「だから、立て込んでいるって言ってるでしょう?!」
「しかし、こちらの案件も急ぎなのです。ルークはかなり症状が酷いので――」
デュシアンとティアレルの会話を止めたのは、ちょっと苛々の篭もった女性の感情的な叫び声と、
静かで落ちついた男性の応酬だった。二人の会話が、あまり厚くない木製の扉越しに聞こえてくる。
「あいつってば、いっつもわたしを困らせるんだから! この間なんか、真夜中よ、真夜中!」
「ええ、そのことに関してはしっかりと話をつけました。女性の寝室に夜中に入り込むなど言語道断ですから」
「そうじゃないわよ! 真夜中にたたき起こされたことを言ってるのよ!」
「いいえ、そうですね。問題はあなたがこんな警備の目もない場所に、寝泊りしていることなのです」
「そ、それは」
「何かあってからでは遅いのです。あなたはあまりに自覚がなさすぎる」
「禁呪の魔女に誰がなにをするっていうのよ!」
「あなたはそんな肩書きがつくまえに、ひとりの女性です。危機感を持って下さい」
「な、なによ……」
女性の声が劣勢を帯びてくると、勢いよく扉が開いて寒い風がびゅう、と音をたてて入り込んできた。
あまりに強い勢いで扉が開いたせいで、カタカタと窓が震える音と、建物が軋む音がする。
今日はあまり寒くないのだが、開いた扉の作り出した風は冷たくて、デュシアンは首を竦めて開いた扉を振りかえった。
見覚えのある黒いとんがり帽子に黒い外套の後姿が、開いた扉のところに佇んでいるのが見えた。
「帰ってよ! わたしがどんな生活してようが、あんたには関係ないでしょ! 帰れ!」
「リディス殿。せめて日が暮れる前にご自宅にお帰り下さい。そうでないなら私がお送りしますから、騎士宮にお寄り下さい」
「いらないわよ、馬鹿! もう騎士宮へ帰って! 二度とここには来ないでよ!」
「今日のところは先客がおられるようなので帰りますが……。また参ります」
とんがり帽子の向こうに見える空色の瞳の青年と一瞬視線が交わった。
思った通り、会話の主は魔女リディスと円卓騎士グリフィスであることを知った。
「もう来ないでよ」
ばん、と派手な音を立てて扉を思いっきり閉め、そしてとんがり帽子の彼女は大きなため息を吐いて肩を落とした。それが、
彼女の虚勢のように思えてしまう。
「リディス、また喧嘩ですのね」
溜まりかねたティアレルの声に、彼女は物凄い驚いて振り返った。室内に人がいると思っていなかったのか、
大きな若草色の瞳をさらに大きく丸くさせていた。
「やだ、来てたの、ティア――と」
彼女はトンガリ帽子を取りながら、ティアと向き合う形でソファに座るデュシアンに視線を向けてきた。
「……ラヴィン公?」
「お邪魔してます、リディス殿」
デュシアンは立ち上がって部屋主に礼をした。
部屋主、白金の髪の美しい魔女リディスは驚いたようにデュシアンを見たが、すぐにも頷いた。
「ああ、そうだったわ。ダグラス先生から聞いてる」
リディスは軽くため息を吐いた。
「あの……、もしかしてお忙しいのですか?」
先ほどの口論の内容から察して、デュシアンはもしかして
護符を直してもらえないのでは、と不安になったのだ。
しかしリディスは苦笑すると、首を横に振った。
「さっきのは気にしないで」
「グリフィス君も貴女を心配しているのですから、あまり無碍にしたら可哀相ですわ」
「だって……、別に、心配なんて……」
リディスは少し赤い頬を隠すように外套を脱ぐと、帽子と共に近くの椅子に放り投げた。
中に着ている服は、相変わらずとても大胆で、豊かな胸元も綺麗な脚も惜しげ無く披露する服装ではあったが、
外套や帽子とは違って上着もスカートも白だった。彼女にはとても白がよく似合っているが、
魔女が白い服装とは少し不思議な感じがして、それは偏見だと頭を振って思考を払い落とした。
「忙しいのに無理を言うし」
ぶつぶつとグリフィスの悪口を呟くリディスに、ティアレルは優しく微笑みかけた。
「あなたの顔を見に来る口実が欲しくて、嫌な役も引き受けているのですわ」
「なによ、知らないわよ」
リディスは今度こそ真っ赤になって、ふるふると肩を震わせた。
その様子がとても可愛らしくて、デュシアンはつい笑ってしまう。
すると、吊り上がった若草色の瞳がデュシアンへ向けられる。
「さっさとやるわよ」
リディスはまだ頬を染めたまま、仕事の話に切り替えた。しかし、先ほどのグリフィスとの会話で散々「忙しい」
と言っていたのを聞いていたので訝しむ。
「良いのですか? お忙しいのではないのですか?」
「いいの。ラヴィン公は最優先」
先ほどとは打って変わって、穏やかながらも優しい口調でそう告げられた。
「アデル様にはとても返しきれない恩があるの。そのご息女の貴方に出来ることがあるなら、
わたしは出来る限りのことしたいから」
純粋で、どこか寂しさの窺える微笑みだった。そこに、哀悼の念を感じる。妖艶な容姿とは裏腹の、
とても誠実で真摯な言動に、デュシアンの心も揺り動かされた。
