「あー、もう、わかんない」
音を上げるデュシアンの声が執務室に響く。その手より放られた文書が、
机上の分別されず山のように積み上げられている他の書類たちの仲間入りを果たす。
朝から太陽が一等高く昇った今に至るまでずっと考え込んでも全く理解できなかったのだ。
ため息を零して立ち上がると、小卓の上に広げられた保温用小結界から磁器のポットを取り出す。
お茶でも飲んで休憩を取ろうと思ったのだが、その時規則正しい軽い音で扉が叩かれた。
デュシアンは手に取ったポットを保温用小結界が刺繍される布の上に戻してから答えた。
「どうぞ」
「失礼致します」
入室許可の声を掛けたのちに扉が開けば、入ってきたのは大地の日の午前中に一週間分の地方防衛の報告書を届けてくれる、
いつもの巫女だった。デュシアンにとってはお気に入りの巫女でもある。
しかしその彼女はいつもよりも落ちつきがなく、余裕も見られなかった。走ってきたのか息も切れている。
そういえばいつもより来る時間が随分遅い。どうかしたのだろうか――デュシアンは何か声を掛けようと思ったが、
彼女の頭が思いきり下がったので開きかけた口を閉じた。
「申し訳ありません、閣下」
急な彼女の謝罪にデュシアンは大きく心臓が跳ね上がった。
頭を上げた彼女と目が合う。綺麗な紫紺の瞳が少し潤んでいる。
デュシアンは彼女が次に口にする言葉を高鳴る心臓の音と共に待った。
「書類がまだ出来あがっていないので、午前中にはお配り出来ないのです」
彼女の必死さを考えれば申し訳ないとは思うのだが、デュシアンは呆けてしまった。期待した言葉とは全く違ったからだ。
何だそんな事か――と口に出しそうになって慌てて噤んだ。
一昨日に明らかになった、文書紛失の事を謝られたのかと勘違いしてしまったのだ。
同じ職業でもこの巫女は文書紛失とは全く関係ないのに、だ。
申し訳なさそうに報告書の遅れを伝えに来た彼女は、デュシアンの反応を待っていた。それに気づき、慌てて微笑むと首を振った。
「貴方が謝ることではないです。気になさらないで下さい」
確かに報告書は大切且つ重要な文書だ。内容によっては確認のために資料やら関係者やらに確認したり、
調べたりする必要があるものもある。自分が就任してからはまだそういった厄介な物はないが、
父が就任していた時の報告書を見ている限りではその必要がある文書もいくつか見つけている。なので、
出来るかぎり早めに報告書が欲しいのは確かだった。知識のないデュシアンには報告書を分析する時間も大量に必要だからだ。
しかしそんな事よりも、
いつも安らぐ笑みを見せてくれるこの巫女が今日はとても堅く強張った表情をしている事の方がデュシアンはとっては気がかりだった。
この人にはずっと微笑んでいてもらいたいな、とはデュシアンの勝手な願いだったが。
「閣下におかれましては、とてもお困りになりますよね?」
気遣う巫女の言葉にデュシアンは苦笑した。
「他の仕事を先にしてしまえばいいので、大丈夫です。そんな顔をなさらないで下さい」
仕事自体は多い方ではない。むしろする事がなくてぼうっとしてしまう事もあるくらいだ。
《北の公》は《北の守り》以外には回ってくる仕事は限られている。国の防衛に関する書類を読んで署名したりするのが関の山。
何かを提案するには知識が低すぎるので意見書を纏めるわけでもなく何か専門研究や他に仕事を持っているわけでもない。
ただ足りない知識を埋めるためにこの余りに余った時間は有意義に使えるのだけは確かだったが、
デュシアンは難しい本が恐ろしく苦手だった。しかし昨日からはその苦手意識も奥に仕舞い込み、
理解を拒否する脳に押しつけるように本の知識を叩き込んでいた。果たして押しつけた知識が実になっているかは甚だ疑わしいものだが。
「……閣下はお優しいのですね」
巫女は深く息を吐き出すと、いつもと同じとまではいかないが柔らかい笑みを浮かべてくれた。もしかすればここに来る間に、
