墓と薔薇

2章 支配と魅了と破壊と(2)

 千年もの古い時代、人間と共に生きていた《神》のうちの一人が人間たちを誘惑し、様々な悪事を教え込んだ。
 数ある《神》を束ねていた《主神カーラ》は誘惑された人間たちの堕落した姿を嘆き、 その原因を作り出した《神》を《悪神》として討つことを決めた。
 そして《悪神》との三日三晩の激しい戦いの後、《主神》は自らの愛槍で《悪神》の胸を貫くことに成功した。
 《悪神》のその貫かれた胸からはおびただしい量の血が溢れ出たが、《悪神》はそれで息絶えることはなかった。
 しかし《悪神》の胸を貫いた《神槍》は大地に根深く刺さり、 《悪神》はその槍を抜くこともまたそこから身を動かすこともできないでいた。
 それに激怒した《悪神》は自分から溢れ出る血より毒――《瘴気》を作りだし、世界に振りまき始めた。 するとたちまち人間たちは病に罹り、大地は腐蝕していった。
 《主神》は直ちに人間の世界を救おうと手を差し伸べたが、 これ以上《主神》が人間たちの世界へ関与するのを好ましく思わなかった《女神》のうちの一人が《結界》で《悪神》ごと 《瘴気》を閉じ込め、人間たちに《移動魔方陣》を残し、自分たちの力で《結界》を維持して、 《悪神》と《瘴気》を閉じ込めて監視するよう命じた。

 これが、《主神カーラ》を祭る神殿が提示する、《北の守り》の伝承である。
 その結界がある地は、このカーリア王国のある大陸よりずっと北の孤島。最果ての地と呼ばれる大地の切れ目近辺にある。 孤島は荒れた渦潮に護られて正確な位置も掴めておらず、地図にすら曖昧に書き込まれている。 万が一、島に辿り着けたとしても結界を内部に持つ《古城》は激しい山間を越えた先にあり、 生身の人間には決して越えることはできないという。
 そんな忘れ去られた北の最果ての地にある結界であることから、いつしか《結界》は《北の守り》と呼ばれるようになり、 それを護る役目を仰せつかっているラヴィン家当主は《北の公》と呼ばれるようになった。 それはこの国が出来た六百年前のことであった。
 女神が授けたその《北の守り》は二枚の結界からなるが、普通は一枚目の結界を《北の守り》と呼び、 外側にあたる二枚目は《第二の守り》と分けて呼ぶことが多い。一枚目と二枚目の結界はどちらも瘴気の流出を防ぐ役目を持っているが、 細かい点でそれぞれ別の役割を果たしていた。 瘴気はまがりなりにも《神》の一柱である《悪神》の魔力でつくられたものであるのだから、 いくら《女神》とはいえ簡単には抑えることはできないのだろう。
 一枚目の《北の守り》は、瘴気の濃度を薄くする役目を持つ。その為に、 一枚目と二枚めの間には《悪神》の血から創りだされたとされる瘴気よりも薄い瘴気が漂っていた。 この程度の濃度であるのなら人により時間差はあるが、何もしなくてもすぐに死に至ることはない。
 二枚目である《第二の守り》は、濃度の薄い瘴気の流出を完全に防ぐ役目をもつ。 結界は二つあって初めて、流出を完璧に防ぐのだった。
 ただし、もしも一枚目の結界が何かの拍子に破れたとしても、二枚目がある為にすぐにも危険はない構造になっていた。 ある程度の濃度であれば、二枚目は完全に瘴気を抑え込む力を持っている。ただし、それは永遠というわけではない。 一枚目に不備があれば二枚目の負担は大きくなり、いずれ二枚目も崩壊しかねない。その時の為に《女神》は《移動魔方陣》を もう一つ用意していた。二枚目の外側に三枚目を敷けるよう、 《北の守り》と呼ばれる古城を見渡せる高台へ繋がっている。
 実際いつでももう一枚作れるように上級結界特別研究室によって、ある程度の作業は進められている。 ただし、本格的に構築するには内部の結界に影響がでることと、維持があまりに大変なので、 一枚目と二枚目に何かない限りはそれ以上の作業が進められることはなかった。 《女神》の生み出した素晴らしい結界の研究成果は日の目を見ることはないが、 それが一番正しいありようなのだというのが研究室の者たちの談であった。
 建国によって神殿のちからが若干弱った今では、《北の守り》を護るということは一般的には儀礼の一部としか受け取られていない。 《悪神》も魔王などと呼ばれるようになって、勝手に魔物たちの王と置き換えられており、子どもを躾るための寝物語となっていた。 その存在は殆ど架空のものとなっている。
 神学校へ通わなかったデュシアンにとっても、この地は《魔王》の地としての認識が強かった。

