時は少し、遡る。
「現在ラヴィン公が御入室されております」
入り口の騎士が堅い口調でそう告げると、敬礼を寄越した。相槌を返し、入室する。
――視察だろうか?
彼女にとって初めての視察であろう。ほんの少しだけ胸騒ぎがした。《北の守り》へ通じている魔方陣を作動させながら、
その胸騒ぎが気のせいであって欲しいと思った。
《北の守り》内部へ着き、『柱の間』を抜け、『蜜蝋の階段』を昇る。本来ならば、視察の邪魔をしない為にもこの辺りで
一度様子を窺った方が良いとは思うのだが、どうも勢いは止まらない。階段を昇りきり、『封印の間』へ足を踏み込むが、
入り口で足をぴたりと止めた。
《北の守り》へ通じるあの部屋を護る神殿騎士は、確かにラヴィン公が中に入っていると言っていた。
しかしそのラヴィン公の姿がどこにも見当たらないのだ。
わりと目の利く方ではあるが、視界にはあの華奢な姿は映らない。
――どうした事だ?
不思議な焦燥感にかられ、一歩踏み出してすぐにもその異変に気づく。瞬間、考えるよりも先に走り出していた。
「おい!」
結界傍の《液体瘴気》の中に、あの《北の公》が半分埋もれているのだ。慌てて駆けよって抱き起こすと、彼女は随分と震えていた。
焦点の合わない瞳からは大粒の涙が零れている。意識はあるが、目は虚ろで何かをしきりに探しているようにも思える言葉を発していた。
澄ませた耳に聞こえてきた言葉に表情が歪む。
「とうさま……」
確かに彼女はそう言った。
奥歯を噛み締め、反射的に結界内の《神槍》を睨みつけた。
「とうさ、ま」
彼女の震えるその手が上着を掴んでくる。その弱弱しいちからに舌打ちしそうになる。
「……大丈夫だ、ここにいる」
そう言って彼女の頬に手を当てると、悲しみばかりの表情が少し和らいだ気がした。
「……とう」
《破壊の魔力》にかかって精神を揺さぶられている彼女は、うつろう意識の中、己の亡くした父とこちらを間違えているのだ。
彼女の瞼に手を当てて、そっと《眠りの魔法》をかけた。すぐにも彼女は呼吸を落ちつかせて静かな寝息をたて始める。《破壊の魔力》
の精神的な攻撃によって大分疲れているのだろう魔法が効き易くてほっとした。
しかしその彼女の手は眠りについた今でもしっかりと、まるで縋り付くかのようにこちらの上着を握り締めていた。
「だから、君には無理だと言ったんだ……。君が傷つくだけだ……」
そう呟くと、彼女を抱き上げて歩き出した。吸い寄せられるように、彼女はこちらの胸に顔を預けた。
神殿の魔方陣の部屋に戻り、外套を脱いで土の床にそれを敷くと、眠り続ける彼女をその上に横たえた。
しかし彼女の手が自分の上着をしっかりと握っているので、彼女をうまく寝かすことが出来ず、
やむなく上着も脱いで彼女にかけることとする。
それからしばらく思案し、部屋の外に出て警備の為にそこにいる二人の騎士に声を掛けた。
「すまない、一刻ほどここを離れてくれないか? 人除けの魔法を試したいのだが、貴兄らがいると、
その魔法の影響が貴兄らにも出る」
こちらの言葉に、二人の神殿騎士たちは目を丸くした。
「しかし我々にはここを守る、という使命が……」
「それならば私がここを守る。何かあれば私が責任を負うから、言う通りにして欲しい」
こちらがそう言うならばと二人の騎士は顔を見合わせ、そこを後にした。しばらくして二人の騎士の上官がやってきたが、
彼らに説明したのと同じことを繰り返し、『貴兄にも影響が出るので早めに立ち去って欲しい』と告げる。
人に避けられる魔法など掛けられたいはずもなく、上官も渋々立ち去った。
これでしばらくは誰の邪魔も受けずにいられるだろう。中に彼女を残したままその部屋の前から離れた。
もちろんその部屋の入り口が視界に入る場所で止まる。《北の守り》へ通じる移動魔方陣のある部屋は特別研究棟にあるが、
その近くの通りは一般研究棟へと続く廊下となっている。ここで待つことにした。
――できるならばラヴィン家の関係者。ラシェか、レセン公子……。駄目ならばせめてカイザーか口の堅そうな誰か
そう考えに耽っていた時に、「お前、こんなところで何をしているんだ?」と一般研究塔の方から現れた人物に声を掛けられた。
一番の適任者がこんなにも早くに現れたことに、安堵した。彼女の従兄の、ラシェ・シーダスだ。
「貴兄を待っていた」
「は?」
眼鏡の奥の赤茶の目が胡散臭そうに細められた。
「こちらに来て欲しい」
「おい、何だ?」
ラシェは面倒ごとに巻き込まれると理解したのか、嫌そうな顔をしている。しかしそれに構っている暇はない。
「とにかく来てくれ」
「そっちは特別研究塔だろう?」
そう言いながらも付いて来た。
「おい、俺はここに入る資格は持ってないぞ? それより見張りはどうした?」
