維持魔法を行使するまで敷いていられる防御壁のお陰で別段変わった様子を感じる事がない《柱の間》を足早に抜けて行く。
いつもよりも足さばきが悪いなと感じ、ふと足元へと目をやれば長いスカートの裾が目に入ってきた。これのせいか、
と思いながら邪魔な裾を掴み、《蜜蝋の階段》を昇る。
足が《封印の間》へと続く最上段にかかったとき、デュシアンの心臓が主に危険を教えるように高鳴った。
しかしそれに怖気づくわけにはいかない。
デュシアンは《北の守り》と同じ結界を人の手だけで敷けるとは思ってはいなかった。
視察の時にあれだけ美しい結界を見てしまったのだ。あの密度と硬度を人の手だけで作り出せるなんてとても信じられないのだ。
しかも一枚目、二枚目を包むように敷くのだから必然的に広範囲に渡って結界を敷く事になる。
信じられるものではない。
だから決して《北の守り》を崩壊させるわけにはいかないと自分に言い聞かせて、薄っぺらい勇気を振り絞っていた。
結界部分へと近づくにつれて、足元にびちゃびちゃと水の張った音が響く。
それは瘴気が液体化したものであることはこの間ウェイリード公子から聞いていた。
しかしそれがどういった経緯で液体化しているのかなどの原理等は全く知らない。否、
いくら調べても液体瘴気に関する資料は執務室から出てこなかったのだ。つまりはそれすらも盗まれていたということになる。
皮の
長靴を履いているお陰で液体瘴気が足に直に触れることはないので心配はないが、
この間入った時よりも液体瘴気の量が増えているような気がするのは気のせいではないと思った。
踝まであるスカートの裾が液体瘴気で濡れないか少し気になったがどうやら大丈夫なようだった。
今日は神殿に参内しなかった為に、
家着である何の彩色も施されていない象牙色のゆったりとした装飾のない衣服にカーディガンを羽織っただけだった。
北の守りの中は意外と暖かいので邪魔になる外套を部屋の入り口にいる守護騎士に預けてきていた。
ぱちゃり、という音を最後にデュシアンは足を止める。目には見えないが確かにそこに存在する結界《北の守り》を前にして、
デュシアンはそよ風にすら飛ばされてしまいそうな自分の勇気にすがるしかなかった。
――きっと三枚目は同じものを敷けない……。一枚目が壊れてしまったら世界は大変なことになる。
それはわたしが世界を壊してしまうことに等しい。父様が守っていたものをわたしが壊す事になるんだ
それは亡き父の名に泥を塗ると同時に、自分の名が悪名高く世界中に轟くことを意味する。
ただ静かに暮らしていたかっただけの自分なのに、嘘のような事態にどんどんと巻き込まれて行く。
そう悲観しそうになって、それは自分の弱さだと自覚した。
――違う、自分で選んだ道だ。巻き込まれたんじゃない、わたしが《北の公》になると、《北の公》の責任を負うと決めたことだ。
これはわたしの意思だ
デュシアンは意思の固まった表情で一度頷くと、アミュレットを強く握り締めた。
「お願い、父様。《北の守り》を護る力を貸してください」
デュシアンは右手を結界へ伸ばした。
維持魔法を行使するにはまず結界に触れて結界構築部分に入り込む必要がある。途中までは《視察》とかわりない。
瞳を閉じて《支配》と《魅了》の精神魔法を意識する事で排除していく。そして次にやってくる《破壊》に身構えた時、
いつものあの鎮魂の鐘の音ではなく、何かが燃えるような音と臭いがしたような気がした。
しかし気負った決意の方が勝ったらしく、その音も臭いも遠のき解呪に成功した。もしかすれば、
決意の固まった人間の精神は何ものにも侵し難い強さがあるのかもしれない。それが本人の本当の強さではなかったとしても……。
それからそのまま、構造部分に入る為に結界の魔力に身体が全て包まれるのを静かに待つ。
身体中に纏わりついてくる結界の魔力は《北の守り》の中へとデュシアンを引っ張り込もうとする。その力に耐えていると、
身体全身をぷにぷにしたものに覆われ、引っ張る力も何時の間にか感じなくなっていた。
しばらくすると瞼の裏に美しい
円蓋が知覚された。
照り返す七色の鱗が張り付いたような表面は変わらず美しい姿のままに思えたが、
円蓋の右上方の亀裂がこの間よりも広がっていることが簡単に確認できる。そこだけが、
円蓋を形成する欠片の光の反射が鈍く、輝きが落ちているのだ。
――あそこから、瘴気が……?
