墓と薔薇

3章 さよならの薔薇(8)

 軽く瞼を痙攣させてから開いた瞳が一番最初に視界に入れたのは、見覚えのある天蓋だった。 眠りから目覚めると大抵一番最初に目に入るものだ。
 何故か急激な脱力感に襲われる。
――夢……か
 花の嵐の中を手を引かれて歩く夢だった。虚ろにしか憶えていない。手を引いてくれていた人は誰だったのかとか、 詳細は全く覚えていなかった。けれども、手を引いてくれていたその温もりはまだどこか残っているような感じがして、 何とも言えない寂しさから毛布より手を出して確認しようと動かした。が、その手もぴたりと止まる。
――そういえば、わたし、いつ寝たんだろう?
 首をひねろうとするが、微弱な力では柔らかな枕に吸収されてしまった。

「デュシアン! デュシアン!!」
 疑問に瞬きをしていた彼女へ、不意に何かが覆い被さってきた。重いというよりも柔らかい。 いや、やはり重い――か?
 声からして継母である事はすぐわかったが、その激しい抱擁に疑問も何も吹っ飛んでしまう。
 継母の重みがかなりきついのでうめいていると、やや慌てたような声が継母を諌めに入ったのが聞こえた。どうやら異母弟のようである。
「母上、姉上は怪我人なのですから」
「ああ、そうだったわ! 私としたことが!」
 継母の重みが無くなるとほっとしたが、けれどもその温もりが離れるのが寂しくも感じた。
 取りあえずは何か心配させたようだし、起き上がって継母にこちらから抱きつこうと思ったが、思った以上に身体が重く、 起き上がれなかった。
 そして先ほどの疑問に振り返る。どうして自分は寝ていて、さらには継母と弟が自分の寝台の傍に居るのか、と。
 ぐるりと瞳だけで部屋を見渡すと、ここは間違えようもなく自分の部屋だった。白を基調とした調度品。深紅の絨毯。寝台の天蓋の模様。 どこを見まわしてもいつもの自分の部屋だ。ただ一つ違う事と言えば、 日の上がっている時間なのに寝台傍にある小窓は眩しくないようにとカーテンが閉められ、 僅かな光だけがレースの隙間から顔に降り注いでくることぐらいだ。
 そして視線を二人へと落ちつけた。もう一度見上げた二人の表情に、デュシアンは切ない気分になる。継母はとても疲れた顔をしていた。 泣きそうな顔だ。いつも綺麗に化粧しているのに今は全く白粉の気もない。弟は怒っているようにも見えた。 しかしそれは心配を隠す為の彼なりの意思表示である事をデュシアンはよく知っていた。 反抗期ゆえの天邪鬼だと察している。
 二人がどうしてこちらこそ心配になるような表情をしているのかわからなかった。
――わたしは、一体?
「なんで二人がここにいるの?」
 率直にそう聞くと、二人とも同じように瞳を丸く見開いて互いを見合った。
 どうして二人とも驚くのだろうと思って、まずは起き上がろうともう一度試みた。寝たままでは喉が圧迫されて話しづらいのだ。 そうでなくても何だか風邪をひいた時のように喉が痛くて話しにくいのだから。
「……あれ?」
 身体を起こそうと肘で寝台を押すが、その肘に力が入らずそのまま柔らかな寝台へと滑るように沈んだ。 起きたばかりだからだろうと思ってもう一度、今度は腕全体を使って起きようとしたが、どうしても上手く力が入らなかった。 また少し浮き上がった体が寝台へと沈むかと思われたが、継母が背に腕を入れて上半身を起こしてくれた。 レセンが枕を背にあてて、上半身を固定してくれる。起きぬけのせいか、少し頭がくらくらした。
 しかしこれで少しは話しやすくなったとお礼を言い、そして二人にもう一度同じ質問をした。
「デュシアン、昨日のことを覚えていないの?」
 継母は眉根をひそめ、寝台の端に座りながらデュシアンの手をとって包み込んだ。
「昨日……?」
 天蓋へ視線を泳がせながら考える。
「え、と。確か、一日中父様の書斎で書類を読んでて、夕方にラシェが来て喋って。これって昨日の事ですよね?」
「ええ。じゃあその後は?」
「夕ご飯を食べて、ラシェの遺跡話を聞いてて……、あ!!」
