墓と薔薇

3章 さよならの薔薇(2)

「はぁ」
 デュシアンは大きなため息を吐くと、羽ペンを置いた。
 一頻り泣いたのちタオルに自分の涙を吸いとってもらい、文書の写しに入ったのだ。その中で全く見覚えの無いのは四枚。 それを全て写し終え、デュシアンは座り心地の良いソファの背もたれに甘えるように自身を押し付けた。 柔らかく包んでくれるような感覚が気持ちいいのだ。
 石造りの天井を見上げながら、そっとタオルを持ち上げて広げた。自分の涙を拾ってくれた分、少し重くなったかもしれない。
――泣くって、わかったのかな? 情けないな、わたし……
 このタオルはウェイリード公子が放ってくれたもの。恐らくとても情けない顔をしていたのだろう。
――表情、気をつけなくちゃな……
 タオルを下ろすと両手で頬をぱんぱん、と叩いた。
――それにしても……。巫女さんたちが盗んだなんて信じられないよ……
 頭には、いつも大地の日の午前中に書類を持ってやってくる亜麻色の髪の柔らかな笑みを見せる巫女が思い浮かぶ。 確かに嫌な事を影で言っている巫女は多いが、彼女のような可憐で淑やかで純真そうな巫女の方が断然多い。
 それに窃盗は犯罪なのだ。それを巫女たる選ばれた地位の人間がするようには思えない。
 掃除をしてくれると言ってきた巫女だとて、とても穏和そうな穏やかな笑みをたたえた女性だった。 丁寧で礼儀正しい巫女の鏡のような人だった。騙して鍵を奪い、文書まで盗んで行くような人にはとても見えなかった。
――人は見た目じゃ分からない……、か
 それでもどうしても信じられなかったが、事実は事実。受け入れなければならないのだろう。 それより気にしなくてはならないのは、誰が「盗め」と巫女に命じたのか、を考えなければならない。
――ああもう、誰が怪しいのか分からないよ……
 やっと議会の出席者たちの顔と名前が一致するようになったぐらいの知識しかない自分には、誰がラヴィン家、 もしくは自分に害を与えたいと思っているかなど想像もつかなかった。それでも取りあえず、 ダグラス将軍とコーエン男爵の二人は除外していいことだけは確かだ。
 ダグラス将軍は、接してみた限りではとてもそんな事を望んでいる人には思えなかった。 それから防衛協議会議長のコーエン男爵はとても丁寧親切に色々と教えてくれる。 議会の出席者の名前をこっそりと教えてくれたのも彼だ。自分へ向けて嫌悪を隠さない者が多い議会の中、 唯一とても親身に接してくれる彼も違うだろう。違うとデュシアンは信じたかった。
 また、宮殿側の出席者も違う、と思われた。彼らはラヴィン家の存亡における損得には大して関わりを持たない。 強いて言うならば気に入らないから困らせてやろうという理由も有り得るが、巫女を動かせることを考えると違うと判断できる。
 だからこそ、犯人は神殿に関わりのある人間ではないだろうかと推測する。もちろん、 犯人が議会の出席者であるとは限らないのだが。
――駄目だ、広範囲だよ……
 デュシアンは首を振った。そして、視界に入った床一杯の本と文書に驚いて立ち上がった。
――そう言えば、ここ人の部屋だった。すっかりくつろいじゃった……
 慌てて自分の髪を撫で付けた。
――お礼もなしに出て行くのも……。でも、やっぱり出ていった方がいいかな。 ラシェに鍵返しておけばいいって公子は言ってたよね。……あれ? 公子ってラシェと知り合いなの?   いやいやそれより、どうしよう、こういう時ってどうするのが礼儀なのかな? だって、仮にも助けてくれたんだし……
 デュシアンはやっと気づく。
――そうだ、公子は助けてくれたんだ……
 それなのに、お礼の一つも述べていない。できるならすぐにも伝えたいと思い、待つ事にした。
――それにしても、どうして助けてくれたんだろう? わたしに北の公を辞めろって言ってたのに……
 その時、扉が静かに開き、不意打ちに若干驚いてからデュシアンは振り返った。
