墓と薔薇

閑話:アイデンティティ

「女のくせに」

 すれ違いさまにこちらを揶揄する言葉が聞こえ、ティアレルは僅かに肩を震わせた。
 神兵団所属兵の制服を着た青年たちの集団の中から聞こえた声。深閑な神殿の廊下に彼らの無粋で粗野な嗤笑が響く。
 隣りを歩いていた少年の域を出たばかりの青年――ユーリが飛びかかりそうな勢いで振りかえるので、 彼の口が文句を紡ぐ前にティアレルは彼の腕に触れてその行動を諌めた。
 ユーリは足を止め、こちらをじっと見下ろしてくる。気づけば随分と身長に差が出てしまったものだと思う。 ついこの間まではこれほど差はなかったはずだ。
 ティアレルは微笑んで小さく首を横に振れば、ユーリは感情を隠そうとはせずに顔を歪め、 もう一度あの集団を振り返って憎悪に近しい表情で彼らの後姿を見据えていた。
「あんな負け犬になんか、俺はならない」
 呟かれた言葉に、ティアレルは瞳を閉じた。
 あからさまな嫌味なら今更何とも思わない。耳を塞げば良い事なのだから。そう思いながらも、 苦い気持ちが自分を覆う事は否めない事実だった。けれどもそんな自分の感情には蓋をして、 いま立ち向かわなくてはならない仕事を思い出す。
――どうしたものからしら……
 ため息を吐いて瞳を開いた。自分のつま先を見つめながら考え込む。
――鉱脈があると分かっていても、竜の住処へ部隊を派遣するなんて馬鹿げているわ。第一、神兵団の最近の戦力から考えて、 とてもじゃないけれども無茶な事。でもこんな《生意気な小娘》の言い分なんて聞く耳をもってもらえないし……
「ティアさん?」
 自分の考えに耽っていた為に、ユーリが何時の間にかこちらをじっと心配そうに見下ろしていることに気づき、 僅かに慌てた。どうもユーリはこちらがあの男たちの言葉に傷ついたのではないかと気にしているようなのだ。
 大人びたユーリの真摯な緑の瞳に見つめられ、少しだけ恐れを抱く。いつのまにか見知らぬ《男》になってしまったように思えたのだ。 ざわつく心を押さえながら無理に微笑み、否定した。
「違うのよ。さっきの会議の事を考えていたの」
「ああ、そっちか。でもティアさん、あいつら話通じない奴らばっかだし、あんまり気にしない方がいいんじゃない?」
 明るく前向きで、飾らない人柄から溢れる優しく打算のない気遣い。ユーリはそんな青年だった。その存在が眩しくて、目を細める。
「でもね、円卓騎士団の代表として私が抜擢されたのだもの。役目はきちんと果たさなければいけないでしょう?」
「そうだけど」
「それよりも、どうしたものかしらね。レムテストの橋の件もそうだけれど、神殿には話が通りにくいわ」
「そうだね……」
 ユーリが小難しい表情で眉根を潜めているのを見てとって、ティアレルは苦笑した。 彼に愚痴を零している場合ではないと自身の弛んだ心を戒める。
「さあ、報告しなくてはならないから、将軍の執務室へ急ぎましょう」
 そう促して、ティアレルはユーリを促した。
 自分の後ろ姿をしばらくの間神妙な顔つきで見つめていた青年の心情の変化には気づかないふりをして。


