墓と薔薇

4章 はじまりの一輪(2)

 いつまでも空を見上げていたって雨が止むわけではない。デュシアンはカーテンを閉め、 執務机の前の椅子に座ると、すっかり地肌の見えた机に頬杖をついて綺麗に整頓された書類らを感慨深く眺めた。
 その時ドアが鳴る。聞き覚えのあるノックだ。
 入室を許可すると、軽やかな足取りで白い外套の裾をひらひらと踊らせながら大地の日に決まって書類を届けてくれる巫女が入ってきた。 彼女がたたえた穏やかな笑みにデュシアンも唇の端が知らず知らずのうちに上がる。
 そういえば今日は大地の日だったとデュシアンは思い出しながら立ちあがった。
「こんにちは、閣下。申し訳ありません、神殿へいらしていると存じ上げなくて書類を午前中にお届け致しませんでした」
 そう言って執務机の前で小さく会釈する。
「いいえ」
「ご体調はもう宜しいのですか?」
「はい、……大丈夫です」
「そうですか、良かった……」
 正直この質問にはうんざりしたが、彼女が心底ほっとしたように小さく息を吐いたのを見て、 本気で心配してくれていたことが分かって少しだけ嬉しかった。
「レムテストの件で色々ともめているいるようで、本日の書類はいつもより多めです。それとこちらは少し早いのですが、 協議会の更新書類です。こちらの書類はいつもの印ではなく金印での捺印で、来月の末までにコーエン男爵へご提出下さい」
「わかりました、ありがとうございます」
 束になった書類を受け取った時、 はたと先ほどのウェイリードの言葉を思い出す。
『本来なら部屋に入った巫女が誰の差し金でこのような事をしたのかが分かればいいのだが、な』
 巫女の事は巫女に聞くのが一番かもしれない。デュシアン自身はその巫女を探し出して何か咎めを受けさせたいとは思わなかったが、 何とはなしに聞いてみようかなという気持ちになった。
 声をかけてきた巫女の特徴を思い出してみるが自分へと声をかけてきた三人のうち中心にいた人物をぼんやりとしか思い出せない。 目の前にいればきっとこの人だ、と分かるのだろうが。  しかしよくよく考えて見れば 神殿に出入りするようになって4ヶ月近く経つが、一向にあれ以来彼女たちを見る事はない。もう首都にはいないのかもしれない。 けれどもしかしたら、という期待もあるので、あの巫女の容姿の記憶が薄れる前に聞いておいたほうが良いかなと思い、聞く事にした。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
 紫紺の瞳が少し見開かれ、小首を傾げる。肩にかかった亜麻色の髪が背中に零れ落ちていくさまを見て、 真っ直ぐな髪もいいなと思考が脱線する。慌てて彼女の顔へ視線を戻した。
「探している巫女がいるんです。え、と、髪は茶色で少しくせっ毛で肩より長くて、眼は確か黒っぽかったような、濃い茶色のような」
「申し訳ありませんがそれだけの特徴では……。茶色い髪に黒か茶の瞳の巫女は数が多いので……」
 巫女は申し訳なさそうに眉を寄せて、他の情報を求めた。確かにあまりに大雑把な情報だと反省して他を考える。
「え……えと」
 必死に何か思い出そうと、視線をさ迷わせて目の前の巫女の首元にある黒子が目に入り声を上げた。
「あ! こことここに黒子がありました。ちょっと目が吊り上りぎみで二十歳前後だと思います」
 右目の下と唇の下を指す。
 すると巫女は表情を明るくさせて頷いた。
「それならきっとエレナのことです」
「エレナさん? その方にはどこへ行けば会えますか?!」
「残念ながらこの間、故郷に帰ってしまいましたが」
「故郷。……その方の故郷ってどちらでしょうか」