「この奥が、一枚目………」
 《移動魔法陣》から転移した先は三つの地域に別けて名づけられてた。今デュシアンがいるのが、 大小さまざまな太さの柱が無造作に天井を支える《柱の間》。それを越えた先に《蜜蝋の階段》があり、 昇れば《封印の間》へ辿り着く。  ここが《柱の間》と呼ばれる所以は、目の前に広がるがまま、 様々な太さの柱がいくつも無造作に意味もなく天井を支えている構造になっているからだ。 移動魔方陣から溢れ出す光が視界を広くし、数ある柱の美しい彫刻を見せてはくれるが、それより先は見せてくれない。
 文書によればここ《柱の間》を抜け《蜜蝋の階段》を昇った先の《封印の間》に、《北の守り》となる結界あるという。 迷うことを恐れていたが、どうやら《柱の間》から一本道のようであった。まるで誘うように目の前の道筋だけ、 邪魔をする柱もなくひらけている。
――いないよね、何にも、いないよね? 魔王の側近とか
 覚悟を決めて闇の続く空間を進みながら、小さい頃読んだ絵本の中に出てくる悪い魔王の部下のことが頭を廻る。 とても強大な力を誇った魔王の部下たち。彼らは魔王と共にこの城の中に幽閉されているとも、 建国時代の英雄たちが倒したとも実しやかに囁かれている。ただし、神殿は《悪神》の部下の存在自体を否定しているが。
「う……、階段が見えた」
 真正面に見えてきた階段を目視すると、鳥肌がたった。 まるで真珠のような美しいミルク色の階段は場違いにも自ら薄く光を発している。 これがどうやら《蜜蝋の階段》のようだ。
「こわい……」
 この先はもう《封印の間》だ。一枚目の結界がある、デュシアンにとっては《魔王》に一番近い場所となる。
 階段の手すりに手をつけようとしたが、人間とは限らない《誰か》が触ったかわからないものに指を這わせることが恐ろしく、 慌てて手を引っ込めた。
 転げ落ちないように一段一段慎重に昇って行く。三階分ほどありそうな真っ直ぐの階段は、 宮殿の謁見室へ向かう階段のように広く、けれども比べものにならないほどの緊張感を与えてくる。 絞首刑台の階段を昇っているような気分だった。
――父様
 ぎゅっとアミュレットを握り締めながら最後の段を昇りきり、大きな広間へと出た。
 王宮の謁見の間よりも広いそこに摩訶不思議な発光する飛行物体が動き回り、そのおかげで暗闇も薄らいでいた。 どちらかというと明るいぐらいなのだが、取ってつけたような明かるさにデュシアンはかえって恐怖を覚える。
 真っ直ぐ前を見据えると、発光する飛行物体も避けるように広がる漆黒の闇に包まれた空間を認めた。 遠目であっても、明らかにこちらとは違うと分かる場所だ。
「あれが、《北の守り》」
 《悪神》と《世界》とを隔てる結界。瘴気を閉じ込めるもの。
 その結界の壁は目に見えないが、まるで闇が壁を成しているかのようで、《そこだ》と認識できる。
 あの中には、《神槍》につらぬかれているとはいえ、まだ生きているといわれる《悪神》が存在するのだ。
 心臓がはちきれんばかりにどくどくと脈打つ。 あまりの激しさに自分の心臓がどうかしてしまうのではないかと心配になってしまったぐらいだった。
 全くの深淵。漆黒の世界。中を伺い知ることは出来ないそこから見えない場所まで逃げ去りたい気持ちになる。
「大丈夫よ、大丈夫」
 自分に言い聞かせてみたけれども、足が前に進まなかった。胃の辺りがぞわぞわして、必死に危険信号を送ってくる。けれども。
「進まなくちゃいけないの」
 もう一度自分に言い聞かせる。ラヴィン公爵の地位を継いだのだから自分には責任がある。 《北の守り》と向き合い、維持していかなくてはならない責任がある。異母弟にこの地位を渡す時まで、 自分はこの責任を果たさなければならないのだ。