 彼女は瞳と口を丸くさせて固まった。
「北の守り!!」
 叫んだせいなのか、急に激しい咳に襲われた。その酷い咳があの衝撃を思い出させてくれる。
 背をさすってくれる継母から杯を受け取ると水を飲んで喉を潤し、すぐにも継母に縋りついた。
「しばらくは喉の痛みは続くそうよ。話しづらいでしょうってお医者様が。お医者様はコーエン男爵がご紹介して下さった方なの。 一緒にコーエン男爵もいらっしゃったわ。私たちに少しだけ何があったのかを語って下さったのよ」
「北の守りは大丈夫なのですか?」
 もう一度水を飲み、やっと絞り出た涸れた声で聞いた。
「ええ、ええ、大丈夫よ、心配いらないそうです」
「え……?」
 驚いて瞬きも忘れた娘に、継母は満面の笑みを向けている。
「さっき正式な書簡も届いたわ」
 継母はレセンを振り向くと、レセンはテーブルの上にあった白い封書を取ってこちらに差し出してきた。 それを受け取り、溶かした蝋に印を押して閉じてある封書を乱暴に開けてデュシアンは内封されていた書簡に目を通す。
 それはコーエン男爵からのものだった。内容は大まかに、《北の守り》の亀裂が綺麗に塞がった事、 三枚目の結界の構築魔法を取りやめた事、それからデュシアンの功績を称えるものであった。
 読み終わった後デュシアンは軽い眩暈を憶えて手紙を膝の上に置き、額に手を当てて項垂れた。
「……覚えが無い」
 そう小さく呟く。
 覚えが無いのだ、《北の守り》の亀裂を塞いだ事が。
――何で? どうやって……?
 三度目の衝撃を耐えたのまでは記憶にあった。酷い衝撃で背骨が折れるかとも思った。 咳が酷くて喉が擦り切れて口の中に血の味が広がったのも、 長期間吸っていた瘴気のせいで肘や膝が痺れて力が入らず、立っているのがやっとだった事も憶えている。
 しかしその後の記憶が全くないのだ。
 霞みがかっている、とかそう言った類のものではない。喉元まで出かかっているとか、何かがきっかけで思い出せるとか、 そういったものでもない。全く記憶の中に存在していないのだ。
 記憶に無いのは意識を失ったからとしか思えないが、意識を失った人間が魔力を制御できるはずが無い。 意識を失った時点で維持魔法は解かれてしまっていたはずだ。
 だからアイゼン公爵が異変に気づいてダグラス将軍を呼び、 将軍が代わりに維持魔法を行使してくれたのかもしれないと思った。けれども書簡には自分が全てを成し遂げた、と書いてあった。 更にはダグラス将軍に奇跡と言わしめた、とも書かれてある。
 こちらへ花を持たせるために言ってるわけではないらしいことは文面からわかる。第一、 こちらに花を持たせるにはあまりに多くの人が関わり過ぎている。コーエン男爵、アイゼン公爵、そしてダグラス将軍。 三人の知識人が口裏を合わせてデュシアンを擁護する謂われはないはずだ。
 だとすると、どうやら本当に自分一人でやったらしい――がデュシアンには納得がいかなかった。
――どういうこと?
 頭を抱え込む。
 しかし、すぐに顔を上げて継母とレセンへ視線をやった。
 継母の疲れきった顔と、弟の苛立った顔。どちらも心配そうに歪んでいた。二人にはいつも心配ばかりかけてしまうが、 デュシアンは今回ばかりは二人への配慮よりも自分の頭の中の整理を優先させた。
「ごめんなさい、一人にさせてもらってもいいですか?」
 デュシアンは申し訳なさそうに視線を逸らした。
 継母もレセンもデュシアンの立場を分かっているのだろう、すぐにも頷いてくれる。
「でも、一人で出歩いたりしないでね? まだ一人で歩くのは無理だから。呼び鈴を鳴らして」
 傍のテーブルに小さな呼び鈴が置いてあり、継母はそれを指し示す。デュシアンが数度頷くのを見て、 継母とレセンはそれ以上何も言わずに部屋を出ていった。
 二人の気配が扉の向こうから完全に消えたのち、デュシアンは大きく息を吐いた。
「なんで、だろう?」
 身体をずるずると滑らせながらうつ伏せになり、ふかふかの枕に顔を埋めた。
――どうしてこんな大切なことなのに、記憶がないんだろう?
