墓と薔薇

2章 支配と魅了と破壊と(5)

 この半月あまり、デュシアンは数回《北の守り》に入っていた。 初めて入った時は移動魔方陣すら失敗したが、二回目以降はもたつきはするものの、失敗することはなくなった。 また、《北の守り》に移動した直後の霧にかけられてある《支配の魔力》もなんなく突破できるようになった。
――つい勢いで来ちゃったけど
 転移先の魔法陣の中で、デュシアンは短くなった自分の髪の毛の一房に触れて小さく嘆息する。 霧に掛けられた《支配の魔力》はすでに解いていた。
――わたしは公爵なんだから、あまり立場を忘れて勢いに任せた行動とかしちゃ、駄目だよね
 ここへ来ることは遊びではない。もっと真剣に、真面目に向き合わなければいけない。 母様とレセンを守る為にも、立派な公爵にならなければいけないのだから。
――でも、そろそろ《視察》をしても良いかも
 来てしまったものは仕方ない。そして冷静に判断すれば、良い頃合いかもしれないと思う。  《視察》とは、実際に《北の守り》の結界構築部に触れてその状況を直接診ることを指す。 内部のものを閉じ込める結界には常に内部から圧力が掛けれている。そうなると、どうしても結界に綻びが生じてくる。 女神が作り出した結界は放っておいても半永久的にその効力は続くものとの研究結果はあるが、 しかしいつそれが崩れるとも限らない。その為に定期的に結界構築部を覗き込み、決定的な痛みが起きていないかを探すのだ。 そうして見つかった結界の綻びを修復する役目を持つのが、《北の公》というわけである。 ここへ入室することができる人物たちには《視察》まで許されているが、修復作業は許されていない。 一枚目の修復は《北の公》が、二枚目の修復は《第二の守護者》たるアイゼン家当主にのみ許された権限であった。
――視察、か
 不安材料を思い出し、デュシアンは顔を顰めた。実は父から譲り受けたアミュレットを直していないのだ。
 ダグラス老将軍の好意もあったのだが、どうしても《禁呪の魔女》のところへ行く気にはなれなかった。 彼女の研究室へ自ら足を運ばなければならないなんて、デュシアンにはとんでもなく恐ろしいことに思えたからだ。 もちろん偏見は持ってはいないつもりなのだが、怖いものは怖い。
 その為に今現在は、市販されている既製品のアミュレットで過ごしていた。しかし今まではそれで済んでいたが、 《視察》をするとなると、これで事足りるかは分からない。 市販されているアミュレットでは、その効果に少し不安が残るのだ。
 《北の守り》に関する文書には確かに《視察》に関する手順は書いてあったが、どこか中途半端であった。 そもそもあの『北の守りに関する文書』には、最初の霧にかかった《支配の魔力》に関して一切記述がなかったのだ。 これから先、視察の段階で同じように何かに《精神魔法》が隠れているかもしれないという推測もできる。 移動魔法陣と霧とに掛けられてあれば、疑いたくなるのも当然だろう。 ダグラス将軍のおかげで少々精神魔法を解くこつを理解したとはいえ、それでも精神魔法は苦手だ。
――父様のアミュレットを直してから来たほうが良かったかな
 この不安はアミュレットのせいなのか、それとも自分が怖気ついているせいなのか。 そう考えると後者のような気がして、デュシアンは覚悟を決めた。
 顔をあげ、いつもより力強い足取りで魔方陣より出る。 薄暗い《柱の間》を僅かに照らす蒼い光に導かれるように歩き始めた。 数度ここを訪れはしたが、やはりまだまだこの空間に慣れることは出来ない。 生来の臆病さのせいか、ここを受け入れることを拒むように胃を掴まれるような恐怖が背筋を通り抜けるのだ。
 叫んで走り出したい恐怖に耐えながら《柱の間》を抜け、《蜜蝋の階段》を一気に最後の段まで昇りきると、 乱れた息を肩で整えた。そして気持ちを固め《封印の間》を歩み出した。
