墓と薔薇

3章 さよならの薔薇(1)

 太陽がさんさんと輝きに満ち溢れているのに、こんなに寒いのはどうしてなんだろう?
 デュシアンは白い外套の中で手を擦り合わせながら、神殿にある自らの執務室へ行く為に一般研究塔一階を歩いていた。 冷たい大理石の廊下は建物内といえども震えがくるほど寒い。
 首都のこの季節は何度経験してもデュシアンには慣れられるものではなかった。生まれ育った場所は一年中穏やかな気候の場所なので、 冬将軍の到来とは無縁だった。しかし自分とてずっと穏やかな場所で過ごしてきたわけではない。 寒さに打ち震えながら氷の張るような冷たい水桶に手を浸からせて働いていた頃もあったのだ。 けれども父に引き取られてから今までは生温い温室を味わってしまい、あのような寒さを耐える必要もなくなり、 すっかり身体はお嬢様体質になっていた。
――うちの女中さんたちは幸せ、だよね。母様はいつも保温用の小結界で生温くした水を使うように言ってあるから……
 とはいっても首都貴族の使用人は、自分で雇用主を選べるほど恵まれた環境にある者が就く職種であるので、 ラヴィン家の女中だけが幸せと言うわけはない。雇用者も使用人に気を使い、また給金を割高にしなければ、 ある程度の教養ある使用人は辞めてしまうこともある。使用人の教養は貴族にとっても重要であることから、 教養も品もあり更には気遣いも抜群の使用人は重宝されているのだ。
――同じ使用人でも、大違い
 もうあかぎれの出来ることの無くなった綺麗な指先を見つめながらぼうっと歩いていると、 視界の先に何か黒くて大きなものが目に入り、心拍数が跳ねあがるのを感じた。 黒いものを見ると条件反射のように反応してしまう自分が悲しいとデュシアンは思う。
――だから、円卓騎士は滅多に神殿にいないってば……
 すっかり円卓騎士恐怖症になってしまった情けない自分を奮いだたせて、視線を上げて黒い物体の確認をした。 そしてその物体としっかり視線が合ってから、見るんじゃなかったと後悔する。すぐに目を反らしてももう遅い。
――何でよりによって……
 視界に入った黒い物体は、黒檀の髪と同色の漆黒の外套に身を包むウェイリード・アイゼン公子だった。 彼はご丁寧にも足を止めてその灰の双眸をこちらに向けている。
 彼の前で二度の失態。しかも昨日の失敗は《北の守り》での《視察》の最中だ。その恥ずかしさに、自ずと頬が朱に染まってしまう。 できることならばウェイリード公子には会いたくなかった。
 明らかに公子はこちらを待つようにして止まっている――という気まずい雰囲気の中、それを無視して通り過ぎることに決める。
――貴公子だもの
 高い矜持をお持ちのことだろう。無視を決め込めば矜持を傷つけられたと怒りを感じてこちらを相手にするのをやめるはず、 と踏んだのだ。その姿勢は自分でも良くないと理解してはいるが。
 しかし。
「待て」
 思惑外れて声を掛けられる。しかもまるで「逃げるのか?」と暗に含んだように聞こえるやや挑戦的な口調だ。
 鼓動が早くなる中、デュシアンは自分が声を掛けられているわけではないと、往生際悪くも足を止めずに彼の横を通りすぎた。
「おい」
 公子の僅かに苛立ったような呼び止める声が掛かるが、それでもデュシアンは足を止めずに大理石の床を蹴る。
「待て、ラヴィン公」
 相手もただの貴公子ではなかったようで二度の無視にも諦めなかった。
 名を背に受ければ、止まるしかなかった。仕方なく振りかえる。
――なんで貴方が声を掛けてくるの?
