墓と薔薇

閑話:灰を抱く公爵

父だと名乗る男が現われた時、《彼女》はいつものように床を這うようにして磨いていた。
《彼女》は目の前に現れたその男を見上げると、大きな緑の目を数度瞬かせ、 赤く腫れた手をブラシから離して自分の首から下がっている色あせた何かを握り締めた。
「とう……、さま?」
水気のないかさかさに荒れた唇からぼんやりと言葉が紡がれると、 《父》と呼ばれた男は翡翠の瞳から溢れるものを堪えることが出来なかった。
「そうだよ。私が君の……」




「デュシアン。貴方の大切なものを持っていらっしゃい」
 死の床についた父の横で放心したように座り込む娘に母は語りかけた。
 見上げてきた娘の虚ろな瞳と視線が合わない。顔は真っ白で血の気がない。 母の胸には哀れさが大きく膨れ上がり、 もう枯れたと思っていた涙が涌き出てきてしまった。
「デュシアン、貴方のあの柘植の櫛。あれを持っていって頂く?」
 娘の気持ちを気遣ってか、母は娘がここへ来る前から持っていたものを指す。娘の部屋の鏡台の上にいつも置いてあるが、 彼女が全くそれを使うことがないのを母は知っていた。
「お父様に貴方のものを持っていって頂くのよ、寂しくないように」
「……父様も寂しいの?」
 まるで言葉を覚えたての子どものような拙い喋り方だった。一層哀れさが募り、母は娘の美しい金の髪を優しく何度も撫でた。
「ええ、そうよ。お父様はカーラ様の元へ旅だったの。お一人だと寂しいでしょうし、貴方の事が気になって旅立てないかもしれないわ。 だから貴方の代わりになるものを一緒に入れて差し上げるのよ」
「……一緒に……」
 娘は口の中でその言葉を転がしながら、そっと胸元を押さえた。何かあった時に胸元を押さえるのは娘の無意識の癖だった。
 と、急に彼女の瞳が大きく見開いた。意識が鮮明になったのか目の前にいる母と視線を合わせる。
 そして首元のボタンを外すと、首から下げていた親指ぐらいの大きさの色あせた袋を取り出して母に見せた。
「これ……」
「それは匂い袋ね。デュシアンがいつも肌身離さず持っていた」
「これでも、いい?」
 娘は肯定の言葉しか欲しくない、と表情だった。懇願しているのだ。
「もちろんよ」
 あまりに強い懇願に母は少し戸惑いながらも、にっこりと笑って頷いた。
 娘は母の優しい笑みから顔を背けるように、今まで力なく崩れていた膝を伸ばして立ちあがった。
 まるで眠るようにベッドに横たわっている父はこれから棺へ移され、 主神カーラのもとへの旅が滞り無く進むよう祈りを捧げるために教会に運ばれる。
 あと数時間で、この身は土の下へと埋葬されるのだ。
 今にも目を開いてこちらへ笑いかけてくれそうな父の姿を見て、娘の膝は震えた。
 差し出された母の腕に半分身体を任せながら、首から下げていた匂い袋を外すと父の首へかけた。
 胸の前で組まれた指の近くに匂い袋が下がった様は、まるでそれを父が大切に抱くようであった。

「やっと……」
 娘は嗚咽を殺しながら小さく呟く。
「やっと、渡せた……」

 母は娘のこの言葉の意味を尋ねることなく、静かに娘を抱きしめた。


(2004.5.14)

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