墓と薔薇

5章 流転する運命(2)

 巫女エレナの所在地モーリス村の場所を確認すると、デュシアンはすぐにも屋敷へと帰って旅支度を始めた。
 帰宅早々慌ただしく屋敷内を走りまわって物色を始めるデュシアンを不審に思ったのか、 廊下を走っている彼女をレセンとセオリアは引き止めた。その二人に対しデュシアンは、 まるで隣りの家へお使いに行くぐらいの軽さで『レムテストへちょっと行く用事が出来た』と伝えた。 二人に心配をかけたくないので目的地をレムテストと、選んだ道のりはウォーラズ―ル山脈とは口が裂けても言えないので、 ベイヘルン永遠平原を通ると嘘までつく。
 すると母は絶句し、レセンは驚いて開口したまま固まってしまった。 ちょうど、お茶を持ってデュシアンの部屋へと向かっていたイリヤも彼らから五歩ほど間を空けて足を止めると、 三人の親子の只ならぬ様子を見守っていた。
「ベイヘルン永遠平原までは馬で行くし、永遠平原を抜けたらすぐの街で馬車に乗るから――」
「まさか一人で行くとか言わないですよね?」
 レセンの口の左端が苛立ちと動揺でわずかに痙攣した。
「一人だよ」
「姉上!! ご自分の身を少しはお考え下さい!!」
 レセンの大声にデュシアンは耳を押さえて身を引いた。
「一人の方が楽だもの。ベイヘルンまでは街道沿いを行くし、ベイヘルンはまず犯罪が絶対起こらないでしょう?  平原を抜けたすぐの街からは馬車が定期的にレムテストまで出てるし。 それに乗るんだからこの旅のどこにも問題はないでしょう?」
「それならアリアバラス海峡を上ればいいではないですか。貿易商に頼めば極秘に南へいく船に乗せてくれるはずです。 船なら一日もあれば十分レムテストへ着くでしょう?」
「それはなりません」
 静かに姉弟のやり取りを見ていたイリヤは間に入り、三人の視線を受けたが怯まず続けた。
「アリアバラス海峡の流れは南から北。その流れに反して首都より南のレムテストへ向けて船で上れば確かに早いかもしれませんが、 それは海の精霊の確固たる意思に背く行為です。世界を構築する欠片の一部である精霊の意思と意図は、 自然の節理そのものなのですから。カーラ神の教えを全て守れとは言えませんが、魔法を使う者として、 精霊の恩恵を受けるカーリア人として、節度は持つべきです。また、 それがラヴィン家というカーラ神教の象徴となる家の主の務めでもあります。アデル様もそうお考えでした」
 この家に仕える者としてこれだけは譲れない、とイリヤは捲し立てるように語った。 それは誇りを持って仕える事の出来るラヴィン家はそうあるべきだとの彼の理想であり、またアデルの意思でもあった。
 ああ、彼の主人はきっと父アデルのままなのだ――、デュシアンはイリヤの様子を見てそう感じ、 少しだけ残念な気持ちになった。そういえば彼はまだ自分の事を《お嬢様》と呼ぶ。公女であった時と変わらない呼び名だ。 きっと頼りない自分を公爵としてまだ認めてくれていないのだなとため息を吐いた。
「イリヤの言う通りだよ。海峡の流れに反して海の精霊を怒らせるような船には乗れない」
 もともと精霊を大切にするように、 と父に教え込まれたデュシアンにはアリアバラスを逆流して船で行くなどという選択肢は頭にはなかった。
 魔道師として先輩であり、一目置いているイリヤに諭されて二の句もなかったのだろう、レセンはしぶしぶと頷いた。
「……わかりました、では僕がご一緒します」
「レセン」
「一人で行くなんて納得出来ません」
 絶対譲らない、といった強い意思を青玉の瞳に篭めて見つめてこられると、 デュシアンはどうしたら良いのかわからなくなってしまった。
 姉思いの弟とは知っている。だからこそその気持ちを無碍にも出来ない。デュシアンが返答に詰まっていると、 セオリアがレセンを手で制した。
「母上?」
「デュシアンがレムテストへ行くのは公務よ、遊びに行くのではありません。 護衛や目付けのつもりで付いて行くと言うのならそれは筋違いです。 就任したばかりの若い公爵が成人していない弟を連れて公務をしに行くなんて恥さらしもいいところです」
 今まで静かにやり取りを見ていたセオリアは、いつもよりもずっと落ちついた調子でレセンへときっぱりと言いきった。 母の援護は嬉しかったが、デュシアンには意外でならなかった。 この母が一番難色を示して『ラシェを呼べ』なんて騒ぎ立てるのではないか、と心配であったのだから。
「母上は心配ではないのですか?」
 浅はかな自分に気づいてばつが悪そうに視線を反らしながら、それでも諦めきれないのかレセンは食い下がった。
「心配に決っているでしょう? でもデュシアンが決めた事です。デュシアンは公爵なのですよ」
「ならばイリヤを連れて行けば――」
「イリヤはこの家を守ってもらうのだから無理だよ。ヴァシリーがいないのだから」
 デュシアンは首を横に振った。
「僕が――」
 レセンは何かを言いかけて、飲み込んだ。
「わかりました。お気をつけて」
 レセンはそう言うと、大股で急ぐように自室へと下がってしまった。扉を閉める音がいつもより大きく響く。
「怒っちゃったかな?」
 デュシアンは首を傾げて母を見た。
「大丈夫よ。反抗期、反抗期」
 なにか違うような気もしたが、デュシアンは取りあえず頷いた。 不満を飲み込むようなレセンの表情が気になったのだが今はそれを気にしている暇はない。 心の中で余裕のない姉である事を謝り、帰ってきたら一杯構ってやろうと決めて、今はレセンを放っておく事を自分に納得させた。
「それにしても、本当にベイヘルン永遠平原を通るのね?」
「はい」
 デュシアンは自分が出来る限りの余裕のある微笑みを見せた。
 セオリアは眉を僅かに寄せてじっとデュシアンを見つめると、はぁ、と深い息を吐いて首を振った。
「法皇御前試合さえ無ければラシェに一緒に行ってもらうのにね……。ラシェは強制参加だから」
「母様。大丈夫です。これも経験です」
「……ええ、確かに、そうね」
「じゃあ、用意を続けますね」
 デュシアンは母とイリヤへ微笑むと自室へ入ってしまった。
 その背を見送った後、セオリアは意見を伺うようにイリヤを見上げた。
「ベイヘルン経由ならば、レムテストまでお一人でも全く問題ありません」
 イリヤはセオリアを安心させるように告げるも、セオリアの眉根の小さな皺と不安が消えることはなかった。