「申し訳ありませんが、場所までは。ですが、《城》に仕える者はみな、人事院で出身地などの詳細な経歴が登録されているはずです。 辞めたのちも記録は残っているはずなので、宮殿の人事院に行かれればきっと分かると思います。 少々の個人情報でも、ラヴィン公爵の名前であれば教えて下さるのではないでしょうか」
「ありがとうございます!」
 まさかこんな風に簡単に見つかるとは思わず、もっと早く聞いておけばよかったと思う。 けれども個人を特定出来たからといってそれが文書紛失の解決の糸口となるかはわからないが……。
「お役にたてて光栄です」
 紫紺の瞳を三日月の形にして、嬉しそうに彼女は微笑んでいた。
 そんな可愛らしい彼女を見て、デュシアンは忘れていた事を思い出した。
「そうでした。わたし、貴方のお名前を伺っていなかったのです。すみません、今まで聞き忘れていて」
「あら、閣下、そのように私にお気を使われなくても……。でも、閣下に憶えていただけたら嬉しいです。 わたくし、ロザリーと申します」
「ロザリーさん、ですね。いつもありがとうございます」
「いいえ。どうぞ閣下の歩む道に光があらんことを」
 朝から態度の変わった巫女や神官たちにいやというほどかけられた祝福の言葉であるから、その言葉に半分嫌悪感すら持っていたのに、 彼女に言われるとデュシアンは素直に喜びを感じた。そして自然とそれに返す言葉を口にしていた。
「貴方にも光あらんことを」
 緑と紫紺の瞳が笑い合った。
 退室していく彼女へ微笑みかけながら、もう少し他人に対し警戒をした方がいいと頭では理解していた。 けれども、このような明らかに善意を持った人間を警戒し、疑いを持ちながら接する事はやはりデュシアンには難しいようである。
 この気持ちが甘えでは無い事を切に願うしかなかった。

 一人になり、手に持つ書類を見つめながらしばし考え込む。どうもこれだけの書類を読む気力が沸かない。
――人事院にエレナさんの出身地を確認をしに行って、今日はもう帰ろう
 さすがに少し疲れて書類を見る気になれず机に放り、だるくなってきた身体に外套を億劫そうにかぶせた。



 慣れない宮殿内であるはずなのに、デュシアンの意識は天井に向いていた。とても美しい彩色の天井画が施されているのだ。 呆けるように見上げながら歩いていれば、前方より走ってきた文官の女性と軽くぶつかってしまう。それによってやっと、 上を見ながら歩くことは結構危険であることに気づき、《前方に注意しながら》天井の絵を眺めて歩くことにした。
 しかしとうとう首が疲れたという情けない理由で、しっかりと前を見据えて歩く事ととなった。そうしてやっと、 同じ《城》内であっても、神殿と宮殿には大きな違いがあることに気づいた。こちら宮殿を歩く者たちはみな、 様々な表情を持って歩いているのだ。または 走っている。神殿では考えられない活気があった。
 神殿の廊下を歩く者たちは皆一様にしかめっ面をしている。少し早歩きで誰も喋らず、 知り合い同志が出会っても挨拶はとても簡素なもので、厳かで深閑とした雰囲気だ。 たまに何か響いているかと思えば神学校の方から風で流れてくる微かな賛美歌ぐらい。笑い声など一切響かない。
 それに比べてここはとても賑やかだった。遠くに知り合いがいたのか大声で相手を引き止める者や、 廊下に留まり穏やかに談笑する者、書類の束を持ちながら走りまわる者や、『危ないから走るな』と注意する騎士もいる。
 同じ大理石の廊下でもこのように人のあり方が違うと大理石の色まで明るく見えてくるのだな、とデュシアンは感心した。 神殿の磨き上げられた真白い床は冷たさしか感じないのに、 ここの白い床は人々の活気を照り返すように光り輝いて暖かみのある白に見えるのだ。
――こっちの方が好きだなぁ……
 そう思いながら笑みがもれてくる。だが。
――そういえば、わたし、何しに宮殿にきたんだっけ?
