逃げ込むように屋敷に帰ってきて廊下ですれ違ったレセンが何か声を掛けてきたが、
デュシアンにはそれに応えることのできるほどの精神的余裕は無かった。
自室に入ると一気に力が抜け落ち、寝台へ身を預けると今まで堪えていた涙が止めどなく溢れだし、
シーツに零れ落ちて染み広がった。
自室に帰れば自分は《北の公》ではなくただの《デュシアン》に戻れる。
一人悲しみにくれることも、《北の公》に有らざる振舞いをしても誰にも咎められることはない。
そんな安心感から、デュシアンは自分の中に沸きあがる感情を抑える事が出来なくなっていた。
耳には鎮魂の鐘の音がまだ響いている。外の空気を吸っても、家に帰ってきても、それは消え
なかった。《破壊の魔力》はもうないはずなのに、それなのにどうしてか頭にはあの光景が断片的に思い浮かんでくる。
組んだ指。
真っ白い顔。
狭苦しい棺に収まった身体。
父と母の顔が交互に入れ替わる……。
同じ光景、そして同じ鎮魂の鐘の音。
酷い孤独感が自分を苛ませ、母と父を失った時の記憶を思い起こさせた。
母は自分を残し、十歳の時他界してしまった。母を失った悲しみに浸ることなく、
取り残された孤独と空虚だけが自分の心を占めていた。
けれども、その悲しみも孤独も父と出会って癒された。自分は独りではなかったのだ、と。
その父すら自分は失ってしまった。何もかもを失った孤独と空虚感がもう一度自分に襲いかかったのだ。
しかし《北の公》になったことでそのことを、父を失った悲しみを押し込めていた。
その抑え続けた悲しみを《破壊の魔力》に付け込まれた。まだ自分は孤独を、父の死を乗り越えてないのだと、
自分のことであるのに他人のことのようにやっと気づく。
デュシアンは唇を噛んで、嗚咽を耐えた。それでも頭はちゃんと廻っており、自分が何故失敗したのかを教えてくれた。
感情だけが追いつかない。
――乗り越えなきゃ
《破壊の魔力》は何度でもこちらの弱い部分を突いてくる。
それを跳ね除けられないことは、つまりは《北の守り》の視察をすることができないことを意味する。
視察ができなければ維持もできようはずがない。
――駄目だ、わたし
デュシアンは熱く篭もったため息を吐いて寝転がり、横を向くと傍近くのテーブルに置かれた花瓶に目を留めた。
白いマーガレットが綺麗に活けられている。母が――継母が活けてくれたのだ。そう意識すると、
途端に美しい母の柔らかい微笑みと可愛い弟の不て腐れた表情が思い起こされる。
――そうだ。わたしには母様も、レセンもいるじゃないか……
大切な人を失ったのは二回目だった。だが一度目とは違い、父の死の時は継母も弟も自分にはいたのだ。
ひとりになるはずはなかった。それなのに、どうして独り取り残された孤独を感じてしまうのだろうか?
――わたしは母さまとレセンを、二人の自分への思いを、信頼していないの……?
そんなはずないと、デュシアンは首を振るう。二人がいるから自分はひとりではないはずなのだ。
二人を誰よりも愛していて、そして信頼しているはずだった。
だから亡くなった父の代わりに愛する二人を守ろうと、《北の公》の地位になったのだから……。
――そう、二人を守る為に……?