 次の日の早朝、城下街のギルドへ行って公爵の権限を最大限利用すると予約無しに馬を借りるという荒業をやってのけた。 追い詰められると思いがけない程の度胸を見せる自分を、やや誇らしく感じる。ただし、追い詰められないといけないが。
 城壁まで馬の手綱を引いて歩くと、昼夜問わず騎士が待機する南門を抜けてから騎乗し、 ウォーラズ―ル山脈の麓にあるマルカレイス観測場へと向けて走らせた。
 馬に跨ったせいだろうか、不意に父と並走してよくバルバロッサ湿地帯の方へと遠出した記憶が甦る。 あの頃のようにいつでも隣りを走っていた父の姿はもう思い出の中に存在するだけとなってしまった。
――父様
 感傷に浸りそうな弱気な心を叱責するようにデュシアンは馬の腹を蹴って速度を上げた。

 厚い手袋をしていても手がかじかんでくる程冷たい風を切りながら、計画通りの夕暮れ時にマルカレイスへと到着した。
 マルカレイスはウォーラズ―ル山脈を見守る為に作られた小さな村であり、宿やギルド、 王立施設の観測所ぐらいしかない寂しい場所であった。
 馬を首都へ帰してもらえるようギルドで頼むとすぐに宿を取り、夕食を簡単に済ませて月が高く昇る前に眠りについた。

 早朝、徒歩で山の手前まで来た時、霞がかった山頂を見つめながらやはりベイヘルン永遠平原の道を行った方が良かったのではないか、 素直に金印を失った事を届け出て処遇を待つ方が良かったのではないか、との後悔が頭を駆け巡った。 だが弱虫な自分を変えたいという意思がその後悔を勝り、引き返すという選択肢を捨てたのだった。
 無謀とも思えるデュシアンの意思だが、一人旅故にそれを止める者はいなかった。