 挑むように公子をしっかりと見上げる。恥ずかしさを隠すには、もはや強気か開き直ることしか考えつかなかったのだ。
「何度呼ばないと君は止まらないのだ」
 ウェイリード公子は少しだけ眉をしかめているが、別段表情には変わりなく感情が読みにくい。
「……『待て』だなんて随分な命令口調ですね」
 自分も彼を無視した非礼を忘れたような強気の発言に、デュシアンは内心はらはらしていた。
「……それは失礼申し上げた」
 彼は肩をすくめて、なんでもないように謝罪を口にした。
「それで、いったい何のご用でしょうか?」
 デュシアンはこの公子と話をしたくなかった。いつもいつもこちらを惨めなまでに追い詰めてくるのはこの人なのだから。
 《北の公》として魔力の許容量以外の能力面では足りないものが多すぎることをデュシアンは承知していた。 しかし継母と弟との幸せな生活を守る為、そしてラヴィン家の直系である弟のレセンに家督を譲る為には、 《北の公》の地位を投げ出す事も、またそこから振るい落とされることもあってはならないことなのだ。だからこそ、 でき得る限りその現実を意識せずにいたいと思っているのに、ウェイリード公子は刺激を与えてくる。 だからこそ、会いたくないのだ。
「少し付き合ってもらいたい」
 有無を言わさない口調でそう言われる。もともと強い意思を感じさせる表情の青年であり、 命じて人を従わせる雰囲気を持っている。願望であっても強制に思えてしまう。
「お時間はおありか?」
 僅かに青みがかった灰燼の瞳は、ずっと真摯にこちらを向いている。その視線に緊張しながらデュシアンははっきりと答えた。
「ないです、貴方の為に割く時間なんて」
 この公子とは極力関わりたくない。これ以上自分に失望したくなかった。 これ以上沈んだら《北の公》として本当に立ち直れなくなってしまう。デュシアンは手のひらを握り締めた。
 例え令嬢――現在は公爵だが――らしからぬ、あしらい方であろうとも、あくまで相手に対しての不快感を隠さずに断った。 ここまで露骨に示せば、貴族なんてすぐにも諦めるだとうと思っての甘い考えだった。
「君には必要なことだ。今日これから付き合ってもらう」
 強めの拒絶だったにも関わらず、ウェイリード公子は強引にデュシアンの腕を取ると歩き出したのだ。
 まさか大貴族アイゼン公爵家の嫡子たる彼が、貴公子らしからぬ行動に出るとは露にも思わなかったので、 しばらく簡単に引っ張られて歩かされてしまう。軽い混乱のあと、はっと我に返って声を上げた。
「あ、あの!」
 抵抗虚しく、力強い彼に引っ張られるようにずるずると一般研究棟のある方向へ強制的に連れて行かれた。
――そういえば……
 《北の守り》で失敗し、倒れそうになった時にこの公子は自分を支えてくれた。その腕は、 まるで騎士の腕のように太く硬く引き締まっていたことを思い出し、力での抵抗は無駄であると悟った。
 だからといって声で抵抗を続ければ目立ってしまう。それも情けなく感じ、 悔しい思いながらも離れそうにない力に抗うのを止めた。ここは神殿廊下で人目がある。 もう少し人通りの少ない空間に行ってから抗議しようと考えたのだ。
 しかし抵抗を止めると、腕を掴む彼の力がほんの少しだけ弱まった。それを好機と思い、振りほどこうと暴れれば、 また強い力で掴まれることとなる。諦めてまた抗うのを止めると、また掴む力が少し弱まり、 もう一度振り払おうとすればまた強い力で掴まれ……。
 廊下を行き交う人々が、そんなことを何度も繰り返しながら歩いている若い男女の不思議な姿を物珍しそうに見ていたことを、 当人であるデュシアンは必死だった為に気づかなかった……。

「離して下さい。礼節に欠けると思わないのですか?」
 しばらく歩き続け、やっと人通りの少ない研究棟区域まで来たので、デュシアンは声をあげた。 二の足で思いきり踏ん張り、今までで一番の抵抗を見せて彼の足を止めさせる。
「離せば君は逃げるだろう?」
 振り向き、高い位置から見下ろす彼の言う事は確かに正論だ。しかしデュシアンはその言葉に腹をたてた。
「逃げるだなんて」
 何事も臆さない《北の公》は逃げるはずがない、否、逃げてはいけない。デュシアンは真っ向から睨みつける。
「ならば、来るのだな?」
 急に枷を解かれ、デュシアンは軽く均衡を崩しかけたが僅かに一歩後退しただけで重心を取り戻し、彼を見上げた。
 無表情に近いその顔が、見上げたその一瞬だけ苦笑していたように見えたのは気のせいだろうか?