 堅く目を閉じて、闇に視界をおとす。
――まるで誰かにごっそりと記憶を取り除かれたみたい
 その時、ふわりと鼻孔をくすぐるような淡い香りに感覚を奪われた。
 枕から顔をあげて傍のテーブルへ視線を動かすと、純白の薔薇が陶磁器の花瓶に活けられているのが見えた。 よく見ればその薔薇の形は少し独特で、薔薇とはちょっと言いがたい形をしているようにも思える。
――夢の中でかいだのと同じ匂い……
 いつものように届いた薔薇なのだろうが、いつもと違うような気がした。 匂いも同じ薔薇の香りなのに、どうしてかこれだけは特別違う匂いのようにも感じた。
 夢の中で降り注いできた花びらは、きっとこの花の花びらなのだろうと不思議な確信を持ってしまった。
――あの夢は一体何だったんだろう?
 そんな疑問がぼんやりと頭に浮かぶ。どうして闇の中にいたのか。どうして花びらの雨が降ってきたのか。 そして手を引いてくれていた《あの人》は自分をどうしようとしていたのか。自分の手を引き、 どこかへ連れて行こうとしたあの男の人。
――あの人、どんな顔してたっけ?
 夢で自分の手を引いた人の顔を思い出そうとしても花の嵐が邪魔をして思い出せなかった。知っている人だったような気がする。 それもごく最近見たような……。
――薔薇を贈ってくれる人、かなぁ
 ぼんやりとそんな事を考えながら枕に顔をもたげ、次第にまどろみの中へと意識を落としていった。


 人の気配がして継母かと思い、重たい瞼をゆっくりと開いた。口元にあった手で目を擦る。
 ぼやけていた視界に映り込んだのは鳶色髪の従兄ラシェだった。寝台の傍の椅子に腰掛け、 いつもよりも幾分優しげな風貌でこちらを見下ろしている。
「起こしてしまったか?」
 格別の優しさを含んだその声色が耳にくすぐったく、つい苦笑してしまう。枕の上に手を置き、 そこに頬の乗っけてラシェを見上げた。これなら喉も浮くし話しやすい。
「大丈夫か?」
「うん」
 気遣わしげな彼の様子がらしくなくて、デュシアンは少しだけこの状況に感謝した。 ラシェがこのように優しい言葉をかけてくれる事などなかなか無い。自分にも他人にも厳しい人だから。
 こそばゆくてつい口元が弛んだが、ラシェの表情が硬くなっていったのを見てデュシアンは表情を引き締めた。
「少し、考えたのだが……」
 ラシェは更に彼らしくなく、歯切れ悪く切り出した。デュシアンは静かに彼の次の言葉を待つ。
 彼は視線をさまよわせてから一度瞳を閉じ、そしてもう一度開いた時には迷うことなくデュシアンを見つめた。 どうやら話す決心がついたようだ。
「もしお前が望むなら残りの三年弱、俺が爵位を継いでもいい。もちろんレセンが成人したら爵位は譲る。 ラヴィン家の土地や建物、財産にも手は出さない。それは誓って約束しよう」
「……ラシェ」
 デュシアンはまさかそのような事をラシェから言われるとは思わなくて、瞳を見開いた。
「お前が望むなら今すぐにでも、この瞬間にでも引き継ごう」
 ラシェのこの決意はデュシアンの気持ちを汲んでくれてのものだった。それが伝わり、胸が苦しいぐらい一杯になる。
 永遠でない公爵位と財産や土地などが手に入らない条件など、 公爵を退いた後のラシェには何も残らないどころか学者業も廃業しなければならない事態になる。
 何故なら彼の研究分野は優秀な同業者が多く、また各地の遺跡へと頻繁に足を運ぶ必要がある分野なのだ。 しかし《北の公》には一ヶ月以上首都を離れてはいけない事と、 一年のうち四分の三は首都にいなくてはならないという制限がある。
 その制限下では、彼は自分の研究を円滑に行えるはずはないのだ。つまり他の研究者に遅れを取る、ということである。
 何の利益もない条件で爵位に就くと言ってくれているのは、彼の優しさ以外のなにものでもないだろう。
「ありがとう。ラシェの気持ちは嬉しいよ」