 肝心なことを忘れてしまっていた。口元に手をあて眉をひそめる。
――あ、そうだ、人事院だ
 そうして足を止めて周りを落ち着きなく見回した。
――人事院、どこにあるんだろう……?
 今更ながら、デュシアンは人事院の場所を知らなかった。知らずに宮殿をただただ歩き回っていた。 それも天井と人間の観察をしながら。
 どうやら相当ぼうっとしているらしい。額に手を当てると少し熱い。 若執事のイリヤの言う通り、まだ寝台に寝ていた方が良かったのかもしれないと思う。
 身体もかなり重く感じてきたので、明日にしようと決めて、帰るために踵を返そうとした時、
「ラヴィン公」
背を向けようとしていた方向より黒い物体に声をかけられた。
 相手を確認し、デュシアンは首根っこを捕まれた面持ちになりそうなのを辛うじて留めた。
 漆黒の軍服が映える彼は笑みを浮かべながらあからさまに好意を示してこちらへ近づいてくる。 悪い人ではないとは 思うが彼も円卓騎士団の人間だ。あの笑顔の中に何が隠されているかは計り知れない。
 手前で止まると丁寧に一礼し、こちらへ敬意を示してくれる。
「私のことを覚えておいででしょうか?」
 彼は人好きのする魅力的な微笑を浮かべていた。印象的な空色の瞳と女性ならうっとりするであろう秀麗な容貌の彼を、 一度見たらそう簡単に忘れられるものではない。
「ええ、グリフィス殿。その節は大変お世話になりました」
 敬称として『殿』と付ける度に舌を噛みそうになる、とデュシアンは密かに思う。
「いえ。それよりお身体の方はもう宜しいのですか? まだお休みの事と思っていたのですが」
「……はい」
 この人も知っているのだなと思うと何だか神殿の内部事情の秘密保持はどこまで徹底されているのかわからなくなってきてしまう。 しかし彼がもしかすれば円卓騎士団の中でもとても高い地位の人間なのかもしれないと思い落ち着く事にした。
「実は今から貴方のお屋敷へ伺おうと思っていたところなのです」
「わたしの? 何かご用事でしょうか?」
「……確認したいことがあるのです」
 彼の表情に僅かながら緊張が走った気がした。
「え、と急用でしょうか?」
「できれば」
「ええ、では」
「質問は一つだけなのですが話が話ですので、騎士宮の方へ来ていただいて宜しいですか?」
「はい」
 騎士宮と聞いてデュシアンは一瞬何のことかわからなかったが、彼の後を付いて行ってすぐに思い出した。 《騎士宮》とはつまりは騎士たちの為に、宮殿に併設されて造られた施設を指す名称なのだ。
 だだっ広い敷地に隣りの棟を攻撃するかのように建物が立ち並ぶ《魔法宮》とは違い、 ここの建物は比較的ゆとりを持って建てられている。全ての建物がひさしの付いた吹き抜けの渡り廊下で繋がっているので、 今日のような雨の日も傘を使わずに行き来できるようである。
 グリフィスの後を追いながら、宮殿から外れるようにして伸びる吹き抜けの渡り廊下を歩き、一番近い建物の一階へ入る。 照明の落とされた廊下の壁は青灰色で、薄暗さを助長し不安を誘う。
 警備の為か廊下に直立不動で棒を構える正規騎士とグリフィスは二言三言会話し、入り口近くの鉄扉を開けた。
「申し訳ないのですが、こちらで」
 鉄扉の先は、廊下と同色の青灰の壁で四方を囲まれた光のない部屋。 グリフィスは《明かりとり》へ手をかざし室内を明るくしてくれた。
 入室すれば、錆びた蝶番が凄い音をたてて扉が閉まり、最後にがしゃんと嫌な音をたてた。デュシアンは振り返って身震いしてしまう。 そして、静かに室内に視線を走らせた。
 たった一つの出入り口は重そうな鉄扉(外鍵)。高い位置にあるのは、人が一人通れるか通れないかの大きさの小さな窓。 しかも丁寧な程太い鉄格子がかけられて、光が差し込む余地もない。唯一置かれた家具である簡素な木製の机と椅子は年季が感じられた。
――尋問室……だよね
 デュシアンは安請け合いして付いて来てしまったことに今更ながら冷や汗を流し、勧められてからやっと椅子に座った。 座席の高い椅子なので足が地より浮く事がさらに不安を増す要因となる。
――今日、帰れないかもしれない
