墓と薔薇

4章 はじまりの一輪(6)

 防衛協議会の開かれる部屋のドアの前でばったりと出会った相手は、にっこりと微笑む少々童顔の優男。 クラヴァットの巻き方や宝石のついた金のタイピンが洗練された印象を与えてくる。
 好意的な笑みを向けてくるのだが、デュシアンはこの身奇麗な男が少々苦手だった。 円卓騎士が苦手なのとは少しかってが違う苦手さ、であったが。
「ラヴィン公、お身体の具合の方はもう宜しいのですか?」
 そう言ってドアを開けて通してくれたその優男は、 神殿の枢機卿職を世襲制で継承するビアシーニ家現当主アウグスト・ビアシーニ侯爵。三十代前半という若い年齢ながら、 枢機卿として神殿中の尊敬を集め、聖典の教えをよく守る純信者にとって象徴的な存在であり、 また指導者的な役割をも担っているカリスマ性のある者である。
 体調を尋ねられた事でお見舞い品の中にビアシーニ枢機卿から美しい花が届けられていた事を思い出し、 デュシアンは少々慌ててしまった。
「もうすっかり良くなりました。ビアシーニ枢機卿、お花をありがとうございました。礼もせず、申し訳ありません」
 顔が引きつらないか心配しながら微笑んで礼をした。これから起こり得る事態に緊張しているせいか心に余裕がなく、 うまく取り繕えないのだ。
 しかしビアシーニ枢機卿はそんなデュシアンの心中になど全く知るはずも無く、微笑みを絶やさなかった。
「いえいえ。貴方に似合う花を選ぶのは存外楽しかったのですよ。また贈らせて下さい」
「は、はあ……」
 デュシアンは気の抜けたような返事をしてしまった。 もう一度にっこりとした笑みをみせてから自席へと歩き去る枢機卿の背を眺めながら、 社交辞令への上手い返事が出来なかった事に気づいて軽くため息を吐いた。
 まだまだ社交性に問題あり。こればかりは慣れだな、と自分に言い聞かせて開き直るしかなかった。

 デュシアンは円卓の自席に座ると、調度正面少し右に座す青年の視線に気づいた。 ずっと会いたかった灰の瞳の公子。窓から入る陽光を背にした彼は少し疲れている印象を受けた。
 こちらを見つめながら表情一つ変えない彼に、デュシアンは小さく会釈した。 すると彼は瞳を少しだけ細める事で応えてくれた――とデュシアンは勝手に解釈する。
 それからすぐに彼は横に座っている宮殿側の貴族である壮年のカラナス侯爵に話しかけられ、 会話を始めてしまった。聞こえてきた末端の会話になんとなくデュシアンは耳を傾ける。 今日は正面にいつもいるはずのアイゼン公爵がまたも公務で欠席しているので、視線は向けやすかった。
「レムテストの橋の再築の件はやはりハバート商会も絡んでいるのか?」
 カラナス侯爵はウェイリード公子とはかなり親密なのか、砕けた口調で話しかけていた。公子は小さく頷いた。
「ええ、ハバート商会を出し抜こうとするリッツバーグ商会だけの企みではなかったようです」
「ということは、ハバートは何をすると? 橋と波止場の建設はリッツバーグが手がけるのだろう?」
「防衛維持費や自警団の件で身を乗り出してきました」
「やはり駐在神殿騎士団の増員は好まない、か。しかしこれはさすがにアイゼン家だけで片付く問題でもあるまい」
「なんとか神殿も市長も商人たちも納得するような譲歩案で交渉するつもりです」
「ふーむ。南イスラフルの商人は政治介入を虎視眈々と狙っているからな……。それで、ヨアヒム殿も交渉に加わっているのか?」
「はい。ヨアヒムにはリッツバーグ商会の上層部、それから市長との交渉の仲介役を頼んでいます」
「では貴公もこの協議会が終わったらすぐにもまたレムテストへとんぼ返りか?」
「……無事に行けるといいのですがね」
 ウェイリード公子が小さく息を吐くと、カラナス侯爵は訝しげに眉を軽く顰めた。
 こんな二人のやり取りを観察しながら、『それ程無口でもないんだな』とウェイリード公子に対する感想を持った。 簡潔ながらもよどみなく相手の疑問に答えている。自分と話す時は、 一度考えてから話すのに。デュシアンはほんの少しだけ、カラナス侯爵が羨ましく思えた。
「ラヴィン公、お身体の調子はいかがですか?」
 ぼんやりしていると、自席へと歩いている最中だったコーエン男爵に声をかけられた。デュシアンは 立ちあがって軽く礼をした。