 デュシアンはその気持ちに感謝した。本当に心から嬉しかった。彼は情で動く人ではない。いや、 情で動くまいと冷静さを装おうとしているような人だ。そのラシェの気持ちを動かせたことがデュシアンはとても嬉しかった。
 けれども、中途半端なままラシェに責任を押し付けるわけにはいかない。 それに学者業は彼には天職だという事はデュシアンもよくわかっている。ラヴィン家当主の座も財産も永遠に勝ち得る訳ではなく、 学者業まで廃業させる事になっては申し訳無いと思ったのだ。
「母様やレセンにこれ以上心配かけたくないし、ラシェの方がずっと公爵に相応しいって分かってる。 でも、きちんと責任とらなくちゃいけない事があるから。それが片付くまでは私は公爵を辞める事はできないよ」
「責任?」
「文書、盗まれた、の」
 デュシアンは自分の言葉に戸惑った。 『盗まれた』という言葉を口にするのにまだ自分の中で躊躇いがあるのだ。 巫女が盗んだと思いたくない気持ちがそうさせているのだが、巫女でなくても『誰かが盗んだ』と口にする事に、 強い憚りを覚えていた。
「聞いてる」
 驚いた様子もなく頷くラシェに、デュシアンの方が驚いたがすぐにも理由は思い当たった。
「ウェイリード公子から?」
 そう聞くとラシェは小さく頷いた。
 ウェイリード公子はラシェから色々と聞いてデュシアンが北の守りに関する文書が盗まれたのではないか、と勘付いてくれたのだ。 ラシェが知っていても当然といえばそうだろう。
 しかし今までの彼なら『だから言っただろう』等の嫌味の一つでも言いに来るであろう事柄なのに、 今回に限っては知っていたくせに何も言ってこなかった。それがデュシアンを少し不思議な気持ちにさせた。
「しかしあれはお前が責任を感じるものでもない」
 ラシェは、らしくなくデュシアンから責任を取り上げようとする。彼の心境の変化を計りかねて、 デュシアンは眉根をしかめて首を横に振った。
「私の責任だよ。私は未然に防ぐことが出来たのに、無知なせいでみすみす盗まれたのだから。 それに巫女さんに犯罪を犯させてしまった」
「それはお前が悔やむことではない。自己責任だ。誰に指図されようが、犯罪を持ちかけられて嫌だと言わない人間が悪い」
「……うん」
 デュシアンは納得することができなくて、生半可な返事を返した。それに呆れるように大きなため息が聞こえる。
「それだけじゃなくてね」
 しかしそのため息を全く気にする事なく、微笑みを向けた。
「もう少し頑張れるかな、て。父様には逃げてばかりのわたしを見せてたから。だからもう少し頑張りたいの。 きっとあの薔薇をくれる人も、わたしのがんばりを見ててくれてると思うし。がっかりさせたくないなって」
 デュシアンは子どものように無邪気な表情で笑った。それを見たラシェが酷く眉根をひそめ、 苦々しい表情をしたことにはデュシアンは気づかないふりをした。  しばらくラシェは視線を寝台の上のデュシアンから逸らし、何やら考えている風体だったが、考えが纏まったのか視線を戻して頷いた。
「わかった。ただ、無理だけはするなよ」
「うん、ありがとう、ラシェ」
 デュシアンは満面の笑みを振りまきながらラシェを見つめた。ラシェもその表情に毒気を抜かれたように苦笑した。
「そうだ。一つお願い出来る?」
 思い出したように機嫌の良さそうな彼にそう告げる。普段なら一蹴されてしまう彼女のお願いだ。
「あのね、薔薇をね、父様のところに持っていきたいの」
「これか?」
 傍にあるテーブルの上の薔薇を横目で見る。
「うん。一人で行くって言うと母様納得しないから一緒に行ってもらってもいい?」
「ああ。しかし別に今日でなくても……」
「今日がいいの」
「……わかった」
