いくら自信を失うことがあっても、いくら嫌なことがあっても、次の日というのは誰にでも平等にやってくるもの。
デュシアンは眩しい朝日がたっぷりと入る神殿執務室の窓辺に立ち、格子越しに澄み渡る青い空を見上げてそう思った。
今日は大地の日であるから地方警備に関する報告が執務室に届く。秘書官のいないデュシアンは、
自分の手で受け取る義務があった。首都にいるのに執務室におらず受け取れなければ、届けてくれる巫女にも悪い。
――時間は誰にでも平等、か
昨日の失敗でどれだけ打ちのめされようとも、《今日》になってしまえばまたこうして《北の公》としての公務が待っている。
いつまでもくよくよしているわけにはいかなかった。かといって、失敗を無かったことにはできず、
またすぐに前を向けるほど楽観的な考えの持ち主ではなかった。
辛い立場を引き継ぐことになったのは承知の上だったのだが、まさかここまで失敗続きになるとは思っていなかった。
どうにかなるだろう――そんな甘い考えと、どうにかしてみせるという強い意思が自分を《北の公》の座へと導いた。
もちろんそのことに後悔はしていないつもりだったが、不安だけはどんどんと膨らんでいった。
しかし一度自分で決めたことだし、この難題をやり遂げれば少しは自分は変われるかもしれない、という期待もあった。
変わらなくてはいけないと、いつも思っていた。弱虫で、泣き虫。いつもいつも父様を困らせていた二つの虫を持つ自分。
そんな自分を変えたかったのだ。
何故なら、もう慰めてくれる父様はいないのだから。
――父様はもう……
デュシアンは首を横に大きく振って、思考を振り払った。今は思い出してはいけない、意識してはいけないと、
自分の中が警鐘を鳴らす。
いま考えなくてはいけないのは、一刻も早く《北の公》としての公務をまっとう出来るようになるには、
どんな努力をしなければいけないのかということ。感傷はその後だ。デュシアンは自分の思考を止めた。
その時、ちょうどよく自分を思考の波から救い出すノックが響く。
「どうぞ」
デュシアンは表情を引き締め《公爵》の表情を作り出した。
促す声で入ってきたのは亜麻色髪に、珍しい紫紺の瞳を持つ綺麗な巫女だ。
「ラヴィン公爵閣下。文書を持って参りました」
その巫女はいつも書類を持ってきてくれる同年代の娘である。
「いつもありがとう」
少しだけ表情を和らげて礼を述べれば、巫女も綺麗な笑みを浮かべて書類を渡してくれた。
「どうぞ閣下におかれましては、御身ご自愛のほどを。では失礼致します」
「貴方も健やかに」
一週間に数度、しかもとても短い時間だけ会う巫女だったが、デュシアンはに彼女がとても好ましい人物に映っていた。
純白の巫女服も亜麻色の髪を隠す純白のヴェールもとても似合っている。
あれだけ美人ならばきっととても楽しい人生を送っているのだろうな、とデュシアンはつい羨ましくなり、苦笑した。
いくら美人だからって、それだけで人生が楽しくなるはずもないのだからと。
そして同時に、誰よりも美人なのに、誰よりも不幸な女性の顔が頭に浮かんだ。波打つ豪華な金髪と緑の瞳を持つ美女、
神殿に厭われる《禁呪の魔女》。まさにこの文書を受け取ったら会いに行こうと思っていた相手だ。
デュシアンは今日こそその《禁呪の魔女》のところへ行こうと決めていた。昨日の失敗を繰り返さないためにも、
父の形見の
護符を直してもらおうと思ったのだ。
彼女は父アデルもダグラス将軍も天才と認めるアミュレット作りの名人であり、その人に合ったものを作り出すことができるのだという。
護符に本当の意味での守りのちからを授けることができる人物は稀なのだ。
しかし彼女は《禁呪》をまとった《魔女》であるために、その功績を受け入れられることはない。デュシアン自身も、
そのことを気にしないかと問われれば、否とは言えない。
けれども、アミュレットの調整は必要不可欠だ。だから、自分の中の怯えにも目を瞑るしかなかった。
――行こう
デュシアンは心が固まったことで、書類を机の上に置くと執務室を後にした。
デュシアンが足を踏み入れたのは宮殿の機関の一つ、《魔法宮》であった。ここに《禁呪の魔女》の研究室があるらしい。
