墓と薔薇

2章 支配と魅了と破壊と(1)

「ぐぅ……」
 息苦しさと喉にへばり付くような嘔吐感に、はっと意識が鮮明になった。
 光に飲まれて何がなんだかわからないうちに放り出されたのは真っ暗で何も見えない場所だった。
――ここが、《北の守り》の《柱の間》?
 デュシアンはくらくらする頭を押さえて立ちあがろうとしたが、足が自分のものではないかのように動かなかった。 まるで下半身を分離されたかのように全く感覚がないのだ。自分の足がそこに存在するのかすらわからないほどに。
――瘴気を吸ったから、身体が麻痺してるの?
 ここが《北の守り》であるのなら、当然、瘴気の漂うところだ。
 《瘴気》は人間の体を麻痺させていずれ死に至らしめる無臭で有毒の気体だが、 自然界にあるような毒ではなく魔力によって生まれた毒と言われている。だからこそ魔法である程度は弾くことは可能なのだ。
 本来ならばここへ転移している最中に、 空気中に含まれる有害物をも遮断できる《防御壁》と名づけられた魔法を身体を覆うように敷くべきだったのだが、 気づくのが遅くなり、何十回も呼吸した今さら敷くことになった。思うように動かない体だが思考は正常なので魔法もすんなり成功し、 自分の周りに透明の薄い膜状のものが漂う様子をただただ見つめた。
――ああ、もう……。なんで、わたしって駄目なんだろう……。ぜんぜん足が動かない……
 自分の至らなさが悔しく思えて視界が歪む。しかし下唇を噛み締めて涙を拭うと、 腕の力だけで這うようにして自分がいま踏んでいるであろう転移先の移動魔方陣から這い出た。
 すると、後ろで蒼い光が溢れ出す。霧がかっているが辺りの視界が開け、デュシアンは絶望に首を振った。 移動魔法陣を発光させるあの蒼い光は精神を蝕む《支配の魔力》だ。 帰りは瘴気から身を守る《防御壁》をかけながら精神魔法を切り抜けなければならない。
――無理だよ……
 いまだ立ちあがることが出来ない情けない自分に呆れる。拭ったはずの涙をもういちど袖口で拭くと、 ありったけの力を搾り出して腕の力だけでとにかく上半身を起こし、近くにあった柱に背を預けて荒い息を整えた。
 汗が額から滴り落ちていく。呼吸をすればするほどなんだか息苦しいような気がした。
――《防御壁》、効いてないの……?
 不安にかられ、デュシアンは眉をしかめた。身体中思い通りに動かず、自分の額から流れる汗を手で拭うのも一苦労だった。
 けれどここには視察をしにきたのだ。何もしないままは帰れないと思う。
「どうし……」
 声を出したことで乾いた喉が擦れ、激しく咳き込む。音のない世界で自分の声を聞いて勇気を絞ろうと思ったのに、 それすら上手くいかないのだ。
 喉を削るような咳がおさまるのを待って、息を整えた後もう一度頭の中で続きを呟いた。
――どうしよう? 這ってでも前に進むか、それとも身体が動くようになるまで大人しくしているか……
 這ってでも進むような滑稽な《北の公》はかつていただろうかと自嘲する。 けれども誰も見ていないところでは、鍍金も演技も必要なく、矜持なんてかなぐり捨てるつもりだった。 《北の公》として足りない部分が多すぎるのだから、がむしゃらにやらなければならない時もあることをきちんと理解している。 それが今だからこそ、這ってでも前に進みたかった。そんな思いとは裏腹に、 身体が言うことを聞かないのも事実だった。這うことすら難しい。
 どうすることも出来ない不安に心細くなる。首元のスカーフを弛めて服の下にしまい込んでいた首飾りを取り出し、 指先で触れた。
 銀で周りを縁取るように細工を施された、美しい翡翠色の宝玉の見事な首飾り。それは父の形見となる《アミュレット》だった。
――父様……
 父の瞳と同じ色をしたその宝玉を見ると不思議と心が少し落ちついた。焦るな、と言い聞かせてくれるようだった。
 アミュレットに促されるかのように、今は少し様子を見ようと大きく息を吐いた。押し寄せる息苦しさに眉根を深める。
 もう《防御壁》を敷いた自分の周りには《瘴気》は殆ど薄らいだはずだった。 けれども相変わらず息を吸えば吸うほど苦しく感じるのはどうしてだろうかと疑問に思う。
――おかしいよね……。《瘴気》は人の身体に有害だけど、 わたしの魔力だとすぐにも害を及ぼすような効果は現れないはずだった。 一日中吸っていたらそりゃあ身体中麻痺しちゃうだろうけど、こんなに早く麻痺がおきるなんて書いてなかった
 全く動かない足に加え、腕も額の汗を拭えないほどにだんだんと動かなくなってきたのだ。瞼すらも重い。 身体中が思い通りにならず、もどかしい。
 《防御壁》は完璧なはずだ。魔法には多少の自信はある。それなのに楽になるどころか、息をするたびに息苦しくなるし、 身体中が重くなる一方だ。しかし瘴気による意識の混濁は一切ない。
――……もしかして? ううん、ありえない。そんな大切なことだったら文書に書いてあるはず。 きちんと目を通したけどそんな記述なかったもん
 思い至った推測に希望を巡らしたが、それが文書に一切書かれていなかった事なので判断を鈍らた。 しかし麻痺の早さが尋常ではないことと《防御壁》を敷いた後も酷くなっていく身体中の不具合が、 デュシアンをその推測に駆りたてる。
――もしかしたら、ここへ視察に来る人間へ『自分で気づけ』っていう試練なのかな?
 そう考えると、それが正しいことのように感じてきた。確証はないが、やらないよりはましだった。可能性にかけるしかない。 いくら《瘴気》が有毒であったとしても、こんなに早くに麻痺が起きるものではない。有り得ないのだ。
 デュシアンは先ほどまで見つめていたアミュレットを手のひらでぎゅっと強く握り締めた。
――わたしは、父様の子だ。出来ないはずない……
 そう自分に言い聞かせると、瞳を閉じて恐怖も焦りも期待も何もかもの感情を鎮めた。