「はい、もうすっかりと」
「それは良かった」
 コーエン男爵は心底嬉しそうに頷いてくれるので、デュシアンははにかんだ笑みを見せた。男爵はとても議長向きの性格ではないが、 優しく真面目な人間である。そこにデュシアンは素直に好感を持っていた。 一癖も二癖もあるような有能な議会の出席者――例えばダリル将軍など――よりは、よっぽど安心して会話ができるのだ。
「皆さんお揃いのようですので、始めましょうか」
 コーエン男爵は自席へ着くと円卓を見まわし、開始の言葉を告げた。
「コーエン男爵。議題に移る前に、一つ話し合わねばならない事があると思われますが?」
 するとすぐにビアシーニ枢機卿の異論が発せられた。
「はて。一体何の事でしょう?」
「《北の守り》の亀裂を意図的に作り出したと思われる人物についてですよ」
 にっこりとビアシーニ枢機卿は微笑んだ。デュシアンはやはりその微笑みに好感が持てなかった。 笑みを浮かべた仮面が顔に貼りついているように見えるからだ。良くも悪くも、人々の 上に立つ人間としての素養は持ち合わせているのだろうが、有無を言わさぬ雰囲気を伴わせるものであるので排他的に感じられるのだ。
「しかしそれは円卓騎士団に一任して――」
「ええ。ですから、今嫌疑に上がっている方の事を詳しくお聞きしたいと思いまして」
 コーエン男爵の言葉を遮って、枢機卿は続けた。またもにっこりと笑って男爵を黙らせる。
「それならば、私の方からお話し致しましょう」
 話の主導権を彼に持たせては危険と判断したのか、ダリル将軍は軽く頷いて声を上げた。
「お願い致します、ダリル将軍。私としてもウェイリード公子が一体どういうおつもりだったのかが知りたくて仕方ありませんので」
 ビアシーニ枢機卿はこの言葉を一番言いたかったのだろう。満足そうにダリル将軍へと主権を譲った。
 皆の疑惑の視線がウェイリードに集まったのは言うまでも無い。
 室内にざわめきが広がる。
 デュシアンは喉元まで声が出かかったが、ダリル将軍の射るような強い視線を受けて口を噤んだ。
――そうだ。わたしはダリル将軍の言葉に頷くだけだった……
 デュシアンにはダリル将軍の意図はわからなかった。またダリル将軍への個人的な信頼もあるわけではなかった。 それでも何故彼の言葉に従おうと思ったのかというと、それはグリフィスに理由があった。
 グリフィス自身がどんな人間かはわからないが、彼がウェイリードを助けたいと必死だったのはあの時の彼と接していて伝わってきた。 だからデュシアンは、グリフィスの上司であるダリル将軍を、グリフィスを信じるつもりで見守ろうと決めたのである。
「まず、亀裂は魔法で人為的に作り出されたものであることをご理解頂きたい。 これはダグラス将軍に確認して頂いております」
 ダリル将軍は話始めることによって嫌疑の人物へ集まった視線を自分の方へと向けさせた。彼が話しだすと自然とざわめきも収まる。
「その魔法はかけた直後に亀裂が深まるものではなく、内側からじわじわと時間をかけて亀裂を深めて行くような、ある意味賢い魔法です。 そしてこの危険な魔法をかける為の時間と空間を、《北の守り》に入れる方はどなたでも作ることができます。 《北の守り》は入室資格を持つ方がごく少数ですから、 余程の事がない限り入室時間は重なりません。つまりは密室とほぼ同じ。 ですので誰もが容疑者と名が挙がっておりました。正攻法ではここから絞り込むことなど不可能です」
 ダリル将軍はそこで一旦言葉を切って見まわした。その点では誰も疑問を抱いていないことを表情を見て確認すると、続ける。
「ただ、闇魔法の一種で魔法行使者を特定できるものがあるそうなのです。それが使えればその痕跡から犯人はある程度特定できます。 しかし残念なことに元老院の許可が下りず、唯一の闇魔法行使者を《北の守り》へと入れることは出来ないというのが現状です」
「それは当然だろう?」
 わりこんだのはホルクス伯爵であった。
「あれは《破滅の魔女》だ。そんな魔女を《北の守り》になど到底入れられるはずなどない。 何をするか分かったものではないからな。第一今だに貴方がなぜあんな魔女を飼っておられるのか私には理解できない」
 ホルクス伯爵は侮蔑の表情を浮かべてダリル将軍を睨んでいた。
――そんな言い方!