誰かしらに怒られたのかもしれない。そう思うと、巫女を哀れむ気持ちが生まれる。なんとか慰められればと、微笑んでみた。
「貴女が優しいから、わたしも優しい気持ちになれるんです」
本心からそう伝えてみれば、巫女は少し驚いたように紫紺の目を丸くさせてた。彼女を驚かせた理由が分からず、
デュシアンは首を傾げる。
「申し訳ございません。噂と随分と違っておられるので……」
巫女は少し戸惑いながらも僅かに苦笑を浮かべた。
「噂? ああ……」
演技によって作り出した猛々しい公爵像か、もしくは昔からある出生に関することだろうと予想がつく。
特に後者に関しての口さがない噂には辟易していた。
「ああ、申し訳ございません、わたくし至らず……」
こちらの機微を感じ取ったのか、巫女が慌てて頭をさげたので、デュシアンも慌てて謝った。
「あ、すみません、別に貴女に怒っているわけではないんです。頭をあげて下さい」
「ふふふふ」
すると、巫女は堪えきれないように笑いだした。決して厭な笑いではないが、不可解だった。
怪訝そうに見つめられていることに気づいたのか、
巫女は胸に手を当てるともう一度謝罪の言葉を述べてから笑った理由を教えてくれた。
「閣下はこんな一巫女にもきちんと謝って下さるのですから、とても嬉しくなってしまったんです」
「……え、と」
彼女の言葉を計りかねた。
「アデル様のご息女だな、と思いまして」
「え?」
急に出てきた父の名に心臓が少し早くなる。
「アデル様も貴女様のようにとてもお優しくて、私たち巫女にも腰の低い方でした。ああ、もちろん腰が低い、
とは悪い意味ではなく、私たちを労わってくださるという意味です」
「父、が?」
「はい。私はお優しいアデル様をお慕い申し上げておりました。……私も姉もとてもお世話になったのです」
「そう……ですか」
感じた嬉しさを、どうやって公爵の鍍金を剥がさずに表現すれば良いのかわからなくて、結局微笑む事しか出来なかった。
ふいに、巫女は両手を唇の前で合わせて眉根を下げる。
「ああ、いけません! 私仕事を忘れておりました。他の方のところにも謝りに行かなくては! では、
閣下失礼致します。また午後に参ります」
慌しくも、優雅な礼と穏やかな笑みを残し、巫女は退室した。
「何だか、可愛い人だな」
退室を確認して、途端に表情を緩めた。嬉しくてしょうがないのだ。
「そっか。父様の娘、か」
そのようなことを伝えてくれる他人は初めてだった。いつも父と自分とを繋げる言葉はもっと嫌なものばかりだった。
『不義の子』やら、『あの聖人君子の……』など耳障りが悪いものばかりだ。
『似ている』とは誰にも言われた事が無かった。かろうじて父から受け継いだはずの瞳の色だとて一致する色合いではない。
父は翡翠のような色だが自分はくすんだようなオリーブ色のアッシュグリーンだ。だからか、
酷い人間は『アデル公の子ではないのではないか』とまで言う。それほど、似通ったところが少ないのも事実だった。
だからか『アデル公の娘』と認めてもらえるような言葉はとても嬉しく、心を暖かくしてくれた。
「それにしても……」
喜びはしばし置いておいて。
デュシアンは、先ほどの巫女が来る前まで見ていた書類に視線を落とした。彼女の存在は休憩に相当したのか、
僅かにすっきりとした気分の中、もう一度内容を脳裏に反芻させた。三十歩ぐらいで一周できる部屋内をぐるぐると歩き始める。
「何で《魅了の
魔法》なんだろう……」
半日悩みぬいた疑問を零す。
机上の一番上に鎮座する書類は、二日前にウェイリード公子の好意で写させてもらった北の守りに関する文書の一部、
《北の守り》の《精神魔法》について記述されている四枚の紙。その中に、納得がいかないことがあったのだ。
写した文書には、《北の守り》に入って最初の霧にかけられたものを《支配の魔力》、
そして視察時にかかる三つの精神魔法は《支配の魔法》《魅了の魔法》《破壊の魔法》であり、この三つは全て《悪神》が
かけてくる、と書かれてある。