 わたしは動ける。
 わたしの足は立てる。
 わたしは歩ける。
 わたしの腕は上がる。
 わたしの声は歌を歌える。
 わたしの瞼は何度でも瞬きを出来る。

「あ」
 デュシアンは自分を取り巻く全てが軽くなった気がして目を開いた。
 自分の手の平を見つめ、思いきって立ち上がってみれば、簡単に膝が伸びて自分の体重を支えてくれたのだ。 驚いて声が出たが咳も出ず苦しくなかった。このままソプラノで歌えそうなくらいだ。
「やっぱり、《支配の魔力》がかかっていたんだ」
 デュシアンは自分の読みが当ったことに喜び、笑みを零した。
 移動魔方陣の《支配の魔力》とは比べ物にならないくらい強い魔力だったが、何とか解呪が出来たようだった。 ここに来る前の移動魔方陣の作動の時に一度出来たから自信が付いて振り払いやすくなったのかもしれない。
 身体も心も疲弊はしていたが、苦手な精神を攻撃してくる魔法を克服できたことがとても嬉しくて元気が出、 ついつい不平や文句を口にした。
「意地悪だなぁ。文書に載せてくれればいいのに」
 唇を尖らせて子どものようにむくれてみるも、ラシェの鋭い眼差しを思い出して慌てて表情を引き締めた。
 『それが公爵たる人間のつくる表情か! 子どもでもあるまいに!』などと叱責が飛んできそうだった。
 いるはずもないとわかっているが、いつも気配を消してやってくる彼がいないかきょろきょろと探してしまい、そして安堵した。
「いるわけないよね」
 何だか鋭い視線を感じたような気がしたのだが、どうやら気のせいであることに胸を撫で下ろし、前を見据えた。
 先ほどまでは移動魔方陣の光も辺りにたちこめる霧のせいで拡散してしまい視界は悪かったのだが、 その霧も無くなっていたので、近辺は見渡すことができるようになっていた。
 あの霧が恐らく《支配の魔力》の正体で、解呪したことによって消えたのだろう。あれが選別のために作られたものなのか、 それとも《悪神》の所業なのかはデュシアンには全く見当もつかないが。 ともあれ初めて足を踏み入れた《北の守り》の中が建物であることにデュシアンは若干驚いた。 もちろん建物であることは文書により知っていたが、あの《悪神》を封印した場所が建物の中というのも、 戦いがあった伝承から考えれば不思議なものだった。
「ま、まさか、魔物、とかいないよね?」
 ここは建物の中だが、最果ての地の人気のない建物などに住みつくような魔物がいてもおかしくない雰囲気をかもしだしている。
 誰が管理しているわけでもないのに朽ち果てることのない豪華な彫刻の施された柱や、床、天井を順順に見上げ、 そして前方へと視線を向けた。
 移動魔方陣から溢れ出す蒼い光はごく僅かなので遠くの方は見えない。 光の途切れる視界の先の暗闇に何が潜んでいてもおかしくないのだ。しかも辺りを見回した時に気づいたのだが、 この場所からは壁というものが目につかず、この場所の広さが全く想像がつかないのだ。ここには果てしなく高い天井を支える 大小さまざまな太さの柱しかない。
 さっきまでの元気はどこへやら、一気に逃げ腰体勢になってしまう。 魔物との戦いなどもちろん経験がない。身を護る為に相手を攻撃する初歩的な魔法は父に教え込まれたが、 相手から逃げ切るような体力も、攻撃をかわす為の動体視力も持ち合わせてはいなかった。 もしもこんな場所で魔物と戦うことになったら、相打ち覚悟になってしまうことだろう。
 そう考えると悪寒が背筋を駆け抜けた。
――で、でも、ここって、確か結界の中だから外から何も――あの移動魔方陣以外からは何も入り込めないはずだよね?
 理論的にはそうであるはずだった。だから移動魔方陣をそれはそれは厳重に保存しているのだ。 あの魔方陣からしかこの《北の守り》と一般的に呼ばれる《結界》には近づけないのだから。 だから、この結界の中にいるのは、今ここにいる自分と封印されている《悪神》のみ……。
「悪神」
 人知れず震え出した指先を口元に持っていって、はぁ、と吐息で暖めた。指の震えは寒いからだと自分に思い込ませるために。
 決して臆しているわけではない。決して、この先にいる《悪神》に怯えているわけではない。
 《北の公》がそのようなことぐらいでびくびくするような軟弱者でいいはずがない。
「大丈夫だ。その為の《北の守り》じゃないか。しっかりしろ、デュシアン」
 デュシアンは、ぎゅっと自分のアミュレットを握り締めようとしたその手に力が入らないことで、 臆病さは自分には隠せないことを知った。


(2003.11.28)

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