の男がそう茶化すと、
「昨日の私たち、激しく愛し合ったのよ。ねぇ、ウェイ?」
 マニは誘うように片目を瞑った。 それをため息でかわすとウェイリードは朝から卑猥な話題を振ってきた男の前のソファへと無造作に座った。
 ウェイリードの前に座っているの男は従兄であり、ビビの三番目の兄でもあるヨアヒム・ブランシールだった。 ビビに似た風貌で、どこか緊張感のない様相の男だ。アイゼン家の分家であるブランシール家の三男であるのだが、 わけあって十五の時に商人に弟子入りし、三十二の今現在リッツバーグ商会のレムテスト支部で責任ある仕事を任されている。
 彼が唯一のリッツバーグ商会への頼みの綱であるのだが、まだ良い返事はくれず、のらりくらりとかわされていた。 もちろんレムテスト支部代表の補佐の彼だけでは神殿の案に承認できないのも事実であったが。
「最後の譲歩案は読んでくれたか?」
「もちろん」
 ヨアヒムとマニは同時に答えた。
「……そちらに賛同して欲しいものだが?」
「少しは削ってくれたみたいね。でもねぇ、ここの街の人たちが駐在神殿騎士団員がこれ以上街に増えるのを嫌がってるのも事実なのよね。 神殿騎士を増やせばその分神殿への月々のお布施が増えるでしょう? あれ、馬鹿にならないのよねぇ。 それに今いる神殿騎士たちだって仕事を持て余している感じがひしひしと伝わってくるわ。 それなのにこれ以上増やしてどうするっていう市民の声もあるわけよね」
 マニはヨアヒムの座るソファの肘掛に軽く腰掛けて足を組むと、艶っぽい仕草でウェイリードを見つめてきた。
「……それは分かっている」
「だから自警団を組みたいっていうレムテスト市民の意思も汲んであげてね。自警団ならこの街の市民を使うし、安上がりでしょ」
「……自警団を組んで、もしそれに被害が出たら一体誰が責任を取るのだ?」
「市長じゃない?」
「市長が辞めれば済むような責任ならば誰も文句は言わない。神殿騎士ならば実害が出ても、 本人は元より家族への責任も全て神殿が持つ。その事を十分考慮してくれ」
「分かってるわよ。でもリッツバーグ商会のお上の人たちと市長は神殿へのお布施を嫌がってるのよねぇ」
 マニはヨアヒムを横目で見やったが、ヨアヒムは苦笑するだけで特に何も言わなかった。
 そんな二人のやり取りを見て、ウェイリードは苛立ちを抑えるように髪をかきあげた。
「……宮殿側の一定の貴族だろう。神殿のこれ以上の拡大をあまり良しとしていない者たちが、彼等に入れ知恵している」
「言いきるのは良くないぞ、ウェイ」
「そうよ。そうかもしれなくてもね」
 二人はまるで兄と姉のような口調で諌めてくる。
 分かっている癖に。ウェイリードは小さく舌打ちした。 アイゼン家は古くからの繋がりである事からハバート家との懇意を全く隠していないが、殆どの貴族は商人との繋がりを隠し、 商人の方も隠す。目の前の二人は自分たちの所属する商会がどの貴族と懇意にしているのかわかっていながら、 知らぬ存ぜぬと言った顔で話をかわすのだ。
――やはり私では【仕事】にならないか?