その《魅了の魔法》という記述に、デュシアンは納得がいかないのだ。
――写し間違えたかな。でも、確認したし……
初めての《視察》時に解呪を失敗したことで、精神魔法の一つ《魅了》にかかっている。あの時にかかった《魅了》は、
自分自身を高揚させる力を持っていた。それは明らかに、何かの物から発せられる《魅了の魔力》のはずなのだ。
けれども文書には、かけてきた相手に魅了されるほうの《魅了の魔法》と書いてあるのだ。
しかもその出所は《悪神》つまりは《魔王》だという。
もしこの文書通りに事が起きるなら、視察時に《魅了》にかかれば、《悪神》に対して『美しい』だの、
『ひれ伏したい』だの、『助けてやりたい』だの思うはずなのだ。しかし実際はそうはならなかった。
酔いしれる対象は《自分》だったのだ。
――他の二つが《悪神》がかけてきたのか、そうじゃないのか全くわからないけど、あの《魅了》は明らかに《魔法》じゃないし、
かけてきたのも《悪神》じゃない。かかったからわかるもん……。あれは、《主神》の《神槍》にかけられていた《魅了の魔力》だ。
それなのにどうして《悪神》がかけてくるってこの文書には書いてあるんだろう?
「……何でだろう」
魔法の知識も低く、これ以上の想像は出来なかった。もしかすれば自分の知らない見解があるのかもしれない、とも考える。
魔法の基礎を一年程、のらりくらりと父から習っていただけだ、知らない事があっても全くおかしくはない。しかし、
精神魔法の分野は奥が深いのに研究は進んではいないとその頃に父から聞いた気がした。
『精神魔法の研究はこの国では行われてはいないから、精神魔法の詳しい構造などはまだよくわからないのだよ。
まあ、わからないままでいいんだろうけどね。解呪さえ出来ればいいのだよ』
確か父はそう言っていた。
けれども魔法の研究が盛んなカーリアであるのに、なぜ精神魔法の研究は執り行わないのだろう、と不思議に思って父に尋ねると、
父は少し笑みをたたえて答えてくれた。
『精神魔法は効果があれば相手を無力にさせることができるとても強力なものだろう?
それを研究して今よりも成功確率が高く強力な魔法構造が発見されて、それがみだりに誰もが使えるようになったりしたら、
どうなると思う?』
『……犯罪に使われる?』
『そうだろうね。だからね、精神魔法の研究は――、進んでいないのだよ』
あの時の父は、少しだけ言葉を濁らせながら語った。言葉を選んでいるようにも思えたが。
数年前の父の言葉を思い出してみても、あまり今の疑問の解決には役に立ちそうも無いようだった。
分からないことだらけに飽き飽きして溜息を吐き、少し硬くなった首を回した。そうすることで視界に入ったものへ、
興味と視線を奪われる。
太陽の光をたくさん受ける窓辺に置かれた花瓶の中の、赤い薔薇が瞳に映る。それは昨日届いた薔薇だた。
添えられていたカードに記された父の名を認めて心がときめいたが、
『これは一体、誰が送ってくれてるのだろう』という疑問を自然と感じていた。
今までは、送られてくる薔薇は全て父からだと信じて疑わなかった。《死》を理解しているくせに、
亡くなっている父から送られてくるものだと思い込んでいたのだ。
この薔薇の束を必要以上に警戒して検閲してから渡してくれたレセンに向かって、
『これって誰が送ってくれてるんだろうね?』
なんて尋ねた時のレセンの驚きようを思い出せば、ずっと正常な精神状態ではなかったのだろうと想像できる。
とにもかくにも、やや不審に思うも悪い気はしなくて、届いた半分を執務室へ持ってきていたのだ。
――ちがうちがう、今は《魅了》のことだ
薔薇に興味を奪われている自分にはっとして、頭を振るう。
「魅了魔王魅了魔王魅了魔王みりょうまおうミリョウマオウ……」
薔薇の花びらを指先でいじりながら、
ぶつぶつと誰かが見たらそれこそおかしくなってしまったのではないかと思われるほど真剣な面持ちで呟き、