《魔法宮》は宮殿本棟に隣接して土地を与えられた国家の魔法研究機関の総称である。
いくつもの研究棟や養成施設が立ち並んでおり、全てが孤立しているので一つの小さな町のようでもあった。
区画整理などする気もないのか乱立する建物と建物の間を歩きながら、目当ての棟を探さなければならない。
この間ここに初めて来た時はグリフィスという青年が案内してくれたので、まったく迷うことはなかった。しかし今日は一人だ。
当然《禁呪の魔女》がいる建物を見つける自信はない、グリフィスも案内をしてくれている最中に、確かにこう助言してくれた。
『ここは、何度来ても見覚えの無い塔があったり、あったはずの研究塔が急に跡形も無くなっている時もあるんです。
なんでも《迷宮魔法》が至るところに掛けられているそうです。
だから、行きたい場所が分からない時は近くにいる魔道師たちに聞くのが一番です。
本当の道を覚えるまでに、かなりの時間を有するはずなので』
彼の説明のよると、この《魔法宮》は別名《試しの園》と呼ばれていて、道の至るところにさまざまな
《迷宮魔法》と呼ばれる部類の魔法が仕掛けられてあるらしいのだ。これは魔道師たちの勘を鋭くさせるためのものであり、
そして掛ける人間の研究の成果を試すものでもあるらしい。
また、慣れ防止のために《迷宮魔法》は不定期に掛ける場所と種類を変えるそうなのだ。
それは外部の人間にとっては甚だ迷惑な話であった。
完全に道を失う前に、デュシアンは近くを通りかかった人に声を掛けた。ここの魔道師たちは大変丁寧に道案内をしてくれると
聞いていたのだが、目的地を告げた途端に際限ないくらいの引き攣った顔を向けられた。
「……あなた、今、どこへ行きたい、って言ったの? あたしの聞き間違いかしら」
「あの、リディス・フォスター殿の研究室に行きたい、と……」
もう一度その名前を言うと、その女性は首を振って顔を顰めてデュシアンの顔に顔を近づけた。
翻った衣からちょっときつめの香水が匂い、鼻腔をくすぐる。あまり好ましい香りではない。
「貴方、正気? あの《禁呪の魔女》のところに行く気なの?」
声をひそめて尋ねられた。そのおかしな言動に、デュシアンはやっと合点がいった。
――神殿だけじゃなくて、《魔法宮》でも、禁忌の人間は禁忌の存在なんだ……
この国はカーラ神教の神殿という巨大な組織を有するために、
神殿の教えである《聖典アニカ》の規律が広く受け入れられていると思われがちだが、
神殿に関わりのない人間にとって《聖典アニカ》の規律を正しく守る必要性はない。
もちろん神殿の布教する《カーラ神教》を国教としているので《主神カーラ》を信仰するのは当然の義務であるが、
その教えまでも一般国民に強要することはなかった。
つまり、神殿関係者には《聖典アニカ》の規律は守るべきものではあるが、そうでない一般の国民には《主神》
への信仰以外は一切強要しないのが国の方針であった。
だから、確かに《聖典アニカ》では《禁呪》はその名のとおり禁忌の存在だが、
神殿とは別組織である宮殿の機関《魔法宮》の人間が規律の通り《禁呪》を忌み嫌うとはデュシアンは思わなかったのだ。
むしろ禁忌は神殿の人間たちの間だけの禁忌であると思い込んでいた。
何故ならこの間ダグラス将軍の研究室に行った時には、あの部屋にいた誰もが彼女を《禁呪の魔女》として扱っていなかったからだ。
あれが彼女に対する《魔法宮》もしくは一般民(この場合は神殿関係者以外の国民)の態度だと思い込んでいたのだ。
しかし、そうではなかったのだと知る。
「あんな魔女のところに行くなんてね……。もちろんわかってて行くのよね?」
彼女は身を乗り出して念を押して聞いてくる。派手めな化粧をした美女ではあるが、凄まれるとちょっと怖かった。
けれども恐らくは心配をしてくれているのだろう。
「え、ええ、はい」
デュシアンは曖昧にしか答えられなかった。
確かに自分も《禁呪の魔女》ということを恐れていたが、ただ恐れているだけだった。嫌うといった感情とは違う。