 デュシアンはかっと頭に血が昇った。しかし文句を言いたいのに声が出なかった。自分の弱虫さと意気地のなさを痛感する。
――ダリル将軍はあんな事を言われて平気なの……?
 ダリル将軍は平然とその言葉を真正面から受けとめているように見えた。そこからは彼の内面は分からない。 怒りや憤りといった感情の動きは何も感じ取れなかった。それが酷く寂しく感じる。
 ダリル将軍についての話題を喋る《彼女》は、父である将軍の事を本当に信頼し、愛しているように見えた。 だから余計に寂しかった。
 ただ、一々そのような戯言に爆発しているようでは一騎士団の総纏めなど出来るはずもないだろう。 きっと内面を押さえているのに違いない、デュシアンはダリル将軍に綺麗なメッキが貼りついている事を期待した。 彼の娘、渦中のリディスの為にも……。
「元老院も同じ考えなのは私も承知している事です。しかし深刻な事態である事をご理解頂きたいものです」
 娘たるリディスへの中傷には触れず、ダリル将軍は至って冷静にホルクス伯爵へと答えた。
「それで、その事とウェイリード公子とどのような関係があるのですか?」
 宮殿の正規騎士団参謀方が急かすので、ダリル将軍は頷くと続けた。
「我々はその方法で魔法行使者を見つける事を諦め、《北の守り》への入退室の記録から何か掴めないかと調べることにしました。 そしてその記録から一つの事実が判明しました。それはラヴィン公が亀裂を直したあの日より2週間前の風の日の、 午後3の刻から5の刻の間。あの部屋の守護騎士たちがその一刻の間、部屋の守護の任務を解かれてます。 解いたのはウェイリード・アイゼン公子。任務を解かれた守護騎士たちとその上司によれば、 人除けの魔法を掛けるため、離れて欲しいと。何かあった場合の責任は全て追うから一刻の間離れて欲しい、 と公子に言われたそうです」
「ウェイリード公子、間違いはないのですか?」
 コーエン男爵は冷や汗を拭いながら聞くと、彼は
「はい」
と至極簡潔に、また全く動じることもなく答えた。
 その厚い仮面にデュシアンは正直呆れるほど驚いた。 もう少し動揺するなどの仕草が見えてもいいのだろうに、自分には全く恥じるべき点はなしと言った堂々とした構えである。 もしかしたらこうなる事を予想していたのかもしれないという仮定も立つが、とにかく彼の落ちついた様子には驚かされた。
「どういう事かな、勝手に守護騎士を動かすなど。いくらアイゼン家の嫡子とはいえ権力を嵩に掛けているのか?」
 ホルクス伯爵の嫌味にデュシアンは口を開きそうになるが、ダリル将軍がまた視線をこちらへ向けて牽制してくるので思いとどまった。 まるで彼はデュシアンの沸点を分かっているかのようだ。
――お願いだから、早く彼の無実を示して下さい……
 デュシアンは膝の上で指を組んで祈るような思いで見守った。
 もちろんデュシアンは彼の嫌疑が晴れたら次は自分があのような嫌味を言われる側になるのだ、ということはわかっていた。 だが今はとにかく自分の不祥事のせいで針の筵状態に置かれている無実の公子をそこから解放してあげたくて仕方がなかったのだ。
「続きを宜しいですか、ホルクス伯爵」
 煽りに全く同じないウェイリード公子が伯爵の質問に答えるつもりが全くないようなので、 ダリル将軍は話の主導権を自分に戻した。伯爵も不承不承頷く。
「ビアシーニ枢機卿もあの部屋の入退室者を調べたことから公子の不審な行動を不思議に思われたのでしょう」
「ええ。神殿上層部が事態の把握を求めておりましたので、少々自分なりに調べていたのです」