 象牙色の建物に入り、上司であり円卓騎士団長であるダリル・フォスター将軍の執務室の扉をノックしたのち、入室した。
「ああ、おかえり。どうだった?」
 微笑みを浮かべて出迎えてくれるダリル将軍は手に持っていた資料をデスクへ置いて立ちあがった。 将軍の期待に添う結果がでず、ティアレルは自分の無力さに情けなくなった。
「何とも言えません。鉱脈の件は、私ではない方が良いのかもしれません」
 ため息混じりに答え、手にした書類をダリル将軍へ手渡した。
「まあ、それはケヴィンやサレインと話し合うとして――」
 ダリル将軍はティアレルの後ろに控えている青年を見やり、にやりと口元を上げた。
「ユーリ、ジェノが珍しく訓練場に居たぞ」
「本当ですか?! 失礼します!!!」
 ユーリは瞳を輝かせ、矢よりも早い勢いで出て行ってしまった。
 そうして静かになる室内で、ダリルは本題に入るかのように表情を引き締めて名を呼んだ。
「ティアレル」
「はい」
 声の質から彼女は話が変わることが瞬時に理解し軽く姿勢を正し、ダリル将軍へと身体を向けた。
 将軍は渡された書類を机に置き、群青の瞳に鋭い光を宿させている。 常に人当たりの良い態度を保つことからとても優しい人物だと思われがちだが、 実際にはただ優しいだけの人物ではないことをティアレルはよく知っていた。
「まだ報告を聞いていなかったが」
 なんの事であるのかすぐに勘付き、ティアレルは僅かに唇を引き結んだ。
「君から見て、新しいあのラヴィン公爵はどうだい?」
「どう、とは?」
「分析官としての君の意見を聞きたい。彼女がいかなる人物なのか」
「……それは」
 言葉がうまく続かなかった。
 そんなこちらの状況に何か理解を示すわけでもなく将軍は続ける。
「《北の守り》の亀裂を直したのは奇跡に近い所業らしい。ダグラス将軍はそれを手放しで褒めている。神殿の、 いわゆる《純信者》たちも騒ぎたてているような出来事だった。その件に関しては私も文句の付け所はない。 まあ、不思議な部分はあるが、私は専門家ではないからね」
 手元の書類を指で弾く。
「しかしはっきり言ってしまえば、彼女は《北の公》なのだから《北の守り》に関することは全て責任を取るのが当然であり、 それが出来ないのならば彼女には《北の公》は相応しくないと言う事だ。つまり私は、 彼女の《北の公》としての資質を問いているわけではない」
「……はい」
「ティアレル。君は一日でも彼女と触れ合ったのだから、少しは分かったこともあるだろう?  《公爵》としての彼女の資質を問いたい」
「一日だけでは分析できかねます」
 無駄な抵抗と分かっていながらも、ティアレルは反論した。
「しかし次はないだろう?」
 もう耳に入っているのか、と俯く。
「はい、ロザリーから問い詰められましたから。デュシアン様にも私の素性を告げた、と聞きました。 きっと家庭教師はお断りされるでしょう」
「ロザリーは私のところにも文句を言いに来た。アレには仕事には口を挟むな、と言いつけておいたが、悪い事をしたな」
「……いいえ」
「怖気づいたか? 身近な人間に問い詰められることに」
 ダリル将軍の口調は優しげだったが、こちらの動揺を探ろうとしているのか、答えづらい質問を重ねられた。  しかしここで動揺をみせ、言葉に詰まればせっかく手に入れた役職を解任される恐れもある。いままさに、 分析官としての資質を問われているのだ。ティアレルは顔をあげた。
「初めから分かっていた事です。自分で望んだ道ですから」
 割り切れているはずがなかったが、こう答えるしかなかった。否、 そう答えることができるよう自分を律する力が必要なのだと教育されてきた。
「では、君の仕事の話をしよう」
 ダリル将軍はにこりと微笑んだ。どうやら監査には合格したようなのだ。
 ティアレルは人知れず、小さく安堵の溜息を吐いた。
「わたくしは、ラヴィン公の資質の問題よりも、神殿や宮殿の古い体質の方にまず疑問を感じます」
 ダリル将軍は僅かに目を細めたが、ティアレルは続けた。
「女は政治や政策の話には口を挟むなという空気がなかなか消えておらず――」
 そこまで話すとダリルは肩をすくめて苛つきを吐き出すようにため息を零し、鋭い瞳を彼女へと向けた。
「ティア。らしくないな、話を反らす気かい? 政治や軍事関係の世界では女性という性別は能力を低くみられがちだ。 また女性のあるべき理想像を勝手に押しつけてくる風潮が強いのも、君が一番よく分かっているはずだ。男たちの鬱憤は、 小生意気な女性に向けられる」
「……はい」
 肩入れは許さないとの厳しい指摘に、背筋に冷や汗が流れるのが分かる。
「もう一度問う。デュシアン・ラヴィン公爵は、君のように差別をも乗り越える為の努力を惜しまない人であるか、 そして乗り越えられるように感じられるか。この二つだ」
 強い口調だった。まどろこしい答えなど一切望まないという姿勢だ。
 望む答えを返せるよう思考を纏める為に、ティアレルは一旦目を閉じた。
――ダリル将軍は私の能力を信じて下さっている。私が女だからと差別なさる方ではない。 私を同じ仕事をする一員として見てくれている。だから私も将軍の気持ちに答えなくては……