「父様」
 胸元に落ちるアミュレットをぎゅっと握り締めて足を前に踏み出した。それが止まらないうちにもう一歩。もう一歩。
 進めた足は、いつしかその歩幅を小さくしていくが気にしない。ひんやりと冷たい空気の占める場所であるし、 運動をしたわけではないのに、額にうっすらと汗が滲む。短い前髪が額に引っ付くのを剥がして手の甲で汗を拭った。
 そして、足が止まる 心臓を掴まれたかのような衝撃を感じたからだ。
「……誰か、いるの?」
 あまりに鋭すぎる視線を感じた。
 先ほど《柱の間》で感じた視線は気のせいなんかではなかったのだ。ただし、今はもっと鋭い、 こちらに気づけと言わんばかりの強烈な視線。射貫くような、こちらを全て見透かすような。
 首を動かさずに、デュシアンは辺りを瞳だけで見まわした。しかし人影はもちろん魔物のようなものもいない。
――まさか
 はっと息を飲んだ。瞬時に後悔する、気づくのではなかったと。頭が忘れろ、と叫ぶ。
「……わたしが見えるの?」
 震える身体を抱きしめる。
――わたしを見ているのは……《魔王》!!
 《主神》により胸に槍を刺された瀕死の状態で、伝承の時代から生きている《悪神》。 その《魔王》が、漆黒の闇の中からこちらを見ているのだ。
 《瘴気》もろとも自分を封じ込めている《北の公》が自分だとわかったのだろうか?  だからこのように見つめてくるのだろうか?
 デュシアンは口の中が一気に乾くのを感じた。足が竦んで動けなかった。自分が弱虫だとは知ってはいるが、これは別物だ。 詮索するかのように、全身が針の筵のようだった。
――……《悪神》は、試してるんだ。……次の《北の公》を
 デュシアンはアミュレットをぎゅっと握り締めて瞳を閉じた。
――進もう。《北の守り》はもう少し先だ。
 ここで引き返せば《悪神》の思う壺だ。
 決意を顕わに瞳を開くと、研ぎ澄まされた刃を向けてくる相手に自ら近づくかのような感覚に耐えながら、前へと歩みを進めた。
 かつて無い酷い恐ろしさに胃や子宮を掴まれるような違和感に苛まれる。けれどもデュシアンは前に進んだ。
 あと少し。あと少しで《北の守り》だと思った瞬間、その強烈だった視線が急にぱたりとやんだ。
「それ以上は、お止めなされ」
 背後から声が響き、デュシアンはこれ以上ないくらい驚いて、振り向いた。
 《封印の間》の入り口に、老将ダグラスが佇んでいた。彼は静かにこちらに歩み寄ってくると、にっこりと微笑んだ。
「貴女は今日はもうそれ以上の精神力を使うのはなりません」
「え……?」
「《北の守り》の視察には大変な精神力を使います。初めてここにこられた貴方には負担が大きい。 目の前には《神話》が存在するのですから」
 ダグラス将軍にそう諭され、デュシアンは目を見開いた。自分の弱さを知られたかと思ったからだ。
 すると察したのか、ダグラス将軍は首を横に振った。
「いいえ、決して貴女の能力を軽んじてそう言っているわけではありません。むしろその反対です。 初めて来た貴方があの最初の霧を抜けれたことに、私は失礼ながらも驚いておるのですから」
 優しいその笑みと言葉に、デュシアンは嬉しさを隠せずはにかんだ笑みを見せた。 するとダグラス将軍の片眉が不思議なものを見るように一瞬上がったが、すぐにも真面目な表情に戻った。
「視察や維持魔法の行使は次回以降、もう少し慣れてからの方がいいでしょう。 特に維持魔法は貴女が思っておられるよりも貴女にとって危険な魔法です。 時間のある時に頻繁に訪れて、ここに慣れてから行った方が宜しいかと存じます」
「はい」
 その忠告を肝に命じ、デュシアンは神妙に頷いた。