そして「あ」と口を大きく開けた。その時力が微妙に入ったせいで、
一枚花びらをもぎってしまうが気に止めるような余裕はなかった。
「そっか。ぴったりの人がいた」
手のひらを合わせてぽんと叩くと、もぎ取られた花びらがひらひらとデュシアンの足元に落ちていった。
「今度、聞いてみよう」
来週にでも時間があったら文書などの失せ物の確認をしてくれると言ってくれた、
少し気難しげだけれども親切――だと思われる青年を思いだし、その時に聞いてみようと決めた。
これほど尋ねるに相応しい人もいないだろう。
「でも、何であの人は精神魔法を研究してるんだろう?」
父は、この国には精神魔法を研究している人はいない、と言った。それともあの話をした頃は、
まだ彼は精神魔法の研究を始めていなかった、ということだろうか。しかし、
父が言葉を濁すように『研究は進んでいない』と言っていたのも気になったが。
――犯罪を犯すような人には思えないし
一度《魅了の魔法》をかけられた憶えはあるが、真面目そうな彼が精神魔法を使って何かをするようには思えなかった。
父が懸念していた危惧はない。
そんな事を考えながら、いい加減休憩をしようとお茶と軽食の準備をし始めた。
「美味しいお茶ですのね」
太陽がほんの少しだけ東側に傾いた午後、執務室にやってきたティアレルにデュシアンは自分が好きなお茶を淹れた。
ティアレルが喜んでそれを飲んでくれたので、家からとっておきの物を持ってきて良かったとデュシアンはほくそ笑んだ。
大地の日の午後。それはティアレルと先週約束した家庭教師を申し込んだ日でもあった。
勉強を始める前にお話をしたいという思いはどうやら二人とも同じようで、
お茶と継母の焼いた二色クッキーを楽しみながら他愛無い会話を交わしていた。
「そういえば、デュシアン様はその……、あまり社交の場には御出でにならなかったですわよね?」
思い出したようにティアレルは尋ねてくる。
「はい、あまり得意ではなかったので」
あまり、では済まされないほど苦手だった。それが表情に出ていたらしく、ティアレルが苦笑した。
「わたくしもですわ。私も苦手」
「ティアレルさんも?」
とても社交的に感じられる彼女の同意にデュシアンは首を傾げた。
「ええ。その場で合わせるのは得意なのですけれどね。ほら、わたくし趣味がかわっておりますでしょう?
中々その事で話の合う方がおりませんでしたし、男性には『可愛くない女だ』と言われてしまいますの。
全くもって、暇を持て余している貴族のご子息方には敬遠されてしまいますのよ」
ティアレルの趣味は兵法や軍事関連の勉強だと聞いた。確かにお嬢様の学ぶものではないなと内心頷くも、
それでも誇れるものがあるティアレルがとても素敵で眩しく感じた。
「デュシアン様は何かご趣味はおありですか?」
「趣味……ですか?」
デュシアンは自分の生活を振り返り、唸る。趣味といえるものは無いような気がする。
継母に促されて刺繍や楽器の演奏に手を出してみた覚えはあるが、どれも長続きしなかった。
しかし、一つだけ思いつくものがあった。
「植物の栽培が好きです」
「まあ! 女性らしい」
羨ましいと手の平を合わせてティアレルは感嘆の声を上げる。
「植物園でお仕事をお手伝いさせてもらったりしていました」
「王立植物園で?」
「はい。たくさんの珍しい草花の手入れをしたり、放し飼いになっている動物たちの世話をしたりしてました」
つい数ヶ月前まで続いていた日課がひどく懐かしく感じて焦燥感を憶える。父が亡くなってからはずっと行っていない。
そういえば、もう行けない事を植物園の人にきちんと伝えていないことを思い出し、デュシアンは小さなため息を零した。
「あちらには動物もいるのですか?」
「はい。南方の真っ白な猿とか、
鮮やかな色の鳥とか、大きな
蜥蜴とか――」
「
蜥蜴……」
ティアレルは困惑気味に首を傾げた。
「慣れるととても可愛いんです。でも素手で触るとたまにかぶれてしまうんですけどね」