 ダリル将軍の問いに、ビアシーニ枢機卿は頷く。どこか二人のやり取りは空々しかった。
「我々が不甲斐ないばかりにお手数をお掛けしたようですね、申し訳ありません」
「いいえ。私としても真相が知りたいのです。分かっている範囲でいいのでお聞かせ下さい」
 ビアシーニ枢機卿の言葉にデュシアンは敏感に反応した。
 枢機卿はウェイリード公子に嫌疑がかかっているのは知っているけれど、その嫌疑が晴れている事を知らないようなのだ。 それなのに公子の疑惑の話をこうして公的な場に持ってきたということは……。
――……敵?
 ダリル将軍が『彼(ウェイリード)は敵が多い』と言っていたのを思い出す。公子の敵とは ビアシーニ枢機卿の事なのだろうか……。
「そこで我々は公子が何故人除けの魔法などを口実に騎士を動かしたかという点に着目し、様々な角度から情報を集めました」
 ダリル将軍の言葉にデュシアンの心臓が一際大きく跳ね上がった。思考が飛んでいく。
 もうすぐ自分の名前が将軍の口から出る。デュシアンは静かに居住まいを正した。
「そして、ラシェ・シーダス卿の思わぬ証言を得る事に成功しました。 シーダス卿はその時刻にウェイリード公子からあるものを《北の守り》へと通じる部屋から外へと運び出す事を頼まれたそうです」
「あるもの、とは?」
 またも参謀方はせっかちにも身を乗り出して急かす。それにはダリル将軍も内心苦笑していた。
「デュシアン・ラヴィン公爵です」
「なんと」
 皆の視線がデュシアンへと注がれた。
 デュシアンは心構えが出来ていた為に、動揺することなく視線を受けとめる事が出来た。 ぴんと伸ばした姿勢は視線が注がれても全く微動だにもせず、据えられた緑の瞳は驚きに動きまわりもせず、 引き結ばれた口元は緊張に震えることもなかった。自分としては随分と完璧だった。
「公子は彼女を人知れず外へと運び出す為に守護騎士を外し、そのまま部屋の外で騎士の代わりに立ち、 偶然通りかかったシーダス卿に彼女を託したのです。彼の話によれば、 公子はラヴィン家かアイゼン家もしくは信頼のおける者が通りかかるまでそこで一刻の間立ち続けるつもりだったそうです」
「ちょっと待ってください。ラヴィン公を人知れず運ぶ為、とはどういう意味ですか? 彼はまさかラヴィン公に何かしたのですか?」
 参謀方が慌てて止める。それをダリルは首を横に振って否定した。
「いいえ。彼は倒れていたラヴィン公を助け出しただけです。ただ《北の公》が倒れた、 ということで臆測による風評被害を避ける為に人知れず運ぼうとしたにすぎません」
「その《北の公》は何故倒れていたのか?」
 カラナス侯爵が釈然としないように顔を顰めて聞く。
「暗黙の了解を破るようで申し訳ないのですが、この場合は許される事と思うので話させて頂きます。 ラヴィン公爵の傍には常に《樹木の精霊》が飛んでおります。これは《精霊の冠》を持つ者によって確認されていることです。 ビアシーニ枢機卿や法皇庁の方はご存知ではないでしょうか?」
「ええ」
 またも突然ダリル将軍から振られたにも関わらず、ビアシーニ枢機卿は落ちついた雰囲気で微笑んでいた。 むしろ進んで話したがっているようにも見える。
「私のある従者は《精霊の冠》を《眼》に宿しております。その者から極秘に聞いてはおりましたが、 ラヴィン公爵の傍らには常に《女神アリューシャラ》の眷属である《樹木の精霊》が飛んでいるそうです」
「枢機卿の仰る通り、 《樹木の精霊》は《悪神》を閉じ込める結界と移動魔法陣を人間へと伝授してくれた《女神アリューシャラ》の眷属です。 女神アリューシャラを毛嫌いする《悪神》からしてみれば、その女神と同じ力を持つ精霊を肩に乗せたラヴィン公は忌むべき存在でしょう。 悪神の気が彼女を蝕もうとするのはありえない事ではありません」