「ではもう行きましょう。今日はゆっくり休まれるべきですよ」
「はい。ダグラス将軍、御教授ありがとうございました。それに大切なお時間を頂いてしまい申し訳無く思います」
「いえ。……おや、そのアミュレットは?」
 ダグラス将軍はこちらまで歩んできたデュシアンの胸に輝くアミュレットを目に留めると、目を丸くさせて驚いていた。
「これは父のものをわたしが譲り受けたのです。恥ずかしながら精神魔法に弱いもので……」
 デュシアンは少し恥ずかしげに答えた。弱いことはきっと将軍は充分理解しているだろうと。
 しばらくダグラス将軍の視線はやむことなくアミュレットに向けられていた。それから、ふむ、と納得したように頷いた。
「そうだとすると、それは私の弟子の作ったものですね」
「そうなのですか?」
「私の弟子にアミュレットを作る技術に長けておる者がいるのですよ。しかし、見たところそれは壊れておるようですが」
 そう言われてデュシアンは慌ててアミュレットを持ち上げて目で確かめようとした。 しかし宝石にも、台座の細かい銀細工にも全く破損は見られない。
「いやいや、アミュレットの表面上には現れませんよ。壊れている、といっても本当に壊れているのではなく、 強い力を受けるとアミュレットに込められた魔力が耐えられなくなって弾け飛んでしまうのです。 どうも、それに込められた魔力は霧散してしまっているようですね」
 移動魔方陣の支配の魔力か霧に掛けられた支配の魔力のせいだろうかとデュシアンは首を捻った。そして、 もうこのアミュレットには頼れないのかと残念に思っていると、ダグラス将軍が苦笑を浮かべた。
「案じることはありません。私の弟子の所に訪れて下さい。そのアミュレットを直すだけでなく貴女用に作りなおすことでしょう。 あの娘は、人に合ったアミュレットを作ることができる稀有な才能を持っているのです」
「人に合わせて?」
 アミュレットは既成品しか無いと思っていたデュシアンにはちょっとした驚きであった。
「ええ。《魔法宮》の研究塔で一番古い旧館、蔦の生い茂った塔の三階にあの娘の研究室はあります。 ただ、火と風の曜日は私のところで研究の手伝いをしているので、それ以外の日にでも訪れてみて下さい。 私からの紹介だと言えば、天邪鬼な娘ですがきっと引き受けることでしょう」
「は、はい。あの、その方のお名前は?」
「弟子の名はリディス・フォスター。私の研究室にいた、あの少々煩い娘ですよ」
 先ほど訪れた将軍の研究室には二人の青年と一人の美女がいた。つまりは、あの美女―― 黒いとんがり帽子を被った白金髪の美女。しかし彼女は。
――《禁呪の魔女》!
 思い返してみれば、彼女はアミュレットとなる首飾りやブレスレットをたくさん身に付けていた。 きっと自分で作ってみては、身に着けて試しているのだろう。
「アミュレットは精神魔法への耐性も兼ねて、心を落ちつかせる作用があります。 貴女のこれからなさることは大変重い公務です。できるならば、その身に合ったアミュレットを持つべきなのでしょう。 貴女のお父上も、その為にリディスにアミュレットを依頼したのですから」
「父が――」
 禁呪の魔女に依頼したのですか――そう続けそうになった口を閉ざした。
 《禁呪の魔女》とは差別用語だ。神殿では《禁呪》の存在はその名の通り忌避されるものなので彼女の存在自体が疎まれているが、 宮殿の組織である《魔法宮》では、きっとそのような差別用語は好まないだろう。そう判断して口を噤んだ。 何よりも、彼女はダグラス将軍の弟子である。
 ダグラス将軍は別段何も気にしない風に促した。
「さあ、長居は無用です。帰りましょう」