 ウォーラズ―ル山脈は西カーリアを南北に切り分けるように東西に長く伸びる標高の低い山脈で、 エルムドア帝国東からカーリアの領土を二分するアリアバラス海峡まで続く、魔物と竜の住処であった。
 しかし魔物が住むといってもここ数百年一度たりともこの山の魔物を退治しようなどという気風は起こらなかった。 何故なら、ここに住む魔物は山に住む野生の動物を捕食することで腹を満たしている為に、人里へ降りてくる事が殆どないからである。 そして人がここへ分け入って動物を狩る事によって魔物の餌が少なくなれば人里へ降りてくる可能性も出てくることから、 狩猟はもちろん禁止されていた。そうなると魔物が増えすぎる危険性があるようにも思えるが、 どうしたことか魔物の数が増えすぎると眠りの深い竜が目を醒まして魔物を一斉に捕食し始めるのである。
 そんな理由からこの山は、魔物の数が増えすぎず、また動物の数が減りすぎもせず、という絶妙な均衡を保ってきたのだ。
 このような奇妙な均衡を保つために、この山は人の手を入れずに自然のままあるのが一番良いのだ、 と昔から言い伝えられていた。またそれが自然の節理を慮るカーラ神の教えにも繋がる事であると信じられてきた。
 だが残念なことに竜の個体数が減少したのか、近年魔物の数が増えてきたことが観測所の研究で明らかになり、 このまま魔物が増え続ければ討伐隊を組んで山へと入る必要性も出てきていた。
 更には、山の洞窟などに鉱脈や鉱床があるとの学者の見解に、南方貿易で流出するばかりの銀貨を憂いた宮殿、 神殿両上層部が山の整地と洞窟の散策、資源の採掘を計画しているのも事実であった。 これはこの数百年で一度も行われなかった事である。
 魔物と竜の山と呼ばれたウォーラズ―ル山脈は変わりつつある――そう噂されていた。