「まだ書き終わってなかったのか?」
 少しだけ意外そうな表情を浮かべたウェイリード公子が入室してくる。恐らくあれから半時は経っている。 まだこちらが室内にいたことに驚いたのだろう。
「あの、ありがとうございました」
 デュシアンは立ち上がると、彼にきちんと向き直って礼をし、軽く微笑みかけた。泣いていた事はもちろん彼は既知だろうが、 それを感じさせないように公爵としての態度を保った。意地もあるが気を使わせないためのデュシアンなりの礼儀でもあった。
 彼は目を細めてデュシアンの様子を観察するように暫く見つめてから、「ああ」と短く応えた。
「貴方のお陰で助かりました」
「……そうか」
 彼は少し首を傾けて顎に手を当て、じっと見つめてくる。
 その瞳の意図するところはよくわからなかったが、デュシアンは続けた。
「公子は、ラシェと友達なのですか?」
「……まあ、そのようなものだな」
「そうですか。……でも、どうしてわたしによくして下さるのですか?  わたしを――公爵の座から引きずり落としたいのではないのですか?」
 デュシアンは疑問をぶつけ、彼の真意を探るように見つめた。
 すると彼は眉根を寄せて、小さく息を吐いた。
「別に君を公爵の座から引きずり落とそうなどとは思ってはいない」
「だって、この間の議会での提案は……」
「あれは強化護符(アミュレット)を持つ人間が 《北の守り》に入ることへの抵抗を示したかっただけだ。別に君一人を責めるつもりでの発言ではない。 提案した時期が悪かったせいで君に誤解を与えた事は詫びる」
「……でも、辞めろと思っているのは本当でしょう?」
 不思議と彼は答えなかったが、それを肯定ととった。
「それは、当然ですよね。わたしはきっと、精神魔法の存在を最初から知っていても失敗したでしょうから……」
 処理できていない事柄を抱えている時、《破壊》のような強い精神魔法には耐えられるものではない。 例え《破壊》が襲ってくると事前に分かっていたとしても、解呪するのは難しかったはずだ。 その事実を自分で認識していることを伝えれば、彼はそれを理解してくれたのか頷いてくれた。
「それにしても、強化護符(アミュレット)を付けて 《北の守り》に入っているいる方もいるのですか?」
 この間、リディスにアミュレットの教授を受けていたことで、デュシアンもその危険性を十分認識していた。 忌々しきことだと思い、眉間に皺が寄る。
「ああ」
 ウェイリード公子は神妙な面持ちで頷いた。
「強化護符は確かに全ての精神魔法や魔力を弾きはするが、自分の力で解呪する力を損なう恐れがある。 それに《視察》で使われる精神魔法は神のものであるゆえ強力で、強化護符が耐え切れるとの保証はない。 もしも《視察》の最中にでも壊れれば、《北の守り》を決壊させる可能性がある。 議会の人間の中にはその危険性を理解しようともせず使用している者も多い。……それも神殿側の人間だ」
「どうして神殿の人たちが?」
「……神殿の人間はリディス・フォスターの論文をはなから受け入れない者が多い」
「リディス殿の論文?」
「……《彼女》を知っているのか?」
 彼女の存在を知っているかとの問いではなく、彼女と知り合いなのかとの問いなのだろう。 ウェイリード公子は僅かに片眉を上げ、見下ろしてくる。
「わたしのアミュレットは、彼女が作って下さったものです」
「……神殿の人間のくせに許容範囲が広いのだな」
 顎に手を当てて感心したように彼は呟いた。
「……それって」
 こんな言葉を口にしても良いのだろうかと、一瞬躊躇する。
「リディス殿が、《禁呪の魔女》だから、そう仰るのですか?」
「そうだ」
「貴方も、彼女を恐れているの?」
 アイゼン家は神殿側の貴族であり、ウェイリード公子も恐らくは神殿の神学校に通い、 宮殿側の貴族の子息よりは神教の教義を深く教え込まれたはず。それなのに先ほどの口ぶりからは決してそうは思えなくて、 不思議に思い尋ねる。