しかし、この目の前の女性は明らかに彼女に対して嫌悪感を表していた。それが何故だか悲しく思えてしまった。
魔法宮の魔道師と思われるこの女性は、神殿の人間と同じ反応をしている。
神殿よりは自由な気風があると思っていた《魔法宮》でも差別はあるのだと知って、それが残念に思えてならなかった。
「魔女の研究室は――、ここからだと《幻影》がかかっているから見えないだろうけど、
あの赤い煉瓦の壁の建物を左手で触りながら歩いて、最初の三叉路を右に抜けたら正面に見えるわ。
他の道だと途中で見えなくなるわよ。今回は《幻影》が随分多いからね。魔女の研究室は蔦の生えた、
古い小汚い塔よ。誰も近づかないから近くまでいったらすぐに分かるわ」
そう言って、女性は大きくため息を吐いてデュシアンから目線を反らした。
何だかデュシアンは自分が責められたような気がしてとても不愉快な気分になったので、礼をするとすぐにも彼女から離れた。
確かに自分も《禁呪の魔女》は怖い。けれども、あんなに毛嫌いはしてはいないはずだ。怖いのと、嫌うのとは別なはずだ。
――なんか、気分悪いな……
自分があのように他人から嫌われたら苦しいだろうなと思う。父の正式な妻であるセオリア夫人の娘でないデュシアンは、
神殿の令嬢たちの中で浮いた存在だった。影で笑いものにされたり、意地悪をされたりもした。
だからか何となくああいった態度がとても苦手だった。
――自分のことを思い出すから……?
いいや、と首を振った。それもあったが、デュシアンには普通の娘にしか見えなかったリディスが、
どうしてあのように毛嫌いされなくてはならないのか不思議だったのだ。
確かに《聖典アニカ》では《禁呪》は禁忌の存在で、《禁呪》の行使は堅く禁じられているが、
纏った人間を差別しろとはどこにも書いてないはずなのだから。
デュシアンはそう思いながら浮かんだ疑問に眉を寄せた。
――何で、あの人は《禁呪》を纏って生まれてきたんだろう?
その質問は、まるで自分に向けられているような気がしてデュシアンは失笑がもれた。
――何で、わたしは父様とお母さんの間に生まれたんだろう? セオリア様との間に生まれてたら、
セオリア様を苦しめることも無かったのにな……
デュシアンは沈みそうになる自分に気づいて頭を振った。
教えてもらった通り赤い煉瓦の建物を左手に触れながら歩き三叉路を右に曲がった。
暫くすると急に正面に古い塔が視界に入ってきたのでデュシアンは少々驚いた。なぜなら、
今までそちらの方向を見て歩いていたのに、雲一つなかった青空を遮るように急に塔が現れたのだ。
――そう言えば、さっきの女性、《幻影》がどうとか言ってた
《幻影》は人の視界を惑わす《迷宮魔法》の一種。精神魔法に近いが、特に人体への影響はない。
ものが見えなくなったり蜃気楼のように何かが現れて見えたりする拠点防衛用の魔法である。
しかし視点を変えたらそれも全く意味を為さないので、あまり大した魔法ではないのだが、
こういった入り組んだ場所でそれを仕掛けられると本当に迷惑であり、また心臓に悪いものであった。
目当ての、蔦の生えた古びた塔の入り口を目の前にして、デュシアンは不思議なことに気づいて辺りを見まわした。
歩く魔道師たちが皆一様にしてここを避けているのだ。しかも、塔の前にいるデュシアンをちらちらと怪訝そうに、
どこか心配げに見てくるのだ。
――『誰も近づかないから近くまでいったらすぐに分かるわ』……か
デュシアンは無性に腹立たしくなり、さっさとリディスの研究塔に昇降口から入っていった。
中は昼にも関わらず少し薄暗く、廊下の窓からあまり日が差さないからなのだろう、何だかじめじめしていて湿気の臭いがした。
歩くと床板が軋むのでぎぃぎぃ音が響き、床が貫けないか心配になった。
ここの三階が彼女の研究室である、とダグラス将軍は言っていたので階段を探そうと、
その不穏な音をさせる廊下をしばらく歩いた。いくつか部屋を通り越したがどこも人の気配はない。
これで窓が割れていたりすれば、ちょっとした廃墟だ。お化けがいるのではないかと意識すれば、
頭の中はそのことだけに占められてしまった。鳴く床板に怯え、風にがたがた揺れる窓の音に慄いた。