 初めて来た時の、あの鋭い刃のような視線はもう感じなくなったが、誰かがいるという気配だけは残っていた。 もちろんその《誰か》とは、一人しかいない。しかしそれを意識すると逃げ出したくなる衝動に駈られるので、 まるで最初から思考能力など自分にはないかのように脳内でも沈黙を守った。
 しかしいくら沈黙を守ろうとも、頭から思考も感情も感覚も消し去る事などできはしない。だから 一歩一歩進む毎に心臓は跳ねあがり、冷や汗が額を覆って前髪が張り付く嫌な感触があった。
 ここに慣れる為に入っていた今までは、結界の十数歩手前で帰っていた。それ以上足を進める精神力はなかった。 けれども今日はそれより先に進み、結界に触れて『視察』をするつもりだった。《北の公》としての責務を果たす為に。
 いつも引き返していた場所で足を止めることなく、デュシアンはそのまま前進した。歩く度にぴちゃぴちゃと水を踏む音が響く。 驚いてその歩を緩めた。磨かれた黒曜石のような、光沢の石床に水のような透明な液体が所々に零れていた。 それは結界の奥から零れているようにも、ここで零したものがあちらに流れているようにも思える。 それに気を取られて足元ばかり見ていたら、気づくとあと二、三歩で結界の境界壁であり、はっと息を飲んだ。
 こちらへ向けられた視線も気配も酷く濃い。それでももう心は決まっていた。 結界を目の前にして止まると、デュシアンは大きく息を吐いた。
「初めてだけど………」
 誰もがその《初めて》を体験するのだ、あのダグラス将軍だって。そう思えば気持ちが楽になった。 そっと結界自身に手を触れる。
 すると急に耳鳴りが起き、何かが脳天を突き抜けるような大きな衝撃を受けた。ずきんずきんと心臓の音と一緒の周期で脳が痛みだす。 激しい頭痛と眩暈にくらくらするも、デュシアンは倒れないように足を踏ん張った。 倒れたらきっと起きあがることはできないだろう。三半規管がどうかしてしまっているのだ。
――これが《視察》でおきる、こと?
 視察でへばっていては、《北の守り》を修復する維持魔法の行使なんてできるはずはない。 デュシアンは唇を噛んで必死に耐えた。そして暗闇が支配する結界内を覗き見る。
 本当なら落ちつくためにも視察をする為にも瞳を閉じている必要があったのだが、瞳を閉じることができなかった。 まるで何かに惹かれるように視線がある一点に引き寄せられる。
――なに?
 何故そちらに目がいくのか。デュシアンは自分の目が自分の意思で動いていないことに気づいた時、 その視界に何か光るものを認めた。遠くからでは確認できなかったが、確かに《光》だ。 《北の守り》の結界内は全てが闇だけであると思い込んでいたのだが、そこだけが光を発している。 闇の中の唯一の光は、まるで闇を切り開くように真っ直ぐ縦に伸びている。
――あれは、カーラ様の槍!
 己に背いた《悪神》を貫いた槍。
 背中がぞくぞくと粟立った。今までで一番の鳥肌がたつ。目測だが、その光はこの結界からはそんなに離れた位置にはない。 ごく近く。十歩ほど先だ。それだけ近くに主神カーラの愛槍があるということは。
――《悪神》が、いる!
 その恐ろしい存在を意識してしまい、身体中が意に反して小刻みに震え出した。しかも《神槍》から目が離すことが出来なかった。 闇の中で光を発する槍は辛うじて光として映るが、それによって生きたまま大地に縫い付けられた《悪神》の姿は見えない。
 けれども、闇の中であるのに不思議とさらなる闇に覆われた部分があった。光を発する《神槍》のすぐ下、光が急に途切れる部分。 見たくないのに、瞳はその下を誘われるように向いてしまう。探してしまうのだ、その存在を。
 そして思い通りにならない視線が、眩しすぎる光の筋と対をなすような闇を捉えた。 あれこそ闇の闇。深淵に相応しい、全てを飲み込むような……。
――あそこに、《魔王》がいる!!