瘴気は目に見えるものではなかったが、五日前よりも深くなっている亀裂がそれを物語っていた。
デュシアンは自分の無力さに悔しくなるも、
反省は帰ってからしようと決めて維持魔法の行使に入る為に防御壁へ割いていた自分の魔力を止めた。
途端に身体がぐらっと揺れる。息苦しくなり、身体がふらふらして立っているのがやっとだ。しかしそちらにあまり意識を向け
すぎると《北の守り》の構造部から離れてしまう。
倒れそうになる体を立て直すため、
デュシアンはアミュレットを握っていた左手も結界である
円蓋に伸ばし、
自分を支えた。
瘴気はすぐにも麻痺を起こすようなものではないはずだった。それが、
こんなにも早く体に異変をもたらすということは相当濃度が上がっている、つまりはろ過もできずに漏れているということだ。
無色透明な瘴気のせいで見た目にはどのくらいの瘴気がここを占めているのか全く予想がつかなかったのでデュシアンは少し甘くみていた。
今までの瘴気に浸かって、持って三日の命。けれどもそれは生命の長さであって、動けなくなるまでには二日とかからない。
しかし今の濃度であると、動けなくなるまでがもっと早いかもしれないと感じた。
それこそ数時も浸かっていれば身体中が痺れてしまうかもしれない。
恐ろしい想像に、額に冷や汗がどっと浮かぶが、維持魔法のための集中に入った。
そもそも維持魔法とは、結界の構造に入り込んだのちに魔力をそこへ注入し、
結界自体が持つ微量の修繕修復能力に力を貸す魔法である。一定の量を少しづつ注入するという、
自身の持つ魔力を制御する技術を要する繊細な魔法なのだ。
集中力と忍耐力、そして天性の魔力制御技術によるものである。
いくら魔力の許容量が大きい人間であっても、魔力を上手く制御できなければ不必要な量の魔力が結界に入り込み、
結界の構造が崩壊する危険性がある。特に今は大きな亀裂が入っている。
魔力の量によってはそこからかえって一気に亀裂が広がることも考えられるのだ。
紙に水を一滴落とすと染み渡るのと同じように、注ぎこまれた魔力は結界の構造部分に緩やかに広がっていく。
従って、全体に魔力が浸透する前に大量の魔力を注入してしまえば、破裂してしまうのだ。
紙も水一滴ならば浸透するだけで受け止める事が出来るが、大量に水を落とされれば、
吸いきれる量を超えてしまって零れてしまうのと同じだ。だから魔力の注入には細心の注意を払う必要があった。
それなのに、濃い瘴気のせいで酷い眩暈と息苦しさを感じ、集中力も忍耐力も落ちてきている。
あとは気力と素質の問題かもしれない。デュシアンは自分の素質を信じながら結界だけに集中しようと、それでも倒れないよう足を踏ん張
っていた。
魔力を注入しはじめて、どのくらい時間が経ったのだろうか。デュシアンは今までにない悪寒を憶えた。
背筋から這い上がってくるような厭な感触に吐き気がおきた。
「何?」
魔力の注入を滞る事無く、誰に聞くわけでもなく呟いたその瞬間、
「は、う!!」
酷い耳鳴りを感じ、身体中に走る衝撃に身を反らせた。辛うじて維持魔法を解く事までには至らなかったが、
息が出来ないほどの衝撃がまだ続いている。
ただでさえ瘴気のせいで息苦しいというのに、身体中を絞め付けられてなお痺れるような感覚に苛まされる。
あまりの衝撃に結界から手を離しそうになった時、ぴきぴき、という嫌な音が聞こえた。それは音というよりは、感覚だった。
円蓋の――北の守りの結界が上げた悲鳴だ。
デュシアンは激しい痛みに薄れる意識の中、結界を守ろうと魔力の制御だけに自分の精神を費やした。
激しい痛みに酸欠の状態が続き、朦朧としかけた時、ぴたりと衝撃が収まった。
手を円蓋に預け、魔力注入も切断しないまま、デュシアンは激しい咳に襲われた。乾いた口の中に血の味が広がる。
喉が擦り切れるほど咳込みながらもデュシアンはその手を離すことも魔力を絶つ事もなかった。
酷い咳もしばらくして収まり、ほっと安堵の息が漏れる。
首を括った身体に激しく鞭を打たれたような状態から開放されたらこんな風になるだろうな、と乾いた笑いが漏れた。
――今のが、三枚目構築の衝撃……?