 二人のその雰囲気から、自分では説得要員としては不適格であったのかと思い始めた。 まず何よりも、二人は自分の幼い頃を知っていた。やり辛いといえば、――とんでもなくやり辛かった。
 だが、年齢や幼い頃という理由に甘えていれば何時まで経っても同等には扱っては貰えない。 【自分では駄目なのか?】と言い訳めいた気持ちをかなぐり捨てた。アイゼン家の代表として無様なことは出来ないと、 ウェイリードは気を引きしめる。
「それにしてもアイゼン家は大変ねぇ。神殿のお金集めに協力しなくちゃいけないなんて」
 マニは艶やかに光る唇に指で触れながら、少々意地悪く笑った。
 それが癇に障るも、ウェイリードは口に出かかった言葉を飲み込んだ。彼女がこちらを煽っていることは明白なのだ。 それに乗ってはいけないと自制し、静かに応えた。
「レムテストはある程度の自治を許された都市であることは確かだが、 レムテストがカーリアという国の一部であることを忘れてはいないか?  国の一部に国の中枢機関が文句をつけることはおかしな事ではないはずだ。アイゼン家はハバート、 リッツバーグ両商会に顔が利く。神殿から頼まれたことであるが、 アイゼン家としても被害が出た時の責任問題を考えてわざわざ口を挟んでいるだけだ。 それにあまり大袈裟にしたくないからこうして裏で話を進めているのだろう? 協議会でこの事を話しあっても良いが、 そうなれば市長は簡単にお払い箱だ。そして国にとって動かしやすい人間が市長に就任することだろう。 それに困るのは南イスラフルの商人たちではないのか? 最も、 貿易がこれから激しく行われるであろう場所の市長の独断を国が簡単に許すと思うのだとすれば、 それは南イスラフルの商人たちの思惑違いだ。――それとも、 レムテストで好き勝手したいが為にこうやって市長を動かすのが貴殿たち商人のもくろみか?」
 静かに、しかし淡々と皮肉を篭めて語るウェイリードの語り口にマニは眉をひそめた。
「そんなわけないでしょ」
 マニは肘掛より立ち上がり、両手を上げて降参といったポーズを取ってため息を吐いた。 図星ではあるが、それを認めたらカーリアとの貿易が危うくなるどころか迫害されかねないからだ。
「だいたい、海賊の脅威は私たちが一番知ってるわ。海賊にはほとほと困っているんだから。あの勢いは最近酷いもの。 何隻、船を沈められたことか……。それを知っているから自警団なんかじゃ守り切れないってわかっているわよ。 ハバートが文句あるのは金銭面の事だけよ。防衛に関しては金を出す事を約束しているし、 値切れるなら値切れるだけ算段するのが私たちなのよ。だからそんなに怖いこと言わないでよ」
「言わせたのはそちらだが? だいたい南イスラフルの商人は政治に首を突っ込むのが好きだろう?」
「まあね、確かに」
 マニは苦笑した。ハバート商会もリッツバーグ商会も南イスラフルの商人たちの集まりだ。 ヨアヒムは政治に興味はないようだが、リッツバーグのお偉方はカーリアの政治に興味があるようで、 裏で糸を引こうなどと画策しているのを稀に耳にするウェイリードは、他国人にカーリアを乗っ取られて良いものか、 と内心腹を立てていた。
「でも、まあ、何にしても。それだけ口が聞ければ大丈夫みたいね」
 マニはほっとしたように指先同士を合わせて苦笑した。
「正直、上手くいかないんじゃないかって不安だったんだけど、これだけ強気で言えるなら会談も大丈夫でしょうね」
「……試したのか?」
「怖い顔しないでよね。仕方ないでしょ? 貴方の事はすごく小さな頃から知ってるんだし。 滅茶苦茶な弟と従妹に引きずりまわされた挙句、何の悪さもしてないのに一緒に怒られていた流されっぱなしの坊やだったんだから、 貴方は。心配して当然でしょう?」
 マニの言葉に多少の語弊を感じたが、ウェイリードはわざわざそれを訂正しようとは思わなかった。
「取りあえずハバート商会の方はね、文句無しなのよ。海賊は本当に困り者だから、 神殿騎士団に海洋へ出てどうにかしてもらいたいぐらいだわ」