 移動魔法陣で神殿に戻ったことを喜ぶ前に視界に映りこんだ人物を見て、デュシアンは驚いた。
「――アイゼン公爵」
 デュシアンにとって鬼門とも思える、一番緊張する相手《第二の守護者》ライノール・アイゼン公爵が室内入り口で佇んでいたのだ。 その後ろには、デュシアンよりも年上と思われる、落ちついた雰囲気の青年も控えていた。
「視察は如何か」
 アイゼン公は入り口付近にある数段の階段を下りながら、無骨ながらも口調には温かみがある。 しかし礼服に包まれた体躯は引き締まって騎士然としており、その気迫にしりごみする。法律家だとは聞いているが、 その手には書物ではなく剣が似合う。どうみても歴戦の猛将といった佇まいだ。
 デュシアンは背筋をきちんと伸ばして、緊張を見せないように軽い微笑を浮かべた。
「はい。《北の守り》に入ったのは初めてでしたので視察とまではいきませんでしたが、 次の議会までには数度入って慣れておきたいと思っております」
 デュシアンのその言葉に満足したように、アイゼン公は厳つい表情そのままに頷いた。
 不意に視線を感じ、デュシアンはアイゼン公の背後へ視線を移した。
 視線の送り主はアイゼン公の後ろに控える青年だった。彼は確かアイゼン公の嫡子、ウェイリード・アイゼン公子だ。 黒髪に黒い礼服をまとう、どこか雰囲気のある青年だ。背も高く体躯も騎士のようにがっしりとしているが、研究者だと聞く。 彼とは父の葬儀の時に会った覚えがあったが、それを思い出そうとすると軽い頭痛がしたのでやめた。
 アイゼン公爵は息子の視線に誘われたデュシアンに気づいたのか、後ろの自分の息子にちらりと視線をやると、
「先に行く。では、また」
デュシアンが出てきた魔方陣とは別の、《第二の守り》に通じた移動魔方陣へと入っていくと、 すぐにも発動をさせてその姿を消した。
――さすがアイゼン公爵……。あの移動魔方陣にも精神魔法はかかっているはずなのに、あんなにすんなりと……
 そしてまた視線を感じ、彼、ウェイリード公子を見上げた。何だろう、と思う。訝しげに彼を見上げていたが、 まじまじと魅入ってしまった。瞳が重なったまま視線を反らすことが出来ない……。
――綺麗な顔。
 デュシアンは彼を見上げて、すんなりとそう思った。胸がどきどきとする。
――綺麗な黒檀の髪が艶々してて、灰の瞳もとても綺麗。なんて素敵なひと。わたしはこの人が
 その存在へ手が伸びる。その指先が男性らしいすっきりとした頬に触れる直前。
「これ、ウェイリード! そなたは魅了を研究以外で使うことを禁止されておろう!」
 厳しく断罪するその声に、デュシアンははっと我にかえった。伸ばしていた手を慌てて引っ込めながら、一歩後ずさる。
 移動魔法陣から戻ったばかりのダグラス将軍は、蒼い光を纏いながらウェイリード公子とデュシアンとの間に割って入った。
 デュシアンはぼうっとする頭を数度振り、もう一度灰燼の瞳を持つ彼を見上げた。彼は眉をひそめてこちらを見下ろしている。
――なに、今の
 自分は今この公子を見て、何を思ったか。そして、その存在に触れようとしていた。
 一気に頬が熱くなる。
――わたし、一目惚れしたの? 一目惚れなんてお話の中だけだと思ってた。自分がするなんて……
 未だよく分からない、身のうちの熱を振り払うように身体を震わせ、目を瞬かせる。
「……この程度の《魅了》にかかるのか。《北の公》を退任した方が、君のためだ」
 ウェイリード公子は小さな溜息を残し、すぐにも父の消えた魔方陣の中へと消えて行った。
 まだぼうっとしているデュシアンは、黒檀のような見事な黒髪の公子に何を言われたのか理解できなかった。
「彼は《魅了の公子》と呼ばれておるのですよ」
 ダグラス将軍は困ったように苦笑しながら、デュシアンに説明してくれた。
「魅了の、公子?」
 将軍の理性的な瞳を見つめ、我に帰る。
――そうか、今の変な感覚は、《魅了の魔法》!
 ウェイリード公子を完璧にを美しいと思い、恋焦がれていた。彼のためなら何でもできると思ってしまっていた。 彼に愛されたく、その身体に触れたいと思った。 今更ながらに恥ずかしいと頬を染めながら、その感覚を創り出したのが《魅了の魔法》だと思い至る。
――そういえば、公子はさっき何か言ってたよね?
 ふと、去り際に彼が何か自分に言っていたのを思い出した。一方的であったが初めて交わした会話だった。 彼は何と言ったか。デュシアンは記憶を辿る。
「魅了の魔法は人の身では成功することは稀な魔法ですが、ウェイリード公子は精神魔法、 特に《魅了の魔法》及び《魅了の魔力》に力を注いで研究し、成功率を上げているので、 《魅了の公子》と呼ばれているのですよ。あの容姿ですから、女性陣は嬉々としてそう呼んでおります」
 ダグラス将軍の言葉の最後の方は殆どデュシアンの耳に入ってはいなかった。 彼に言われたことがやっと動き出した頭に響き出したのだ。

『この程度の魅了にかかるとは。北の公を退任した方が君のためだ』

 何てことだろう。そんなことを言われて、何も言い返せなかったのだ。
 悔しいが、それでも人間が作り出した《魅了の魔法》に掛かった自分も情けなかった。彼の言うことは正しい。 ダグラス将軍が言うように彼は《魅了の魔法》の成功率を上げているのだとしても、 それでも自分の弱さが許せなかった。
「やはり、わたしには……」
 つい弱音を吐きそうになり、はっとして自分の口を噤んだ。 ダグラス将軍の前で、そのような世迷言を言うわけにはいかないと気を引き締める。
「では、私はこれで失礼致しましょう」
「今日は、ありがとうございました」
 慌てて頭を下げ、その背を見送った。一人残されたデュシアンは、唇を噛んで自分の至らなさを責めるしかなかった。


(2003.12.4)

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