酸欠から解放されて少々落ちつき始めた思考が、
魔力の注入だけでなく三枚目の結界を敷く為に起こる衝撃を吸収する役目が自分にあることを思いだしてくれた。
まだ背筋がぴりぴりと痛む。しかしここで手を離せば三枚目の構築魔法に耐えられず、この一枚目は崩壊するだろう。
そうするわけにもいかないと、意識を魔力注入にだけに向けた。
だが衝撃が数回に渡るという言葉を思い出して体の芯が震え出す。瘴気だけでもかなりの息苦しさと恐怖を与えられるのに、
これからどんどん弱ってくる自分に、またあの衝撃が訪れるのかと思うと例えようのない不安と怯えにかられた。
もう一度だって、自分にはあれが耐えられるかなんて分からない。
けれども、デュシアンは父の名に泥を塗る事だけはしたくないと思った。そう思うと不思議と気力が沸いてきた。
父は光明だった。
ほの暗い先の見えなかった世界に溢れんばかりの光の洪水を与えてくれた人だった。そんな父の名を辱めるようなことだけは、
デュシアンは死んでも嫌だった。
――そうだよ、そんなの死んでも嫌だ。父さまがわたしを見つけてくれなかったら、
わたしはあんなに幸せな日々を送れなかったんだから……
思い出したくもない光景と、暖かくも優しい人たちに包まれている光景が交互に脳裏を過ぎる。
あの思い出したくも無い日々から救ってくれたのは父。暗闇から光ある世界へと連れ出してくれたのも父。
あの人がいなかったら自分はずっとあの暗闇の中で生きていくしかなかった。
デュシアンは震える膝を伸ばし、唇を噛んだ。
――絶対成功させるんだ!
