そこは木造作りの一軒家だった。
桃色と白を基調としたその一室は、開け放たれた窓から庭に咲く春の草花の匂いがふんわりと香り、
風に揺れるカーテン越しに陽光がちらちらと零れて窓辺を照らしていた。
室内のところどころに手作りと思われるぬいぐるみや、作りがけの淡い色彩のキルトなどが置かれており、
その暖かい雰囲気から小さな子どものいる家と一目で分かる。
そんな家の主である椅子に座る女性は、書き物の手を止めて深くため息を吐くと眉間を押さえた。
やっと午前の診療が終わったからだ。
肩がこったのか軽く首を回す。ひっつめていた髪の紐を解いてその波うつ黄金の髪を手で梳けば、
やんわりと吹き抜ける風が肩から髪を掬ってなびかせた。女性はその風の心地よさに瞳を閉じて静かに身を任せる。
温暖な風により軽い眠気に襲われた時、少し空いている扉の隙間からすすり泣く声が聞こえたような気がして、
彼女ははっと灰青色の瞳を見開いた。
隣りの部屋には娘がいる。女性は青ざめて転げそうになりながら椅子より立ちあがった。
奥の部屋の扉を勢い良く開ければ、
鏡台の下でうずくまっている幼子が大粒の涙を零しながら布で床を懸命に拭いている姿が眼に飛び込んできた。
「どうしたの?」
三歳になったばかりの自分の娘へと慌てて駆けよると跪いた。娘は母の顔を認めると、みるみる表情を歪め、
布巾から手を離して母へと精一杯手を伸ばしてきた。
「ごめん、なあい……」
泣きながら手を伸ばし、拙い言葉で許しを請う娘をどうして突き放すことが出来るだろうか。
女性は娘を抱き上げすとしっかりと抱きしめてやった。子ども特有の高い体温は泣いているせいで一層高くなっているように感じる。
娘が泣いていた鏡台の辺りへちらりと視線を向けると、置いてあった薔薇の香水の瓶が蓋が開いたまま倒れているのが確認できた。
それを見て、娘がそれを取ろうとして誤って零してしまった事を瞬時に悟った。拭いていたのはきっと零してしまったその香水だろう。
自分で悪い事をしたと認識しているらしく、感情を爆発させたように娘は泣き咽ている。
こんな悪いことをした自分は母に捨てられるのではないか、嫌われるのではないかと心配で、その小さな胸を痛めていたのだろう。
根気強くあやしていると、しばらくして娘は鼻を啜ってしゃくりあげながらも息を整えようとし始めた。
落ちつきをみせたので、女性は娘の顔を覗きこんだ。
娘は目を真っ赤にさせて大粒の涙を目じりに溜めてこちらをじっと見つめていた。鼻もほっぺたも赤い。
「ごめん、なあい」
拙い言葉で必死に謝るその姿はとても痛ましく、女性は娘をもう一度しっかりと抱きしめた。
小さなその手が母から許しを請おうと、いや、捨てられたくないという気持ちで、必死にしがみついてくる。
その手をとても愛おしく感じる。
女性は、伺い見るように緑の瞳をこちらへと向けてくる娘の前髪をかきあげてそこに一つキスを落として頬擦りをした。
娘はくすぐったそうに鼻を鳴らす。
「あの匂い、好きだったもんね」
「うん。ママのにおい。ママのにおいね、ほしかったの」
その言葉にきゅう、と胸が絞め付けられる思いがした。
仕事のせいで娘を一人寂しい思いにさせてしまっていたのだろう、女性は唇をわずかに噛んだ。
あの香水はいつも自分が身に付けているものだ。娘にとっては母の匂いに等しい。
母恋しさに、手を伸ばさずにはいられなかったのだろう。
「ごめんなあい、ママのこぼしちゃった……」
「そうね。でも濡れちゃったところを自分で拭こうとしたのね。偉いわ」
柔らかい前髪をそっと撫でてやる。
自分で零したものをきちんと自分で拭こうとした娘の意思が、彼女にはとても嬉しかったのだ。
「うん」
娘はもっと怒られると思っていたのだろう。母に偉い、と言われて驚いているようだった。
しばらく顎を身体にくっつけて何やら考えている風体だったが、顔を上げて得意げに微笑んだ。
そしていつものように拙いながらも饒舌に喋り出したので、女性は微笑みを零した。
「あのね。おにわのばらさんたちにもね、においあげようとおもったの」
「お庭の薔薇さんに?」
「おんなじばらでもね、においちがうの」
「違うの?」
「うん。ママのがいいにおいなの」
ぎゅうう、と服を掴むその小さな手のひらに力を篭め、顔を母の胸へ埋めた。そんな娘の存在が尊くて、
彼女は娘の頭のてっぺんに口付けた。
「そうだ」
女性は娘を一旦椅子に預け、自分の首にかかっていたものを外して紐を少し調節し、娘の首へとかけてやった。
その紐の先には親指ぐらいの大きさの袋が付いている。
「匂い袋よ。ママと同じ匂いするでしょう?」
腰を落として視線を同じにする。
娘は小さな手で袋を持ち上げ、鼻まで持って行くと、ぱっと輝くお日様のような笑顔を見せた。
「ママとおんなじにおい」
「そうよ。ママと、デュシアンの匂い」
「ママとデュシのにおい!」
娘の顔が満面の笑みとなった。
雲の後ろに隠れていた太陽が顔を出したようだ、と心に晴れやかな気持ちが膨んで、女性は満足げに微笑んだ。
娘は泣いていたことなんてもう忘れてしまったかのようにニコニコと笑って匂い袋を鼻に押しつけている。
やっぱり可愛い娘には笑っていて欲しい。彼女はそう思いながら、機嫌の良い娘を抱き上げた。
「さ。お昼にしよっか」
「うん!」
泣いたせいもあって甘えん坊になっている娘を抱いたまま、女性はキッチンへと歩きはじめた。
娘もいつもなら自分で歩くと主張するのだが、今日はまだまだ甘えたりないらしく母の服をしっかりと握り締めて抱きついている。
今日は母親である彼女の方も、娘を甘やかしたい気分だった。といっても、宝物のような娘にはいつも自分は甘い気がしたが。
そんな自分をしょうがないなと思いながら、女性は娘の話に耳を傾けていた。
娘は彼女にとって、何にも変えがたい宝物だった。
その宝物である娘がいつまでも輝いてくれることが彼女の願いだった。
そして、娘との穏やかな日常が永遠に続く事が、彼女ラトアンゼの祈りだった。
それは遠い日の情景。
これから起こる悲劇など微塵たりとも知る由もない、たった二人の母子の幸せな日常の欠片。
無情なる炎が二人を別つまで、それはまるで永遠であるかのように続いた……。
(2004.8.1)
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