 ダリル将軍がそこで息をつくとビアシーニ枢機卿がかわりに続けた。
「《女神アリューシャラ》は《主神カーラ》の妹神。 《悪神》がそれぞれの眷属たる《樹木の精霊》と《光の精霊》を毛嫌いするのは当然でしょう。 いくら虫の息の《悪神》であっても最後の足掻きをするぐらいの力は残っているはずですから」
「そのようですね」
 自分に同調して神々の話をしたビアシーニ枢機卿にダリル将軍は頷いた。
 たったあれだけの説明で枢機卿がどうして急に同調したのか、デュシアンにはよく理解できなかった。 第一その《樹木の精霊》というものの話は初耳だ。自分の周りを飛んでいるなんて信じられなかった。
「悪神の毒牙は誰をも拒むことは出来ないでしょう。アレももともとは《神》。 そして主神と女神アリューシャラへの復讐心は軒並み強いのですから」
 ビアシーニ枢機卿がそう述べれば、
「たしかにそうですね」
「もともとは《神》であるものの力です。恨みの篭もった力に人間が太刀打ちできるはずがありませんよね」
「そもそも、よく生きておられたものです」
神殿側の貴族たちが引き寄せられるようにそう同意し始めた。
 室内は少々疑問を感じている表情を浮かべる者や、それで説明が事足りてしまっている者、 そもそも公子を疑っていない者など様々な様子が見て取れる。
 事の成り行きを静かに見守っていたデュシアンは拍子抜けしてしまった。必ず誰かしら自分へと糾弾してくるものと構えていたのに、 誰一人として突っ込んでこないからだ。しかもダリル将軍やビアシーニ枢機卿の説明で追求の言葉を無くしているように見える。 一体どうしてもっと自分を疑わないのかデュシアンは不思議で仕方なかった。 そんなに今の説明は弁舌の立つ者たちをも黙らせる威力があったのか、全く理解できないでいた。
 そんな彼女はビアシーニ枢機卿と視線が合った。すると枢機卿はにっこりと微笑んだ。
「しかしラヴィン公。貴方の御身はカーラ様の加護を得たのですから。きっとこれからは大丈夫でしょう。私は安心致しました」
 まるでこの言葉が終止符のように聞こえた。
 曖昧に微笑みかえし、ふとダリル将軍へと視線を向けた。すると彼は群青の瞳を柔らかくさせて薄く笑みを浮かべてこちらを見ている。
「もちろんラヴィン公はこのような恐ろしい目にあったのにも関わらず、《北の公》を続けられる意思は固いそうです。ですよね、公?」
 ダリル将軍がそう言うと、デュシアンは己の役目を思い出した。
「はい」
 ダリル将軍の言葉に頷くだけ。これがデュシアンに許された役目だった。
 デュシアンの返事を受けると、ダリル将軍は、これで大丈夫でしょう?と言いたげに微笑んだ。 ここで初めて、ダリル将軍は自分の事すらも助けてくれたことに気づき、感謝の思いを込めて礼をしようとしたが小さく首を振られた。
「しかし、ラシェ殿はウェイリード公子と親交のある方だと周知の事実です。彼を証人とするのは些か問題ではないでしょうか?」
 せっかちだが冷静な正規騎士団参謀方はそう尋ねてきた。彼女が倒れたことと、ウェイリード公子の疑惑の行動とは全く別の話で、 それが結びつく証拠について話されていないからだ。ダリル将軍はぬかりは無いと頷いた。
「ええ。もちろんシーダス卿がラヴィン公を運んだ場面と、 ウェイリード公子が部屋の前で立ち続ける場面を見かけたという証人を幾人か集めました。 その中でアイゼン家ラヴィン家両家と関わりのある方は除外しております」