自分の中にある暗黒史を振り払い、デュシアンは決意を新たにした。
その時、滅多なことでは顔色を変えない父の顔が苦痛に歪んだのを、ウェイリードは静かに横から見守っていた。
もちろん自分だとて結界と結界の間に挟まれた場所にいるのだから苦痛を伴わないわけではない。
まして後ろの結界は構築中で、中にいるものを閉じ込めようとする為のものだ。衝撃がないわけがない。
しかし結界の構造部分に精神を入り込ませている人間の方が遥かなる苦痛を味わっている事は容易に想像できる。
眉間に皺を寄せて唇を引き結んだ。
父は一息つくとこちらを振り向かず、結界に精神を残したまま声を掛けてきた。
「次の衝撃は半刻後だろう。大事無いか、ウェイリード」
「……父上はいかがですか?」
「ふむ。職業魔道師ではない私にはきついものだな。雷を食らったような衝撃を受けた」
ウェイリードは視線を父から逸らすと眉間の皺を一層深めた。
「一枚目は大事無い、補修も滞り無く続いておる」
父の言葉に視線を戻した。父と目が合い、またすぐにも視線を反らす。
「今の衝撃も受けとめたようだ」
「……そうですか」
「心配か?」
ウェイリードは答えなかった。全くその質問が聞こえないといった風体で無視を決め込んだ。
「知り合いだとは知らなかった」
「……知り合いではありません」
「では何だ」
「……恩師のご息女です」
「だから心配しておるのか?」
またも黙秘した。それに業を煮やしたのか、アイゼン公爵はため息を吐いた。
「心配せずとも
二時も過ぎればダグラス将軍が一枚目の補修を手伝いに行く」
「……はい」
「将軍は北の守りと同じ結界が敷けるとは思ってはおらん。それにラヴィン公の力を甘くみている訳ではないが、
あれ程の亀裂は一人の力で全てを補修できるものはない。危険だが、途中から維持魔法を引き継ぐ事になるだろう」
「最初から将軍がやれば……」
父の言葉に積もりに積もった苛々が吐き出てしまった。つい口にしてしまい、自分の失言に舌打ちする。
珍しい事もあるものだ、とライノール・アイゼンは誘導尋問で自らの過失を認めてしまった被告人を見るように息子を見やった。
「ラヴィン公の顔を立てるべき事はお前もよくわかっているだろう? 彼女を差し置いてダグラス将軍に任せるわけにはいかぬ」
「……ええ」
「それにラヴィン公自らの手でやれる所までやらねばラヴィン家が《北の公》の座から退かねばならなくなる。
まして最初から共に入る人間がいればラヴィン公の力が疑われる。それがアイゼン家のお前やダグラス将軍であるなら余計に、だ」
「……はい」
「……それを分かっているからお前も無理をしてラヴィン公の補佐をしに行こうとは思わないのだろう。
最初から二人で維持魔法を行使すれば途中から維持魔法を引き継ぐような危険はない上に、ラヴィン公の負担も減るのだからな」
ウェイリードは父の言葉を否定する気はなかった。父の推測は間違ってはいない。けれども当たってもいなかった。
あの時、彼女は自分の責務を果たすと言った。その気持ちを尊重したかったのと、
アデル・ラヴィン公が守ってきた《ラヴィン家》の家名を貶めることになる事態を避けたかった自分の気持ちの利害が一致したから、
彼女と共に入ることを諦めたのだ。第一、ダグラス将軍が後で入る事なんて簡単に想像はついていた。
彼女が死ぬなんてことはありえないことは分かっていた。
しかしあまり表情を変えない父の苦痛に歪んだ顔を見て、その判断が誤りであったのではないか、
と自分の中で自分を責める言葉が思い浮かんだ。
彼女の意思とラヴィン家の存亡。それが彼女の身体より大切であったのか。
彼女に独りきりで苦痛に耐えさせる事が本当に最良の道だったのか。
知らず知らずにウェイリードは奥歯を噛み締めていた。
――あの時、強引にでも共に入れば良かったのかもしれない……
しかしその思考をすぐに打ち消した。そうすれば彼女は北の公としての裁量を疑われ、
非難の声を浴びることになることは目に見えていた。貴族という人種は名誉や体面を事のほか気にするし、相手にもそれを強要する。
その上、相手を陥れようと躍起になっている人間も少なくない。
