墓と薔薇

3章 さよならの薔薇(6)

 《北の守り》のある《悪神》の居城はとても巨大な建物である。しかし、その内部は殆どと言って良いほど把握は出来てはいない。
 一枚目へと通じる魔方陣からは《柱の間》と《蜜蝋の階段》、それから《封印の間》の三つの場所へしか行く事が出来ず、 二枚目へと通じる魔方陣からはいきなり牢獄へと通じる場所に放り出される。後ろを振り向けば先の見えない長く細い階段が見えるが、 ここを昇って帰って来た者はいないと言われている。 そしてもう一方の正面の道は真っ直ぐ伸びた永遠に続くかのような長くほの暗い道である。 その両脇にずっと並ぶ鉄格子の牢獄が息苦しさを与えてくる。この正面の道には二枚目の結界部分へと通じる以外は道は別れない。 つまり、城を探索するには後ろの階段を昇るしか道はないのだ。だから城内部は全くその様相を知る事が出来ないのである。
 そしてもう一つある魔方陣がこの城を眺める事の出来る位置に通じている。 しかしそこは針のような山のてっぺんの断崖絶壁であり、そこからは城に近づくことは出来ない。 その崖を降りようと岩の尖った部分にロープを結わいてそれをつたって降りていった者もいたらしいが、 突如とした突風と空を飛ぶ魔物の格好の餌となってしまったという。では何の為の魔法陣であるのかとの議論はされてはいたが、 一枚目か二枚目にもしもの事があった時に三枚目を構築できる為に用意しておいてくれたものだろう、という結論が出されていた。
 今現在ブラウアー子爵がそこで三枚目の結界の構築魔法を行使している事から、 その結論が正しかったことが証明されたようであった。


「どうした事だ?」
 《第二の守り》の結界に手を付けて精神を結界の構造部分に入らせていた父、アイゼン公爵が顔を急に顰めた。
「父上?」
 それを傍で見守っていたウェイリードは幾分苛立った面立ちで詰め寄るった。
 まさか、と思う。一瞬背筋が凍りついた気がした。
 二枚目へと精神を飛ばしているアイゼン公爵は一枚目である《北の守り》の内部の様子を事細かに知ることが出来るのだが。
「……ありえん」
 公爵はもう一度ぽつりと呟いた。
「どうされたのですか?」
 ウェイリードは今度は強く父へ説明を募る。様々な悪い方向への憶測だけが頭を飛び交っていて収集がつかないのだ。
 すると、アイゼン公爵は一呼吸してから答えた。
「……一枚目の結界の亀裂がなくなったのだ」
「え?」
 その言葉は想像の範疇を越えていたので、瞳を見開いた。全く持って考えが及ばないことだった。 しかし同時に彼には一つだけ思い当たることがあった。激しい動悸に襲われる。
「どうした事だ、ありえん、こんなに早くに――まだ二時も経ってはおらんのに……。 あのような大きな亀裂をどうやってこんな短時間で……」
 父は混乱しているようだった。滅多にない事だ。法律家として、公爵として、 普段から動じないように気を張る父の目に見える困惑は珍しい。それがかえってウェイリードを冷静にさせてくれた。
 考えられることは一つだけ。
――……奴だ
 悦楽に歪んだ笑い声が聞こえたような気がする。
 今すぐにも彼女を助けに行かないといけないと心臓が警鐘を鳴らす。
「とにかくウェイリード、すぐにも三枚目の危険な構築魔法を止めるよう伝令を。 一枚目の亀裂がなくなったのならば三枚目を敷く必要はないのだからな。それからラヴィン公が結界との繋がりを断ったようだ。 倒れているやもしれぬ、すぐにも――」
 父の言葉を最後まで聞かず、ウェイリードは足早に帰路へと歩みを進めていた。 助けるにも確認するにも、まずはここから一旦出て神殿へ戻り、 一枚目へと通じる魔法陣へと入り直さなければならないからだ。
 しかしここはそう易々と帰してくれるような場所ではない。先へと進む者を迷わせる《迷宮魔法》の中でも最上級に人を惑わせる、 今では廃れた稀有な魔法《永久回廊》がこの場所には掛けられているのだ。
 この魔法は一歩足を踏み入れる度に壁が移動し、道を変え続け、 入り口と出口は一つずつしかないのに道だけは有数に別れているのである。 本来《迷宮魔法》は視覚を惑わせるだけの魔法なのだが、《永久回廊》だけは例外であった。 これを抜けるには大変な苦労と時間が伴う。
――あまり頼りにはしたくないが……
 ウェイリードは迷宮へと足を踏み入れる前に手を瞳へとかざした。
「誰でもいい、道を教えろ」
 彼は命令口調で呟いた。
 そして手を離すと、彼の瞳は闇に紛れた一つの《影》を捉えた。その《影》は壁の隙間に身体を入れたり出したりして、 大きな一つの瞳を瞬きをしながらこちらを伺っている。
「闇の精霊……か。場所に相応しいのが出てきたな」
 不意に苦笑が零れる。
「焼かれたくなかったら、道を教えろ」
 その言葉に魔力を込めれば、意図を理解したのか《影》が一瞬ぶるぶると震えた。そしてしばらくその場を旋回し、 《影》は迷宮へと誘いだした。その後を付いて行く。
――しばらくは闇の精霊には力を借りれないな……
 《影》はたまに振り返りながら、こちらを窺うようにひょこひょこ一本足で進む。こちらが歩みを強めれば向こうも進む速度を早める。 どうやらこちらとは一定の距離を保ちたいらしい。
 精霊に嫌われることは本意ではないが、そうも言ってられない状況だった。 《永久回廊》を迷わずに抜けるには魔法の根源となる精霊に道案内させるのが一番なのである。
 ものの数分で迷宮を抜ける事が出来た後、ウェイリードは闇の精霊に礼を言ったが影はすぐにも姿を消してしまった。 どうやら《焼く》という脅しを魔力の波長でもって感じ取り、相当堪えたようだった。 しかし悪戯好きで気まぐれな精霊たちへ頼み事をする時は脅しでもしない限りきちんと聞いてなどくれない。 危険は承知の上での脅しだった。だから気にする事無く次の道を走りぬける。
 不気味なまでに静まり返ったその道はあまりに長く、また両脇に永遠に続くような牢獄には誰もいないはずなのに、 ねっとりとした視線を向けられているような居心地の悪さを与えてくる。 その上、こちらの方が閉じ込められたような無言の重圧に負けそうになるのだ。
 だからここを歩く者は、半分もいかない内にあまりの正体不明の恐ろしさに怯え、退き返したくなるという。 幻聴や幻視を起こす者も少なくない。一説に寄れば解明されていない《精神魔法》の一種がここにはかけられていると言われているが、 定かではない。だが正常な頭の持ち主でもどうやら幻覚が起こり得ることから、何かあることだけは確かなようだった。
 しかし、もとより慣れきったウェイリードにはその恐怖はもはや最初から無いものに等しい。 例え両脇の牢屋から自分を呼ぶ声が聞こえても、鉄格子から伸びてきた腕が自分の足を掠めても、 後ろから誰かが付いて来るような音がしても、前に何ものかの大きな影が潜んでいようとも、何とも思わなくなっていた。 むしろ煩わしいとさえ思っている。
 そんな中、そこを走りぬけて魔法陣へと辿りついた。