 絵物語では《悪神》と《魔王》は同義語だ。同じ存在として扱われる。デュシアンにとっては、かつて神の一柱であったというよりも、 魔物の王という認識の方が強い。
 鳩尾の辺りが震え、脈拍がはね上がった。呼吸が荒くなりかえって息苦しい。 限りない恐怖がデュシアンの身体だけでなく呼吸の自由も奪っていく。
――でも、《北の守り》と《神槍》があるから、大丈夫
 主神の力で地中深く刺さった神の槍が身体を貫いており、《悪神》は力の大半を失って瀕死状態のはずなのだ。 そこから出てくることも、また攻撃されることもないはずだと分かっている。
 それでも、《北の守り》に圧力を掛けることが出来るほどには力を有している。《北の守り》に小さくとも亀裂が入るのは、 《悪神》が内部で壊そうともがいているからだ、という説もあるほどに。 もしそうであるなら、自分はとんでもないものと対峙する立場であると言える。
――わたしはただの田舎娘で箱入りで、魔法だってそんなに得意でもないし、魔力だって人よりは器も大きいけど、 きわだって大きいわけじゃないもん。もし維持魔法を失敗でもしたら……
 もしも内部からの圧力に負けて《北の守り》が崩壊すれば、 《悪神》は槍に貫かれている為に動けるとは思えないが、瘴気が広まってしまう。 そもそも、結界がなければ《悪神》は腕一つでこちらを簡単に殺せるかもしれない。 千年も昔から大地に縫い付けられているのに命を落とさないような存在に、自分が勝てるはずはない。
――ううん、違う、わたしの魔力は世界一よ。魔法都市ララドにだってわたしに敵う人間なんかいないんだから
 怯えている? そんなはずないと、デュシアンは急に笑い声を上げた。
 けれども次の瞬間冷静になり、どうして今、自分が笑ったのか分からなかった。なぜそんなことを考えたのか理解できなかった。 変な自信を打ち消すように『違う』と首を振る。
――わたしは……、わたしは誰よりも《北の公》に相応しいのよ。わたしのように素晴らしい人間はいないのだから
 気付くと、また自分の口角が楽しげに上がっていた。こんな状況なのにと頭の隅で思うのに、次の瞬間にはまた笑っていた。
――わたしに出来ないことはないの。わたしは素晴らしいのだから。 きっとこの中の《魔王》だって、わたしの足元にひれ伏すわ。わたしは誰よりも美しくて気品があって、 誰よりも優れているんだもの!
「違う!!」
 次々と頭に浮かぶ驕った言葉に、デュシアンは声を荒げて首を振った。
「わたしは優れてなんかいない!」

――じゃあ、価値の無いわたしなんて、死ねばいいわ。結局わたしに居場所はないのだから

 デュシアンは濡れる石床の上に力なく崩れた。




+   +   +




 気がつくと、見覚えのない薄灰色の年季の入った天井が目に入った。何が起きたのかわからなくて、寝転んだまま呆ける。
「目が覚めたか?」
 目覚めて一番に聞きたいとは思えない棘のある声が掛かる。
「……ラシェ?」
 デュシアンは随分と重たく感じる身体を強引に起こし、辺りを見まわした。 室内は《明かり取り》に照らされているがその明るさは抑えられてるようで、目が慣れるまで薄暗さを感じた。 自分が寝ている場所より離れた木の椅子に従兄を見つけ、何度も瞬きをして彼の存在が現実であることを知る。
 ラシェは組んだ膝の上の本を閉じると傍にあった机に置き、眼鏡越しにこちらを観察するように眺めた。
「身体は大丈夫か」
「……うん?」
 頷きながらも語尾が上がる。なぜ心配されるのか、理由が分からない。そもそも一体何がどうなっているのか、 何もかもが理解できずにデュシアンは首を傾げた。自分は今までどうやら革張りのソファに寝転んでいたようだ。
「ここ、どこ?」
 もう一度辺りを見まわす。壁一面に几帳面に整理された本棚が並び、室内中央には年代を感じさせる羊皮紙が広げられ、 書き込まれている文字は見覚えがなかった。標準カーリア語ではないだろうそれを見て、 この部屋が従兄の研究室であることを悟る。ラシェは古代言語を専門とする学者だった。
「ラシェの、部屋?」
「神殿の研究室だ」
 ラシェは優れた魔道師であると同時に、古代言語を研究する学者でもある。神殿の研究棟に部屋を一つ貰っていた。 どうやらここはその研究室であると知る。
「おい。まだ意識が混濁しているのか?」
 従兄は立ち上がってこちらに来ると、床に片膝をついて下からデュシアンを覗き込んできた。 まるで騎士が姫君に忠誠を誓うかのような格好だと場違いにも思う。きっとそれを口にすれば、この従兄はひどく憤慨するだろう。
「お前、どうしてここに自分がいるのか不思議じゃないのか?」
「え?」
 問われてデュシアンは頭を捻った。
「そういえば、どうしてラシェの研究室にいるの? ……わたし、どうやってここまできたの?」
 自分がどうしてここにいるのか、そしてどうやってここまで来たのかが、いくら考えても思い出せなかった。 まるで自分の記憶を呼び戻すのを妨げるように頭の中が霧がかっている。
「お前は《北の守り》で倒れていたんだぞ」
「倒れてた?」
 実感がなかった。まるで他人事のようだと思う。けれども、それは忌々しき事態だった。慌ててもう一度ゆっくり思い出す。
「ええと、今日は協議会に出席して、嫌味な……。王子と円卓騎士で……。うん、《北の守り》に入った。 それで視察をしようと結界に手をかけて、それで……?」
 もう一度《北の守り》に入ったところから思い出そうとするが、同じ所で記憶は消えていた。
――そこで、倒れたってこと?