「現実から逃げたくないのなら来るんだ」
 彼はこちらに背を向けて、大股で歩き出してしまった。
 もう腕の束縛は解かれたのに、あの力強い指の感触が腕にちりちりとした熱を持って残っている。 その腕を反対の手でそっと撫でた。
――《北の公》のわたしは、逃げたりなんかしない……
 デュシアンはこちらを一切振り向かずにどんどん行ってしまう彼を走って追いかけ、その背について行った。
 すると、彼の歩幅が狭くなり、心なしか歩調が緩やかになったような気がする。
 喧嘩を売ってさっさと行ってしまえば、付いて来ると思ったのだろうか? わざと自分に考える時間を少なくする為に、 彼はさっさと行ってしまたのだろうか? 彼の手のひらで踊らされているようで、デュシアンは僅かな苛立ちを覚えた。
――それにしても、どこへ行くんだろう?
 不本意ながらもその後ろを付いて行き、ゆらゆらと揺れる漆黒の外套やら黒檀の襟足やらへとちらちらと視線をやりる。 最初は《北の守り》に行くのだろうかと思っていたのだが《北の守り》へ通じる部屋がある特別研究棟区域は素通りしている。
――北の守りじゃなければ一体どこに?
 彼の案内で着いた場所は、特別研究棟のすぐ横の一般研究棟三階の研究室だった。
 その扉を開けた彼に促されて先に入りれば、目に飛び込んできた室内の様子に呆気にとられた。
 危険な配置で本が山ほど積まれた机がでんと部屋の中心にある。今にも崩れそうだ。 それだけでは飽き足らず、床にも雪崩を起こす寸前の本の山、書類の山。足の踏み場もない。ラシェが見れば激怒間違いなしだろう、 と密かに思う。
「踏まないように気をつけてくれ。すまないな、しばらく整理を怠っていたから……」
 どうやらここは、ウェイリード公子の個人的な公設研究室であるらしい。
 神経質そうな見た目からは分からないその粗雑さ加減に少々驚きながらも、 本を踏まないように気を配りながらソファまで辿り着き、外套を脱いだ。差し出された彼の手にそれを渡すと、 きちんと壁にかけてくれる。その当然のような一連の動きが貴公子らしく洗練されていて、鼻持ち成らない奴と思うべきか、 素直にすごいなと感心すべきなのか悩むところだった。しかしそのように丁重に扱われるのは少し苦手だったが。
 座ったソファはとてもふかふかで、さすが大貴族アイゼン家の跡取だと皮肉を言いたくなるような上質のものだった。 目が利かずとも座り心地の良さで、これがとても良い品であることはわかる。
 近くでは簡易暖炉が赤々と燃えていて、部屋をふんわりとした暖かさに保ってくれている。 しかし暖炉と言ってもこの簡易暖炉は魔法の炎を凝縮したものであるから本物の暖炉とは違い、 燃やすものも必要なければ物を燃やす事もできない。個人の研究室の立ち並ぶような場所で、 あらゆるものを無差別に燃やす自然界の《火》はその使用を禁止されているのだ。
 その為に神殿では暖炉の代わりになる魔法商品《暖炉の炎》が配布されている。もちろん蝋燭や行燈の使用も禁止されているので、 各部屋には目に優しい光を発する照明魔法商品《明かりとり》も配布されている。
 煌煌と焚かれた《暖炉の炎》が指の先にまでじんわりと暖めてくれて、寒さから逃れられたことにほっと息をついた。 しかしすぐにもここは他人の研究室であったことを思い出し、ソファに座りながらウェイリード公子を見上げた。
 彼は無造作に自分の外套を脱ぐと、それを近くの木製の肱掛椅子に放った。中は漆黒の礼服。それを確認すると、 またデュシアンの心臓は大きく跳ねた。すぐにも冷静になり、己の悲しい習性に嘆息する。
――だから、この人は研究者だってば。黒い服着てる人見るとすぐ反応しちゃうんだよね。
 円卓騎士の前での失態が多いので、どうしても彼らの目印だと信じて疑わない黒い服に構えてしまう癖ができてしまっている。 レセンにすら黒い服は着るな、などと姉という権限を行使して理由話さず命令してしまったぐらいだ。可哀相な異母弟は、 横暴な姉の言う事を渋々聞いてくれているが。
――でも公子って、騎士って言ってもいいくらいの逞しさだよね……
