「失礼しました」
丁寧にお辞儀をし、コーエン男爵の執務室を辞した。
廊下に出ると窓の外の雨足が強くなっていることに気づき空を見上げた。
どんよりとした空から無数の雨粒が風に煽られて弧を描きながら降り落ちる様が見える。
そういえば、朝に屋敷を出る時は小雨だったこの雨が本降りにならないか懸念したイリヤに外出を止めたのだったな、
とデュシアンは果てる事無く落ちてくる雨を見ながら思い出した。
どうやら今日は病み上がりでのお出かけ日和とは言いがたい日であったらしい。
《北の守り》を修復して四日。
有り余る元気な身体を寝台の上で持て余し、『魔力を大量にすり減らしてしまわれたのですから、
もう少し安静になさっていた方が……』という魔道師として先輩な若執事の言葉を全く無視して、
デュシアンはこうして神殿へと足を運んでいた。
今出てきた部屋はコーエン男爵の執務室。この四日ずっと頭から離れなかった疑問を直接問いに行ったのであった。
結果は同じであったが。
『あの時私はずっとあの部屋で待機してましたよ。確かに貴方だけが《北の守り》に入っておられました。
貴女を迎えに行ったウェイリード公子が入るまでは、確かに貴女お一人でしたよ』
デュシアンの頭から離れなかった疑問とは、《北の守り》の補修の真相であった。
コーエン男爵から貰った書簡には誰もがデュシアンが補修したと疑っていないと書かれてあった。
しかし補修を最後まで行った記憶のないデュシアンにはそれがどうしても受け入れがたいものだったのだ。
それに自分が成し遂げていない事で賞賛されるなど気持ちが悪くて仕方ないのだから。
取りあえず自分の耳で聞かなければ納得できないと思い、こうして雨の日だというのに明日と待てずに神殿へと来てしまったのである。
男爵の返事は書簡と同じと思われたが一つだけ収穫があった。自分を迎えに《北の守り》へと入ったのがウェイリード公子だ、
ということである。公子が何か真実に近い事柄を知っているもしくは見ている可能性があるかもしれない、と希望が持てたのだ。
しかしながら真相を知ることは自分の地位を危うくする危険も孕んでいる。もし自分が亀裂を補修しておらず、
他の者が補修をしたとなれば《北の公》としての適正を疑われることになるはずだからだ。
実際デュシアンは自分に適正が無い事を知っているから他人からそれを糾弾されるような事態は避けかった。
だが真実を知らぬまま、賞賛を当然のように受けとって鼻を高くさせていられるほどデュシアンは高慢ではなかった。
真相を知るのは自分の為にならないかもしれない。それでも知りたいと望むのは、
デュシアンの真っ直ぐすぎる性質によるものかもしれない。
そして今日、神殿へ参内したことにより更なる居心地の悪さを経験し、デュシアンの真相究明への意欲はさらに強くなったのである。
何が彼女をより意欲的にさせたかと言うと、それは神殿で働く者たちが向けてくる視線であった。そわそわしたようにこちらを見る者。
うっとりとした眼差しを向けてくる者。神への祝福の言葉を口ずさみながら拝む者。
不義の子が堂々と公爵になった、という事への侮蔑に近い眼差しを向けられる事も多かった自分なはずなのに、
この彼らの態度の変わりようにデュシアンは気味の悪さを憶え、
そして法皇庁から出てきた高貴な位だと思われる年老いた女官の言動でやっと神殿の人たちのその態度の理由を知ったのである。
その女官はデュシアンの傍へ寄るなりその皺の刻まれた手で手を取り、神への祈りを捧げたかと思うとこう述べたのである。
『貴方の正しい心根に主神カーラ様がお力添えして下さったのです。貴方は主神の加護を得たの
ですよ』
思っても見ない言葉を貰って呆けていると、彼女はそのまま祝福の言葉をくれた。
全くもってデュシアンには理解できないことなのだが、
どうやら今回の事を知っている神殿の信仰厚い人たちはデュシアンの事を『主神の加護を受けた公爵』と思い込んでしまったようなのである。
もちろんデュシアンはそのことに首を傾げざるを得なかった。
何故なら自分は聖典すらまともに読んでもいないような信仰の浅い人間である。
そんな人間に主神が力を貸すだろうかと甚だ疑問を持ってしまたのである。
しかし考えようによっては、《北の守り》が世界にとって重要なものであるから主神は力を貸したのかもしれないとも言える。