 つまり、倒れたからその後の記憶がないのだろう。しかしなぜ倒れたのか、 デュシアンにはその理由を思い出すことはできなかった。
「……ラシェが運んでくれたの?」
 ここに自分がいるのだから、《そう》と仮定して問う。
 しかし従兄は少し眉を寄せて視線を逸らし、首を小さく横に振った。
「俺は《北の守り》に入れない。その許しを貰ってはいない」
 確かにその通りだった。《北の守り》には基本的に、北の公と指名されたその後継者、 《第二の守護者》であるアイゼン公とその後継者、神殿の法皇庁の一部の幹部と、国王、王太子、円卓騎士の一部。 そして、防衛協議会の出席者しか入ることを許されては居ない。 ラヴィン家一族であっても、ラシェには魔法陣があるあの部屋にすら入室許可はおりない。
「じゃあわたしは、自力で《北の守り》から帰って来たの?」
「お前は意識がなくても歩けるような人間なのか?」
 呆れたように、殊更大きな溜息を吐かれてしまう。
「ち、違うけど」
「そうだろうな。倒れても尚歩けるような人間と、同じ血が流れているとは思いたくない」
 なんでこういう切り替えし方をしてくるのだろう――デュシアンは揚げ足取りの従兄に対して若干、唇を尖らせた。 全く持って厄介な性格だと思う。
――でも、それなら、わたしを《北の守り》から運び出した人は、だれ?
 先ほど《北の守り》へ入る許可を持つ人々を思い出し、血の気が引ける。 誰であっても、倒れたことを知られれば大変なことになる。いや、すでに大変なことになっているのかもしれない。 《北の守り》を護るべき公爵が倒れていたのだから。
 しかしそんな懸念を払拭するように、ラシェは首を振った。
「運んでくれた奴に感謝することだな。お前を陥れるような人間ではない」
「陥れるような人じゃない?」
「お前が倒れたことは、お前を運んだ人間と俺以外は誰もしらない」
「どうして?」
「そいつが人知れずお前を運び出し、俺にお前を託した。感謝しろよ」
 どうしておおやけにしないのかと問う前に、大きく浮かぶ疑問は。
「誰が、わたしを見つけて運んでくれたの?」
 なぜ大事にしないのか。《北の公》が《北の守り》の中で倒れていたのに。
 食い入るようにラシェを見つめたが、彼はしばらくデュシアンを無表情で眺めたあと、ふいと視線を逸らした。
「ラシェ?」
「恩を売る気はないらしい。奴は大事にもしないし、お前に自分が運んだと告げるつもりもないとの事だ。 俺も、知らぬ方がいいと思う」
「なに、それ……。どういうこと?」
 呆けて呟けば、従兄は苛立ったように眉間に皺を寄せ、赤茶の瞳に怒りの炎を灯らせた。
「お前は仮にも《北の公》だろう。《北の守り》の中で倒れたことが公にでもなれば、どうなるかわかっているのか?  それを奴は見なかったことにしてやると言ってくれている。お前はその意味を汲め!」
 もともと語調は厳しいが、珍しく荒れたように叫ぶ。
 デュシアンは肩を震わせ、しかしそのような真剣な従兄を見上げながら自分の身を恥じる。
「今回は奴の好意に甘えろ。だがいいか、二度とあんな場所で倒れるな。お前は果てしなく危険な場所で倒れていた。 意識を失えば防御壁は消える。瘴気に晒されるだけでなく、液体瘴気に身体が浸かっていた。 それがどれほど恐ろしいことなのか、自覚しろ」
「……はい」
 あの場で倒れることはそれだけ恐ろしいことなのだ、ラシェが真実こちらの身を心配して怒るほどに。 デュシアンは神妙な面持ちで頷いた。