どちらにしろ彼女は苦しむ道しか残っていなかった。そして彼女は身体の苦しみを選んだ。それに自分は従ったにすぎなかった。
仕方の無い事だと自分を納得させて彼女を見送った。
自分は他人の選んだ道に口を挟みすぎるほどお節介でも親切でもないはずだった。アデル公の娘だから気になるだけだ、
彼はそう自分に言い聞かせた。
――彼女はアデル公の娘。それ以上でも、それ以下でもない
その彼の脳裏に彼女が最後に見せた、柔らかい表情が浮かぶ。
『ありがとうございます、気にしてくれて』
不安を覆い隠す為に牙を向いていた彼女が最後に見せた、安心したような表情。
なんで臆病そうな彼女はあんな時に笑えたのだろうか、ウェイリードはしばらく考え込んだ。
三度目の衝撃を受けとめた後だった。
デュシアンは最早自分の足で立つことが限界にきていた。結界へ伸ばす両腕の肘にも力が入らなくなって震えている。
濃い瘴気による眩暈と息苦しさ、手足の関節の痺れ。衝撃による身体中の痛みと激しい咳込みのせいで肺が痛み、
喉がひゅうひゅうと悲鳴をあげている。きちんと空気を吸えているのかすら疑わしい状態だった。
額から滴る汗がそのまま顎から一粒落ちて、それが自分の足元の液体瘴気に混じっていくのが見えた。
何時の間にか瞳を開いてしまっていたのだ。
けれども精神の深い部分は未だ構造部分へ入り込んでいるらしく、
瞳を閉じれば
円蓋は知覚できる。
と、不意に膝が折れる。膝の関節が痺れて力が入らないのだ。そのまま床に崩れ落ちそうになった時、
「大丈夫か?」
そんな声がして、自分の腕が引っ張られた。何時の間にか隣りに立っている誰かが自分の身体を支えてくれる。
その声に聞き覚えがあった。そして自分を抱くその腕の感触にも憶えがあった。
デュシアンは重い首を上げ、自分を抱きとめる者へと視線を上げた。おぼろげな視界に映るのは、
思った通り、ここに来る前に最後まで止めてくれた人だった。
「……どう、して……?」
どうして貴方がここにいるの――デュシアンはそう言いたかったのだが、声が擦れてまた激しく咳込んだ。
「君一人では無理だ。私が力を貸そう」
その人は、デュシアンの左手を掴んで結界から離した。
「むり、はな、して……」
「大丈夫だ、私を信じるんだ」
彼はそっとデュシアンの左手を包むように握った。
その手がぞっとするほど冷たかった。弾かれたようにデュシアンは彼をもう一度見上げた。
朦朧とする意識のせいでなかなか焦点が合わない。何とかやっと合った焦点が、彼の表情を見せてくれていた。
彼は柔らかい笑みを浮かべていて、それがとても魅力的に感じた。頭の隅に甘い記憶が甦る。しかし、何かが違う気がする。
心地良い大きなものに包まれた安心できる感覚と、ほんの一握りの違和感。
このままこの広い胸に身を預けていたいと思う心があるのに、神経の末端が感覚的に彼を拒絶する。
デュシアンは何かを探すようにじっと彼を見つめた。デュシアンの視線に応えるように彼は魅力的な微笑みをくれる。
その笑みに、知り合ってからの短い間の彼の人となりを細波のように思い出す。
彼は無愛想に思えた。笑ってくれたのは、たった一度だけ。あの表情は忘れられるものではない。とても大切なものな気がした。
中々見る事の叶わない宝物を見せられたような気分になった。でもそれは、彼が出会ってから常に無表情に近いからそう感じただけのことだ。
いつも微笑んでいたなら、あのように宝物を見せられたような気持ちにはならなかったかもしれない。
けれども、本当はこんな表情をいつも浮かべることの出来る人なのかもしれない。
いつもこんなに柔らかい表情を浮かべる人なのかもしれない。自分はこの人のことを知らなすぎるから、わからない。
ただ自分が知らないだけなのかもしれない。まだ知り合ったばかりの人の詳細なんて知らないのだから。
――わたしはこの人のこと、知らないんだ……
知らないことが残念で、寂しく思えた。笑顔を浮かべていることに違和感を覚えてしまうほど、それほど――。
目の前の彼の顔をまじまじと見つめ、そしてデュシアンは、はっと我にかえった。違和感は、笑顔ではない。