だが彼女等にしてみればどちらにしろ主神の力が彼女の中に《入った》事には変わりないらしい。
困った事に、《北の守り》の不備は広められるべき事ではないはずなのに、
話はどんどん尾鰭背鰭が付きながら一般の神官や巫女たちにまで知れ渡っているようで、
彼女たちのこちらを見る目が随分と違うようになったのだ。
それが彼女たちのそわそわした態度やうっとりとした眼差しなどに表れているのである。
他人からそのような眼で見られることにデュシアンはどうしても居心地の悪さと申し訳無さを感じ、
余計に真実への手がかりを強く求める気持ちになったのである。第一、主神の加護を受けた、
と見られるのは信仰の厚い人たちに対してあまりに失礼な気がしたのだ。礼拝すらまともに行わない自分なのであるから。
とにかくデュシアンは与えられた手がかりから真実を探るべく、ウェイリード公子の研究室へと足を運ぶことにしたのである。
彼の研究室はコーエン男爵の執務室がある棟の上の階にあった。普通執務室は神殿でももっと奥にあるのだが、
コーエン男爵は研究者でもあるから研究室兼執務室がこちらにあるのである。
螺旋階段を昇った先に次なる目的地が見えて、デュシアンは部屋が近づくにつれ緊張を感じはじめた。
訪問するのに十分な理由があるはずなのだが、デュシアンはその扉の前でノックをする事を躊躇した。
ノックをする前というのはとても緊張するものである。それが面識の薄い相手だとしたら尚更らしい。
コーエン男爵の時はそのような緊張は全くなかったのにな、とデュシアンはやや早鐘を打つ心臓を押さえた。
もしかしたら自分の中のちっぽけな勇気は、コーエン男爵の所で全部絞り出してしまったのかもしれない。
そんないつまで経っても肝の座らない自分に苛つきながら、デュシアンは服の上から胸元のアミュレットに触れた。
その手は寒さからなのか緊張からなのか小刻みに震えている。けれど緊張していると思いたくなくて、その手に自分の息を吐きかけた。
寒さから震えているのだ、と自分に思い込ませる為に。
それから深呼吸を数度し、往生際悪く震える自分の手で気分も定まらぬまま扉を叩いてしまった。
自分を追い込めて、どうにか前に進もうという戦法にでたのだ。
叩くまでは物凄い緊張を感じていたのに、
扉を叩いてしまったら何故かかえって耳元で血が引くような音がして落ちつきを取り戻した自分がいた。それを可笑しく思う。
「どうぞ」
すぐにもくぐもった返事が部屋の中から聞こえ、そして扉が開いた。部屋主が開けてくれたようであった。
デュシアンは視線を合わせる為に上を見上げると、取り繕う暇のなかった表情を固まらせた。酷い顔だと思われる。
扉を開けた主はそんなデュシアンを見下ろしてくる。その双眸は青。黒檀の黒髪に見覚えのある整った顔。それなのに瞳は青、
それも深い藍色だった。その色に記憶がざわめくような感覚を憶え、半身後ろに下がってしまった。
「おい、人の部屋ノックしておいて放心状態になる奴あるかよ」
呆れたような声が藍の瞳の主から降ってくる。その声に我に返り、瞬きをしてからもう一度相手を見上げた。
見まごうことなき藍色の瞳、深い海の色。
急に身体中に言い知れない不安と恐怖心が襲う。しかしそれと同時に懐かしさもこみ上げてくる。
相反するような感情が波を持って勝手に湧き上がり、デュシアンは自分でも何が何だかわからなくなってしまった。
ただ意識の中では《この人は誰?》と冷静に考えている自分がいたが、
無意識から沸き起こる感情に押されて妥当な答えを導き出す事が出来ないでいた。
「お前誰だ? 何の用?」
相手は扉の桟に寄っかかりこちらを心底呆れたように見下ろしている。その不遜な態度と感情のわかりやすい表情に、
デュシアンは更に混乱を極めた。
「どうした」
しばらくして似たような声が部屋の奥から聞こえる。
「ウェイ、こいつ知り合いか?」
デュシアンの目の前にいる藍の瞳の青年は部屋の奥へと視線を移す。
「ラヴィン公?」
目の前の青年よりやや落ちついた声の主が扉付近まで来て、今までデュシアンの前にいた青年の横に並ぶ。
こちらを少しだけ驚いたように見下ろす瞳は見覚えのある灰色。その色を見てデュシアンは膝の力が抜けそうになる程安心した。
これでやっと意識に昇った疑問へと集中することが出来るかと思ったが、