 落ちつき無く視線をさまよわせるデュシアンの沈んだ気持ちを理解しているのか、 こんな場所へ連れてきた当の本人はかすかな苦笑を浮かべた。
「申し訳ありませんが、こちらが近くて話すのには最適の場所なのです。宮殿の廊下では誰に聞かれているかわかりませんし、 《騎士宮》であっても廊下では安全とは言いきれないので」
 デュシアンは僅かに首を傾げた。彼がそこまでしなければいけない話が思い当らないからだ。 円卓騎士団は貴族の犯罪摘発も行っているというが、まだ犯罪を犯すような程貴族の事柄には精通しておらず、 犯罪を犯していそうな貴族との面識もない。そもそも自身にはやましい部分はない。
「あの、そこまでしてわたしに聞きたいことって何でしょうか?」
「二週間前の、風の日のことです」
「二週間前の?」
「その日、貴方は《北の守り》へと入室されてます。私たち円卓騎士団は神殿の内部事情の把握も仕事のうちとしています。 ですからもちろんあの魔法陣のある部屋の入退室者の管理も行っているので、これは確かなことです」
「二週間前の……かぜのひ……」
 デュシアンは少し頭を捻った。
「その日、何か変わったことが無かったかお聞きしたいのです。もっとはっきり聞けば、 ウェイリード・アイゼン公子がその時、何をしていたかをお聞きしたいのです」
「ウェイリード公子?」
 急に出てきた見知った者の名に必要以上に反応してしまう。
「ええ。貴方が退室された時、彼に会われているはずです」
「え?」
 今まで数度、北の守りへ続くあの部屋へと入室しているも、退室する時に彼に会ったのは一度しかなかった。 それは初対面の時であって――正確な初対面は議会であるが――魅了の魔法をかけられた時だ。 しかしあれは一ヶ月近く前の話である。
 一向に思い出せないでいるデュシアンに痺れを切らしたのか、グリフィスは衝撃の事実を告げた。
「彼は今、《北の守り》を崩壊させようとした、という嫌疑をかけられてます」
「え?」
 デュシアンは目を見開いた。
「もちろん私個人は信じておりません。彼はそんな事をするような人物ではない。しかし彼には疑惑の時間があるのです」
「疑惑?」
「貴方も入室されていた風の日の午後。彼は一刻の間《北の守り》の入り口の守護騎士たちをその場所から追いやってます。 理由はわかりません、彼は全く口を閉ざしているので。そしてその後一週間しての《北の守り》の深い亀裂。 原因究明をされているダグラス将軍の話では、誰かが意図的に亀裂を深める為の魔法をかけた痕跡があるそうなのです……」
「そ、その嫌疑がウェイリード公子に?!」
「この事に気づいているのは我々だけではありません。次の協議会でその話が持ち上がるのは必須です。 彼自身が口を閉ざし、また彼が己の潔白を証明できる確たる証拠がなければ、 立場は悪くなります。最悪、廃嫡となるかもしれません。嫌疑だけであっても十分廃嫡になる案件なのです」
「そんな……」
 思いがけない事態に混乱し、記憶を探り出す事に集中出来ないでいた。指が震え、眩暈すら感じる。 そんなこちらへと視線を固定したままグリフィスは続けた。彼自身焦っているようにも思える。
「残った魔力の残骸から、亀裂を深める魔法の力を行使した者を探る事が出来る魔法があるそうなのですが、 生憎それは闇属性の魔法であって、元老院も神殿も、その魔法を唯一行使できる《彼女》を《北の守り》へ入れることを拒んでいるのです。 そうなると、彼の嫌疑を晴らす決定的な証拠がないのです」
 ただただ信じられない思いで一杯で、デュシアンは衝撃的な情報を飲み込めなかった。デュシアンにとっては彼は恩人だったからだ。
 文書の紛失に気づいてくれて、更には、『危険だから』と亀裂の深まった北の守りへ一人で入ることを最後まで止めてくれて、 それから倒れた自分を運んでくれて……。
――彼が、わたしを運んでくれて……
 デュシアンは口元に手をあてた。この言葉で鮮明に思い出す記憶があったのだ。
 二週間前の風の日。
 一つの事実をやっと思い出す。気づけば、ラシェの研究室で目が覚めた日があったことを。
 魅了と破壊とで倒れたあの日。あの日は確か風の日だった。
――ラシェと公子は知り合いみたいだし。でもその事が、騎士を動かす不審な行動と繋がるの?