「おお、ウェイリード公子、どうされました?!」
 二枚目へと通じる魔法陣から出てきたこちらに、蒼白な表情でうろうろと部屋内を歩き回っていたコーエン男爵が寄ってきた。 どうやら議会出席者の彼だけは心配で、ここに居てくれたようだった。といってもここに居ても何の役にも立たない―― はずだったが、今の状況には調度良かったし、出席者が彼一人というのが好都合だった。
 こんなに早くに彼が出てくることにコーエン男爵は何か嫌な予想でもたったのだろう。 ウェイリードは一枚目の状況を知る事のできるアイゼン公爵の伝令役として二枚目の方に入っているのだから、 その彼が血相を変えて出てくれば驚くのも仕方の無いことだったが。
「ウェイリード!! デュシアンに何かあったのか?!」
 コーエン男爵を丸め込んだのだろうか、一般人は入室禁止なはずのこの部屋に、 ラシェとラヴィン家の若執事がいるのはウェイリードも魔法陣から出てきてすぐに視界の隅に確認していた。
 ラシェは彼らしくなくこちらを掴みかかりそうな勢いで駆け寄ってくる。若執事も悲痛な面持ちだ。 しかし今二人に細かく説明してやれる余裕はなかった。だからそちらへ目をやるも、すぐにもコーエン男爵へと視線を移した。
「コーエン男爵。一枚目の亀裂の補修が完了したようです」
「え……?」
 コーエン男爵は呆けたように口を空けて、しばらく言葉を紡げなかった。
「私は中に入って確認してきます。ラヴィン公を連れて戻るので、コーエン男爵はダグラス将軍にこの旨を伝えて下さい」
「ちょ、ちょっと待って下さい、こんな早くに亀裂の修復が完了するのはありえないでしょう?!」
 男爵の疑問にいちいち答えるのがウェイリードは時間の無駄に感じて、眉を寄せた。
「ええ、私も信じられません。しかしラヴィン公は《北の守り》から精神を切り離しているようなのです。 恐らく倒れているのでしょう。だからどちらにしろ、ダグラス将軍に来ていただきたい」
「わ、わかりました。すぐにも」
 どうやらラヴィン公が倒れた、という事実を聞いてコーエン男爵は冷静さを取り戻してくれたのだろう。 踵を返して議会の行われる部屋で待機をしているダグラス将軍の所まで伝令に行ってくれた。
「ウェイリード!! デュシアンは倒れているのか?!」
 静かに話を聞いていたラシェは今度は自分の番だと言うように掴みかかって聞いてきた。
 胸倉を掴む手を離させ、ウェイリードは首を横に振った。
――倒れている、倒れていない、が問題ではない……
 そう思うも、それを言うわけにはいかないと、ウェイリードは視線を落とした。当たり障り無いことしか自分には言えない。
「そこまではわからない。ただ補修が終わって、維持魔法を解いてしまっている状態だということしかわからないのだ」
「お嬢さまはご無事なのでしょうか?!」
 若い使用人が心配気に尋ねてくる。周りから大切にされていのだ、無事に連れかえってやりたいとウェイリードは思った。
 だからこれ以上ここで時間を食うのは命取りだと踵を返す。
「馬車の用意をしておくといい」
 北の守りへ消えて行くこちらの最後の言葉を聞くと、若執事が部屋から出て行くのが見えた。