「へー、これが噂のラヴィン公か。《猛々しい公爵》とか何とか言われてるからもっとこう……」
と言いながら藍色の瞳の主は身を屈めてこちらへ顔を近づけるので、また意識が拡散してしまう。
「カイザー、失礼だろう?」
灰の瞳の主が制すると、やっと藍の瞳の主は身体を起こし、探るような眼を和らげた。
「はいはい。それより何で俺を見て放心したのかね、お嬢ちゃんは」
藍色の瞳の主は造形の殆ど一緒な灰色の瞳の主の肩に腕を乗せて苦笑していた。
「んで、何? ウェイに用?」
「あ、あの……」
殆ど無表情しか見た事のない顔がくるくる表情を変えるので、デュシアンは落ちつき無く視線を目の前の二人にさ迷わせた。
「……カイザー」
彼女の混乱ぶりに気づいたウェイリード公子が横を一睨みする。すると藍の瞳の主は大袈裟にため息を吐いて部屋の奥へと引っ込んだ。
デュシアンは落ちつきを取り戻す為に胸元に手を当てて、息を整えてからもう一度ウェイリード公子へ視線を合わせた。
「あの、少しお尋ねしたいことが……」
「……《北の守り》関係の事か?」
「はい」
「なら君の部屋へ行こう。この部屋は今落ち着いて話せるような状態ではない」
彼は一瞬自室内へ視線をやった。デュシアンも視線を移すとこの間よりもひどい有様を視界に入れる事が出来た。
汚れているわけではないのだが、とにかく本と資料の散乱状態が酷いのだ。
神経質そうに見えなくもない彼の部屋がどうしてこんなにも整頓されていないのか、デュシアンは何だか不思議で仕方なかった。
彼が出かけるのが分かったのか、藍の瞳の主がソファに置かれてあった黒い外套をウェイリード公子に放る。
それ見てデュシアンは慌てて彼を止めた。
「あの、でも些細なことなんです」
デュシアンにとっては些細な事ではない。けれどウェイリード公子にとっては一言返すだけで済む質問かもしれない。
わざわざ場所を移してまで聞くほどでもないと考えた彼女の謙虚な発言に彼は首を横に振った。
「構わない」
気にしないといった彼の瞳に少しだけ柔らかさが帯びたような気がして、
デュシアンはつい瞳を大きく開いて彼をまじまじと見上げてしまったが、
彼はそんなデュシアンの視線から逃げるように顔を部屋のソファに長い足を持て余すように陣取る藍の瞳の青年に向けてしまった。
「カイザー。この間のように散らかしたまま帰るなよ」
ウェイリード公子はわずかに片眉を上げ、カイザーと呼んだ青年を睨む。
「了解」
カイザーは楽しげな苦笑を浮かべていた。
デュシアンはそれを傍から見て不思議なものを見るような気がした。殆ど造形は同じなのに、
カイザーが笑ってもデュシアンにはそれがウェイリードが笑っているようには見えなかったのだ。
あくまでカイザーの笑い方は彼自身のもので、ウェイリードの笑い方は彼だけのものなのだ、と気づく。
彼らが全く似ていないようにすら思えてくるのだ。それは本当に不思議な感覚だった。
「……行こう」
ウェイリードは扉を閉めるとデュシアンを促して歩きはじめた。
「あの」
沈黙は嫌いではなかったが、気になったので聞いて見る事にした。
彼は黒い外套を羽織りながら、横を歩くデュシアンへ灰の瞳を落とす。
「双子――、なんですか?」
「……似ているか?」
彼の顔は少し歪んだような気がした。嫌そう、と表現したら一番合うかもしれない。なにせ表情を変えることの少ない青年だ、
知り合って日の浅いデュシアンにはその感情を窺い知る事はできない。
「最初は、そっくりだと……。でも、よく見たら、ちょっと違うような……」
「……私たちは確かに双子だが二卵性だ。つまりは普通の兄弟と変わりない」
「どうりで……」
どうりで性格が似てないわけだと心の中で続けた。失礼極まりないが両極端な気がしたのだ。
あのカイザーという青年は明るくそして表情をくるくる変えるから感情も計りやすい。見たまま透明な人という印象を持った。
もちろんそれは印象であり、彼の本質を掴んだわけではないが。そしてこのウェイリード公子はどうも不透明、
というか何かを隠す為にわざと不透明でいるような気がするのだ。あくまで印象であるが。
デュシアンがそんな事を考えながら自分を見上げている事などお見通しなのか、
それとも気にも留めていないのかウェイリードは依然前を向いたまま歩いていた。
――カイザー公子のようにこの人もあんな風に笑うのかなあ?