 理由がわからない。もしかすれば、彼自身が自分を陥れたのかもしれない。親切なふりをして……。
 いやいや、と首を振る。
――彼は書類の紛失とか気づいてくれたし、それに……
 一度だけ見た彼の笑顔。柔らかく優しいあの尊い笑顔。
 あんな風に笑う人が暗い策謀を廻らせて、《北の守り》をどうにかしようなんて思うはずもない。いや、信じたくなかった。
――でも、あの巫女に騙されている。優しい笑顔に騙されている
 彼だってあのような笑みを見せて、人を騙すような……。
――やだ。そんなふうに、人の事疑いたくない!!
 デュシアンは唇を噛み、思考を振り払った。そしてこの記憶を共有する従兄の存在を思いだし、顔を上げた。
――そうだ、ラシェに聞けば……!
「グリフィス殿、わたし、もしかしたら何か手がかりを差し上げることが出来るかもしれません」
「え?」
 グリフィスは少々驚いた面持ちで天色の目を見開いた。
「従兄のラシェが何か知っているかもしれません。わたし、いま聞いてきます!」
「え、あ、はい」
 勢い良く立ったデュシアンは振りかえり重い鉄の扉を押し開け様とするも開かない。
「これはこうやって開けるんです」
 グリフィスは苦笑すると、鉄の扉を三回叩いた。そしてドアの横にある覗き窓を横にずらして開く。
「すまない、話は終わったから開けてもらえるだろうか?」
 そうしてすぐにも鉄扉が耳障りな音をさせながら開いた。
「ではラヴィン公、何かお分かりになりましたら、円卓騎士団へ宜しくお願い致します。 どんな些細な事でもお伝え下さると助かります」
「はい。あの……グリフィス殿は、公子とは親交がおありなのですか?」
 彼の必死な様子が気になって尋ねた。
「ええ。仕事上も、それから個人的にも」
 彼は少し疲れたように微笑んだ。
 その表情から公子をとても心配している事が感じ取れて、無性に役に立ちたい気分となった。 彼の心配が無駄に終わらなければ良いと祈るような気持ちを込めて小さく礼をすると、騎士宮を飛び出すように走り出した。
 大理石の床を蹴るように走るデュシアンの背に、廊下は走らないで下さいという騎士の声がかかる。 しかしその呼びかけで走るのを止めるような心境でも状況でもなかった。
 自分の恩人の一大事。
 廃嫡がどんな結果を彼にもたらすのか委細はわからないが、彼が今の地位、 アイゼン家の後継者という地位から外されてしまうことだけは確かだ。それに、 もしかすれば研究者としても除籍されてしまうのかもしれない。
 そんな彼の一大事を救えるのは、自分。寧ろ彼を窮地に陥らせている一番の原因こそ自分なのかもしれないと知れば、 逸る気持ちは否めなかった。

 そうして思いつめた顔で全速力で走るデュシアンに、廊下を行き交う者たちは道を譲る。一旦は何事かと足を止めて見る者も、 やがてすぐに自分の用事を思い出し歩き始める。 そんな一瞬の交錯の中、デュシアンはまるで絵画の中を走りぬけるような感覚を味わった。
 宮殿と神殿を結ぶ一本の長い通路に差し掛かると、 短い金の髪を首元で揺らしながら必死に走るデュシアンに対して訝しげな視線が集中し始める。 この通路の警備担当の神殿騎士たちから不審に思われていると気づいたのは、 彼らが自身の武器へと手を置いた音が響いた時だった。