やっと見つけた石作りの苔むした螺旋階段を恐る恐る昇り始めた。朽ちかけているように見えるので崩れないか心配だったし、
苔に足を捕られないかも心配で、ちょっとぬめった壁に手を付きながら上を目指した。
――ここには他の研究者はいないんだろうな……
あのような差別を受けていたらきっと他の研究者はここでは研究室を持ちたがらないだろう。
自分が《禁呪の魔女》に感じている恐怖は棚にあげて、少しだけ憤りを感じた。
階段も崩れることもなく三階まで上がった。最上階であるここの廊下はある程度は――少なくとも一階よりは綺麗だったし、
もう床がぎぃぎぃ鳴かなかった。その廊下を歩くと、しばらくしてやっと扉を見つけた。
『魔女の部屋』
そう書かれた木製の札が同じく木製の扉に掛かっている。自分で掛けたのだろうか――
デュシアンは自分で《魔女》と書いてしまう彼女の感性に疑問を抱いた。
取り合えずここまで来たのだからと意を決して、扉を叩いた。
「どうぞ」
とても落ちついた声が中より返ってきた。一瞬その声の質に違和感を覚えつつも扉を開けて中に入った。
迎え入れてくれたのは、栗色髪をおさげにした優しげな風貌の女性だった。部屋を間違えたかと呆けてしまう。
「あの……」
室内に佇む、見覚えのある女性に恐る恐る声を掛けた。
「リディスは今不在ですわ」
その人はあの時と同じ、柔らかい笑みを浮かべ、混乱するデュシアンの心を落ち着かせてくれた。
「先日は失礼致しました」
「いえ、こちらこそ」
デュシアンは先方が頭を下げるのに習って、自分も礼をした。
そして顔を上げて、目に入った優しげな微笑に、つい自分も微笑んでしまった。
《魔女の部屋》に佇む彼女は、このあいだ神殿の廊下でぶつかってしまった女性だった。
確かお付きの少年に、《ティアさん》と呼ばれていたはずだった。
「リディスにご用事ですか? もうすぐ、帰ってくると思いますわ。わたくしも彼女を待っているんですの」
「そう、ですか」
不在ならばどうしようかと思っていると、ティアと呼ばれていた女性はにっこりと微笑み、デュシアンをソファへと促してくれた。
「もしお時間がおありでしたらここで一緒に待ちませんか? いまお茶をお入れします」
「あ、はい……」
この部屋に来なれているのだろう、彼女は全く迷うことなく保温用の小結界から熱いお湯の入ったポットを取りだし、
棚からカップを取り出して、お茶っ葉を同じ棚の箱から出した。
出してきた場所は怪しいことこの上ないのだが、デュシアンは何だかこの部屋の全部に驚いてしまって、
まだそちらに全然考えが及ばなかった。
デュシアンはソファに座り、勝手知ったる我が家のように動く彼女をしり目に魔女の部屋の詮索を始めた。
まずデュシアンの興味を引いたのはソファより右にある倒れたらドミノ倒しになるであろう縦にいくつも並べられた本棚であった。
どんな本を読んでいるのだろうと、目を凝らして背表紙を見てみると、
ここから見える限りでは神殿には有り得ないような題名の本が並んでいるので、慌てて視線を逸らした。
彼女に対してちょっと偏見を持ってしまいそう――そんな題名の本ばかりだった。
それから左に目を向けると巨大な木製の机があって、その上には実験用試験管が沢山並んでいた。
色とりどりの液体が収められており、中身が一体なんであるのか興味をそそられた。
それから無造作に開かれて置きっぱなしにされている本も沢山机の上に展開していた。
他にも得体の知れないものがどっさりと机には乗っかっているが、もっと得体の知れないのは、
その机より左奥の棚とその横の黒金製の大釜であった。中では一体何が煮詰められているのか。それを覗いてみたい気もした。
そして遠くの壁沿いに置かれた棚の中には、干乾びた『何か』とか、植物辞典には載っていなさそうな植物とかが、
置かれている。デュシアンはそれらを直視する勇気は無かった。
「広いお部屋でしょう?」
彼女はお茶の具合を見ながら話かけてくるので、デュシアンは慌てて詮索を止めて彼女に目を
向けた。
「ここはもともと魔道院(魔法宮の魔道師養成の学校)の教室だったのですが、古くなったので、