不思議な懐かしさを憶えたカイザーの瞳の色を思い出しながら、彼の楽しげな苦笑を思い浮かべる。
同じ顔なのだが、やはりウェイリード公子が苦笑するような顔など思い浮かばなかった。面白い双子だな、
とデュシアンは口元に知らず知らずに笑みを漏らした。
デュシアンの執務室は急な螺旋階段を四階分昇った先にある。
必然的に昇るペースが段々落ちてくるのはいつもの事だ。
昇りきって一仕事した気分で息を整え、隣りのウェイリード公子を見上げれば彼は顔色一つ変えずに涼しい表情でこちらの案内を待っていた。
デュシアンは自分の体力のなさを痛感しながら彼と廊下を歩く。
この階はデュシアンの執務室以外の部屋は一室も使われておらず、人の気配のしないひっそりとした廊下だった。
二人の足音と叩きつけるような雨音だけが耳に響く。
鍵以外では決して開く事のない封印の施された木製の扉を前にしてデュシアンは外套の中に手を突っ込み、
上着のポケットから銀製の鍵を取り出した。
扉を開けてウェイリード公子を執務室へ招き入れると彼はゆっくりと室内を見まわして瞳を細める。
その表情から、懐かしい、という感情を読み取れた。
「来た事――ありますか?」
父と知り合いだと言っていた彼の言葉を思い出してデュシアン聞いてみると彼は小さく頷いた。
「……ああ、変わりないな」
「そのまま使っているんです。変えたのは鍵くらいかな」
デュシアンとしてはできれば父の使っていた鍵もそのまま使いたかったのだが、
室内の書類等のこれ以上の流出を防ぐ為にこの間変えてもらったのである。
「適当に掛けて下さい」
外套を受け取ろうとしたが彼はそれを断り適当に纏めてソファの背に預けた。
デュシアンも外套を書類の散乱したデスク付きの椅子に置き、小結界からポットを出してお茶を淹れる。
彼は浅めにソファに座り、くつろいだように足を組む。その様子から来なれていたのだろうと想像できた。
だから他に関心事がないのだろう、唯一動く物体であるこちらへと視線を向けているのでお茶を淹れる手元が震えそうになった。
別に彼を恐れる由縁はないが、一言も発せずこちらを見つめられれば多分誰もが居心地が良いものではないと思われる。
それに彼の瞳は強い意思を持っているから余計に気になってしまう。
しかしここで怯んではいけない、
この公子の前ではあまりに自分の弱い部分を曝け出しすぎているのだから少しでも名誉を挽回出来るように頑張らなければ、
と自分に言い聞かせた。
「どうぞ」
震えないよう細心の注意を払ってお茶を彼の前に出す。彼がそれを持ち、口に含み、喉仏が動くさまをじっと見守った。
「……それで、質問とは?」
カップを置くと、ウェイリードは灰の瞳を上げた。
彼は明らかにデュシアンがこちらを見ていたのを知っていたが特にそれには触れずに本題に入った。
魅入ってしまっていたデュシアンは我に返り、彼の前のソファに座った。さすがに立ったまま彼を見下ろして喋るわけにもいかない。
「あの、わたしを運んで下さったのはウェイリード公子だと聞きました。ありがとうございました」
「……ああ」
「それで、一つお聞きしたいのです」
彼の眉が少しだけ動く。
「四日前のあの時、亀裂の補修が終わった後、ウェイリード公子が《北の守り》に一番最初に入られたそうですが、
その時わたしは一人でしたか?」
「え?」
公子は驚いたように瞳を見開いた。
それをデュシアンは『おかしな事を言っているから驚いたのか』と勝手に解釈し、続けた。
「わたし、どうやって亀裂を直したか記憶にないんです。いえ、維持魔法の途中からもうすでに記憶がないんです」
続けないで黙っていれば、もしかしたらウェイリード公子が『思い出したのか?』と墓穴を掘ったかもしれなかったのだが、