「嘘つき」
デュシアンはそう呟いて寝台に顔を押し付けた。自分が孤独を感じる理由、
そして《北の公》を継いだ本当の理由に、やっと気づいたのだ。薄々気づいていたが、意識しないようにしていた。
意識すれば心に負担がかかるから。そうやって、自分すらも偽っていた。
そうして意識下に押し込んでいたせいで失敗を招き、自分を貶める結果となった。
それでも尚自分を偽ろうとしていた己に嫌気がさす。
――《北の公》になったのは、二人のためじゃない。本当は、自分の為じゃないか……
自分の保身のためじゃないか。居場所を失いたくなくて。継母とレセンと自分とを結ぶ父が亡くなって、
二人に捨てられてしまうのではないだろうかという不安が自分の根底にはあって、二人と自分を繋ぐものが欲しかった。
二人に愛していて欲しかった。二人に必要とされたかった。
ただそれだけだった。
確かにラヴィン家を乗っ取られそうになって慌てはしたが、本当はただ独りになりたくなかっただけなのだ。
だから父がいた頃と同じ生活をすることのできる安易な方法として、《北の公》になることを選んだのだ。
『独り』になっても、せめて『一人』にはならないように。その為に、二人を守るなどと綺麗な建前を付けて、
《北の公》になったのだ。二人を守る地位にいられるなら、堂々と愛する二人の傍にいられるから。
そんな内面を見据えて、デュシアンは自分を殴りたくなった。そもそもそんなことを考えるということは、
二人を信じていないことと同義なのだから。あんなにも自分を思いやってくれる二人を、自分は全く信じていなかったのだ。
「デュシアン?」
その時、扉の向こうから継母の声がした。
一気に身体が硬くなる。こちらが返答に困っていると、しばらくして扉が開いた。
「入るわね?」
扉の向こうからの声とは違い、継母の声は鮮明だった。しかし扉の辺りから動く様子はない。
デュシアンはいま大切な家族にどんな顔をして会えばいいのかわからないまま、涙を袖で拭い、寝台から起き上がった。
継母とレセンが扉付近に心配そうな表情で佇んでいた。
部屋の明かりをつけていないので、窓より入ってくる落ちかけた西日が良く似た風貌の二人を照らす。
この二人と似ている自分が欲しかったと何度心の中で思ったことか。
「デュシアン、何かあったの?」
《北の公》となってから、嫌なことがあっても母には何も話していなかった。もちろんレセンにもだ。
これからも話すつもりはなかった。《北の公》は大変名誉ある大役である。
そんな大役を仰せつかる者が弱音を簡単に吐いても良いとは思えなかったからだ。けれども、
そのせいで余計に心配をかけるのは嫌だった。
だからせめて心配をかけないように、いつものように「なんでもない」と笑えたはずなのに、
二人はとっては逆効果のようだった。
「……レセン」
継母が促すと、レセンはこちらまで近寄ってきて手に持ったものを差し出した。
「姉上。薔薇が、届いてます」
デュシアンはその言葉に顔を上げてレセンが渡してくれた白い薔薇の花束をじっと見つめた。父の名で届く薔薇。
――ちがう
これは幻影なのだ。父はもういないのだから。贈ることなんて、できるはずがない。それなのに、
どこから贈られているのか分からないものに心癒されようとして、どうする。
デュシアンは瞳を上げ、目の前にいるレセンを見つめた。彼はとても心配気で、そして悔しそうな表情をしていた。
そして、ここから数歩離れたところにいる母へ視線を移した。母はじっと食い入るように自分を見つめていた。
その表情はとても穏やかで優しいのに、見る者をとても切ない気持ちにさせるものだった。
――馬鹿だ、わたし……
わたしを支えてくれているのは、勇気付けてくれているのは、心配してくれているのは、いま傍にいてくれる家族ではないか。
どうして誰が送ってきたかわからないものに頼って、二人の顔を見なかったのか。
二人にこんな顔をさせているなんて知らなかった。
二人を守りたい気持ちは今ももちろん変わらない。当然だ。家族だから。それなのに、
その家族の気持ちを無視して一体何に縋り付いていたのだろうか。これだけ、愛されているのに……。