誤って触ってしまった時は、継母を卒倒させてしまうほど酷くかぶれてしまったのだ。レセンも『その魔物を殺す!』と息巻いて、
ただの蜥蜴だと理解させるのに時間がかかった。父も複雑な表情をしていたが二人の尋常ならざる様子にだんまりを決め込んで、
薬を塗ってくれた。その時の手の感触を思い出して、不意に笑みが零れる。
「毒はないのですか?」
「ないですよ。毒を持つ動物は隔離されてましたから。なので、蛇も放し飼いでした」
「蛇を放し飼い……」
ティアレルは青ざめて肩を竦めた。
「とても鮮やかな色合いで、綺麗なんです。温室育ちなので生餌は上手に取れないですし、
放し飼いにしても同じ温室の動物に被害はなくて」
慣れてしまえば蛇もトカゲも可愛らしい生き物だった。ただし、彼らに食物を与える時間は苦痛だったが。
放し飼いにされた彼らは生まれた時から温室育ちで、用意されたものを食べる。野生の本性はなりを潜め、
自分から生餌を捕まえようとする意思が薄弱だった。肉食の彼らの餌は、見るに耐えないものばかりなのだ。
「……いくら国で一番大きな植物園でも、温室から出る事の出来ない動物たちは少し可哀相かもしれないですね」
それでも恐らくは、あの温室から出る日が来たとしても、あのままでは野生では生き残れないだろう。
外敵に怯える必要もない狭い温室で生涯を過ごすことが良いことなのか、
次の瞬間には死が訪れるかもしれない野生で自由に生きることの方が良いことなのか、デュシアンには分からなかった。
「さまざまな地方にいる動植物を見ることも人には必要なことですわ。南方大陸の動物なんて、
あちらに行かなければ見ることも叶わないのですもの」
ティアレルはこちらを慰めるかのような優しい笑みを浮かべてくれる。
「そうですね」
人が動物や植物を理解するため。そのためには《仕方のない事》なのだろう。デュシアンは僅かに躊躇しながらも頷いた。
「お優しいのですね」
急にそう言われ、デュシアンは顔を上げた。午前中に違う人物から同じような事を言われたばかりでもある。
しかしそのように言われる所以が分からず、首を傾げた。
もしも『動物が閉じ込められて可哀想と思っている』ことが『優しい』と繋がるのであれば、それが誤解だと思い訂正した。
「わたしはただ、いつ死ぬかもわからないけれども広い世界で自由に暮らすのと、
制限されているけれども身の危険もなく食べ物もある温室で暮らすのと、どちらが動物たちにとって幸せなのだろう、
と思っているだけです。別に優しいわけでは」
「デュシアン様は冷たくとも広い世界で暮らす事の方が幸せだと?」
「……わかりません。でも、仲間と離されて暮らすのは、寂しいのではないかな、と。
温室の彼らは同種が一匹か、いてもつがいぐらいなので」
「普通は、温室の見世物になっている動物たちのことをそこまでなかなか考えるに至りませんわ。
きっとそうしたお仕事に向いておいでなのでしょうね」
ティアレルさんは不思議な人だな――とデュシアンは思った。気負わないで会話ができるし、少しも厭な気分にならない。
その気取らない雰囲気のおかげだろうか。もう少し彼女のことを知りたいと思い、今度は質問をしてみることにした。
「ティアレルさんは、宮殿側の貴族のかたですよね?」
彼女の姓はアリスタといった。神殿側の貴族にはアリスタという家はなかったように思える、全く自信はないが。
この国の貴族は宮殿側と神殿側に分かれる。主に建国時に神官家だった家は《神殿側》と呼ばれ、
神教の教義を守ることを強要される。祖を神官家としない家は《宮殿側》と呼ばれ、王家への忠誠を誓わされている。
近年ではどちらも形骸化してきてはいるが、家名でしっかりと線引きはされていた。
「ええ、アリスタは宮殿の貴族ですわ。爵位は伯爵。兄が継ぐ事になってますの」
ティアレルの表情が少しだけ曇り、そしてしばらくして俯いてしまった。瞳を伏せ、膝の上に組んだ指をしきりに動かしていた。