 ラシェは眼鏡のつるを押して溜息を吐くと、デュシアンの頭を乱暴な仕草で撫でた。
 急なこと、そして珍しいことであったので、つい、身体が硬直してしまう。冷たく睨まれることはあれど、 こんなふうに触れてくることは滅多にない。
「今日はゆっくり休め。送るから少し待っていろ」
 そう告げると、こちらの身体に掛かっていた毛布の上の濃紺の上着に手を伸ばしてきた。ラシェが持ち上げたことで、 自分がそれを握り締めていたことを知る。慌てて離すが、どうも長い間握っていたようで、皺ができていた。
「それ……」
 上等そうな生地のそれに、見覚えがあるような気がした。
「お前を助けた奴の上着だ」
 その言葉に、胸の奥をぎゅっと掴まれたような気持ちになる。
「お礼を、したいの」
「奴はそれを望まない」
 ばっさりと切り捨てられ、デュシアンはうな垂れた。その頭頂部に、厳しい言葉が降りかかる。
「礼がしたければ、公爵としての仕事を励め。それが礼代わりになる」
 顔を上げるも、ラシェはそれを持って部屋を出ていってしまった。
――公爵として、仕事を励む
 助けてくれた人の好意を無駄にしないよう、心に誓った。
 ふと窓へと視線を移せば、外は闇の占める夜だった。冬は夜の訪れは早い。ラシェが送ってくれるというから、 今日はそれに甘んじようかと思う。そもそも身体がとても重いのだ。
――気を失っている時に瘴気をたくさん吸ったのかな
 身体は鉛のように重く、全身にぴりぴりとした痺れを感じた。
 《北の守り》に入ったのは午後の三つ目の鐘が鳴った頃だった(午後三時頃)。 恐らく数刻は意識がない状態だったのだろう。この麻痺の程度からすれば、かなり長時間倒れていたのかもしれない。 意識がなくなれば魔法は効果を失う。《防御壁》は解け、瘴気の混じった空気を直に吸っていた。 運が悪ければあの辺りに零れていた液体を飲んでしまった可能性もある。それはなんだか瘴気を吸うよりも気味が悪かった。
――でも、なんで倒れたんだろう……
 痺れる指を擦りながら、デュシアンはため息を零した。
 倒れる前に、一体自分に何があったのだろうかと思い出そうとしても、どうしても思い出せなかった。 不安だけが募る。そっと手を胸元に伸ばし、父から譲り受けたアミュレットに触れようとした。
――あ、そうだ。二つあるんだった
 楽な方の手を動かして首元を弛め、上着の中から二つの首飾りを取り出した。 一つは機能が失せているという父のアミュレット。そしてもう一つは既製品のアミュレットだ。
「あれ?」
 既製品アミュレットの核である赤い宝石に大きなひびが入っていた。
「壊れちゃったの?」
 目に見える形で壊れているアミュレットに、少々首を傾げる。父のアミュレットは壊れたといっても亀裂など入らなかった。 魔力だけ霧散して、核となる宝石はいつも通りの輝きを残している。
――それだけ、作った人の能力が違うってこと? それとも単に宝石の質の問題かな?
 職人ではないデュシアンには理解できないことではあったが、これだけ分かりやすく亀裂が入っているのだ、 アミュレットとしての機能も壊れてしまっていることだけは理解できた。
――『視察』したからかな?
 そう考えた時、急に霞がかった記憶が鮮明になる。
――そういえば、視察しようと手を伸ばしたら、確か酷い眩暈がして
 徐々に思い出す記憶に、デュシアンははっと息を飲んだ。
――そうだ! あれは、精神魔法の《支配》と《魅了の魔力》!!