「……別に何とも思っていない」
「どうしてですか? 貴方は神殿の人間でしょう?」
「……そうだな」
「じゃあどうして?」
「……君は異端審問官か?」
 しつこい質問攻めに僅かに顔を歪めたウェイリード公子が呆れたように溜息を吐いた。
「すみません」
 素直に謝れば、彼は表情を戻した。とはいっても、元のやや機嫌の悪そうな無表情に戻っただけだが。
「……彼女の研究内容は私の研究と重なる部分がある。それに彼女は素晴らしい研究者だ。 それは誰もが認めるべきことだと思っている。それ以外に彼女への感情はない」
「……そう、ですか」
 宮殿側の魔法宮ですら偏見はあったのだ、神殿の人間はきっと自分も含めてみな偏見の塊なのだろうと思っていたのだ。 それが違うと知れて、デュシアンは嬉しさに頬を緩めた。
  「なくなっているものが他にもあるかもしれない。来週にも時間があれば確認を手伝うが」
 唐突に提案されて、デュシアンはきょとんと目を丸くした。そして、とうとう耐えられなくなって、最大の疑問をぶつけた。
「あの、どうしてそんなに親切にして下さるのですか?」
 もしもウェイリード公子が、デュシアンの《北の守り》の視察の失敗理由について考えてくれなければ、 デュシアン自身はあの文書の一部紛失に、決して気づかなかっただろう。 彼がわざわざ不審に思って考えてくれたからこそ判明した事実なのだ。
 けれども知人以下の顔見知り程度の関係で、そこまで親切にしてもらう義理はないのだ。気遣ってくれたのは嬉しいが、 あまり知らない相手の為にそんなに気を使うものだろうかと疑問ばかりが膨らんでいた。
 すると、公子は少しだけ躊躇するようにその珍しい灰色の目を若干細めた。
「……アデル・ラヴィン公に礼を言う事だ」
 急に出てきた父の名に、デュシアンの心臓がはね上がった。
「父の、お知り合いなのですか?」
「……君の父君との知り合いならば国中どれだけいるだろうか」
「では?」
「……良くしていただいた。師のような方だった」
 そのような巡り合わせがあったのかと感心し、頷いた。
「そうだったのですか。……では父に感謝します」
 父の行いに救われたのだと心の中で父に深く感謝した。父のお陰で色々と助かっているのは事実。 しかしその父の名が重いのも半分事実だが、そちらには目を瞑った。
「これからは父の名に恥じない行いを心掛けます。ありがとうございました、ウェイリード公子。 今からもう一度、視察に行ってきます」
「……大丈夫なのか?」
 一度精神魔法の解呪に失敗すると、成功が遠のく。そのことへの心配だろうか。公子の表情はやや堅い。
 しかし、今できる心の整理は昨日終えていた。あれ以上は自分でもわからない。だからこそ、 それで失敗をするならばきっと自分には《北の公》は無理なのだと潔く認めるつもりだった。
 もちろん小父たちには北の公の地位を渡すつもりはない。 父の姉の子であるラシェという優秀な従兄に北の公の座を渡せば良いとの安心感があった。
 それに公爵としての肩書きがなくとも継母も異母弟も自分を受け入れてくれるという事実が、励みとなり勇気となり、 また同時に《破壊》に耐えられるであろうという確信にもなっていた。
 何も恐れるものはないと顔を上げて微笑めば、ウェイリード公子も頷いてくれた。
「……北の守りに最近液体瘴気が多く漏れ始めている。そこにはなるべく近づかないことだ」
「液体、瘴気……?」
 耳慣れない言葉に首を傾げた。
 そんなデュシアンの反応を見てか、ウェイリード公子は一層眉根を深めた。その様子からまだ紛失した文書があることを知るが、 彼が何も言わないところをみると、それはまた今度ということでも大丈夫なのだろう。
「……見た目は水と変わりないが長いあいだ触れていれば麻痺を起こす。一枚目の結界壁周辺に流出している」
「麻痺? ……わかりました。重ね重ねありがとうございます」