 瘴気は目に見えるものではないが、空気の密度からしてかなりの濃さになっていることが想像できる。 濃度を測ればいつもの有に十倍は濃いものであるだろう。気配だけで探ればここにいつもいた精霊たちも殆ど逃げ出しているようだ。
 ウェイリードはそんな中に彼女を一人でやった自分の愚かさに悔やみきれないものを感じた。 ここであのか細い娘が防御壁も敷かずに独り強い衝撃に耐えていたのかと思うとぞっとした。
 自己嫌悪に陥りながら《蜜蝋の階段》を昇りきった時、ウェイリードは目に飛び込んできた視界に凍りついた。
 最上段で固まってしまった彼は、しばらくして大股で結界部分に近づく。その表情は今までに見せた事の無いくらい険しい。
「やはり貴様か……。どういうつもりだ」
 あと数歩、という所まで近づいて足を止めた。 相手の出方を見てから動かなければ彼女が危険だということをよく分かっているからだ。
「やあ、ウェイリード」
 漆黒の男はウェイリードの苛立ちを全く無視して微笑を浮かべ、腕の中のラヴィン公をしっかりと抱き直した。
 男の腕の中の彼女は意識がないのか漆黒のローブに身を包んだ男に身体を預けている。 彼女の表情には苦痛の影は見えないことがウェイリードの苛つきを助長する。
「お姫さまを迎えに来たのかい?」
 男はラヴィン公に向いたウェイリードの意識をこちらへ向けようと、声をかけてくる。
「一体何の真似だ。彼女に何をした?」
 眠っているだけなのか、それとも何かしたのか。ぎりぎりと歯を食いしばる。
「彼女に力を貸しただけだよ。三枚目の構築魔法の衝撃でそうとう苦しんでいたのでね。見るに見かねたのだよ。 今は眠りの魔法で眠っている。それにしても可愛い眠り姫だね、アデルが可愛がっていただけあるよ」
 男は空いた左手でラヴィン公の頬にかかる髪を払い、その手で頬を一度撫でた。怒りで我を忘れそうになる。
「……何が目的だ」
 そう聞くと、男はさも心外だ、と言いたい表情でこちらへ闇色の瞳を向けてきた。
「いつも君は僕にそう聞くね。でも聞くまでもないだろう? 君は理解しているのだから。 僕が《何者》なのか、そしてその目的は《何》なのかを、ね」
 男の目はまるで見透かすようにこちらを向いている。
 その居心地の悪さにウェイリードは話を反らすように本題に入った。
「ラヴィン公を渡してもらう」
 強い響きを持った言葉とは裏腹に額に汗が滲む。『嫌だ』と言って、そのまま《なか》へ逃げられたら終わりだからだ。
 しかし男はそこから一歩も動かずにウェイリードが近づいてくるのをせせら笑いを浮かべながら待っている。 目の前まで来ても男は一歩も退かない。ラヴィン公を奪おうと伸ばしたウェイリードの手に、男は彼女を差し出した。
 それには驚いたが、男の気がいつ変わるかもわからない。すぐにも彼女を引き寄せてその身体を腕で支えた。 そして、一歩下がる。額の汗が頬を伝い、顎から滴り落ちた。
 男が手を伸ばしても彼女が届かない範囲まで。
 しかしウェイリードは知っていた。どこに逃げようとも、この男が伸ばしてきた手から逃げることは出来ない、と。 できるはずがない、と。今回はその気はないのだとやや安堵した。
 彼女の状態を確認する為に視線を落とす。どうやら意識がないだけ――男の言うように、 《眠りの魔法》がかかっているだけのように思えた。それ以外の魔法の力は感じない。 何らかの精神魔法のかけられていた余波は感じられるが、それが彼女の精神に根づいている痕跡はなさそうだった。
 だが安心するのはまだ早い、とウェイリードは素直に彼女を渡した男へと向き直った。
「……彼女の記憶に残っているのか?」