 ちょうど神殿と宮殿の境に立つ二人の神殿騎士が、構えていた木の棒を下げて互いの棒を交差させ、 デュシアンの鼻先で行く手を遮った。
「落ちつかれよ。身分を証明するものの提示を」
 硬質な騎士の声に、デュシアンは僅かに瞠目し、大きく息を吸い込んだ。
「わたしはデュシアン・ラヴィン公爵です。通して下さい」
 外套の中から紋章の刻まれた皮の証明書を取り出して、押しつけるように提示すると、普段にはない強い口調で叫ぶ。 静かな廊下に声がどこまでも響く。
「失礼致しました!!」
 騎士二人は慌てて棒を地の垂直に戻し、空いている手で敬礼を示した。
「閣下、何か事件でございますか?」
 片方の騎士が有事かと身構える。
「いいえ、私事です。驚かせてすみません。急いでいるので、失礼します」
 自分が《北の公》だという事を忘れていた。デュシアンは微笑みを取り繕い、騎士へ一礼して早歩きで神殿の領地へと入っていった。
 《北の公》は神殿が世界に誇る権力の象徴であり、神殿内で働く者たちにとっては目を奪われる存在だ。 その自分があのように形振り構わず必死に走っていれば、もしや《北の守り》の一大事かと不安を与えることになってしまう。
――駄目だ、落ちつけ、わたし
 走りたい衝動を押さえ、身体を前のめりにさせながら歩く。気持ちだけが前へ前へと行く。
 四日前の事件のせいで聖職者たちの間ではこちらの姿かたちの認知が浸透し始めているのは明らかだ。 神殿の廊下を歩けばこちらを振り向く人間が確実に増えている。
――ただでさえ不安を与えたんだ、これ以上無駄な不安は与えては駄目だ
 いくら《主神の加護を得た公爵》と崇められようと、それは《北の守り》が崩壊寸前だったという前提がある。 それだけで人々にどれだけの不安を与えたのかわからないのだから……。だから走ったり、焦ったりしている姿を見せてが駄目だ。 そう自分に言い聞かせた。

 デュシアンは見慣れた研究塔まで来て、足を止めた。ここを右に曲がった先の階段を昇ればウェイリード公子の研究室がある。
 このままウェイリード公子の研究室へ飛び込みたい衝動に駆られる。彼自身にこの疑問を問いただしたかった。 けれども、それでは何の解決にもならないことを分かっていた。
 今必要なのは客観的な証拠となる証言。彼があの日、 《北の守り》を崩壊させる目的で騎士たちを移動させたわけではないことを証明できる手がかりが必要なのだ。 グリフィスの焦り様から、恐らくそれを証明する手がかりが殆ど無いことが予想できる。 しかしあの日にその時間に居合わせたはずの自分が何かを掴めれば、彼を助ける事が出来るかもしれない、 自分が彼の行動を証言する証人になれるかもしれない。
 けれども、その証言がどちらに転ぶかは分からない現実も孕んでいた。
 果たして彼を擁護する形のものとなるのか、それとも彼の疑惑を深める形ものになるのか。
 それは、もう一人の証人になれる存在であるラシェ次第であった。
――公子は後回し。とにかく、今はラシェのところに……
 デュシアンは彼の研究室がある棟を素通りし、二つ隣りの研究塔の階段を昇った。


(2004.6.10)

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system