デュシアンは自ら記憶が無い事を晒してその機会を逃がした。彼は安心したのか表情を引き締めてデュシアンを見つめる。
「わたし以外の方が維持魔法をしていたのではないですか? 教えて下さい」
「いや、君一人だった」
彼は即答する。こちらの質問には考えながら遅れがちに喋る彼にしては珍しいことかもしれない。
まるでこちらの疑問を初めから知っていて答えを用意していたかのような彼の素早い応対に唇を噛む。
一番最初に自分を発見した彼にまでそう言われても、デュシアンには納得出来なかった。
なにか釈然としないものを感じるのだ。本当に漠然とした感覚なのだが。
「本当に、ですか?」
いまだ疑問と困惑の色を宿した緑の瞳が懇願するように見つめてくるのを真っ直ぐに見つめ返し、
彼は全く動じずに嘘をついた。
「本当だ」
彼はもう一口お茶を飲む。
「じゃあ、貴方も主神の加護だと?」
デュシアンは苛立たし気な口調でそう言ってから、これではただの八つ当たりだ、と口に手を当ててばつが悪そうに瞳を伏せた。
しかしちらりと仰ぎ見た彼は訝しげにこちらを見下ろすだけで、不愉快さは見せていなかった。
落ち着く為にため息を一つ零す。
「カーラ様がわたしに力を貸して下さった、と貴方も思われますか?」
「主神は人間へ力を貸したりなどしない」
僅かに表情が歪む。
「え?」
「いや、何でも無い」
ウェイリードの苛立ちに驚いてデュシアンは思わず首を傾げるが、彼は口元に手をやり気まずそうに視線を逸らしてしまった。
「それより、聞きたかったことはそれだけか?」
「え、あ……はい」
本当は自分の気になることを彼にぶつけたかった。彼なら何となく答えてくれそうな気がしたからだ。
けれど彼はこの質問についてはもう答えたくないような雰囲気を醸し出していた。それを感じとってデュシアンは膝の上のこぶしを握り、
質問を飲み込んだ。
「……少し時間はあるか?」
「え?」
上擦った声で聞き返してしまう。
「……失せた資料がないか探すことを約束したのを憶えていているか?」
「あ、はい。ウェイリード公子はお時間は?」
「少しならある。必要最低限の資料から始めよう。量は膨大なはずだ」
「……はい」
デュシアンは情けなさに頬が熱くなった。自分の過失に彼を付き合わせてしまうのだ、
恥ずかしくないはずがない。しかし彼は全く気にしていないようで、資料を出すよう淡々と要求してくる。
どうやら彼の頭には全ての資料について入っているようで、デュシアンはその記憶力の良さに舌を巻くばかりだった。
次々と要求された文書を棚や机の引き出しから出しては公子の前へと積み上げていく。
彼はそれを素早くしかし正確に確認していき、横へと追いやる。
「湿地帯の観測報告は……?」
「え、と」
デュシアンは積み重なった政務机の上の文書を探しまわる。と、雪崩を起こして床に文書が散らばってしまった。
「ああああ」
雪崩を起こした反対側にいたデュシアンは慌てて体ごと机に突っ伏してそれ以上の雪崩を止める。
しかしこの格好になってしまうとどうも動けない。身体を起こせばまた雪崩の続きが起きてしまうからだ。
気づくとウェイリードが雪崩の落ちた側にまわり、書類を受けとめてくれていた。デュシアンは身体を起こして真っ赤な顔を彼に向ける。
礼を言おうと口を開きかけたが彼の言葉の方が早かった。
「書類はきちんと片した方がいい」
彼は至極真面目な顔をして見下ろしている。
「すみません」
恥ずかしくて俯いてしまうと、彼は口元に手を当て少し考え込んでから次の言葉を紡いだ。
「……まあ、私の部屋を見て分かっているとは思うが、私も人のことを言えた義理ではない」
慰めているような口ぶりに、顔を上げると少々困っているような表情に出会った。