 自分を凝視するデュシアンへと不審そうに眺めたのち、ウェイリード公子は保温用小結界からポットを取り出して、 上質そうな陶器の茶器にこれまた上質そうなお茶を淹れてデュシアンの座る前のテーブルに置いた。無愛想なのか、 「どうぞ」の一言はない。洗練されているようで、されていないような彼の貴公子ぶりにデュシアンは少し混乱した。 全くもって言動が読めないのだ。
 それでも出されたお茶を一口飲むと、すぐにも至福に感じ入った。 味もさる事ながら身体の内側から暖かくなるような幸福感に、にんまりと笑みが自然と零れてしまう。
 しかしそんな幸福を遮るように、一つの封筒がテーブルに置かれた。
 デュシアンはカップを置き、公子を見上げた。
「それを読むんだ」
 灰燼の瞳から目の前のテーブルの上に置かれた封筒に視線をもう一度移す。何だかその封筒には見覚えがあった。
「……これ」
 見覚えがあるどころではないことにデュシアンはすぐに気づき、膨れ上がる苛立ちに唇を引き結んだ。 勢いよくソファより立ちあがり、ウェイリード公子を睨みつける。
「馬鹿にしないでください、これなら隅から隅まで読みました! 読んで、読んだのに、《視察》を失敗したんです!!」
 非難する声が上ずっていることに自分で気づいて赤くなった。
 自分の失敗は自分が一番惨めに感じている。それを口に出して強がりを言うのは恥ずかしい事だと分かっていても、 彼に当たるような言い方しか出来なかった。
 しかし彼はデュシアンのそんな動揺に全く構うことなく、真面目な面持ちで視線を反らさず、
「いいから読むんだ」
と強く言い放った。彼特有の、相手に有無を言わせない口調だ。
「嫌味な公子!!」
 子ども染みていると分かっていても、そう叫ばざるを得なかった。一層強く彼を睨む。
 デュシアンは彼の淹れたお茶をちょっとでも美味しいと思った自分に嫌悪した。よくよく考えれば、 毒を盛られることだってあるのに何の猜疑心もなく飲んでしまった自分の無防備さに腹が立つ。
 ありとあらゆる彼への疑いが頭を過ぎっていた時、
「いいから読むんだ!」
苛ついたのだろう、彼の初めて荒げた声にその全てを吹き飛ばされた。
 肩が反射的に大きく肩を震わせ身を縮め、両手の指を組んで煩く鳴り響く胸元に押しつけた。
 人に怒鳴られるのは久しぶりだった。あまり好きではなかった。寧ろ嫌な事を思い出すのだ。 思い出したくないのに身体は覚えている。こういう時、相手を見上げ、つい顔色を窺う。これはもう半分癖だった。
 しかし相手はデュシアンの恐れていた表情ではなかった。とても真摯で真剣。怒っているわけではなく、 むしろ心配しているかような表情だった。怒鳴り声と悪鬼のような表情と体罰は、常に一対であったと身体は記憶していた。 記憶と違う奇妙な感覚に、デュシアンは自分の中の怯えが萎んだように感じた。
「読むんだ。それは君の義務だ」
 ウェイリード公子はもう一度、今度は子どもに諭すように穏やかに言った。
 デュシアンはまるで魔法にでも掛かったように彼の言う通り封筒を開けると、中から文書を取り出した。
 推測通り、封筒から出てきた文書はデュシアンの執務室にもある『北の守りに関する文書』であった。 それを膝の上で一枚一枚緩慢な動きで捲って確認していく。
 全てを暗記するぐらい何度も目を通している文書だ。自分のところにあるものと同じ。 強いて言えば一枚一枚右下に押してある印がアイゼン家の家紋であって、 デュシアンの執務室にあるものにはラヴィン家の家紋が押してあるという小さな違いはあるが。
 恐らくウェイリード公子は《視察》の失敗を、デュシアンが文書をきちんと読んでいないからだと考えたのだろうが、 それは違う。しっかりと文書を読んだうえで、失敗してしまったのだから。
 己の不甲斐なさを再認識しながら文書に目を通し、数枚目を捲った時にその手を止めた。
 折角暖まった身体から血の気が引けて、寒さを覚える。瞼がまばたきを忘れる。乾いた唇も文書を持つ指も肩も、 小刻みに震えた。
「君が、《魅了》の後の《破壊》を知らないかのように無防備だったのに引っ掛かったのだ」