 デュシアンは快く引き受けてくれたラシェの好意が嬉しくて微笑むと、腕に力を入れて上半身を起こした。 先ほどよりは力が入って身体を持ち上げることが出来る。痺れも取れたのだろうとほっとして自分の身体に掛かっていた毛布を捲くり、 足を寝台から下ろして靴を履いた。足も動くことに味を占めて、身体の重心を腰に預けて一気に立ちあがろうとする。
「あ」
 が、彼女の足は全く彼女の身体を支えてはくれなかった。前のめりに倒れ込み、反射的に差し出されたラシェの腕にしがみ付いた。
「おい!」
 ラシェは慌ててもう一方の手をデュシアンの背に回して身体を支え、顔を覗き込んだ。
「ご、ごめ……」
 まさか膝に全く力が入らないとは思っていなかったのでかなりの衝撃を受けてた。混乱のために額には冷や汗が浮かぶ。
 ラシェは一層顔を顰めると、デュシアンを抱き上げて寝台に寝かしつけた。 脱げかけた靴もついでに取り払い床に置くと静かに毛布を掛けてくれる。
「ごめん、ラシェ」
「……いい。ゆっくり休め。まだ本調子じゃないようだし。あの薔薇を叔父上のところに持っていけばいいんだろう?」
「うん。半分だけ持っていきたいの」
 ラシェの顔が怒っているように見えて、デュシアンは首を傾げながら答えた。
「わかった。お前の代わりに持っていこう」
「いいの?」
「ああ。だからお前は何も考えずゆっくり休め」
「……うん、ありがと」
 寝台に仰向けに身体を置き、枕に頭を乗せて微笑むデュシアンを見て、 ラシェが叔父アデルの臨終間際を思い出して背筋が凍らせたことを、デュシアンは知らない。
 まるでこれ以上、寝台の上に身を置く従妹を見ている事が耐えられないと言いたげにラシェは視線を逸らすと、 花瓶の中の薔薇を半分持って部屋を後にした。

「ラシェがあの薔薇を持っていたけど?」
 しばらくしてラシェと立ち代わるように継母がトレイを持って部屋に入ってきた。花瓶にまだ薔薇が残っていることに気づくと、 『あら、全部じゃないのね』と呟いた。
「――うん」
 デュシアンは継母から視線を逸らして頷いた。
「父様のところに持っていってもらったの」
「アデル様のところに?」
「うん」
 娘が意図的に視線を反らしている事を継母は気づいるだろうが、 彼女はそのことについて何か咎めたり理由を尋ねたりするようなことはしなかった。 その代わり、満面の微笑みを見せながら手に持つトレイをデュシアンの目の前に持ってきた。
「見て。イリヤと作ったのよ」
 誇らしげに継母はトレイの上のものを披露する。
 ふんわりと漂う香ばしい匂い。漉したとうもろこしと牛乳のスープや胡桃と干し葡萄の入ったバターたっぷりの丸パン、 ラヴィン家では欠かす事の無い木苺のジャム。野菜と自家製ソーセージの入ったポトフ。 こんがりときつね色に焼けたミートパイに、クリームの乗ったかぼちゃのプリン。 どうみても起きかけの人間の食べるような量ではない。
 統一感はないが手間のかかった美味しそうな料理の数々に、デュシアンは継母の気遣いを感じて、嬉しさに堪えきれずに笑いだした。 継母も一緒になって笑ってくれる。
「いつも母様やイリヤが厨房をいじくっていたらグレッグが可哀相です」
 厨房の主、お抱え料理人のグレッグが料理自慢の夫人とそれを器用に手伝う若執事に対抗意識を燃やしている事は、 デュシアンもグレッグ本人から聞いていた。『私を追い出す気ですかね』なんて言っていた彼の愚痴を思いだし、 更に笑いがこみ上げてくる。
 しかし継母の肩越しに見えた薔薇を見て、膨らんだ気持ちが急に半分以下にしぼんでしまった。 こんなに素晴らしい継母へと隠し事をしていることの後ろめたさが大きくなったのだ。
――ごめんなさい、母様……
 表情が曇りそうになり、慌ててトレイの上に並べられた料理を選ぶよう見せかけて継母から顔を逸らした。
「どれから食べようかなぁ……」
 こんなに優しく気遣ってくれる継母に、自分がおかした罪。
 大好きだからこそ継母には悟られるわけにはいかなくて、デュシアンは食べ物へと意識を集中させて、 考えないようにした。