もう少しこの人に対して考えを改めなくてはいけない――デュシアンはそう思った。
それは《禁呪の魔女》という偏見のことだけではなく、見た目からの判断をも改めるということである。
派手気味の服装や派手なつくりの美女ということで、どうしても少し不誠実に見えてしまうのだが、彼女は不誠実どころか、
とても義理堅い一面を持っている。彼女のことばと口調、その浮かべる表情がそれを物語っていた。
「アミュレットは二日ぐらいで調整できるわ。ダグラス先生の研究室の隣りの部屋を借りるから、
そこに調整のために明日と明後日来てもらってもいいかしら? 本人がいないと調整が難しいのよね」
リディスは長い髪を肩から払いながら、小首を傾げた。それは男であれば一様にして釘付けになるであろう艶やかな仕草であり、
女のデュシアンもやや胸がどきどきしてしまった。。
「部屋を借りるって――、ここでは出来ないのですか?」
ここは変に気になる物が多すぎて落ちつかない部屋であるが、別室、しかもダグラス将軍の部屋の隣りというのは、
またちがった意味で緊張を誘うものなので、つい尋ねてしまった。
リディスは少し戸惑ったような表情で瞳をさ迷わせたので、何かおかしな事を聞いてしまったのだろうかとデュシアンは困惑した。
「……ここに出入りするのは貴方にとって好ましくないわ」
やっと意を決したようにリディスは口元に手を当てながら、言い辛そうに視線をまだデュシアンから反らしたままだった。
「え?」
意味がわからず、眉を潜めた。
リディスは意を決したように大きく息を吐くと、諦めたように肩をすくめた。
「《北の公》が《禁呪の魔女》と知り合いだ、なんて神殿で噂になったら大変でしょう?
ここはわたししかいないから、この塔に入ればわたしに会いに来てるって一目瞭然だもの」
リディスは視線を合わせてはくれなかった。彼女に、言わせたくない事を言わせてしまったのだ。
――そんなのおかしいよ
彼女の、こちらに迷惑をかけたくないという気持ちが痛いほどデュシアンには理解できた。
だからこそ、デュシアンの気持ちはすぐにも固まった。
「いいえ。こちらでお願いします」
はっきりとそう言い放てば、リディスは驚いたように若草色の瞳を見開いてデュシアンと視線を合わせた。
「わたしがアミュレットの修繕を頼むのはアミュレット作りの天才のリディス・フォスター殿です。
わたしは胸を張ってそう言えます」
こちらの主張に、リディスは眉尾を下げて瞳を細めた。
「知らないわよ? どんな噂流れても」
「噂なら、言われなれてます」
デュシアンは苦笑した。すると、リディスもそれに合わせるように苦笑した。
「わたしもよ」
リディスとデュシアンは自然に笑いあい、そんな二人をティアレルは優しい表情で静かに見守っていた。
「じゃあ、修繕は明日からにするとして、今日は少しアミュレットについての講義をしてもいい?」
リディスは気持ちを入れかえるように肩を竦めてデュシアンに軽く微笑みかけた。
「はい、お願いします」
リディスはデュシアンにソファに座り直すよう促し、自身もデュシアンの前、ティアレルの横に飛び跳ねるように座った。
「じゃあ、ティア。わたしにもお茶を頂戴」
ちょっと横柄にも年上のティアレルに命令するが、彼女は嫌な顔ひとつせず寧ろこれ以上ないというほど優しい笑みを浮かべ、
文句を言うこともなく立ち上がって用意を始めた。
それを見て、もしかしたらリディス殿は心を許した人には甘える性格なのかなぁ、と密かに思った。ただし、
男性には若干天邪鬼な気質をみせるようだが。
「ラヴィン公は、精神魔法に対するアミュレットが大きく分けて二種類あることを知ってる?」
「いいえ」
いきなりの質問に、デュシアンは慌てて居ずまいを正して小さく首を振った。
「精神魔法のアミュレットには通常のアミュレットと強化アミュレットと二つあるの。わたしが作るのは、
通常のアミュレットの方」
リディスは喉が乾いたのか、まだ? と催促するような視線をティアレルに送った。
もしかしたらグリフィスとの口論で相当声を張り上げていたから、喉に潤いが欲しいのかもしれない。
ティアレルは苦笑してもうちょっと待ってね、と言いたげな微笑みを見せた。
そんな二人の気心のしれた雰囲気がデュシアンにはとても羨ましく感じた。
「通常のアミュレットは持つ人の力に少し力を貸してあげる程度の、本当のお守りにしかならないものなの。
けれども、徐々にだけどその人の持っている潜在能力を引き出す効果があるわ。
一方の強化アミュレットは……最近の研究で、精神魔法を殆どを完全に跳ね除ける事ができるようになったの。
どんなに強い精神魔法でもね。けど、一つ大きな欠点があるの」
リディスは眉根を寄せた。
「欠点?」
それに合わせるようにデュシアンも眉根を寄せる。
「強化アミュレットは持っている人をアミュレットの力に頼りきりにさせてしまうのよ。
それはとても恐ろしいことだわ。だって、もし何らかの原因でアミュレットが突然壊れてしまったら?