 迷うのは止そうと思う。個人と仕事を分けろとは、散々教育されてきた。そして、確かにそうあるべきだと思う。 この仕事を続けていくならば、どこかで線引きをしなければいけないのだ、と。
 ティアレルは目を開き、しっかりと将軍を見据えた。
「ラヴィン公は努力は惜しまない方だと思います。とても澄んだ瞳の持ち主です。けれども、知識不足は否めません。 多分彼女はこの国での政治に関わる女性がどれだけ疎まれているか知らないでしょうし、 また宮殿はもちろん神殿の実情にもあまり詳しくないと思われます。彼女に前ラヴィン公と同じ働きを求めるのは酷です。 彼女には《北の公》としての資質のみ認めることが望ましいと思います」
「そうか。ではティアは、彼女には公爵としての仕事は望めない、と思うのだな?」
「恐らくは、ご自分がどのような役割を周りから望まれているのかを理解されていないのだと思います。 もちろん彼女は自覚を持つ段階を踏まずに公爵となってしまったので、それは当然だと思います。 ですからこれから成長されるかもしれませんし」
「しかし成長しないかもしれない」
 ティアレルが言葉を詰まらせれば、ダリル将軍はかわりに続けた。
「社交の場から姿を消し、神学校も行っていない。恐らくは出自のせいで嫌な思いをしたのだろう。 アデル公は逃げることを認めた。気弱で逃げ腰のところがあるかもしれない。また、首都に引き取られる以前の記録が殆どないことから、 どのような場所でどのように育ったのかは全く分からない。しかし人を簡単に信じるところから、 田舎ののどかな土地で育ったのかもしれない。 都会慣れしていないのは一目瞭然。知識も低いことから、これからの彼女に対し、期待はあまり大きく持たない方が良い」
 厳しい分析に、ティアレルは言葉もなかった。
「反論の余地なければこの意見に同意と見なす」
「……いつでも逃げ出そうとする方なら、公爵の地位など継がないと思います。デュシアン様は変化なさる方だと思います」
 随分と肩入れした言葉だと思った。もちろんそうした発言をダリル将軍が許すはずもないと分かっていたが。
「その変化が、個人的な変化であるなら全く我々の仕事には関係無い。履き違えるな」
 厳しい指摘を受け、萎縮してしまいそうになるのを堪えた。
「……はい」
 彼女はそっと自分の身体を覆う外套の裾を握った。
 一人の人間としてのラヴィン公への思いと、情報分析官としての彼女の分析は合い入れぬ関係だとはっきりと注意された。
――少し冷静になって、感情を切り離さないと
 不意に、先日ロザリーに怒鳴られたことを思い出す。いつもは怒鳴ったりするような女性ではない彼女が強い怒りを見せていた。 それは、心情的に傍にあるラヴィン公を庇っての行動だったのだろう。しかし自分は彼女のように感情で動いてはいけない立場にあるのだ。 それを改めて意識する。
「少し、頭を冷やしてきます」
 ロザリーを羨む思いが膨れ上がり苦しくなって、慌てて頭を下げて執務室を後にした。
 閉じた扉に持たれかかり、ため息を吐き出す。しかしすぐにも視線に気づいた。
 首都ではやや珍しい漆黒の長い髪。神秘的な美しさを持つ女性だが媚びる所がなく、 黒い軍服をそつ無く着こなしている円卓騎士のイルーダが立ちつくしていた。細い腕と細い腰ではあるが、 ララドの珍しい武術を体得しており、れっきとした精鋭の騎士の一人である。
「ああ、申し訳ありません。どうぞ」
 慌てて微笑みを作りだし、視線の主へと扉を譲った。
「大丈夫ですか?」
 凛とした見た目に合う、張りのある声。それが耳障りに感じる自分がとても情けなく感じる。
「大丈夫、いつもの息切れですわ」
 放って欲しくてそう言うと、かえって相手は黒い目を心配気に細めた。
「ジェノ上官を呼びましょうか? 帰られた方が……」
「イルーダ、私は子どもではありませんのよ? それよりも、貴方は将軍に用事があるのでしょう?  私も用事がありますの。失礼」
 これ以上関わりたくなくて目的地も決めずに歩きはじめた。
 彼女を――イルーダを見ると劣等感が高まる。芯の強い彼女は人目を全くと言って良いほど気にしない。気にしていたとしても、 一切の動揺を他者へ見せない。揺ぎ無い確固たる意思がある。女という性別と他国生まれという出自に関わらず、円卓騎士に抜擢された。 カーリアにやってきてすぐにも二重の壁を難なく乗り越え、それを周りにしっかりと認めさせているのだ。
 それに比べて自分はどうだろうか。今の自分は、仕事と個人の感情を混同してしまっているのだ。
――近づくのではなかった……
 純粋な笑みを浮かべる可愛らしいラヴィン公。一生懸命で、飾らず、人を疑う事のない人柄。
 本人を知らなければここまで感情が入り込むことはなかっただろう。けれども始まりは本当に偶然だったのだ。 リディスの部屋で偶然出会ったのだから。ほんの少しの興味から引き受けた家庭教師だった。 決して仕事の為に引き受けたわけでなかった。個人的な感情からだった。それがいけなかったのだ。