研究塔として使われることになったそうですの。リディスはこれだけ物をごちゃごちゃと置く質ですから、
あまり広く感じられませんでしょう」
確かに所狭しと置かれた棚や机が部屋を占拠してしまっているが、けれどこれだけの物を置けるということは、
本来はとても広い部屋なのだということだろう。
「そういえば、リディスに何のご用事なんですの? もしかして、アミュレットですか?」
そう聞いてから、罰が悪そうに彼女は小首を傾げて苦笑した。
「申し訳ございません。そういえばわたくし、名乗ってなかったですわね。わたくし、ティアレル・アリスタと申します」
ティアレル・アリスタの響きに何となく憶えがあったような気がしたが、
気のせいだろうとデュシアンは思って自分も名乗ろうとしたが、一瞬口篭もる。
ラヴィン公爵だと名乗ってもいいのだろうか、と。しかし、嘘を言うわけにもいかない。
「デュシアン、です」
公爵だと言うのはどうしても憚りがあって、名前だけ伝えてみることにした。
「デュシアン……? もしかして、デュシアン・ラヴィン公爵?」
女性は驚いたように、こちらをはしばみ色の双眸でじっと見つめてきた。
デュシアンは「はい」としか答えられなかった。一体どれだけの人間が自分のことを知っているのだろうと不安になる。
「まあ、お噂はかねがね! こんなに可愛らしい女性だと存じませんでした」
デュシアンはその言葉に項垂れた。
「ああ、申し訳ございません。わたくし、悪い意味で言ったのではないのです。
噂ではとても勇ましい女公爵だと聞いていたもので」
彼女はお茶の入ったカップを二つ持って、デュシアンと対面するソファに座ってお茶を差し出した。
「ありがとうございます」
デュシアンはそれを受けとって、一口飲むと、その美味しさに我を忘れて頬を緩めてしまう。
「美味しいですね、これ」
ティアレルは一瞬驚いた顔をしたも、すぐにも微笑んで頷いた。
「リディスの友人で貿易商の娘がおりまして、南方イスラフルの交易品で手に入れた美味しいお茶を分けてもらっているそうなのです。
だからここに来るといつも美味しいお茶が飲めるのですよ」
「そうですか」
デュシアンは《リディスの友達》という言葉を聞いて、なんだかとてもほっとした。
――友達、いるんだね。なら、きっと大丈夫なんだろうな
魔法宮での冷たい視線も、きっと友達がいるなら耐えられるだろう。デュシアンはそれが少し羨ましかった。
急に現れたラヴィン公爵家の娘に、もちろん良くしてくれた令嬢たちもいた。けれども、どうしても馴染めなかった。
最初から住む世界が違うとデュシアンが勝手に線を引いてしまっていたのもあったのだが、
優美な暮らしをする彼女たちの社交的な毎日について行くことが出来なかったのだ。
家の使用人の中の同年代の娘たちと一緒にお菓子を作ったり庭いじりをしている方がデュシアンにはずっと気が楽だった。
しかし彼女たちはデュシアンの良き話相手であったが、友達ではなかった。こちらは雇用者という立場だ。
彼女たちが自分に良くしてくれるのは当然だという寂しい現実があるのだ。
だから彼女たちとは対等であるはずの『友達』ではなかった。
「失礼ですが、デュシアン様はおいくつでいらっしゃいますか?」
いきなりそんな質問をされて、デュシアンは目を丸くするもすぐに答えた。
「十九です」
「わたくしより四つ年下ですのね。それなのに、大変なご決断をなされたのですね」
「決断というか、必然だったので……」
「必然?」
ティアレルは小首を傾げた。
「ええ。家督を分家の人間に乗っ取られそうになって……」
「まあ……」
「けれども、やっぱりわたしにはちょっと大きすぎる役みたいです」
肩をすくめて苦笑した。この女性の真剣で、優しげな眼差しがデュシアンにはとても惹かれるものがあって、
つい言葉を多くしてしまったのだ。
「すみません、忘れてください」
デュシアンはそう言うと、ティアレルは優しい聖女のような微笑みで、いいえ、と首を振った。
「思っていることは吐き出してしまった方がいいんですのよ? 確かにわたくしたちは初対面に近くて、