落ちつかないというよりは、何か思い悩んでいるように思えたので、デュシアンはしばらく待ってみた。
彼女は迷うようにとめど無く動かす視線を、やっとデュシアンの首元に巻かれたスカーフを止めるカメオに落ちつけて、
搾り出すように小さな声で話を切り出した。
「デュシアン様」
かしこまって名を呼ばれ、デュシアンは姿勢を正した。
「わたくし、デュシアン様にお伝えしていない事がありますの」
そのはしばみ色の瞳がこちらをしっかりと見据えていた。
「お伝えしないのは、やはり良くない事だと思ったのです。ただ、これだけは分かっていただきたいのですが、
わたくしはデュシアン様と良い友人になりたいと望んでいるのです」
「それはわたしも同じです。わたしはティアレルさんと仲良くなれたら嬉しいと思ってます」
微笑みを浮かべれば、ティアレルは一瞬戸惑ったような表情になる。しかし意を決したように少しだけ上半身を乗り出した。
「わたくし、宮殿で軍事分析官をしておりますの」
「え?」
「申し訳ありません、本来ならあの時――家庭教師をお引き受けした時にお伝えすべきだったのですが……」
「すごいですね!」
深窓の令嬢に思えるティアレルであったが、実はそんな仕事をしている女性なのだ。デュシアンは純粋に関心して声を上げた。
しかし彼女の表情は冴えなかった。眉が少しだけ寄り、口元に手を当て瞳を反らして思い悩むようだった。
『謙遜しているのだろうか』とデュシアンは思ったが、あまりに思いつめた表情であったので、首を傾げた。
「あの?」
「……いえ、ごめんなさい」
ティアレルはデュシアンの探るような表情にはっとして、慌てて微笑んだようだった。
「なんでも、ないのです」
不思議な感じがしたが、デュシアンはティアレルも自分と友達になりたいと思っていてくれていたことが嬉しく少し浮かれており、
特に彼女の悩んだ理由を聞かなかった。
しかしデュシアンは、この時彼女自身の口から聞いておかなかったことを後悔することになる。
まずはこの国や周りの国々の情勢を簡単に説明しましょうか、とティアレルは切り出した。
兵法などを学ぶにはまず国の軍事情勢などを知る必要があると語り、この国《カーリア》の軍事状況、
神殿騎士団などの軍隊について、その規模や役割などを詳しく丁寧に教えてくれた。
「この国には大きく分けると四つの騎士団があります。規模の大きい順に言いますと、まず神殿の抱える神殿騎士団になります。
首都神殿の警備を除けば、主に地方都市の防衛警備などに当たっております。この総本山におります人数だけでも正規騎士団の
人数より遥かに多いのですが、各都市に派遣されている騎士たちもおりますので、併せれば有に正規騎士団の約四百倍の人数が在籍して
おります。人数が多い分、正規騎士団よりは統制も教育も滞っているのが現状です」
ティアレルはデュシアンが頷くのを見てから次の話をはじめる。
「それから宮殿の正規騎士団です。宮殿の警備と、城下街の警備、それから首都近辺の警備も致します。
厳しい教育によって騎士と呼ぶに相応しい方々が選抜されており、神殿騎士と比べれば質が良い騎士ばかりです。
その為に人数は少ないのです」
「人数か、教育か、なんですね。神殿騎士団と正規騎士団と、どちらの形態が良いのでしょうか?」
「戦争時や魔物と戦う目的ならば、人数が多い方がきっと良いのでしょうけれども、国の規律を取り締まる役目としては、
しっかりと教育された教養のある騎士が行ったほうが良いと思いますわ。ですが間違えてはいけないのは、神殿騎士でも特に総本山、
こちらに勤める方々の大半は正規騎士に負けないだけの教育を受けられていると思います。
位の高い方になれば円卓騎士並の扱いを受けますから」
円卓騎士の名を聞き、デュシアンは顔を顰めた。それを敏感に感じ取り、ティアレルは首を傾げる。
「どうなさいました?」
「いえ」
「……まさか、円卓騎士団はお嫌いで?」
「そういう訳ではないのですが……」
「では?」