『感情で生きてるようなもんの≪女≫になんか、分析官が務まるはずがない』
 思い出しても悔しい言葉が急に耳元に木霊する。宮殿の王立学校時代から言われていた言葉だ。
『女のくせに』
『女のくせに、軍事や兵の使役に興味を持つなんて可愛げない』
『情報分析のような緻密な作業をあんな病弱な女が?』
『何が稀代の軍師だ。女の軍事分析官が珍しいからそう言われているだけさ』
『どうせすぐに――』

 ずっと言われてきた言葉。謂れのない、理由もない、ただのみっともない嫉妬だと自分に言い聞かせて、 それでも傷つく心は変わりなくて。忌まわしい言葉を振り払うように騎士宮の廊下を駆け抜けた。
 嫌味な言葉を吹っかけられても学ぶ事をやめなかったのは、それが好きだから。少ない情報から様々なことがらを予想し、 仮定を立てて推測し、妥当性の高いものを弾き出す。その思考能力が他者よりも優れていると気づくのには、 あまり時間は掛からなかった。
 病弱な自分に、主神カーラ様からの贈り物。
 《好き》であり《得意》でもある事。その尊いことを活かせる仕事に就ければ、自分は一人で立ちあがれると信じていた。
 そうして見つけた円卓騎士団での分析官職。声が掛かった時は、夢だと思った。生きていた中で一番幸せな瞬間だった。
 父も兄も止める中、ダリル将軍へ承諾の意を告げた。それは自分が決めた事であり、望んだ事だった。
――私が決めた、自分の道
 身体が弱く、このまま儚くなるのだと寝台の上で泣いてばかりいた頃の夢。いつか自分が望む通りに働くこと。 それはきっと自分が生きているという証になると思っていた。
――だから、少し息苦しくたって……

「ティアさん!」
 急に名を呼ばれ、弾かれたように顔を上げた。
 気づくと背の高い青年に抱きとめられていた。何時の間にか走っていたらしく、その勢いごと青年は受けとめてくれる。
 驚き顔を上げる。そして自分の息が随分と上がっていることに気づき、また急な眩暈に襲われた。 青年――ユーリが、しっかりと支えてくれていたので倒れることはなかった。
「どうしたの? 走ってたけど、何かあったの?」
 この間十七歳になったばかりなのに、意外に身体つきがしっかりしている事を知る。いつも抱きとめてくれる兄とは少し違うけれども、 男性らしい匂いに包まれて少しだけ恥ずかしくなる。
「訓練場に、行ったんじゃ、なかったの?」
 照れ隠しに質問しようとするも、息が上がっていて思うように言葉が出なかった。
「ジェノ上官と入れ違いになったんだよ。それよりティアさん!」
 彼は少々乱暴にこちらの肩を取って、顔を覗き込んだ。真っ直ぐこちらを見つめる孔雀石のように鮮やかな緑の瞳に吸い込まれるように、 ティアレルは見つめ返した。
「駄目だろう、走ったりしたら! 俺、心臓止まるかと思ったんだよ?!」
「え……、あ、ええ」
「びっくりさせないで欲しいよ、本当に」
 大きな溜息と共に、もう一度引き寄せられる。その時。
「おーい、ユーリがティアを口説いてるぞー」
 茶化すような声が上がり、二人はびっくりして周りを見回した。
 シーンを筆頭に、にやにやと笑う円卓騎士団の面子が遠巻きにこちらを見ているのだ。
 慌てたのかユーリが急に手を離すもので、ティアレルは均衡を崩して倒れこみそうになる。するとすぐにもユーリが腕を伸ばしてきて、 もう一度抱えるように支えられた。
「だ、大丈夫?! シーンが余計なこと言うからだぞ!!」
 耳元で怒鳴り声があがり、ティアレルは距離を取ろうとする。しかし眩暈が収まらない身では、彼にすがりつくしかなく弱さを痛感する。 それでも、こちらの重心を預けても全くびくともしない彼の逞しさに不思議と安心感を覚えた。
「おーおー、わりーな、大切な逢瀬を邪魔して」
「違うってば!!」
「ジェノ上官に殺されるな、お前」
「上官に言うなよ!!」
「セイニー上官に『百年早い』ってしごかれるのがオチだろ」
「姉上には関係ないだろ?!」
 周りの無責任な言葉に動揺して一々反応しているユーリの様子が可笑しくて、ティアレルは苦笑した。
 彼らのやり取りを見て、何だか一人悩んで突っ走っている自分が小さいもののように感じた。
 自分の息苦しさを止めてくれた存在。息苦しさを忘れさせてくれる感覚。認めてくれる人がいるということ。 自分を見ていてくれる人がいる、という事。
 それがとても尊いという事に気がついて、ティアレルはユーリが気づかない程度にそっと身を寄せた。

 今は彼らに救われた気がした……。


(2004.5.6)

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