 そのまま彼は続けた。
「ラシェから聞いたのだが、巫女が部屋に入ったそうだな」
 ウェイリードの言葉が耳を流れて行く。目の前の文書の情報から意識が離せなかった。
「どうして……」
 『北の守りにおける精神魔法』と書かれた項目。これは自分の持つ書類にはないものだったのだ。
 北の守りでの最初の霧に含まれる《支配の魔力》、それから《視察》時にかかる《支配の魔法》、 《魅了の魔法》、《破壊の魔法》の注意を、数枚に渡って詳細に書かれてある。
 本来ならば自分の持つ文書と一文字一句違わない同一文書であるはずなのに、デュシアンの執務室にある文書にはその記述がない、 というよりそのことが書いてある紙自体がなかったのだ。
「これは……」
 デュシアンはまだ廻らないくらくらする頭でウェイリードを力なく見上げた。
「……巫女が部屋に入ったのだろう?」
 彼はもう一度、優しく諭すようにもう言う。
 その言葉にデュシアンは目を見開いた。まだ自分が《北の公》になりかけの時に、 掃除をしてくれると申し出てくれた巫女たちに執務室の鍵を渡したことがあるのを思い出したのだ。
――そうだ、ラシェに怒られた……
 執務室は機密文書だらけ。そこに自分が立ち会わずに巫女を入れてしまい、従兄にさんざん叱られた。
 あの時。
――盗まれたんだ、北の守りに関する文書の一部を!
 それも、『北の守りに関する文書』の中の《精神魔法》に関する全ての記述を。
 意思に反して涙が溜まるも、意図的に瞬きを堪えることでそれを零すまでには至らなかった。 人前で泣く事は公爵としてあるまじき行為だと常々思っていた。自室でしか泣かないと決めていた自分にとって、 アイゼン家の人間の前で、それも他者の部屋で泣くことなど、許せるわけが無かった。それに全て自分の不手際が招いたこと。 盗まれたことは悔しいが、至らなかった自分の愚かさの方が許せなかった。
――どうしてこんな……
 盗んだ人間が何をしたいのかと考えれば、デュシアンが失敗をすること。恥をかくこと。 酷いことになれば《北の守り》を決壊させること。
 しかし一番恐ろしいのは、それを望む人間がいるということ。
 こちらを《北の公》もしくは公爵として相応しくないと思っての行為かもしれないし、ラヴィン家に対する策謀なのかもしれない。 そんなことがある事ぐらいよく分かっていたはずで、もっと警戒しなくてはならなかったのだ。
 自分の行動のせいで、自分の立場だけではなくラヴィン家をも潰すことになりかねない現状に、デュシアンは不安と絶望を覚えた。
 全ては至らない自分の責任だった。だからこんな情けない自分を可哀相と思って泣くのは情けないと思った。 ぐっと奥歯を噛み締めて、デュシアンは全てを投げ出したい気持ちを堪えた。それは《北の公》としてのデュシアンの最後の意地だった。
「……これは父の文書だから今日一日しか持ち出せない。……写していくといい」
 彼の声が頭上で聞こえたが、その顔を仰ぎ見る事は出来なかった。
 数枚の紙と羽ペンを目の前のテーブルに置かれたのが、辛うじて見える。
「私は用事があるから少しここを離れる。終わったらこの鍵で部屋を閉め、ラシェに鍵を渡してくれ。 文書はその辺に置いてもらえればいい」
 銀色の鍵も置かれる。
 そして僅かに気配が離れたと思えば、頭に何かをかけられた。驚いて手を伸ばし確認すれば、それは清潔な白いタオルだった。
 意図を計り兼ねて顔をあげれば、ウェイリード公子の困惑気味な表情と出会った。
「使うといい」
 ぶっきらぼうにそう言い放つと、彼は踵を返して退室した。
 それを皮切りに、デュシアンは顔を上げたままみるみる表情を歪めて嗚咽した。意地とか、虚勢とか、 そんなものが吹き飛んでしまったのだ。
 張り詰めた糸が切れたように泣きじゃくりながら、彼の放ってくれたタオルに顔を押しつけて、 まるで自室にいる時のように自分だけを世界で一番不幸だと思い込む事を許して泣き咽た。


(2004.1.26)

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