 デュシアンは深く頭を下げ、彼が取ってくれた外套と書き写した文書の一部を持って、 来た時と同じく床に散乱した本を踏まないように気を付けながら扉の前まで行く。
「あ、そうでした」
 扉を開けて半身を廊下に出してから思い出し、部屋内を覗き込むようにして彼を見た。
「さっきは、すみませんでした」
 彼は僅かに片眉を動かす。
「嫌味な公子、とか言ってしまって……」
 恥ずかし気にえへへと笑い、肩をすくめた。
 すると、今まで不機嫌寄りの無表情を殆ど崩さなかった彼が、少しだけ微笑んでくれたのだ。 軽く目を細めて僅かに口角を上げただけだが、それだけでデュシアンを驚かせるには充分な変化だった。
 どこか落ち着かない気分になり、「失礼します」ともごもご呟いて扉を閉めた。 自分の中の計り知れない感覚に首を傾げて胸を押さえる。速くなっている心音を感じながら、その理由を考えようとしたが。
――……わかんないや
 今までにない感覚の為に想像もつかず、考えるのを諦めて外套を羽織り、 書き写した文書を外套の内ポケットに仕舞うと歩き始めた。
 向かうところは自分の今後を左右する地《北の守り》。結果次第では自分はただの令嬢に戻る事になるかもしれない。 けれどもその事にはもう不安はなかった。
――失敗しても、《破壊》ならわたしが倒れるだけ。《魅了》と違って変な行動に出ることもないから
 ただ、もしも成功したとすれば、その時は。
――以降、《北の公》としての言動にもっと責任を持つ!
 そう強く決意し、デュシアンは《北の守り》へと歩みを早めた。


 もともとデュシアンが今日神殿に来たのは《北の守り》へ行くつもりだったからだった。紆余曲折してしまったけれども、 継母と異母弟を信じる自分の気持ちに整理をつけることが出来たので、《破壊の魔法》に耐えられるのではないかと思ったのだ。
 自分は一人ではない。必要としてくれる人がいるから。孤独では決してないと二人は教えてくれた。それでもまだ一片の不安と 孤独があるのは確かだった。
 最愛の父の死。
 いくら二人の愛情があったとしても、父がもういないという現実は覆せず、 父という存在が無くなった為に空いた大きな心の穴は全て埋めることは残念ながら出来ない。こればかりは時間を要するものだった。 《破壊》に付け込まれるとすれば、そのどうする事も出来ない部分だろう。
 しかし死は誰にも平等に襲いくるものであり、殆どの人間が対面するものである。 つまりは自分だけが大切な人の死を悼んで孤独に陥っているわけではないのだ。誰しもがそれなりの孤独を持ち合わせている。 そう気づけば、自分も《破壊》に耐えられるのではないか、という結論にいきついたのだ。
――自分を信じよう。全てはそれからだもの……
 《柱の間》を抜け《蜜蝋の階段》を上り、光の球体が飛び交う《封印の間》を進む。
 胸元の護符(アミュレット)を右手でぎゅっと握り締め足を止める。 眼前に迫る《北の守り》である結界を見据え、意を決すると左手を結界へと伸ばし目を瞑った。
 精神魔法は慣れである――と聞いたことがあった。
 けれどもそれを解呪するのが苦手だったデュシアンはその言葉に疑念を抱いていた。
 デュシアンが父から魔法の基本的な手解きを受けたのは引き取られてしばらくしてからのことで、恐らく十五歳の頃だった。 精神魔法の解呪もその時に習いはしたが、慣れない貴族の社交などに疲れてしまっていて、 それらを解呪出来るほど健康的な精神状態ではなかった。その為に、酷い弱い魔法であっても失敗続きであったことから、 精神魔法は苦手という意識が根付いてしまっていた。
 それでも一度解呪に成功している為か《慣れで解呪できる》という法則が成り立つようで、 身動きを制限しようとする《支配》に囚われず、解呪に成功した。また、 もともと慢心の少ないデュシアンには《魅了》はかかりづらいものだったらしく、《支配》よりも素早く振り払うことができた。
 喜ぶのも束の間、一気に緊張が高まり額から汗が零れた。次はすぐにも《破壊》がくるからだ。