それに気づかずにいたら? 常にアミュレット任せだった人が急にそんな事態に対処できるとは思えないの。
強化アミュレットは壊れないようにそれはそれは慎重に作っているとは言われてるけど、
アミュレットはとても不安定なものだから壊れないなんてありえないのよ。
それに強化アミュレットだとその人の力を全く無視するからその人の潜在能力を引き出すような助長効果は全く期待できないの。
つまり、いつまでたってもその人自身は精神魔法には強くなれない。
だからその人のことを本当に考えるなら、絶対に通常のアミュレットを身に着ける方がいいに決まってる、って思うの。
わたしが通常のアミュレットを作っている理由はそういうことよ」
一気に捲し立てるようにリディスは熱弁をふるい、大きく息を吐いた。
「リディスはその人その人の潜在能力を探るのがとても上手なんですのよ」
ティアレルは淹れたお茶をリディスに差し出しながらデュシアンに語りかけた。リディスは頬を少し赤くしながら、
その照れを隠すようにお茶を飲んだ。
「潜在能力を引き出せるように上手にアミュレットを調整できるのは、
アミュレット作りを手がける人間の中でもリディスが随一なのですから」
ティアレルはまるで自分のことのように誇らしげに胸を張った。
「とにかく、わたしは強化アミュレットは作らないから、ラヴィン公にもそのつもりでいて欲しいの。
後で、話が違うって言われても困るし」
「ええ、それは。……でもなんか、リディス殿はすごいですね」
もっと的確な表現はあったはずなのに、『すごい』という言葉しか思い浮かばなかった。そんな自分を恥ずかしく思いながら、
デュシアンはリディスの研究への情熱に敬意を抱いた。自分にはそうした情熱を向けるものがない。
「あくまでそれは、わたしの持論なのよ。で、それを立証するために実験してるの、円卓騎士で」
リディスはお茶を口に含んで喉を潤した。頬が若干赤くなっている。
「円卓騎士……? ああ、ダリル将軍の」
耳にしてあんまり良い思いのしない名前である。デュシアンは彼らの前で行った失態の苦い記憶を思い出した。
「父様を知ってるの? あ、議会で一緒になるものね」
そう言うと、リディスはもう一口お茶を飲んだ。
「え?」
デュシアンは我が耳を疑った。
今、彼女は何と言った? 父、とか言わなかったか、ダリル将軍を……。
デュシアンの頭に端麗なダリル将軍の姿が思い浮かぶ。とてもこんなに大きな子どもがいるようには思えない、
年若い男性だ。
――年齢、さしてかわらないんじゃあ? 一体何歳の時の子ども?!
デュシアンが混乱していると、その間にリディスは険呑な雰囲気を纏わせていた。
「貴方知らないのね。あのね、ダリル様はわたしの養父よ。よ・う・ふ」
リディスは頬を少し膨らませていた。
「養父……?」
「そうよ、勘違いしないでよね、父様はわたしとは何の関わりもない人間なんだから!」
デュシアンはリディスの不機嫌さが何故なのかが理解できて慌てた。
リディスは、デュシアンがびっくりしていた間を、《禁呪の魔女》と稀代の英雄ダリル・フォスター将軍が親子なのか?
