漆黒の世界だけが眼前に広がっていた。
走っても走っても闇から抜け出ることは出来ず、景色の変わらないその世界でいつしか諦めて足をとめた。
もう一度辺りを見まわしても誰一人いない。
それはとても心細いことであるはずなのに、それなのに誰もいないという事にどこか心地良さを感じていた。
闇だけに包み込まれるような安堵感。
闇が自分を全て覆って、自分を全てのものから助けてくれるような気がした。
ここなら誰にも見つからない……。
ずっとここに居たい。
そう思った時、目の前を白いものがひらひらと不規則に舞いながら降りてきた。
雪かと思い、手を伸ばすとその手のひらに落ちてきたのは花びらだった。
天を見上げると、まるで闇の中に少しづつ光を照らすように薄く発光しながら無数の花びらが落ちてくるのが見えた。
落ちてきた花びらは、まるで《ここにいる》と主張するように自分の周りにだけ積もっていく。
折角隠れることが出来て安心していたのに、どうして光を当てるの? お願い、放っておいて。
そう心の中で叫ぶと、辺りに落ちていた大量の花びらが舞い上がった。
驚いてそれを見ていると、舞い上がってそしてまた落ちていく花びらの向こうに視線を感じた。
そこには、見たことの無い青年がいた。
黒い髪。深い青の瞳。
「だれ?」
その問いには答えずに、彼は黙って手を差し伸べてきた。
反射的に身を引く。
「貴方はだれ?」
彼は答えなかった。聞こえなった。ただ表情も変えず手を差し伸べるのみ。
その手を取ることはあまりに無謀な気がした。
誰だか分からない彼にどこに連れて行かれるか。どこで手を離されるかわからない。
ここは安心できる場所だった。
闇は自分を優しく隠してくれるから。全てから守ってくれるから。
彼の手に手を重ねれば、隠れることが出来なくなるかもしれないと思った。
守ってくれる闇から抜け出る事になるかもしれない。
けれども、ここは孤独だった。
たった一人で、誰とも話すわけでもなく、ただ闇に包まれているだけの場所。
《彼》の存在を知った後にここで独りうずくまるのは寂しいことなのかもしれない。耐えられないかもしれない。
だから、その手を取ることにした。
不安も恐れもあるけれど。
もし彼に手を振り解かれたら見失わないように彼の背を追えばいいと思った。隣りを歩けばいいと思った。
彼の手のひらは、こちらがおずおずと伸ばす手がきちんとその身を預けてくるまで一寸たりとも動かなかった。
そしてこちらの迷いが全くなくなったように手が力を預けると、ぎゅっと強く握ってくれた。
それが、とても嬉しかった。
知らない彼だけれども、握ってくれる手の力強さがとても安心できるものだった。
彼を見上げて微笑むと、彼も微弱ながら笑ってくれる。その不器用そうな微笑みが、何だかとても魅力的に感じた。
手を繋ぎ並んで歩くその行きつく先はわからない。ずっと闇なのかもしれない。ここから抜け出る事は出来ないのかもしれない。
けれどもそんなことはどうでもよく思えた。
闇は怖くは無い。ただ孤独なのは嫌なだけ。
光を運ぶ花の嵐の中歩みを進め、少しづつ、少しづつ辺りの闇色が薄くなっていった。
彼の手が、一層強くこちらの手を握る。おいていかないから、一緒に出よう――そう言ってくれているような気がした。
頷いて、こちらからも強く握り返した。
すると、花の嵐が息も出来ないほどの激しさでこちらを包み込み始めた。
必死で彼の手を握ると、彼も握り返してくれた。
離れたくない。
心の中でそう願いながら、むせかえるような薔薇の香りに急激な眠気を誘われる。
視界が光で溢れて、そしてその手のぬくもりだけが遠のく意識に最後まで残っていた……。
(2004.4.3)
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