 遠くの方で荘厳な鎮魂の鐘の音が聞こえ、堅く瞳を閉じた。段々近づいてくるその音が、 高鳴った心臓の音と交じり合って耳元で大きく響く。デュシアンは左手の中のアミュレットを更に強く握ると、 継母と異母弟をひたすら意識した。
 しつこいぐらいに接触を図ってきて、愛していることを態度でも言葉でも表現してくれる継母。
 過保護なぐらい心配して、いつも行動を確認してくれる年上のような異母弟。
 大好きな二人。自分の家族。二人がいるから何も恐れることはない。二人がいるから何も怖くない。二人がいるから頑張れる。
 アミュレットを握りながら祈るように二人の存在を意識し続けた。
 気づくと、もう鐘の音は消えていた。何の魔法の力も感じなくなり、堅く閉じていた瞳を恐る恐る開く。 視界に入ってきたのはあの墓場(セメタリー)ではなく、 暗黒が支配する目に見えない結界壁だけだった。
「……成功?」
 自分に尋ねるように呟く。
 しばらく呆けた後、まるで朝日が昇って暗い世界をだんだんと照らしていくような感覚に胸を膨らませた。 嬉しいという感情は後からやってきて、満面の笑みで飛びあがった。
「解呪できた!!」
 飛び跳ねる度に足元に薄く張った液体瘴気が跳ねあがるが、そんな事を気にするわけでもなく、 デュシアンは子どものように喜び跳ねた。
 ある程度はしゃいだのち、辺りの静寂に気づいて気恥ずかしさを覚え、誰も見ていないと分かっていながらも頬を朱に染めた。
「そうだよ、視察視察」
 デュシアンは頬を軽く叩いて弛んだ顔と心を引き締めた。
 そっと手を伸ばしてもう一度結界に触れて瞳を閉じ、意識を結界だけに集中させる。
 結界に触れた指先からだんだんと、生暖かいぷよぷよしたものに身体を侵食されるかのような気持ち悪い感覚を得て、 唇を尖らせた。まるで結界内へ引っ張り込むかのようにぐいぐい引っ張ってくるので少し慌てる。 足を踏みしめることで引っ張られる力に抵抗し、瞼の裏に視覚では捉えられないものが映り込むのを辛抱強く待つ。
 しばらくして全身が包まれた感覚になれば、閉じた瞼に次第に一筋の光が零れだし、辺りを少しづつ照らされて広がっていった。 いつのまにかぐいぐい押される感覚も止んでいた。
 すると、瞳は閉じているのにデュシアンの脳は薄い光を発する円蓋(ドーム)を知覚した。 その円蓋こそ、目で見ることの出来ない結界《北の守り》の本来の姿であった。
 人の目にはただの透明な壁としか映らない結界も、手を触れて意識をそこに預けることで結界の魔力構造に入り込み、 本来の姿を知覚することが出来るのだという。視察はそうすることで初めて可能となるのだ。
 デュシアンは瞼に浮かんだとは思えないほど鮮明に知覚された美しい結界に、我を忘れてしばし魅入ってしまった。
 円蓋(ドーム)の外壁は、花びらの形をした硝子細工のようなものが 隙間無く無秩序に埋め込まれており、それらがみな淡い色の光を反射していていた。それはとても幻想的な雰囲気だ。 これほど美しい結界が他に存在するのだろうか――デュシアンは感嘆にくれた。
 しばらくその美しい映像に呆けていたが、いつまでもそうしているわけにはいかないと、意識を集中させた。
 すると、様々な方角から円蓋を見渡せるようになる。それは自分が浮遊して結界を見まわしているのか、 それとも円蓋が動いてくれているのかは分からなかった。脳が像を知覚するだけで、 どうやらそれ以外の触覚などの感覚は全く役目を為さないらしい。
 上から右から左から四方八方からと円蓋(ドーム)を見まわして、 若干の亀裂を正面右上と右下に見つけた。しかしこのくらいの大きさの亀裂ならば日常茶飯事であるし、 治す治さないの範疇にも入らないものだった。 その基準が詳細に『北の守りに関する文書』に書かれてあったのを憶えていた自分をデュシアンは褒めたかった。
 どうやら当分は急ぎの維持魔法を必要としないと自信を持って判断する。