「ふん、そんな証人などいくらでも作りあげることが出来るだろう?」
 話がウェイリード公子の嫌疑に戻った途端、息を吹き返したようにホルクス伯爵が鼻で笑った。
「円卓騎士団は公子を《監視》する役目を持ちながら、公子と馴れ合っている節がある。まあ当然だろう、 《破滅の魔女》が唯一表に出ることのできる研究に公子も一役かっているのだから。 親たる将軍が娘可愛さに証人をでっち上げることも考えられるだろう?  公子がいなくなればあの魔女はろくに研究の成果を上げることができないのだからな」
 ウェイリード公子とリディスを貶めるだけでなく、 ダリル将軍の名誉まで傷つけるような発言にデュシアンは怒りを通り越して呆れてしまった。 どうしてこの人はこんな言い方しか出来ないのだろう、と。
「そうか。私の妹もその《でっちあげ》に入るのか」
 急に思ってもみないところからそんな声が聞こえた。皆、円卓から外れた場所である窓際へと視線を移した。
 声の主は秀麗なる表情に怒りを滲ませるセレド王子。彼は至極冷たい瑠璃色の瞳でホルクス伯爵を睨みつけるように見つめていた。
「王子、貴方はどういうつもりで発言なさっておいでかな? 貴方の年齢はまだ発言には足りていないはずだが?」
 彼の威圧的な気迫に少々押されながらも、子どもは黙ってろ、と言いた気に伯爵は睨み返している。
「そうだったな、失念していたよ、申し訳無い。だが貴公が私の唯一の妹を貶めるような発言をしたのが聞き捨てならず、 発言権は無いが発言させてもらった。貴公はつまりは王室の人間を信じないと公言するのだな、ホルクス伯爵」
「ど、どういう意味でしょうかな? 先ほどの発言にそのような意図はありませんが……」
 セレドの言わんとする事が分からずにホルクス伯爵は動揺を見せた。十七歳の小僧と侮っても彼は時期国王だ。 しかももしかすれば十八歳になった途端に現国王の容態によっては即位する可能性もある。 彼の不興をわざわざ買うような自滅はしたくないのだろう。
 そんな二人のやり取りを見て、ダリル将軍はため息を吐いて間に入った。
「殿下。私どもはミリーネ様に証人になって頂くつもりはありません」
「どうしてだ? ミリーネはブライトと共に喚問があればきちんと答えるつもりでいるぞ?」
「ブライトだけで十分です……」
「ブライト・レニスも証人なのか?」
 その名前に反応したのはカラナス侯爵だった。するとその名が室内で波紋のように広がって呟かれる。
「それならば……」
 ふと聞こえてきた言葉に、セレドは眉頭を上げた。
「それならば、とは随分な言葉だな」
 セレドの言葉で場が凍りつく。
「殿下、落ちついて下さい。とにかく我々が用意した主な証人はブライト・レニス卿です。ご存知の通り、 レニス卿はミリーネ王女の守護騎士にして元老院の騎士です。その身分と彼の性質上信頼に当たると思いますが、如何でしょう?」
 セレド王子の不興の矛先が様々な貴族に当たることで今後の王子の政務への影響を懸念し、 ダリル将軍は彼の隣りにいる側近の円卓騎士ジェノに目配せした。ジェノは頷き、小声でセレドを諌めている。
「ブライト・レニスならば異存はない」
 しばらく混沌としていた室内でカラナス侯爵がそう宣言すると、次々と異存なしとの声が上がった。
 さすがのホルクス伯爵も《元老騎士ブライト・レニス》という名前には負けたのか、それともセレドとの確執を広げたくないのか、 異存なしと頷いた。
「では、この件に関しては以上です。コーエン男爵、協議会を再開して下さい」
「ええ。そうさせて頂きます」