「朝から熱くなりすぎじゃない? きみたち」
 ヨアヒムは手近にあった南国育ちの橙色の果実を頬張り、呑気に鼻歌を歌い始めた。
「……お前が悠長なだけだ」
「そーよぉ。貴方だってリッツバーグの【お上】の一人なんだから、ちょっとはお仲間に口を聞いてくれてもいいんじゃない?」
 マニは尖った爪先をヨアヒムの頬へ突き付ける。
「あー、まあ、だからここにいるんだけど?」
 ヨアヒムはあいも変わらずのらりくらりとかわす。
 リッツバーグはハバートと違って政治の世界に顔を突っ込み過ぎているきらいがある。 彼一人でどうにか出来るものではないのだろうが、あまりのやる気のなさにマニは呆れていた。 しかしウェイリードはこの従兄が全く焦ることなく余裕である事に、少しだが明るい兆しがあるのではないかと推測していた。
 もしそれが思い違いであったとしても、アイゼン家と浅からぬ繋がりのある彼が出来る限りのことはしてくれているはずだと信じている。 だから彼の働きがどう影響していようと、あとは自分次第であるとウェイリードは思った。


「外の空気を吸ってくる」
 夕刻、ウェイリードはマニにそう伝えて外へと出た。夜の会談までにはまだ時間がある。少し頭を冷やそうと思ったのだ。
 屋敷を出ると、途端に首都よりもずっと強い潮風が一気に吹きつけてきて身体を冷やしてくる。 レムテストにはアリアラムから中型の船で北上してきた南イスラフルの人間たちが多く働いているが、 常に温暖な気候を保つ南イスラフル出身の人間にとってはこの寒さは堪えるだろうなと同情した。
 赤く夕焼けてきた日差しの中、ウェイリードは神殿により施工を中断させられている橋を見に、 なんとなく港の方へと足を向けた。神殿騎士増員を跳ね除けたことで神殿が持てる権力を行使し、 レムテストの橋の建設を一旦取りやめるよう勧告したのである。
 しかしその他の橋の建設は滞りなく行われており、 現在レムテストやや北のアリアバラス海峡が二股に別れ、そのうち東へ伸びて外洋へと流れつく支流(正確には支流ではない) 沿いの橋が数件建替え終わるのを待つのみとなっていた。
 レムテスト以北は当然貿易船を入れるつもりはなく、レムテストへ入ってきた貿易船を外洋へ戻す為に、 東へと下る支流の橋も作り直して通れるようにしているのである。ただし、この支流の末端は小国クラメンスの領地である為に、 南イスラフルの船のみこの支流を使うことを許可されていた。

 アイゼン家の邸宅はハバート商会の人間を迎える迎賓館の役割もある為に港近くに建っているので、 邸宅を出てすぐにも中型の船が留まる波止場へと着いた。やけに今日は船乗りたちが慌ただしく動いていているように思える。 会談の為にリッツバーグ商会のお偉方が視察にでもきているのかもしれない、――そう解釈して彼等を観察した。
 しばらくその様子を見ていると、視界の端に何となく見覚えのあるような見事な金髪の頭が、 働く男たちの間にひょこひょこと見え隠れしているように感じ、目を凝らした。不思議と心音が早まる。
 辺りは荷物を抱えた大男たちでごった返している。その流れの中に、ぽつりと小さな姿を完全に捉えた。 きょろきょろとよく動く緑の瞳と短めの金髪。ぶつかった人に丁寧に謝る腰の低いその様。間違え様にない。
「ラヴィン公」
 口からその名が漏れると、近くの桟橋を屈強な男たちに潰されそうになりながら歩いていたデュシアン・ラヴィンその人と目が合った。
「あ」
 彼女は桜色の唇を小さく開けて驚いたように瞳を丸くさせている。
「本当に会えた」
 彼女が呟いた言葉は船乗りたちの荷物を下ろす掛け声に消されそうになったが、辛うじてウェイリードの耳へと届いていた。
 その言葉が何故か彼の頭の中を白くさせたのだった。

(2004.8.20)

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