 これが一番大切な部分かもしれない。心音が耳に響く。
 彼女がもし《この男》の事を憶えているとすればどのように言い包めれば良いのか案がないのだ。
「どうして欲しい?」
 男はわかっているくせに聞いてくる。それがウェイリードには腹立たしかった。
「彼女の前に二度と現れるな。そして彼女の記憶に残るな」
 厳しい口調で男を刺激する。しかし早くこの場を去らねばならないと体中の器官が警告している。
「彼女はもう疑問に思っている。それでも《僕》の記憶を消す、と?」
 男は口の端を上げた楽しそうな笑みを全く崩さずに見つめてくる。
「消えろ」
 強く断言する。それが相手の不快を助長しても。
 けれども目の前の男はとても満足気に微笑んだ。
「そう、そんなに大事なのかい? 植物園で見かけたこの子が」
 ウェイリードの表情が僅かに歪んだのを、男はこれ程楽しいことはあるのだろうかというような表情で嗤った。
「ああ、ごめんごめん、君が彼女を気に留めているのは《アデルの娘だから》だったね」
 ウェイリードは答えななかった。ただじっと男を睨む。
 その視線の強さをもろともせず、男は平然と酷薄そうに口角を上げていた。
「僕は今回はアデルの娘を見にきただけさ。まあ、僕としても人にここを破られるのは本意じゃないからね。 君は《本当》の事を知っているのだから、僕の言いたい事はわかるだろう?」
「……貴様を信じれるものか」
「いいよ、信じてくれなくても。でも君は知っているのさ、《本当》の事を。《北の守り》も、《主神の考え》も、 そして《僕》のことも。君は気づいてしまったのだから信じるしかないのさ」
「黙れ」
 昏々と眠り続けるラヴィン公を抱く腕に力を入れてしまう。
「今日は君の顔に免じて許してあげるよ」
 ウェイリードはその言葉を聞かなかったふりをして、腕の中の女公爵を抱き上げた。以前抱き上げた時もそうだったが、 その柔らかい重みは何の苦も与えてこない。重くもなく軽くもなく。けれども決して苦ではない。そんな不思議な感覚に陥りながら、 男へ視線を戻した。
 しかし、そこにはもう誰もいなかった。あの黒髪の男の姿形も残ってはいなかった。
 ウェイリードは唇を噛んでその鋭い視線を《北の守り》の闇に包まれた内部へと向けた。
「ラヴィン公はご無事か?」
 その声に振り向くと、ダグラス老将軍が《蜜蝋の階段》の最上段から走り寄って来ている所だった。 あの男はダグラス将軍の存在を感知して消えたのだろう。姿を現す相手を選ぶのだ。
 将軍は隣りまで来ると、心配気に眉を潜めてラヴィン公を覗き込んだ。彼女の顔にかからないよう、銀の顎鬚を押さえる。
「眠りの魔法でもかけたのか? 数度の衝撃を受けたのに随分と和らいだ顔をされておるのう」
 指摘されるとおり、血色は良い。それもこれもあの男のお陰なのだろう。そう思うとウェイリードは知らない間に眉間に皺を寄せた。
 確かにあの男のお陰で危険な三枚目の構築魔法も防げたし、一枚目の亀裂もどうやら全く問題ないようだ。 その上、彼女が苦しみを重ねることもなかった。けれどもその代償を考えれば、不安だけが脹らんでいく。
――《奴》が代償もなしに動くとは思えない……
「ふむ。お前さんはラヴィン公を連れて行くといい。わしは《北の守り》を確認する。その上で三枚目を止めよう」
 ラヴィン公を抱えたまま考え込んでいつまでも動かないウェイリードを不思議に思ったのか、ダグラス将軍はそう促した。
 その声にはっとして、彼女を早く休ませてやる為にもここを出なければならなかった事を思い出す。
「……お願いします」
 将軍に軽く一礼し、彼は自分一人で歩くのと全く同じ速さで《北の守り》を抜けて行った。