 あの時、体は動かずそして勝手に視線が動いた。それは身体の動きを奪う精神魔法《支配の魔法》もしくは《支配の魔力》の成せる技。 そして《神槍》と《悪神》の影を見つけて、気づいた時には頭の中に己を過信し陶酔した言葉が浮かび、気分が果てしなく高揚した。 自分をとても素晴らしいものだと感じ入ってしまう強い感情操作、それはまさしく《魅了の魔力》だった。
 《魅了の魔力》は、この間ウェイリード公子がかけてきた《魅了の魔法》とは異なる。 行使してくる人間に対して恋焦がれ、心酔し、その人の虜となる《魅了の魔法》に対し、 《魅了の魔力》はただひたすら自分を愛し、己の力を過信し、 力量以上のことを成そうとしたり、激しい陶酔で我を忘れたりする効果を持つ。大まかに言えば、 人が使用するものが《魅了の魔法》であり、 掛けられている《もの》に触れたり目にしたりすることで襲いかかってくるものが《魅了の魔力》である。
 つまりは、精神魔法《支配》によって身体を支配し《何か》を見させ、 その《何か》に掛けられた《魅了の魔力》により強い全能感を抱かせて、ことを起こさせる。 《北の守り》に触れれば、そのような危険な精神魔法が待っていたのだ。場合によっては、 《北の守り》を壊しかねない恐ろしさを秘めている。
――あれも視察をする人間への試練だったのかな? それとも《悪神》が外に出たくて、《支配》と《魅了》 をわたしにかけてきたのかな? ううん、《魅了の魔力》は違うよね……
 《支配》をかけてきたのが《悪神》というのは納得がいく。けれども《魅了》は違う。 あれは人が使う《魅了の魔法》と、《もの》にかけられた《魅了の魔力》とでは、明らかに効果が違うので、 容易に判別可能なのだ。
 自己陶酔の起きる精神魔法は《魅了の魔力》であるから、《悪神》が掛けてきたと言うには相応しくない。
 むしろ……。
――あの《神槍》にかかっていた、という方が正しいかもしれない……
 《魅了の魔力》を掛ける事のできる媒体は、あの内部でそれ以外に見当たらなかった。 けれどもそれはおかしな事だと、疑問を持つ。
 《神槍》は《悪神》を閉じ込めた《主神カーラ》の持ち物である。その《神槍》に 何故そのような危険な魔力がかかっているのか。《魅了の魔力》でもたらされた自己陶酔は、 一歩間違えれば瘴気と《悪神》を閉じ込める結界を壊しかねない。精神魔法で高揚した者は何をするのかわからない。 自分は何でも出来るという全能感は、《悪神》すら自分で倒せると思いこむ可能性がある。 または《悪神》を滅ぼし、英雄になろうと思うかもしれない。その為に、《北の守り》を壊す恐れがあるのだ。
――ああ、わかんない。だって、《北の守り》を壊されて嬉しいのは《悪神》でしょう?  でも《魅了の魔力は》は《神槍》に掛かっていたみたいだし、《主神》であるカーラ様のちからが宿ったあの槍に、 息も絶え絶えな《悪神》が精神魔法を掛けられるとは思えない。じゃあ、どうして?
 デュシアンは身体を折り曲げて、頭を抱えた。
――もしかして、カーラ様は《悪神》を完全に滅して欲しいとか?
 人のちからでも滅ぼすことができるほど、《悪神》は弱っているのかもしれない。 だから勇気を出して《北の守り》を破り、《悪神》を討てとの啓示なのかもしれない――そう考えて、首を振る。
――それができるなら、カーラ様は他の神々に命じているよね。だって《悪神》がいなくなれば、 瘴気もなくなるだろうから。《北の守り》で瘴気を封じる必要もないし。 この辺りの環境をすべて壊してまで最初に広がった瘴気を浄化したんだから、もしもその命を討てるなら、 きっと神様たちがそうしてる
 どのみち、自分には《悪神》と対峙できる強さはない――デュシアンはそう考えながら、そっと視線をアミュレットに落とした。
――あれが《主神》であれ《悪神》であれ、とにかくどっちであっても、神様のちからなんだからそれは強いはずだよね。 やっぱりアミュレットはきちんと直さなくちゃ駄目だ
 壊れた既製品のアミュレットと、父から譲り浮けた翡翠のアミュレットを見比べる。
――明日は大地の日だから、ダグラス将軍は確か研究室に居るって仰ってたし、行ってみよう
 デュシアンはぎゅっと翡翠のアミュレットを握り締め、決意した。
「あれ?」
 そうして、肝心なことを思い出す。
――《支配》と《魅了の魔力》を受けて、それでわたし、解呪をしてないよね?
「だから、倒れた?」
 それは違うと、頭を振った。《支配》は身体の自由は奪うが、意識は奪わない。 そして《魅了の魔力》も意識を失わせるような精神作用はもたらさない。むしろ意識は鮮明になり、 感受性が豊かになる。
――なら、どうして?
 デュシアンは立てた膝に額をくっつけた姿勢で考え続けたが、倒れた明確な理由は分からなかった。 ただし、精神魔法を解呪せずにその過程のどこかで倒れたということは、つまりは《視察》に失敗したという事であると理解し、 そのことに関して際限なく落ち込むのだった。

 屋敷に帰りたくないと喚きながらラシェに強引に連れ帰られれば、 まるで失敗に落ち込むデュシアンを待っていたかのように真っ赤な薔薇が出迎えてくれた。
 デュシアンはその日朝方まで自室でその薔薇の花弁に触れ、眠りにつくことができなかった。


(2003.12.19)

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system