 コーエン男爵はほっとしたように額の汗を拭った。
 デュシアンも人知れず息をついてばくばくと脈打つ心臓を押さえた。


「ウェイリード殿、それでレムテストの件はどうなっているのですか?」
 協議会が終わった途端にウェイリード公子の周りには人だかりが出来た。 どうやら聞こえてくる限りでは議会前にカラナス侯爵と話していた内容と同じようだ。
「それは私も興味あるな」
「まだ交渉中です。話が進み次第報告書を提出致します」
「なるべく早めの報告書が欲しいな。あちらは……」
「しかし神殿騎士団は……」
「ウォーラズ―ル山脈と永遠平原があるから軍隊は……」
「確かにカーリアは自然に守られた天然要塞ではあるが……」
 デュシアンは終わりそうにない彼らの談義を目の当たりにして、後で個人的に彼の研究室を訪れることにした。 そう決めて立ちあがった時、彼の灰の瞳と目が合った。その視線に一瞬身体の動きを縛られたかのように感じたが、 精神魔法でもあるまいし、気のせいだと思う。
 彼へと小さくお辞儀をすると、もう一人の恩人のダリル将軍の所へと歩み寄った。
「あの、ダリル将軍――」
「ああ、ラヴィン公。この度はご協力ありがとうございました。どうぞ御身を大切になさって下さい」
 では。とダリル将軍はそれ以上何も言わずに意味深い笑みを残して去ってしまった。
 残されたデュシアンはというと、これも策のうちなのだと気づくまで少々時間がかかり、ぽかんと間の抜けた顔をしてしまった。
 全てが丸く収まるようにダリル将軍は最初から謀ってくれていたのである。もちろん自分の救済もその内に入っていたのだ。
――ダリル将軍に借りが出来た、と思ったらいいのかな? かえせそうにないけど
 そう思いながらデュシアンは息苦しい室内から廊下に出て、少し伸びをすると歩き始めた。
 一階へと降りて研究塔のある方向へと歩いていると、前方の曲がり角――神殿の入り口方面―― から屋敷の若執事イリヤが曲がってきたのが見えて声をかけた。
「イリヤ」
「あ、お嬢様。今執務室へ伺おうと思っていたところなのですよ」
「わたしに用事? もしかして――」
 デュシアンの視線は彼の手元の花束へと向いていた。
「お嬢様が朝お出かけになられてすぐに入れ違いに届いたのですよ。今日はお帰りが遅いと聞いていたので、お届けに参りました。 一応全て持ってまいりましたが、ご寝室へと置かれるのでしたら持ちかえります」
「うん。半分持って帰ってもらってもいい? ありがとう、わざわざ」
 デュシアンは半分受け取ると嬉しそうに微笑んだ。
 今日は赤い薔薇。それも朝露が少し湿った新鮮なものだ。ふんわりと香る芳香に口元を弛ませて気持ちが大きく膨らむのを感じた。
「では、私はこれで。お嬢様、あまり無理をなさいませんよう」
「ええ。ありがとう、気をつけるから」
 気遣いの達人である若執事は丁寧に礼をすると用事があるのであろう、デュシアンが今しがた来た方向へと歩き始めた。
 その背を見送った後、手元の薔薇へと視線を移した。
――綺麗……
 いるはずのない人から届く薔薇の花束。
――父様は、もう、いない……
 母と弟、従兄が気を使ってくれているのに寂しい気持ちはどうしても拭いきれなかった。
 それでも、もしかしたらこの薔薇を送ってくれる人と話せれば少しはその気持ちも拭えるのかもしれない、という期待が膨らむばかり。 自分を見ていてくている薔薇の送り主と話せれば……。
「ラヴィン公」
 声質に驚いてデュシアンは視線を上げた。
「あ」
 すると目前にウェイリード公子が立っていた。少し乱れた髪からして走ってきたのかもしれない。 彼は僅かに苛立った表情をしていた。