《北の守り》へ続く移動魔方陣のある一室は、入室許可を持つ者以外は近づくことも入室も禁止されている。
ラシェはその許可を持っていなかった。
「少しの間、離れていてもらっている」
「どういうことだ?」
「中に入れば分かる」
訝しむラシェを、開けた扉から中へ押し込んだ。
「デュシアン?!」
地面である床に横たわる彼女を見て、ラシェは珍しくも慌てた様子で駆け寄っていった。
「おい、どういうことだ?」
眠っているだけであることがすぐ確認できて僅かに安堵した様子だったが、
それでも恐ろしい形相でこちらを振り返った。
「《北の守り》の中で倒れていた」
「なに?!」
「少し混乱が激しかったから《眠りの魔法》をかけてある。それから《液体瘴気》の中に身体を浸からせていたから、
痺れが短い間だが残るかもしれない」
「……それで、どうしてこんなところに?」
「私が運ぶわけにはいかない。その様子を入り口の騎士に見せるわけにはいかないからな。《北の公》が意識もなく運ばれているなど、
一大事だろう。それに彼らは入退室している人物を記録している。だから外套で隠して運んでしまうと、
いつまでも部屋から出てこないラヴィン公を不審に思わせてしまう。
かといって見張りの居ない間に私がここを離れて運ぶわけにはいかない。
見張りは私がすると言って、騎士たちにはここを離れてもらったのだからな」
「だからあんなところで誰かが通るのを待っていた、というわけか」
納得がいったらしく大きくため息を吐いた。
「仕方ないな」
ラシェはもう一度ため息を零すと《北の公》を抱き上げた。
抱き上げた拍子に彼女の腕がだらんと垂れたが、その手が握っていた上着が落ちる――ことはなかった。
彼女はしっかりとそれを握ったままだった。
「後で返してくれればいい」
そう言って、抱き上げられた彼女の身体の上に、垂れた腕とその手が掴む上着を乗せてやった。
「……それから《北の公》とわからないように、これで包め。廊下で誰に会うとも限らない」
今まで彼女の横たわる身体の下に敷いていた外套を差し出した。
「いや。お前、その格好では寒いだろ。だいたいこの寒い時期だ、そんな格好で立っていたら可笑しいだろ。俺のを巻く」
そんな格好とは上半身にシャツ一枚という、とても寒々しい今のこちらの格好のことである。確かに目立つかもしれない。
ラシェは苦笑すると、彼女を一度こちらに預け、自分の外套を外すともう一度《北の公》を譲り受けて、
その外套で全身を包んだ。
「随分と過保護なことだ。誰だか分からないように運べだなんてな」
ラシェはまだ笑っている。正直、過保護という自覚はある。だが、それも当然だ。
「がんばろうとしているのに、それを無碍にするのは無粋だ」
「お前は甘いな」
「……そうだろうか」
「叔父上が乗り移ってるようだ」
「……感情移入し過ぎているのかもしれない」
「わかってんならやめろ。こいつの為にならない」
「……そう、かもな」
「まあ、従兄として礼は言う。こいつはこれでも大切な従妹だしな。
お前が見つけてくれなかったら、どうなっていたことかわからなかった。……恩に着る」
「……彼女を焚きつけてしまったのは私だ。私にも責任はある」
肩をすくめて、以前彼女に魅了の魔法を掛けてしまったことを思い出す。
ラシェが「何のことだ」と言わんばかりにこちらへ視線を向けてきた。
「いや、こっちの話だ。とにかく頼む」
「ああ」
人を運んでいるとは思わせない為に、外套で巻いた《北の公》を肩に担ぐ事にしたらしい。
そうしていると、まるで荷物のように見えた。
「そうだ、恩を売っておくか?」
ラシェはそんな事を聞いてきた。当然、首を振る。
「私のことは伏せておいてくれ。彼女には仕方のない出来事だったと思う。
いくら前もって知っていたとしても防ぎようのないこともある」
「なかったことにしてくれる、って訳か?」
「まあ、そういうことだな」
「甘い奴だな、本当に。……じゃあ俺は行く」
難儀な奴だとラシェは最後に一言残して、薄灰色の外套に包まれた、
もはや人なのか何なのかわからないものを肩に担いで去っていった。
それを見送ると、大きなため息が零れた。外套についた汚れを払いそれを羽織る。そして、
ここを守るはずの騎士たちが帰ってくるまでの間、替わりに部屋の外で静かに佇む事にした。
騎士二人がきっちり一刻後に戻ってきた時、ラヴィン公が先ほど退室したという旨を伝えると、
とりあえずは全てが上手くいったことに安堵した。もちろん、人除けの魔法も施して。
立場上まずい事をしたという自覚はある。だが、後悔はしなかった。
(2004.1.12)
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