墓と薔薇

5章 流転する運命(1)

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 アリューシャラはフェイム=カースが人間と共存していた事でこのような事が引き起こされたと理解し、 これ以上神々が人間と触れ合うことを危惧した。
 その為に人間たちに結界と移動魔法陣を授け、それを子々孫々まで人間だけで維持して行くことを約束させたのである。
 そして女神アリューシャラはフェイム=カースとの戦いにおいて力を消耗した主神の代わりに、 フェイム=カースの血により汚染された空気を樹木の力を増幅させる事によって浄化させた。
 果たして、北の大地の森は死滅し、かの地が永遠に植物の生えることのない死の大地となった代わりに、 世界へ瘴気の蔓延は防がれたのであった。



「女神アリューシャラ、か」
 ぱたんと閉じられた本の風がデュシアンの前髪をふわり、と持ち上げた。
 執務机に本を預けると、椅子の背もたれに寄りかかってため息を一つ零す。
 聖典を開いたのは数度目だが、きちんと神話の一節を読みきったのはこれが初めてであった。 先ほどの議会でダリル将軍やビアシーニ枢機卿が話していた内容や、 ウェイリード公子の語ってくれた事があまりうまく飲み込めなかったので、聖典を少し読んでみたのだ。
――樹木の神様で、人間へと慈悲深さを見せるけれど、主神が人間に干渉するのを好まなかった神様……か
 そういえば悪神に名前があったんだなぁ、と呟いた。今まで見てきた本――といっても幼い頃に眺めていた絵本であるが、 それには≪魔王≫とか≪悪神≫としか記されていなかった。固有名詞を見たのは初めてである。 だが不吉な名前な感じがして早く忘れたい、と身震いが起きた。

「それで、樹木の精霊」
 精霊はそこら中いろんな場所に漂っている。常に同じ経路を巡回しているものもいれば、一定の場所から一切動かないものもいる。 また、いつも動きまわって世界中を適当にまわっているものなど、 その動きはてんでバラバラだ。
 樹木の精霊はその名の通り、樹木の成長を守る精霊であり、妖精に近い部類の彼等は大抵は樹木がある場所から動かない事が多い。 その樹木の精霊が自分の傍に常に漂っている、というのである。
 もちろんデュシアンは精霊が傍にいるなんて全く知りもしなかった。それも当然で、精霊は普通目にすることは出来ない。 精霊を見るには、精霊との契約時にたまに与えられる≪精霊の冠≫を≪眼≫に宿す必要がある。 しかし精霊との契約は大きな危険を伴うものである為に、カーリアでは契約自体を禁止されている。 なのでカーリアにはその≪眼≫を持つ者は極少数と言われている。
――つまり、そのアリューシャラ様の眷属の樹木の精霊を連れているわたしを悪神は嫌って、最後の力を振り絞った――、 とダリル将軍は言ってたんだよね? それで、わたしが倒れたって事を殆どの人が納得してくれたけど……
 臆測ではあるが、自分への疑惑がまた浮上したことをデュシアンは悟っていた。樹木の精霊を連れているぐらいで悪神が牙を剥くだろうか、 と考えるのは自分だけではないはずだ。
 それにダリル将軍には視察に失敗をしたことを話している。それら疑惑を感じた人と、 ダリル将軍へ与えてしまった≪駄目な公爵≫像をなんとか拭う必要があると感じた。 といってもデュシアンにはそれを拭えるような策は何も無かったが。
「でも――、助けてくれたし」