 幻想的な結界の世界は名残惜しいが、そろそろ離れる必要を感じて目を開けた。 それと同時に自分を包んでいた柔らかい物の感覚も一瞬にして失せた。
 開いた瞳が最初に目にしたのが真っ暗な世界の中不気味に光り輝く《神槍》だった。ぞくりと背筋に悪寒が走る。 いつまでも結界に手を触れているのが怖くなり、名残惜しさなどすっかり忘れて急いで手を離し、僅かに後退した。
 何故主神カーラの所有物である《神槍》を見て悪寒が走ったのだろうと不思議に思うも、 神槍の下に《悪神》がいるのだったと思い出した。そちらに我知らず恐怖を感じたのだろうと自分を納得させる。
 そしてもう一歩離れてから、人の目には映らない結界を見上げた。
「綺麗な結界だったなぁ」
 長年の研究の結果、これと同じ結界を作ることに成功していると聞く。 しかし本当にこれとそっくり同じものを作り出すことが出来るのか、デュシアンには疑問だった。これほど純度が高く、 密度も濃く、均一に肌理の整った結界を今の技術で本当に作り出す事が出来るのだろうか、と。
 デュシアン自身は魔法の研究機関に携わったことはないし、魔法に関しての知識は限りなく低いのだが、それでもわかるのだ。 これと同じものは決して作れない。太古の昔、女神が創りだしたこの美しい結界と同じものは、 人間の手で創り出す事は出来やしない――と。
 デュシアンは、溜まりに溜まった大きなため息を吐いた。
 これはとんでもない役職を引きうけてしまったのだと、己の責任を再認識した。もはや何度再認識してもし足りないぐらいだ。
 二度と作り出す事の出来ないであろうものを維持していくことの責任を、しっかりと噛み締めて瞳を閉じた。
――もっとちゃんとしないと……
 責任とは無縁の生活をずっと送っていた為にいきなりの重大責務についていけるか疑問だったが、 今回は滞り無く視察を行えた事でデュシアンは少しだけ自分に自信が持てていた。
 これが崩壊すれば世界が破滅するかもしれないという恐怖もあったが、 これだけしっかりしたものが自分の失敗ごときでどうにかなってしまうようにはとても思えなかった。
 結界は基盤がしっかりしているもの程、その結界を維持しようと働きかける力には優しいものである事を父から習っていた。 それが例え維持魔法の失敗であったとしてもだ。
 それがせめてもの救いだな、とデュシアンは苦笑した。
――維持魔法はもう少ししてからにしよう。視察を数回続けて慣れてから……
 いくら維持魔法に優しいといっても、失敗が結界にとって大きな衝撃であることには変わりない。
 デュシアンはもう少し慣れてから維持魔法を行使することを決めると、そこを後にした。




+  +  +





 預けていた背を柱から離す。
 遥か前方に見える小さなラヴィン公はどうやら《破壊》を解呪させたようで、興奮して飛び跳ねて嬉しげな様子だ。
 それを見届けると、ウェイリードは黒い外套を翻し、来た時と同じように静かに蜜蝋の階段を降りていった。

「早いね。入って四半刻も経ってないだろう?」
 《北の守り》へと通じる部屋から出れば、その部屋を守護する二人の神殿騎士の隣りにいる黒い軍服姿の青年―― グリフィスに声を掛けられた。敵意も害悪も感じられない親しげな笑みを浮かべている。
「……用事を思い出した」
「ラヴィン公も入っていると聞いたけれど。邪魔そうだったから帰ってきたのかい?」
 金髪碧眼に整った顔立ち。温和な口調。どれをとっても相手に悪い印象を与えないグリフィスだが、 質問には深い意図が込められており、僅かに苛立ちを覚える。
「……お前は何故こんなところにいる」
 逆に質問で返せば、気分を悪くした様子もなく微笑んだまま答えた。
「私は仕事だよ」
「……仕事」
 目を細め、睥睨する。
「そう、仕事だよ」
「……何を嗅ぎまわっている?」
「ウェイ。これは私の役目なんだよ」
 珍しくも強い口調で窘められる。そして、やんわりとこの場を離れるよう促してきた。