と疑っていると勘違いしてしまったようなのだ。
「ごめんなさい、違うんです。だってダリル将軍は二十代後半ぐらいにしか見えないのに、
リディス殿みたいな大きな子どもがいるなんて思えなくてびっくりして……」
「父様はあれでもう三十半ばよ……」
納得したらしく、リディスは機嫌を直してくれたようだった。
「まあ、本来なら義理の妹にするのが普通なんでしょうけどね、年齢差からいって。そもそも父様は未婚だし」
リディスは何か含むものがあるらしく、苦笑した。
「ちょっと適当なところのある人だから。わたしのほかにあと二人、わたしと同年代の養女がいるのよ?」
「ええ?!」
デュシアンは信じられなくて目を真ん丸くさせていた。それが面白かったのか、リディスは屈託なく
笑っていた。
「変わってるのよ、父様は」
「リディス、貴女がそのように言えば、ダリル将軍が悲しまれますわ」
ティアレルは首を振って、リディスをたしなめた。
「いいのよ、父様だから。……さて、あんまりにも煩いからちょっと父様のところに顔を出すことにするわ。
ラヴィン公、とりあえず明日の午後ならいつでもいいからここに来て。午前中は不在だからね」
「はい、宜しくお願い致します」
リディスは出かける為の用意を始めたので、デュシアンは退室しようと立ち上がった。
「デュシアン様、わたくしも途中までご一緒します」
ティアレルは優しい笑みを浮かべ、首元に黒いファーのついた深い緑の外套を羽織った。今日はあまり寒くない日であるが、
随分な防寒服である。寒がりなのかな?とデュシアンは推測した。ちなみにデュシアンは今日は外套は羽織っていない。
「ではリディス、また参ります」
「ティア、で、貴女は何しに来たの?」
思い出したようにリディスは首を傾げた。
「お茶を飲みに」
ティアレルは見ている方を心安らかにさせるような柔らかい笑みを見せた。
「……訳わかんない」
リディスは少し頬を朱に染めて肩を竦めると、しゃがみ込んで窓際の机の引出しの一番下の段をごそごそと探り始めた。
「さ、行きましょう」
「失礼します、リディス殿」
デュシアンは一応リディスに声を掛けると、彼女は机の下から手を振って返答してくれた。
「デュシアン様は神殿の方なのに、その――、偏見がないのですね」
ティアレルは階段まで来ると、一瞬後ろを振り返ってからそう尋ねてきた。
彼女の瞳はとても穏やかだが、嬉しさを隠せずに輝いていた。
「偏見はあります、たくさん。現にここに来るまでにとても時間がかかりました」
デュシアンは買いかぶられるのが嫌で、素直に自分の葛藤を告げた。
「でも、実際会ってしまったら全く普通の女性と同じなので、怖くなくなりました。噂は嘘も多いということを、
わたしは自分で体験しているのに、他の人にあてはめるのを疎かにしていました」
ティアレルははしばみ色の目を丸くさせて、何かとてつもないものを見かけてしまったかのように驚きの表情を浮かべていた。
「あの?」
デュシアンがそんなティアレルの様子を計り兼ねていると、彼女は首を振って胸を押さえた。
「ごめんなさい、あまりに正直な方だな、と。神殿にもデュシアン様のように考えて下さる方がいらっしゃって、
嬉しく感じました」
ティアレルは本当に嬉しそうに微笑んだ。
そんな彼女の様子を見て、デュシアンは自分の胸にじんわりと温かい気持ちが広がっていくのを感じた。
彼女はリディスをとても大切に思っていて、きっと彼女の現状に悩んでいるのだろう。だからこそ、
リディスを理解する人間が神殿に属する者の中にもいたことがとても嬉しかったに違いない。
人が人を大切に思うことがこれだけ美しいものなのだ。それをまざまざと感じさせられて胸が一杯になり、
デュシアンもとても嬉しくて微笑まずにはいられなかった。
それから二人は全く関係のない世間話をしながら《魔法宮》の入り口付近まで行くと、正反対の方向だから、
ということでそこで別れた。
もう少し話したかったな、というのがデュシアンの感想だった。けれども、
話ならばこれから出来るのだ。彼女に軍事に関する家庭教師を依頼したのだから。それを思い出し、微笑んだ
ティアレルは少し不思議な人であった。穏和そうだが、ただそれだけではなく芯がとてもしっかりしていて、
自分の意見を主張できる女性だった。折れそうなほどか細い人だが、その中身はぎっしりと知識が詰まっているのだろう。
きっと彼女から学ぶべきことは軍事的な事柄だけではないはず。デュシアンは彼女との出会いに感謝した。
できるなら、良い友達になりたい、と。
ティアレルは、ダグラス将軍の弟子でありダリル将軍の養女という立場のリディスとは違う。リディスとも良い友達になりたかったが、
彼女の立場から考えてデュシアンは彼女に《公爵》としての立場を崩した態度はとれないので、打ち解けるのは難しかった。
けれどもティアレルは、ただの軍事好きのちょっと変わった(言動からの推測だが)お嬢様だ。
きっと良い友達になれる――デュシアンはそう期待に胸を膨らませながら宮殿の大理石の床を軽快な足取りで進み、
神殿の執務室へと帰って行った。
その期待が裏切られることになるとは、デュシアンはこのとき露にも思わなかった……。
(2003.12.30)
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