「寒い……」
 太陽がやや西に傾きはじめた現在、デュシアンはごつごつとした地肌の、 あまり歩きやすいと思えない≪竜の道≫をひたすら歩いていた。
 ≪竜の道≫とは、この山脈の竜のなわばりの末端を示す場所で、竜自身が作りだした場所のことである。
 ここの竜は自分のなわばりを示す為に、なわばり最端となる場所に向けて口から火を噴出させ、 ぐるっと全てを焼き払う。そしてひとたび振り下ろされれば大地が唸るような太い尻尾で焼き払った場所を叩き、 地面をでこぼこにしてまわるのだ。こうして最端を作りだすことにより、 これより中へ侵入すれば容赦はしないという意思を示す。つまりはこの道は竜たちが他の動物たちへ向けた警戒の現われであるのだ。
 その竜が作り出した荒れた土地が南北両方の麓へとほぼ真っ直ぐに伸び、山脈を分断して道らしきものを形成して、 ウォーラズール以北と以南を結ぶ≪竜の道≫を作り出していた。
 竜を恐れる魔物は竜のなわばり近くには極力近寄らないので、魔物を恐れるデュシアンはそれを逆手に取ってこの道を選んで進んでいた。 それでも全く魔物に出会わないという事はなく、脅かし目的で姿を見せにきたり襲いかかってくる可能性は十分有る。 だから常に辺りを警戒しながら歩く必要があった。
 それでもデュシアンはやや緊張感に欠けた面持ちでくしゃみをすると、首元のマフラーをもう一度きっちりと隙間無く巻き直し、 手袋をはめた手で頬を擦った。
 調度その時、耳に何かが物凄い勢いで風を切って移動するような音が聞こえた。
「……何?」
 風を切る音がすぐ近くで聞こえると思った瞬間、頭のてっぺんを前方から後方へ急降下してきた何かが掠めて行った。 きっちり被っていたフードを外されて少々目立つ金の髪が露わになる。
 一体何が起きたのかと空を見上げ、デュシアンははっと息を飲んだ。
 足に鋭い爪を持った鳥よりも大きな魔物が数匹、嘴をカチカチと鳴らして騒ぎ立てて翼を広げ、 こちらへと急降下してくるのが見えたのだ。
 デュシアンはその場にいるのは危険と走り出した。≪煩い足音≫を嫌う竜をあまり刺激しないように今まで静かに歩いていたのだが、 こうなるとそうも言っていられなかった。
 一匹が物凄い勢いで横を掠めて行く。頭を庇うように上げた手に不意に痛みを覚えた。 二匹目の足の爪に引っ掻かれたのだ。
 まるでこちらの恐怖を煽って楽しんでいるようにぎりぎりのところを何度も掠めては上昇していく魔物に、 案の定デュシアンの心には怯えだけが占めた。
 走りながら引っ掻かれた手を見てみると、黒い革手袋が三本の爪痕にそって裂け、赤いものが見えた。 引き攣った悲鳴が喉からもれる。
 それをきちんと確認すると気持ちがすくんでしまいそうな気がしたので、視線を前へと向けてとにかく走った。
――ええと、ええと、ま、ま、魔法、魔法、光の、目くらましの……
 目くらましの魔法を使って逃げる事を思いついたのだが、走りながら自分の中に滞留する魔力を外へと流し、 その波長を光の精霊と同調させるのには実践経験皆無のデュシアンには無理があった。息も上がって集中力が低下し、 その上いつまでたっても魔法が作りだされない状況に対して焦りだけが募り、どんどん気持ちが追い込まれていた。悪循環だ。
 するとまた魔物の爪が腕を掠めてマントが裂けた。声にならない悲鳴が喉を絞るように上がる。
 その時、すぐ左手に木々の生えた山道が広がっていることを思い出した。冬なので葉は殆ど生い茂っていないが、 長く伸びた枝が少しでも魔物の視界と飛行の妨げにはなるはずだ――そう判断すると、 デュシアンは右へと少し反れて伸びる≪竜の道≫から外れて山道へと逃げ込んだ。
 木々の間を抜けるように突き進み、 これで飛んでいる魔物からは開けた場所から見るよりもこちらの位置が掴みにくくなるだろうと少しだけ安堵し、 自分が短絡的な行動を取ったことになど気づきもしなかった。≪竜の道≫から反れることは竜の脅威を借りることが出来なくなる、 ということ。 つまりは魔物が生活するであろう空間に足を踏み入れた事と同義であるのだ。
 魔物に追いかけられて冷静さを欠き、このような魔物の≪狩り≫にデュシアンはまんまと引っ掛かってしまったのである。
 しかし空の魔物たちは幾重にも伸びた長い枝で自分たちの翼を傷つける事は不本意なのか、 様子を見るように上空を旋回し、ガラガラと耳煩い鳴き声を上げているだけで地上へは降りてはこなかった。 それにほっと安心しているのも束の間、もつれそうになりながら走るその足をぴたりと止めた。
「あ……」
 はるか前方に狼のような体型の、鋭い牙を持った大型の黒い獣が三匹、耳と尻尾を立ててじっとこちらを伺っていたのが見えたのだ。 大方、空を飛ぶ魔物たちの鳴き声に誘われてきたのだろう。
 このまま真っ直ぐ走り続ければあの三匹の懐に飛び込む事となる。デュシアンは慌てて右に折れて進路を変えた。 その時視界の隅に、黒い獣の魔物たちが地を蹴ってこちらへと一直線に駆けて来るのが映り込んだ。 獣の俊敏な足音が序々に大きくなっていくに連れて、心臓の鼓動も早くなっていく。
 空にはまるで「ここに獲物がいる」と仲間たちに教えるように悲鳴のような声をあげて大きく旋回している魔物が。
 地上にはどんどん距離を縮めてくる、涎の垂れた牙を剥き出しにした魔物が。
 どちらもがデュシアンを狙っていた。
――助けて……!!
 誰に請うわけでもなく助けを求めながら、魔法を作り出そうと辺りの精霊に同調させる為に魔力を垂れ流しにする。 しかしやはり冷静ではない状態では精霊と同調するのは不可能で魔法は何一つ発動しなかった。
 足音がどんどん大きくなる。魔物の息遣いが聞こえる。
―――怖い!! 父様助けて……
 自分をいつも助けてくれる存在であった父を思い浮かべながら、胸元のアミュレットに服の上から触れた。 不安があるとここを触れるのはデュシアンの癖だった。