「デュシアン!!」
「お嬢さま!!」
 魔法陣から抜けて出ると、こちらが抱くラヴィン公に二人の青年が駆け寄ってくる。
――過保護なのはどっちなのか……
 以前自分を過保護だと言ったラシェの言葉を思い出してウェイリードは心の中で苦笑した。
 これ以上自分が彼女を運ぶ義理も必要もないと思い、腕を差し出すラシェに黙ってラヴィン公を渡した。 目の前に彼女の親族や使用人がいるのに全くの他人の自分が彼女を運ぶ理由がないと判断したからだ。
 しかし自分の腕から離れて行く彼女の確かな重みに、不思議な名残惜しさを感じた。 そしてラシェの腕に抱かれその胸に安心したように身体を預ける彼女を見て、何故か眉がひそまる。軽い苛立ちを感じた。
「全く、心配かけさせやがって……」
 ラシェを知る人物なら誰もが彼のその表情と言葉とに驚くことだろう。もちろん抱かれている本人すらも。酷く悔しげな、 そして心配気な表情で従妹を見る彼には、いつもの冷静で理知的ないわゆる《冷たさ》なんて微塵も感じさせるものはなかった。 本当に従妹を大切に思っているのだろう。それは微笑ましさを感じさせるものだった。
「世話をかけた」
 ラシェはそうウェイリードへ呟くと、若執事を伴って出て行った。
 その二人の青年の背を見ながらウェイリードはしばらく呆けていた。
 彼女を運ぶ理由も必要も義理もない。
 ウェイリードは自分の腕から離れて行く彼女の体温に名残惜しさを感じた自分の感情を持て余していた。
「ウェイリード公子」
 自分を呼ぶその声に、ウェイリードはいつもの無表情に戻る。振り返ると、 どうやらダグラス将軍と共にこの部屋へと来たらしいダリル将軍が難しい顔をしてそこに立っていた。
「亀裂が直ったと聞きましたが……」
「……はい」
「ラヴィン公がお一人で?」
「……そうです」
  「私は魔法に詳しくないのですが、本当に一人で、しかもこのような短期間で亀裂を補修出来るものなのか教えて欲しいのですが」
「……奇跡、でしょうね」
「君はそれを信じるのですか?」
「……けれども中に入った人間は彼女だけです。それだけは……真実です」
 そう、《人間》は彼女だけだ。嘘はついていない。
 ダリル将軍は漠然としたものに疑問を抱いているようだった。それもそうだろうと思う。誰もが信じられない事実なのだから。 補修は無理だと思われていた亀裂。それをこのような短期間で、しかも一人で補修してしまったのだから。
――誰が信じるだろうか。《なか》に封じ込められている本人が修復を手伝ったなど……
 ウェイリードはため息を零した。あまりに大きな真実。あまりに大きな虚妄。 そしてそれは全くもって生きていくことに関係のないという現実。
 それらを知ってしまうことの恐ろしさを、他の人間にばら撒こうなどとは自分は思ってはいない。
――どうでもいい事だ。……どうせ、《北の守り》が必要なものであることだけは変わらない事実なのだから……
 だから誰も巻き込みたくないと思った。この目の前の英雄と呼ばれるダリル将軍も、 それから国一の賢人といわれるダグラス将軍すらも。誰一人巻き込みたくない、巻き込んではいけないと思った。
 それは、当然あのラヴィン公もだ。
 《あの男》のことが彼女の記憶に残っていないのなら大丈夫だろうと思うも、彼女が自発的に疑問に思い始めている、 という《あの男》の言葉を思い出して僅かに不安が過ぎる。
 自分が知る限りでは《真実》を知るのはこの国ではもはや自分のみ。万が一彼女が《真実》に気づいた時、 その後の動きによっては、彼女自身の立場が悪くなるかもしれない。それはアデル公が望まなかった事。
 生きていく上で知る必要の無い不条理を彼女へ背負わせる必要もないというアデル公の望み。 彼のその望みを守る為には、もっと彼女に近づかなければならないのだろうか。
――アデル公の為……だ
 そう自分に言い聞かせて、頭の隅で朧に記憶する《彼女》の記憶をもう一度意識より排除した。

『デュシアンにはずっと笑っていて欲しいんだ。何も知らずに、幸せな一生を送って欲しいのだよ、私は』
 在りし日のアデル公の、娘を思う切なる願いがまるで今聞いたかのように耳に響いた気がした。



(2004.3.23と25)

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