 ダリル将軍が本当に駄目だと思ったのなら爵位を辞退するに等しい失態を庇うはずもない、との光明もあった。 彼の将軍の考えている事はデュシアンには分からないが、まだ庇いがいはあると判断してくれたのかもしれない。 若しくは捜査に積極的に協力したからかもしれないが――、 多分こちらの説が正しいのだろう。自分には庇いがいのある公爵としての能力は皆無だとデュシアンは理解していた。
 そんな事を考えているうちに自分の情けなさに悲しくなってきてしまい、 デュシアンは自分の仕事をこなす事で考えても仕方ないことを忘れようと試みた。 第一ダリル将軍にそんな事をいちいち尋ねるわけにもいかない。
――今公爵をしているのはわたしなんだ。他の誰でもない、わたしだ。しっかりしろ、デュシアン
 両の頬っぺたを意味無く引っ張る事で微妙な気合を入れた。
「まずは、レムテスト」
 議会が終わってこの執務室へと帰って来た理由は一番にレムテストの資料を読むためであった。 少々ほったらかしにし過ぎて今日も議題に乗り遅れたのだ。
 レムテストの書類はこの間ロザリーに貰ったままずっと放っていたので、久しぶりに机の三段目の引き出しから取り出した。 すると手が滑って、束の一番上の紙が床に落ちてしまう。
 椅子から降りずに身体を曲げて拾ってみると、それは防衛協議会の契約書兼更新書だった。
 防衛協議会出席者は半年に一度、議席を継続するか否かの契約書類への署名を要求される。 ここで次の世代に席を渡す者はその旨を記載したりするのであるが、 デュシアンの場合は《北の公》である為に議席は常に用意されたものであるので、サインをして印を押すだけであった。
――忘れないうちにさっさと提出しちゃおう
 確かロザリーは、この書類にはいつもの小さな印ではなく大きな金印で押すよう言っていた。 それを取り出そうと机の一番上の引き出しを開ける。するとデュシアンのその大きな緑の瞳がさらに大きく丸くなった。
「あれ?」
 金印はここにあったはずである。あの印は覆す事の出来ない重大な意図が込められると認識される印であり、 とても大切なものだからどこに保管してあるかしっかりと憶えていたはずだった。
 他の引きだしを覗いてみるがやはりその姿は見つからない。椅子を蹴飛ばして腰を屈めて全部の引き出しをきちんと調べる。 それから隣りの書類棚も調べる。
 けれども。
「ない」
 不安というよりも、悪寒を感じた。
「……もしかして――」
 この数ヶ月の間、公爵となる時に押した後あの金印を使うことは一度としてなかったし、その必要もなかった。 何故なら余程の公式な書類以外は小さな印で済んだからだ。 だから使わなくても良かった。良かったせいで気づかなかったのだ。
「……金印も、盗まれてた」
 背筋に冷たいものが走る。
「ど、ど、どうしよう……」
 書類とは違う、こればかりはどうにもならない。ウェイリード公子に見せてもらった書類とは違って金印は唯一無二のものなのだから。
 あれは正式書類のラヴィン家の総意を表すもので、何かに使われては大変な事態になる。 大人しく紛失した事を届けた方がいいのか、それとも――。
――これ以上の過失は命取り……
「……人事院」
 来月末までにはまだ時間がある。
 自分で犯人を突きとめた方が体裁は良いように思えた。交渉次第では金印を返してくれる可能性だって在り得る。 表沙汰にしないで済む可能性がある。
 思ったら吉日。デュシアンは部屋を出ると宮殿へと急いだ。
 この部屋へと掃除に入った巫女《エレナ》の所在を求めて。