『落ちつきなさい』

 不意に父の言葉が耳に響いた気がして、頭に昇った血が少しだけ引いたような気がした。
――そうだ、落ちつかなきゃ魔法なんて使えない
 魔法を使うには自分の魔力の流れと波長を制御する必要がある。それには精神的に落ちつかなければならない。 走っていては余程の鍛錬した者でもない限り魔法なんて使えるはずがなかった。
 後ろから追いかけてくる魔物の足は明らかに自分よりも早い。そして彼等は自分を諦めてくれるようには思えなかった。 いつかは掴まるのだ。
 逃げれば必ず逃げきれるなんて甘い考えは通らない。
――誰もいないんだ、自分を助けれるのは自分だけなんだ。逃げても状況は改善されない。 立ち向かわなくちゃいけないんだ!!
 魔物がいるとわかって山に入ったのだ。魔物と遭遇する可能性が高いと知っていた。
 知っていたくせに、いざ遭遇したら立ち向かわずに背を向けて逃げるのか?
 また、逃げるの?
――逃げない。逃げれない。自分しかいない
 デュシアンは自問自答して心を決めると足を止めた。そして魔物へと振りかえる。
 魔法の手解きをしてくれた父は何と言っていたか? 胸のアミュレットに触れて思い出す。

『まず目を閉じて大きく息を吐き出してごらん』

 瞳を閉じて大きく深呼吸する。

『それから傍にいる精霊に呼びかける。すると精霊には声が届くのだよ』

――大地の精霊……、お願い、わたしに力を貸して

『精霊も力を貸そうと、波長を合わせるのをちょっとだけ手伝ってくれるんだ』

『さあ、精霊はすぐ傍まで来ているよ。彼らの存在を感じながら魔力の波長を合わせるんだ』

 記憶の中の父の言葉に合わせてデュシアンは五感を澄ませ、自然に溶け込むような感覚に陥った。
 土と草と花の匂いが鼻をかすめ、地鳴りが耳に響いた気がする。「ここにいる」と精霊が存在を主張しているかのようにも感じた。
――貴方たちの力を貸して欲しいの
 デュシアンは静かに魔力を流し始めた。その波長がすぐにも大地の精霊と同じ波長を示し始めたと思った瞬間、 胸元を強く押されて背中を地面に叩きつけられた。魔物の一匹に飛びかかられたのだ。
 驚いて瞳を開ければ大きく剥かれた涎の滴る牙が視界に大きく映り込む。胸元に乗っかかる鋭い爪をもった前足に力が篭もり、 鋭い痛みが胸元を襲う。
 顎が下りてきて、喉元を噛み切られる――そう思った瞬間、 辺りに生えていた蔦がまるで意思があるかのように互いの身を絡ませて太い綱のようになると、 魔物の首を絞めつけてデュシアンの上から黒い巨体を引きずり落ろした。
 デュシアンは慌てて体を起こし、他の二匹も身体中に蔦が巻き付き身動きが取れなくなっているのを確認する。
「魔法……、できた」
 喜ぶのも束の間、ばさばさと翼が羽ばたく音が聞こえてはっとした。空の魔物の方へと視線をやると、 葉のない枝が幾重にも交差し、まるで鳥籠のように空の魔物を捉えているのが見え、大きく息を吐いた。
 ぐるるるるる。
 目の前の三匹の喉元から恨めしそうな唸り声が聞こえて視線を落とす。
「……ごめんね」
 デュシアンはそっと胸元のアミュレットを握り締め、魔力の波長を変化させる為に集中した。 すぐにも強い光がデュシアンの指先から放たれて、魔物へと断続的に光を浴びせ続け、 地の魔物と空の魔物の両方を気絶させることに成功した。
 力なく倒れこんでいる地の魔物を見て哀れみを感じたが、食べられるわけにもいかないよね、とデュシアンは呑気にそう思った。
 そして彼等が目を覚ます前に距離を稼ぐ為に歩きだした。
 運が良い事に≪竜の道≫がすぐ前方に見える。そこまで走って出ると、ほっと安堵の息を吐いて下山を続けた。
 デュシアンの心には、一人で魔物を相手にすることが出来た誇らしさが漲っていた。 そう誇ることで、魔物と相対した恐怖で泣きそうになる気持ちを必死に押さえ込んでいたのだ。
 すがるようにアミュレットを服の上から握って、その手が震えの為にあまり力が入らない事には気づかないふりをした。


(2004.8.13)

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