二人にこんな顔をさせなくては気づけないなんて、なんて自分は愚かなのだろうと思った。
二人はこんなにも自分を心配してくれているではないか。
そうだ。いつだってそうだったのだ。
二人は《北の公》となった自分の心配ばかりしてくれていた。どれだけ愛されて、そして心配させていたか。
その二人を信じないで、二人の愛情を疑って、そして勝手に孤独に浸って揚句それを《破壊の魔力》につけこまれたのだ。
――何て愚か者なんだろう……
デュシアンは心の中でもう一度繰り返した。
母も弟も、自分が《北の公》でなくてもきっと傍にいてくれる。二人と自分を繋げる父がいなくても、
二人と自分は家族なのだから、と。
デュシアンは薔薇の花を寝台に置いて、そっとレセンに腕を伸ばした。ぎゅ、っと力強く弟を抱きしめる。
「ごめんね………」
「姉上?」
弟の不思議そうな声が耳元に聞こえる。弟からしてみれば、
抱き付いて来るなんて可笑しな事を急にはじめた姉の行動が理解不能なのは当然だろう。
反抗期のはじまった弟には悪いが、しばらく気の済むまで弟の体温に触れていた。出会った頃はあんなに小さな身体だったのに、
今では自分より大きくなりつつある。そんな弟が愛おしい。
弟を気の済むまで抱きしめた後デュシアンはその腕を離し、今度は継母へと歩み寄った。
「ごめんなさい、母様……」
デュシアンはじっと継母を見つめ、そして抱きついた。彼女はデュシアンが絞め付けてくる以上の抱擁を返してくれた。
「デュシアン、私の可愛い娘」
こと有る毎に継母はそう言ってくれる。デュシアンは、今日ほどその言葉が嬉しかったことはなかった。
――わたしはセオリア母様の娘。
そう心の中で呟くと、胸のうちにじんわりとした暖かさが広がった。そして継母の腕に包まれながら、
失敗のことを忘れて静かに泣いた。
すると、嘘のように《北の公》としての自分の失敗がどうでもよい物に思えるようになった。
もちろん失敗は許されるような立場ではないことは分かっているが、
失敗をしても暖かく迎えてくれる家族の存在があることがデュシアンの心を軽くしてくれた。
二人はきっと自分を見捨てない。
その確信が、デュシアンの心から孤独を少し拭い去ってくれたのだった。
+ + +
あれだけ大切にしていた薔薇の花なのに……。
異母姉の体温がまだその手に残っている。レセンは泣きじゃくるデュシアンと、
それを抱きしめてしっかりと受けとめる母とを見やって今自分に起こった事を反芻した。
父の名で届く薔薇の花を、デュシアンは横に追いやって自分に抱きついてきて、許しを請うようにしきりに謝っていた。
それが耳の近くで聞こえて熱が上がった自分がいた。紅潮した頬を異母姉や母に見られなくて良かったと、
部屋に明かりがついてないことに感謝した。
「く、くるしいよぉ」
愛情を篭め過ぎる質の母の腕の中で異母姉がうめいている。
そんな二人をしばらく見てから寝台の上の薔薇の束へ視線を移した。
今までは、父からだと何よりも喜んで受け取った薔薇を異母姉は捨てたのだ。
レセンは姉の様子からしてこんな気分になってはいけないと分かっていたが、とても嬉しくて満足のいった気分だった。
薔薇に、父の亡霊に、勝ったのだから。異母姉がそちらより自分たちを選んでくれたのだから。
そして母の頬を伝った涙を見て、母のデュシアンへの気持ちが通じたことを喜ばしく思った。
母はずっとデュシアンを影で支えようと極力明るく振舞い、《娘》を笑わせようとしていた。
辛い責務を家では忘れられるように。自分を頼ろうとしないデュシアンを、ならば頼らせるのではなく、
こちらからきっちり支えてやろうと努力していた母の思いが、レセンには痛いほど分かっていた。
だから、 誰が送ってくる薔薇よりも自分たちを信じてくれたことが本当に嬉しかった。
――もう姉上には薔薇は必要ない、俺たちがいれば十分なんだ
レセンはまだ見ぬ薔薇の贈り主に嘲笑を送ってやりたい気持ちになった。
二章 終
(2004.1.10)
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