 宮殿の西棟の二階に人事院はあった。
 人事院はその名前から連想するほど人はおらず、ひんやりとした冷たい風が漂う乾いた空気の部屋だった。 紙ばかりが保管されている場所であるから少々薄暗く、働く者は皆カウンターの向こう側におり、 彼等の仕事机の奥には膨大な量の棚が立ち並び、霞みがかって最奥までは見渡せそうにない。 ここには宮殿神殿双方まとめて総称する【城】で働く人々の詳細な経歴が置かれている。
「エレナ、という名前の巫女ですか? 最近故郷に帰った巫女、ですね?」
「はい、そうです」
 就業時間ぎりぎりの夕刻に人事院へ入り込んだ為に、くたびれた感のあるシャツを着た職員に少し嫌な顔をされたが、 デュシアンにはそれを気にする余裕は持ち合わせていなかった。
「失礼ですが、身分証明はお持ちですか? 人を探す、という行為はともすれば犯罪に繋がります。 貴方がどういった人物であるのかわからなければ……」
「え、と。これでいいですか?」
 デュシアンは腰からラヴィン家の紋章の刻まれた皮製の身分証明書を取り出して提示した。
 職員の男は眼鏡を動かしていたその手を止めてその身分証とデュシアンを交互に見て青ざめ、 斜に構えていた姿勢を慌てて正した。
「し、失礼致しました、ラヴィン公爵閣下」
 丁寧にお辞儀をされたので、デュシアンの方も慌てて居住まいを正した。
 彼の隣りで書類を整理していた男性の職員も彼の声に驚いて、デュシアンの身分証へと目を落として、 こちらを繁々と観察してきた。奥で作業をしている者たちもちらちらとこちらを見てくる。その視線が痛い。
「あの、これで教えていただけるのでしょうか?」
 カウンターに手をつけて、申し訳なさそうに伺い見た。すると彼はぶんぶんと音がしそうな程首を立てに振る。
「も、もちろんです」
 ずれた眼鏡を直しながらそう応える。
「ですが一応決り事ですのでお聞き致しますが、エレナという巫女の所在を知ってどうなされるおつもりなのでしょうか?」
「――え、と。ちょっと聞かなければならない事があるんです」
「もしやお仕事上のことでしょうか? それならば詳しくお話頂かなくても結構です」
「いいのですか?」
「我々に守秘義務があるように、責務がある方々もおられます。例えば騎士団の方なんかがこられれば、 我々は無条件でお教えしなければなりません。閣下のようなご身分の方も然りです」
「……騎士団の方はわかりますが、身分で無条件っておかしくないでしょうか?」
 デュシアンが首を傾げると、職員の男は目を丸くさせた。そして隣りで仕事をしていた男と顔を見合わせる。
「公爵だって犯罪は犯すと思いますけど……」
 その為の円卓騎士団ではないのかな、とデュシアンは心の中で続けた。円卓騎士団の仕事の中に、 貴族の犯罪の摘発が入っていたことを憶えているからだ。
「……そうですね。ですが、私たちにはどうにも出来ない事なのですよ。お若き公爵閣下」
 職員の男性はにこり、と笑みを見せてくれた。
「……そうなんですか。すみません、変な事を言ってしまって――」
 見るからにしょんぼりとしてしまった公爵というにはあまりに幼いデュシアンに、職員は隣りの同僚と笑みをかわしていた。 それから彼は奥の職員から何か紙切れを受け取ってそれを確認すると、デュシアンへと提示した。
「閣下、これがエレナ・ルインスキーの所在地です」
「あ」
 デュシアンはその紙切れへと視線を移した。
「貴方のように考えてくださる方がいるだけで私たちも仕事のやりがいがあるというものです。 どうぞそのお心をお忘れ下さいませんよう」
「ありがとうございます」
 デュシアンは頭を下げて微笑んだ。紙きれを受け取ると、小鹿が跳ねるような足取りで駆けて行く。
 その背を、カウンター奥からたくさんの目が追っていたことをデュシアンは知らない。