「円卓騎士の方の前で、失敗ばかりしているんです。だから円卓騎士を見ただけで拒否反応というか、もうその名前だけで……」
「……そうですの」
ティアレルは俯くと、少しだけ瞼を伏せた。
「ティアレルさん?」
「あ、いいえ。続けましょう。……その円卓騎士団ですが、役割は要人の警護や危険人物の監視、宮殿や神殿の内部摘発、
首都近辺の自然保護区の監視など、少し幅広いです。人数は正規騎士団よりもずっと少ないです」
「あんまり騎士のお仕事っぽくないのですね」
「そうかもしれませんが、単独や小人数での危険な仕事が多いので、
円卓騎士になるには正規騎士になるよりもずっと大変なのですのよ」
「精鋭なのですね」
「ええ、そうですね」
その精鋭たちの前での恥ずかしい思い出が頭を過ぎり、デュシアンは羞恥に真っ赤になった。
「そして、最後の騎士団ですが、これは団と呼ぶには少し規模が小さいかもしれません。けれども、
こちらも精鋭の騎士たちの集まりです。
《王室
警邏隊》と呼ばれております」
「王室、けいらたい?」
「ええ。王室が住まう宮と王室関係者を警護するのが主な役目です。仕事内容の関係上詳しい人数などは公表されてはおりませんが、
正規騎士団の中から特に優れた人間が抜擢される役職です」
「初めて聞きました、そのような方々がいるって……」
「ええ。謁見の間などでの王族の警護は円卓騎士の役目となりますから。
彼らは裏から守護する騎士たちとお伝えすれば宜しいでしょうか。管轄は元老院になりますので、謎も多いのです」
分かり易い説明に、朧げながらも騎士たちの全体像が浮かぶ。
誰かに説明することに慣れているかのように思えて僅かな疑問を浮かべれば、それを読み取ったのかティアレルは答えた。
「実は、王室付きの家庭教師もしておりますの……」
「え!?」
「今のところセレド王子様とその妹御であられるミリーネ姫様に兵法を御教授差し上げておりますの」
「だから上手なんですね。わたしはとんでもない方に家庭教師を頼んでしまったのですね」
デュシアンは照れて笑い、頭を掻いた。
「いいえ。アリスタという家のお陰ですわ。わたくしでなくとも兵法を教えれる方はたくさんいますもの」
「でもティアレルさんの教え方はとても上手です。さっぱり分からなかったことがきちんと頭に入ってきましたから」
「良かったです」
ほっとしたようにティアレルと微笑み合い、二人は同時にお茶に口を付けた。
「では、これで失礼いたしますわ」
一時ほど過ぎ、互いにやや疲れたので今日の講義はこれまでということになった。
華奢な身体に外套と襟巻きを着込んだティアレルへ礼を述べ、「また今度」と微笑みあった。扉を開けてティアレルを通すと、
彼女は穏やかな笑みを残して去っていく。
その背をしばらく見送っていた時。
「閣下」
不意に後ろから声をかけられ、デュシアンは一瞬身体を大きく震わせてから振り向いた。
ティアレルが帰った反対方向にある階段側から昇ってきたのだろう。そこには、神妙な顔つきで、ひとりの巫女が立ち尽くしていた。
もちろん報告書を届けてくれるいつもの巫女だ。
「あ」
その時初めて、デュシアンは自分が彼女の名を知らぬことを知った。彼女の笑みに癒されるなどと思いながら、
彼女の名一つ尋ねていなかったのだ。なんて愚かな北の公なのだろうかと自己嫌悪に陥る。
しばらく無言が続いたのでどうしたものかと思えば、巫女の視線が自分から外れていることに気づく。
その視線を追って振り返れば、ティアレルの背がちょうど階段に消えたところだった。
「今、閣下のお部屋からティアが出てくるのを見たのですが」
視線をまだティアレルの消えた階段に定めたまま、巫女は尋ねてきた。
「閣下はティアとお知り合いなのですか?」
「貴女も彼女をご存知なのですか?」
逆に尋ねると、巫女はデュシアンへとやっと視線を移した。困惑しているような紫紺の瞳で見つめられる。
「はい。……あの、失礼かとは存じますが、閣下は円卓騎士団と懇意なのですか?」