それを見て、デュシアンは何故か無性に笑いがこみ上げてきてしまった。公爵らしくないとわかっていても、
どうしてもその笑いには逆らえなかったのだ。
ウェイリード公子は急に頬の緊張を弛ませて笑い出したデュシアンを見下ろしながら、不思議そうに眉をひそめていた。
しかし、しばらくして自身の口元もそれにつられるように僅かに弛んだ事には彼は気づかなかった。
半刻して、雪崩を起こした文書も仕分けし、確認作業も一段落ついた。
彼は大きく息を吐き、冷めた紅茶を一口飲んだ。
その仕草にデュシアンは惹かれるように捲くられた袖口から見える腕へと視線を動かした。やっぱり筋肉質だ。
デュシアンは自分の腕をさすりながらそんな事をぼんやりと考えた。
「取りあえず公開されていない資料はそのぐらいだ。他はなくてもどうにかなる」
彼の言葉に急に現実に還される。
彼に言わせると、失せたのは『北の守りに関する文書』の一部と、それから『液体瘴気』の報告書のみ。
もちろんこれは非公開の重要文書だけの事で、他はまだ確認していないからまだまだ無くなっている可能性も有りうるが、
今のところ必要であるものは全て確認してくれた。
――本当、親切だなぁ……
しみじみそんなことを思いながら、彼の飲むお茶が冷めていることに今更気づき、淹れ直すと言うと彼は断った。
「今日はこれで失礼する。やらねば成らぬ事がある」
彼の眉間のしわが一層深まった。何やら心配事があるようだ。
だが彼の事情などデュシアンはもちろん知り得ないのだがら分かるはずも無い。
「あの、ご親切に、ありがとうございました」
デュシアンが丁寧にお辞儀をすると彼は頷いた。
「……本来なら部屋に入った巫女が誰の差し金でこのような事をしたのかが分かればいいのだが、な」
ウェイリードはそんな言葉を最後に残して退室した。黒い襟足を少し名残りおさげに見送る。
重要文書の中で失せた文書がどれなのかが判明した事はとても嬉しかった。しかし自分の疑問が解決しなかった事にはがっかりもした。
先ほどまで公子が座っていたソファに沈み、行儀悪く寝転ぶと、足を抱えて胎児のような格好を取る。
「考えても仕方の無い事なのかなぁ……」
けれども、《主神の加護を得た公爵》という流説はどうも馴染めない――というよりも気が引けてしまう。
それにウェイリードは不思議な言葉を零した。
『主神は人間へ力を貸したりなどしない』
この言葉の意味はデュシアンには当然分からなかった。
「そんなに厳しい神様だったかなあ……?」
小さな頃読んだ絵本を思い出せば、その中での主神は全ての人間へ加護を与える存在として尊ばれていた。
非力な人間を守り、力と知恵を与える存在として。
だからこそ、その絵本と解釈の違う彼の言葉の真意を理解したい気もしたが、
デュシアンが真に興味を示したのは彼が主神をそのように考える理由だった。つまり主神への興味ではなく、
彼を理解したいという《ウェイリード公子》への興味だった。
だが、当人はそんな細かい事の違いなど気づいていないようで、唸りながら、
本棚に収められた分厚い聖典を読むか読まないかという非生産的な事を考えていた。
一人になって静かになると急に音に敏感になったのか、耳には外の雨音が響きはじめた。
ソファから立ち上がり、窓辺に立つ。
カーテンを掴みながら空を見上げれば、槍のような雨が地上を攻撃するように降り注がれているのが見える。
本来ならまだ日が暮れる間際の時間なのだが、暗雲立ち込めるこの空には一筋の光も見えない。
この雨が止むのは、もう少し先のことのようだった……。
(2004.5.23)
Copyright(c) 2009 hina higuchi All rights reserved.