「君は――」
「あの、ありがとうございました」
 デュシアンは彼が何か言う前に深く頭を下げた。
 そして頭を上げて彼を見上げれば、眉を寄せてこちらを見下ろしている彼のちょっと怖い表情とぶつかった。
「庇って下さったって、ラシェから聞きました」
「……ああ」
「わたし、なんてお礼を言ったらいいか……」
「……礼はいい。かえって君の名誉を傷つける事になるところだったのだから」
「それは……」
 ダリル将軍の機転で自分が《悪神》の最後の足掻きといわれるような『気』で倒れたことに なっているのを思い出して頬が熱くなる。事の真相はウェイリード公子は知っているはずだからだ。
「……将軍にこそ礼を言うべきだ。ダリル将軍のように原因を《悪神》の方へと摩り替える事をあの時思いつけば、 守護騎士を動かす必要などなかったのだから」
「え?」
「私にも精霊は見える。だが信仰が足りないらしく、聖典の話に照らし合わせるような理由など咄嗟には思いつかなかった。 ……そういう事だ」
 デュシアンは要領を得ない感じで首を少し傾けたが、彼はそれ以上話そうとはしなかった。 どうやらこちらの礼を彼が少し不快に感じているのだけは辛うじて感じ取れたが。
 しかしダリル将軍が自分を助けてくれた事は確かだが、こちらの身を守ろうとわざわざ危険を侵してまで守護騎士を動かしたり、 また嫌疑をかけられたのにこちらの失態を広めない為に――デュシアンはそう思っているが真相は謎――黙っていたのは彼だ。
 礼以外で何かしなければと思ったが、生憎今なにか出来るようなものは……。
「あ」
 デュシアンは自分の手元を見てはっとした。
 綺麗な赤い薔薇。
 自分をいつも勇気付けてくれる、寂しさを癒してくれる、元気にさせてくれる父からの薔薇。
 デュシアンはその薔薇を一本取り出して差し出した。
 彼は訝しげにこちらを見下ろしてくるのでデュシアンはにっこりと微笑んだ。
「わたしの大切な方からの薔薇なんです。わたしをいつも元気にしてくれるんです。わたし、 公子にどうお礼をしたら良いのかわかりません。だからわたしの元気を分けて差し上げる事ができたらいいな、と思って」
 今彼に何かできる事で思いつくのは、疲れた様子をはしはしに見せる彼へと自分の元気を分けてあげたい、 という『気持ち』の譲渡だった。そんなものを彼が喜ぶかどうかなど分かるはずもないが、 デュシアンのせめてもの感謝の思いと彼への友好の証のつもりだった。
「……君の大切な人からの薔薇?」
 彼は薔薇とデュシアンを交互に見る。
「はい。公子には、赤い薔薇が似合うように思います」
 微笑んで薔薇を差し出してくる女性を貴公子としては無碍には出来ないのだろう、 ウェイリード公子はしばらく考えてから彼女の手より一輪の薔薇を受け取ってくれた。
 自分の手から彼の手へと移る薔薇を見つめながら、デュシアンははにかんだ笑みを零した。
「公子にはお世話になりっぱなしな気がします。いつかお返しができるように精進します」
 デュシアンはもう一度深く礼をして、彼を残し執務室へと歩き始めた。
 その心は先ほど感じた孤独を忘れているほど満ち足りていた。
 彼が自分の『気持ち』を受け取ってくれたことが、デュシアンにはとても満足な事だったのだ。

 その彼女の陽気な背を、ウェイリードがじっと見つめていた事など彼女は知る由も無かった。


(2004.7.15と7.23)

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