デュシアンは耳を疑った。彼女の質問の意味がてんで理解できないのだ。
「どうして円卓騎士団が出てくるのですか?」
そう質問を返せば、巫女の表情がみるみる曇る。
「ティアが円卓騎士団所属の軍事分析官兼情報分析官だからです」
「え?」
「閣下、ティアは言わなかったのですか?」
少し責めたてるような巫女の言葉にデュシアンは半歩後退する。
「……軍事分析官だとは聞きましたが、円卓騎士団所属だとは」
「閣下、ティアは個人的には悪い人間ではありませんが」
巫女は言い辛そうに眉をしかめた。
「円卓騎士団は、剣をふるうだけの普通の騎士団ではありません。貴族摘発に諜報活動も行うところです。
特にデュシアン様はまだ就任されたばかりの方。神殿の方のみならず、宮殿の方もデュシアン様の動向を窺うことが当然ございます。
それにティアは情報分析官として教育を受けております。ティアを疑いたくありませんが……」
巫女は俯いて首を振ると、顔をあげた。
「きっとティアも貴女様と接すれば、貴女様のお人柄がわかると思うのですが、それはティア個人としての感想です。
情報分析官はもっと違った目で判断します。貴女様がどの程度知識をお持ちか、どのような気質の方なのか……。
あらゆる角度から少ない情報で分析しいていくのです。どうぞお気をつけ下さい」
「……ありがとうございます」
デュシアンは頑張って巫女に微笑みかけ、報告書を受け取った。
巫女は心配そうな表情を消さないまま礼をして去って行く。
それを見届けてからデュシアンは部屋に入り、後ろ手で扉を閉めた。そしてため息と共に扉に背をついてその場で膝をおり、
ずるずると床に座り込んだ。抱えた膝の上に額を乗せて、きつく目を閉じる。
――いったい、誰を信じればいいんだろう……?
言い知れぬ寂しさと猜疑心に、デュシアンは唇を噛んだ。
「……軍事分析官で、情報分析官……円卓騎士団所属……」
ティアレルはそれを言ってはくれなかった。
けれども彼女は何か戸惑っているようだった。言いたいけれども、迷っているかのような。
彼女は話してしまいたかったのかもしれない。しかしこちらが円卓騎士団を苦手だと話してしまった為に、
余計に話しづらくなったのかもしれない。事実はわからないが。
本当はただこちらの事を調べる為だけに来たのかもしれない。友達になりたいなど、嘘かもしれない。
――でも
あの言葉は嘘には思えなかった。
友達になりいたい、と言った時のあの瞳を嘘と言うのなら、全ての人間が嘘をついているように思えてしまう。
それくらいの純粋な瞳だった。
しかし、自分は一度騙されている。純粋で、穢れのない瞳に騙されているのだ。
文書を盗んだ巫女。
にこにこと微笑えみ、ここから文書を盗み出した巫女がいる。ティアレルもあの巫女と同じで、
仕事としてこちらに微笑んで近づいてきたのだろうか? だとすれば、何と残酷な話だろうか。
――……誰になら心を許しても大丈夫なんだろう?
それとも《北の公》はそれすら許されない地位なのだろうか。自分は甘えているのだろうか。
誰にも心を許さず、公爵としての鍍金を保ち続けていかなければならないのだろうか。
――わかんない……、わかんないよ、父様……
零れそうな涙を堪える為に顔を上げる。歪む視界に赤いものが映る。
窓辺の薔薇。赤い薔薇。父からの贈り物。
「貴方は誰?」
小さく尋ねる。
「誰が贈ってくれてるの? 貴方のことは、信じていいの……?」
薔薇は答えない。
代わりに、風で揺らされる窓枠がカタカタと鳴った。
こんな寒い時期に薔薇。きっと南方貿易商から買っているのだろう。高級品だ。そんな高価なものを、
いつもいつも苦しい時に贈ってきてくれる。
「貴方は誰……?」
答えないと分かっているのに、デュシアンは確かめるように、すがるように、もう一度尋ねた……。
(2004.2.19と26)
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