「モーリスの村」
 執務室へと戻り、机の上に地図を広げて≪モーリス≫という綴りを探す。そこが探し人エレナ・ルインスキーの故郷だからだ。
 しばらく地図とにらめっこしてから、首都から南にその名前の村を確認した。
――どうやって行こう
 首都より南は、道を探すのに一番困難な場所だった。まず首都より南へ行くにはウォーラズ―ル山脈か、 ベイヘルン永遠平原と呼ばれる二つの地域のどちらかを越える必要がある。
 ウォーラズ―ル山脈は隣国エルムドア帝国の領地から、カーリアの国土を二分するアリアバラス海峡まで伸びている東西に長い山脈で、 標高はあまり高くはないのだが、魔物が住んでいる。 また、ここにあるいくつかの洞窟には竜が住んでいるらしく、 ひとたび怒らせれば辺りは一瞬にして草木も生えぬ土地となると言われている。 こちらを通ればモーリスの村まで長くとも四日もあれば十分着く事だろう。
 一方のベイヘルン永遠平原は遥か昔に森だった場所だが、一夜の火災によりその全てを焼失し、 それを愁いた多くの精霊や妖精の怨念によって迷える森となっていた。実際には木など一本も生えなていない平原であるはずなのだが、 彼らが作りだす迷宮魔法と精神魔法と永遠に戻ることのない美しかった森への思慕が、 人には森にと体感させられる場所を作り出しているのである。 また迷宮魔法もあるので、この森へを抜け出すのに二日から六日かかってしまうのだ。
 普通首都より南下する場合は、精霊と妖精たちに見守られたこのベイヘルン永遠平原を通る道のりを選ぶ。 精霊や妖精は入り込む人間に悪戯はするが、この中での諍いや犯罪は決して許さない。だから安心してこの道を進む事が出来るのだ。
 だが如何せん外へと出れる時間がまちまちで、一番長いと通り抜けるのに六日もかかってしまう。 その上ベイヘルン永遠平原まで行くにはまずアリアバラス海峡を渡り、馬車でまる一日。 平原を抜け出てもモーリスまで行くには有に三日はかかる。行きだけで最大十日も消費してしまうのだ。
――運が悪ければ往復で最大二十日。時間がかかり過ぎる
 書類の提出日は来月の末日。あと三十日もない。
 デュシアンはウォーラズ―ル山脈を通る道を選ばざるを得なかった。 モーリスに行ってすぐにエレナが自分へと話してくれるとは限らない。もしかしたら説得の為に通いつめる必要があるかもしれないからだ。 その分の時間を考えると、どうしても移動に時間をかけたくなかった。
 ウォーラズ―ルを通れば四日でモーリスへと着く。こちらなら時間に余裕がある。もちろん不安要素はこちらのほうが多いのだが。
 竜はテリトリーに入らなければ決して襲ってくるような生き物ではないが、問題は魔物である。 自分には魔物を退散させるだけの力があるかどうかなんてわからない。いや、むしろ無いと言ってもいい。
「ラシェに一緒に……」
 魔物を退散させる術を持つ従兄を思い浮かべるが、彼は来月初めに迫った≪法皇御前試合≫に出場する。 「面倒くさい」と言いながらもどこか楽しみにしている節もあるし、それに彼の強さは神殿にとっても誉れであることから、 出場はほぼ義務化されている。その彼に付いてきて欲しいとは言えない。
 それに金印をも奪われていた事を話したら彼がどんな反応をかえしてくれるのかと思うだけで気分が重かった。 いくら最近優しくなったとはいえ、こればかりは罵倒されるに違いない。
「イリヤは……」
 若執事だとてラシェほど強くはないが、ラヴィン家の警備を担当している。侵入者を倒すことぐらい朝飯前であるから、 並大抵の魔物なら相手に出来るはずだ。
 しかし、ラヴィン家で雇っている本来の私設警備員である魔道師ヴァシリーはただ今遺跡廻りの最中で、 イリヤを連れて行ってしまったら屋敷の人間たちを守ることができる人員がいなくなってしまうのだ。 イリヤを連れて行ってしまった場合はラシェに泊まり込んでもらう事も出来なくも無いが、彼は殊更ラヴィン家へ泊まるのを嫌がる。 理由はわからないが、よく屋敷には足を運んでくれるくせに泊まろうとはしないのである。
 それに彼は迫った≪法皇御前試合≫の為に寸暇を惜しんで集中力を高める修行をしているらしいから、警備など頼めはしない。
 そんな理由から信頼のおけるその二人を連れ歩くことは不可能だった。
 街に行けば腕自慢の護衛を雇う事も可能だが、 公爵たる身分の自分が身元の怪しい護衛を雇うという事がどれだけ大きな危険を伴うのかを考えると頭が痛くなる。 とても見ず知らずの者を雇う気にはなれない。
 だとすると、一人で行くしかないのだ。
――永遠平原を通ってたら時間が足りないもの……。仕方ないよね
 一人でウォーラズ―ル山脈を越えるのは怖い。けれども、どうすることも出来ないのだから腹をくくるしかなかった。 それにラシェに宣言した通り、もう少し頑張りたかった。
――わたしだって目くらましの魔法とか、足止め出来るような魔法とか、使えるもん
 強い光を作り出す事によって相手の視界を短い間だが奪ったり、草木を使って足止めするような魔法はいくつか父から習っていた。 だから魔物が出ても、なんとかなるだろう。
――なんとかなるようにしてみせる
 自分を奮いだたせる事で不安や恐れを追い払った。追い払わないと、どうしても落ちつかないからだ。
 それから地図へと目を落とし、念入りに道のりの確認をした。
「えーと、まず麓の街まで馬で行って、休んで、朝早く山に登ればレムテストに夕方までには着くよね。 それで、一眠りしたら、モーリス……」
 デュシアンは山脈より南、モーリスの村より北西にあるアリアバラス海峡に面した街レムテストへと目をやった。
 レムテスト。
 すぐにとんぼ返りか? とカラナス侯爵が≪彼≫に聞いていたのを思い出す。
 話を断片的に聞いていた限りでは、彼はこのレムテストで商人たちと会っているらしい。 そして議会が終わった後すぐにでも戻ると言っていた。
 ≪彼≫がレムテストにいるかもしれない。
「会えるといいな」
 なんとなくそう思って呟いたが、特別深い意味を篭めて言ったわけではなかった。
 ただ、同じ場所にいるのなら、会えるといいのだけれど。
 そんな淡い期待から零れた言葉だった……。


(2004.8.5)

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