気を許しづらいお気持ちもわかりますが、ね」
「ごめんなさい。貴方があまりにも優しく微笑まれるものだから……」
ティアレルは一瞬寂しげな微笑みを見せると、お茶を勧めた。
二人は同時にお茶を飲み、もう一度互いを見た。まるで随分昔から見知った相談相手であるかのように、
デュシアンの口からすんなりと思っていることが零れ落ちた。
「わたしは大した人間ではないんです。でも、公爵の地位を継いだからには大した人間にならなくてはいけないんです。
だけど足りない部分が多すぎて……。今日ここに来たのも、
その足りない一部分を補ってくれるアミュレットを直してもらうためなんです」
「そうだったのですか。ご苦労なさっておられるのですね」
心からの労わりの言葉に、デュシアンはふるふると首を横に振った。
「苦労することはわかっていて継いだはずだったんです」
デュシアンは自分が甘えを吐いてしまっていることに気づいてそこで言葉を止めた。
これではただの愚痴だった。それに、まるで自分がとても大変な思いをしているかという悲劇を自慢して、
人の同情を受けて自己満足を得ようとしているに過ぎないように思えた。そんな自己満足は、
一時的にはとても良い気分になれるが、結局はのちのちとても惨めな思いになるだけだ。
ティアレルは多分とても優しくて聞き上手な人なのだろう。しかし甘え過ぎるわけにはいかないと思い、
話をずらそうとお茶を一口飲みながら何か話題はないか自分の頭の中を引っかきまわした。
そして先日ぶつかった時の記憶が思い浮かび、それにすがるように疑問にして投げかけた。
「そういえば、あのぶつかった時に落とされた本ですが、兵法の本、でしたよね?」
「ええ、そうですわ。表紙をご覧になっただけで……、よくご存知ですのね」
デュシアンはまさか弟から教わったとは言えず、ちょっと頬を赤くした。
「あれはティアレルさんが読まれるものなんですか?」
まさかな、と思ってもつい聞いてみる。けれどもあわよくば、兵法を勉強するこつを聞けるかもとも思ったからだ。
「ええ、そうですわ。……趣味みたいなものですの」
ティアレルは少し恥ずかしげに頬を朱に染めて答えた。
「趣味?」
デュシアンは眉を潜める。
「変わっていますでしょう? わたくし、兵法とか軍事関係の事柄を勉強するのが好きなのです。だから――」
ティアレルが全部話し終わらないうちに、デュシアンは身を乗り出して、
「どうやって勉強すればいいんですか?!」
と勢いよく聞いた。
ティアレルは一瞬戸惑いを見せたが、すぐにも微笑んだ。
「もしかして、苦手、ですか?」
図星にデュシアンは真っ赤になる。しかしティアレルは申し訳ありませんと微笑んだ。
「軍事的な事柄に興味ある女性の方が変わり者なのです、大丈夫ですわ」
「でも、公務にはどうしても必要なのです。苦手ではすみません。わたしはきちんと公爵としての公務をこなしたいんです。
《北の守り》のことだけ手がけていればそれでいいとは思えないんです」
デュシアンの決意がわかったのかティアレルは少し考え込んでから頷くと、しっかりした面持ちで『宜しかったら』と切り出した。
「わたくしで宜しかったら、ご教授申し上げますが。貴族のご子息の家庭教師も勤めておりますので、
教えることに関しては問題ないかと存じます」
願ってもないことだった。デュシアンはその提案に『お願いします』と頭を下げた。
ティアレルは春の日差しのような暖かな微笑みを浮かべていた。
「火の日か大地の日の午後ならば、わたくしはいつでもデュシアン様の為にお時間を割くことが出来ますわ」
「わたしもどちらも大丈夫です」
「では、大地の日の午後に、デュシアン様の神殿の執務室の方にお伺いさせて頂きますね」
「はい! お願いします!!」
デュシアンは嬉しくて仕方なくて、満面の笑みを浮かべた。ティアレルも頬を紅潮させながら、にこにこと微笑んでいた。
その時であった。人気もなくひっそりとしているはずのドアの向こうの廊下で怒鳴り声が響いたのは……。
(2003.12.27)
Copyright(c) 2009 hina higuchi All rights reserved.