「貴方はだれ?!」
デュシアンは擦れた声を振り絞ってそう叫んだ。包まれてた左手を乱暴に振り払って、支えられていた身体の重心を自分に戻す。
手を叩かれても彼は微笑んでいた。優しく、甘く、そして冷たく。
その彼の瞳は《青》。深い深い青。藍色。
デュシアンの知る彼は青みがかった《灰の瞳》だ。
この男はデュシアンの知る《彼》ではない。
「ああ、そうか。君の知っている《彼》は灰の瞳だったね」
彼は微笑みながら手を瞳にかざし、それを下ろした。するとその時には青い瞳は灰の瞳に変わっていた。
デュシアンは今までにない恐怖に結界から手を離さないようにして一歩後ろに下がる。頭の隅では、
この圧倒的な存在から一刻も早く逃げろと自分の身体に命令している。けれども、理性がそれを打ち消す。
今、手を離して逃げればラヴィン家当主たる自分が《北の守り》を直すことはままならなくなる。
もちろんこれを直せるのは自分だけではないのは承知だ。理論上は誰でも維持魔法は行使できるのだから。
法律でこの場所の維持魔法は《北の公》だけに許される行為だと決められているが、有事の際はそれを破ることを許されている。
ダグラス将軍という頼りになる存在がデュシアンを気弱な方向へと導く。逃げろ、と。
ここで自分が《北の守り》と繋がる部分を解けば、二枚目を支えているアイゼン公爵が気づくだろう。そうなれば、
きっとダグラス将軍がここへ入って来て、きっと自分を助けてくれて、しかも自分の代わりに三枚目が敷けるまでの間、
維持魔法を行使してくれる。だから《力》のない自分は逃げてしまえと、誰かが救ってくれるのを期待しろと、逃げることば
かり頭を駆け巡る。逃げても良いのだと、逃げても大丈夫なのだと、自分でなくてもいいのだと、
自分に逃げる根拠を与えている。
でも。
――ここで逃げたら、わたしは《北の公》なんかじゃない。わたしは自分の命よりも《北の守り》のことを優先する地位にいるのだから。
だから、わたしは逃げてはいけない。わたしは《北の公》の責務を果たすって決めたのだから……
この男は《敵》なのか、そうではないのか。見極めなくてはいけない。
デュシアンは探るような視線を彼へ向けていたが、
その彼女の足は麻痺だけでなく恐怖に震えて自分を支えることがままならなくなっていた。
「あなたは……だれ?」
デュシアンは震える唇を動かし、喉から声を絞り出す。
「それはどうでもいいだろう? 今は君は結界維持魔法に集中すべきだ」
彼はデュシアンのよく知る彼の声で、口調で諭してくる。優しい笑みを浮かべているが、
その目は笑っていない。強い視線がこちらを促す。
その視線の強さは身に憶えがあるような気がした。けれども思い出してはいけないと警鐘をならすように眩暈と痛みが襲う。
「そんなに警戒することはないだろう? 力を貸すといっているのだから」
男は見知った姿で見知らぬ笑みを浮かべ、こちらに近づく。
「こない、で……」
デュシアンは首を左右に振って拒絶した。悲鳴を上げてしまいそうだった。
「何を恐れているんだ? ――ああ、そうか。もうこの姿は意味がないんだね」
彼の姿が霞みのように薄れた。その霞みがかった姿の輪郭がだんだんと濃くなり、
気づくとそこに立っていたのは見覚えのない漆黒の長い髪と漆黒の瞳を持つ、ぞっとするほど綺麗な男性だった。
闇を内包するその瞳がデュシアンをじっと捕らえると、彼女の身体の力が細部に渡るまで抜けた。
男は倒れこむデュシアンの身体を悠々と掬い取り、丁寧に腕に抱く。長い指を金の髪に差し込み、柔らかい髪を撫でる。
焦点はもはや合ってはいないデュシアンに顔を近づけて、優しく呟く。
「さあ、デュシアン。僕が力を貸そう」
耳元で囁くとデュシアンはうっとりとした表情でこくりと頷いた。
「良い子だね」
唇がデュシアンの頬に触れるとその頬が薔薇色に染まった。
彼女は彼の腕に包まれて、誘導されるがまま結界への魔力注入を続けた……。
(2004.3.10と17)
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