 守護騎士らに聞かれないよう気遣ったのか、一般研究棟へと通じる廊下まで出れば、足を止めて困ったような表情で振り返る。
「彼らに変な疑惑を与えないで欲しいな」
 常に柔和な雰囲気を漂わせているグリフィスであるが、 それが彼の処世術でありまた仮面であることをウェイリードはよく知っていた。
 グリフィスは複雑な出生の為か、あまり負の感情を見せようとはしない。そんな彼が、 困ったような表情をしながらもそこに怒りの感情を含ませているのだ。
 このような些細なことで苛立つとは、珍しいこともある――ウェイリードは関心した。
「北の守りへの入退室者を確認するのも我々の大切な仕事なのだよ。それよりも、私の動きに疑問を抱く以前に、 君は自分の行動に気を配るべきだ」
「どういう意味だ」
「謀られても、知らないよ」
 警告ということであろうか。グリフィスが収拾したであろう情報の中に思い当たる節があった。
「もっと行動を自重して欲しい」
 グリフィスは深いため息を吐き、続ける。
「私は、君を剣を向けたくなどないのだから……」
 何かを振り払うかのように首を振り、辛そうに呟いた。
「……同感だ。殺されたいとも思わない」
 平坦に述べれば、どうも逆鱗にふれたようで、グリフィスにしては珍しくもはっきりと感情を発露させるように眉を吊り上げ、 声を荒げた。
「ウェイ! 私は本気で君を心配しているのだよ」
「わかっている」
 宥めるように真剣な面持ちで頷けば、落ち着く為かグリフィスは大きく息を吐いた。
「カイザーがいるから大丈夫とか思ってないだろうね?」
「……アレの方が人柄的に公爵に向いている」
「ウェイ!」
 またも怒鳴られ、ウェイリードは僅かに眉を潜めた。少々心配のし過ぎではないか、と。
「君は事実を歪曲されても平気な顔をしている人だ。けれども、 今回のことで何かあった時には君自身の進退に関係するかもしれない」
「その時はカイザーが後継者になるだけだ。アイゼン家に問題はない」
「君はどうするつもりなんだ」
「……ララドにでも亡命するかな」
「真面目に答えろ!」
 グリフィスは声を張り上げた。神学校の学徒の賛美歌が微かに届くだけの森閑とした廊下に、雄雄しいその声だけが響き渡る。 生憎誰一人通りかからなかった為に、目立つ事もなかった。
「……その時にならねばわからん」
 張り上げた声に応酬することもなく、静かにそう答えた。
 こちらがそのようにしか答えられないことをグリフィスも理解はしているはずだが、表情を歪めたまま、 確かめるように尋ねてきた。
「君は、自分がアイゼン家の後継者という立場にどれだけ守られているのかわかっているのか?  君は自分の置かれている環境を、本当に理解しているんだよね?」
 小さく数度頷いた。それが青年の心配への礼儀となると弁えていたからだ。
「とにかく、何かあったら必ず釈明するんだ。その時私たち――私は君の敵であるかもしれないが」
 空色の瞳は逸らされることなく、こちらを真摯に見つめていた。
「けれども、私が友として君の身を案じていることだけは忘れないでくれ」
「……わかっている。ありがとう、グリフィス」
 義に篤い友へ、心からの感謝を述べる。
 それが伝わったのか、グリフィスは表情を幾分和らげて、こちらへ背を向けると宮殿の方向へ去って行った。
 その背が見えなくなってから、ウェイリードはため息を吐いて眉を寄せた。 先ほど『亡命』などという言葉を簡単に使ってしまった失言に額を押さえる。
――亡命など出来るはずもない……
 亡命などすればどのようなことになるか。亡命をしてなにか変わるのか。それを考えただけで頭痛が起きるようだった。
 ウェイリードは小さく首を振って思考を払い落とすと、自分の研究室へと帰って行った。


(2004.2.3と12)

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