+   +   +



 一番最初に城下町に時を告げる鐘を鳴らすのは首都を見渡す事の出来る高台にある教会の役目だった。
 この教会の鐘が鳴ると城下町にある他の教会も一斉に鐘を鳴らし始める。そうして街中に時刻が伝わるのである。
 ラシェが高台を上りきった時には眼下の教会の音が響くのみで、一番手に鐘を鳴らす目の前の教会はもう鐘を鳴らしていなかった。 しかし耳にはわずかに残響が残っている。
 日もやや傾きかけてきたこの時間にここへ訪れる者は少ないらしい。背の低い草を二分して出来た玉砂利の道を一人進み、 教会の横にある墓地へとラシェは足を進めていた。
 ここには由緒正しい家柄の墓標が立ち並ぶ。その為に管理するこの教会は汚れが目立ちやすい象牙色の壁も頻繁に塗り替えたり、 豪華なステンドグラスを全ての窓に供えつけることが出来るほど潤っていた。
 そんな贅沢の限りを尽くす教会を背にしながら、前方、目標とする墓標の前にいる先客の姿を捉えてラシェは目を細めた。
 先客である青年は砂利を踏みしめて歩くこちらに気づき、下げていた首を上げて振りかえり、
「……墓参りか?」
と尋ねてきた。
「こんな時間に墓参りとは、お前も変わってるな」
 ラシェは少々機嫌が悪そうに鼻で笑う。相手がこのような時間をわざわざ選んでいる理由は分かっていた。
 午後二刻目を過ぎての墓参りは基本的にあまり好まれるものではない。 それをあえてやっているのはその時間帯を過ぎれば滅多に人と合わないで済むからだ。 つまりは誰の目も気にする必要もなく墓に参れるというわけである。
「それは?」
 青年の視線がラシェの手に持つ薔薇の花を捉えていた。
「半分墓前に持って行ってくれ、と頼まれた」
「……そうか」
 青年は特に何か感じた様子も見せずに視線を足元の墓標へと移した。
「いつまで続ける気だ? 叔父上の名を語り、花を贈るなんて事を」
 ラシェは鋭く光る赤い瞳で睨みながら投げつけるような口調で聞いた。
「……彼女が一人立ちできるまでだ」
 相手の苛立ちになんら臆する事無く落ちついて青年は答える。
「遺言をきっちり守るつもりか? それがデュシアンに重荷となっていても続けるというのか?」
 らしくなく怒りに興奮している自分に気づき、ラシェは一呼吸置いて首を小さく振り、荒ぶる感情を押さえ込んだ。
「あの薔薇はあいつを無理に頑張らせようとしているんじゃないのか? 父が見てる、 父から薔薇を送ってくれと頼まれた人が見ているから、だから無様なことは出来ない、と」
「……彼女がそう言ったのか?」
 予想外の事だったのか、青年は眉間に皺を寄せてこちらを振り返った。
「そうだ、と言ったらお前は薔薇を送るのをやめるのか? それこそデュシアンを傷つけると分かってるのか?」
「わかっている」
 青年は真っ直ぐにこちらを見据えて強い口調で応えた。物を深く考え、 そして相手を洞察しながら喋る彼は生半可な言葉を発したりはしない。
 責任は取る。
 そう言いたいのだろう。彼がそこまで強く出る事は珍しかった。
 もともとラシェは彼を信用していない訳ではない。 自分より年下だが年齢以上の風格がある上それが見掛け倒しではない事をよく知っている。信頼のおける人間である事は確かなのだ。
 そんな彼がはっきりと言うのなら仕方が無い、とラシェは息を吐いて憤りを諌めた。
「ならばお前にあいつを任せる。叔父上がお前に託したんだ、理由があるんだろう。すまないが面倒みてやってくれ」
「……ああ」
 乾いた冷たい一陣の風が吹き荒れ、ラシェの持つ薔薇から数枚の花びらを奪っていく。それがひらひ らと宙を漂う様を、灰の瞳を持つ青年は静かに見つめていた。


3章  終


(2004.4.23)

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