墓と薔薇

1章 女公爵(5)

 残念ながら、否、当然の如く、早朝から重量感のあるパイが焼かれていることはなかったけれども、蜂蜜がたっぷりと 練りこまれた母手製のパンを口にする事ができたので、デュシアンは朝食の席にて十分満足感を覚えていた。 食後に若執事の淹れた香りの良いお茶を飲み干すことで気持ちを落ち着けると、《北の守り》に行く為に 神殿へと戻る決心を固めた。
 屋敷の者たちに見送られながら外門を出、プラタナスが植樹された並木道を通り、空風に首を竦めながらしばらく 歩いて神殿正門へと辿りついた。暖かい季節ならば色取り取りの花が咲き乱れる花壇を左右にして前庭を抜け、 建物内に入る。鏡の間を通り過ぎればすぐにも三つの道がデュシアンを迎えた。
 右に行けば宮殿に繋がる神殿東部となる。神殿内の一般的な事務処理が行われる場所であり、《北の公》として出席を 義務づけられている《防衛協議会》もこちら側の三階で行われている。
 左の道は神殿西部へと繋がっている。研究棟と神学校のある静かな区画であり、デュシアンの執務室もこの一角に ある。
 真っ直ぐ進めば神殿騎士団と神兵団の詰所や訓練所、養成所といった軍事的な区画と、《法皇庁》が置かれて いる。《法皇庁》は法皇の座すところであり、例え神殿の人間であっても用のない者は通されることのない排他的な場所で あり、厚い警備が敷かれている。
 神殿内部をやっと覚えたばかりのデュシアンであったが、迷うことなく左の道を進ぶ。持ちかえった北の守りに関する 文書を戻す為に、まずは自分の執務室に戻ることにしたのだ。さすがにいくら自宅とはいえ、この文書を誰かの目の届く ところに置いておくことには躊躇いがあるのだ。
――それにしても……
 どうも先ほどから居心地の悪い視線を感じていた。横切る巫女や神官、衛兵などがこちらをちらちらと見ているのだ。 もちろん堂々と見てくるような不躾な者はいないのだが。
――この髪のことだよね
 頬傍で揺れる短くなった髪先にそっと指先を絡める。
 《防衛協議会》での啖呵(たんか)の話がどこから漏れたのか、 すでに神殿中に噂が駆け回っているのだろう。彼ら彼女らの視線の意味を考えれば、気づかざるを得なかった。
 遠慮しながらもそれと分かるように向けられる同年代の巫女たちの視線がとうにも痛かったが、それを気にしている ような素振りを見せれば、せっかく演じた《猛々しい北の公》という印象が無駄になると思えば耐えられるものだった。 どんな噂がたてられようとも、『負けないし気にしない』という印象を人々に与えたいのだ。 この逃げ出したい状況を無視して、歩くしかなかった。
 『不義(・・)の子のくせに堂々と爵位を継ぐとは何様か』 といった口さがない言葉も聞こえたが、取り合うつもりはなかった。その言葉に傷つき言い返してみた過去もあったが、 それではただ自分の悪評が広まるだけで、何の解決にもならない事をデュシアンはよく知っていた。無視するのが 一番良いのだと分かってはいたけれども、心が漣立つのは揺るぎ無い事実であった。
 視線や中傷への動揺を見せないよう、わざわざゆったりと歩いて研究棟に入り、やっと巫女や神官たちの姿が減って、 ほっと息を吐いて緊張を解いた。
 デュシアンの執務室は、いくつか棟のある研究棟地区のうち一番古い建物の四階にある。腹ごなしの運動だと自分に 言い聞かせて螺旋階段を昇り、やっとの思いで執務室のある階へ到達した。ここに来るたびに息切れがし、運動不足を 痛感する。
 鍵を取り出して扉の取っ手に手を伸ばした時、先ほど掛けた痺れをきたす障害魔法に自分で引っ掛かりそうになった。 慌てて解呪し、胸を撫で下ろす。苦笑いをしながら頬を掻き、入室した。
 室内東側の本棚の一番下の段から一冊の本を取り出し、その奥に《北の守り》の文書が入った封筒をしまい込んで 蓋をするように本を戻す。大したことではないが、一仕事終えた感に溜息を吐き出し、すぐにも唇を引き結んだ。
 取り合えずお腹もいっぱいになったし、頭の中には必要な知識が入っているはず。腹をくくる。
―――よし。《北の守り》に行こう。
 先ほどと同じように外扉の取っ手に痺れの魔法を施して歩き始めた。
 確か《北の守り》への道が繋がっているのは、この執務室がある棟の並びの特別研究棟の一階だったはず。場所を 思い起こして螺旋階段を降りて行った。



 その部屋の扉の前では神殿騎士であることを示す純白の制服を着た二人の騎士と、漆黒の軍服を着た騎士らしき青年の 三人が何やら楽しげに会話をしていた。
 しかしデュシアンが近づくのに気づいた白い騎士の一人が、『何か?』と眉をひそめて警戒するように 遠目でこちらを威嚇するように声を掛けてきた。漆黒の軍服の騎士も、もう一人の白い騎士も振り向いて こちらを吟味するように視線を向けてくる。
 デュシアンは彼等の前まで行くと、自分の上着の腰に下げているものを取って彼らに提示した。それは ラヴィン家の家紋である獅子の紋様が刻まれた、皮で出来た身分証明書だ。
 白い騎士たちは身分証とデュシアンとを交互に見つめたのち、新しいラヴィン公だということを認めてくれたらしく、 敬礼をすると扉を開けてくれた。
 礼を述べ、デュシアンは中に入った。
「え……」
 入室早々、デュシアンは目を丸くして足を止めた。不思議なことに、室内は狭いバルコニーのようになって、階段が 下に向かって伸びているのだ。
 そこを下りていけば、広がるのは土の床。壁も天井もある建物内部であるのに舗装された床はなく、半地下のその場所は 完全な地面だった。その不思議な構造に首を傾げ、薄青い光に包まれる室内をゆっくりと見まわした。
 吹き抜けの天井は高く広々とした部屋には、家具どころか窓一つない。その代わり、床たる地面には光を放つ三つの 不可思議な円形模様――魔方陣――が描かれて保存されており、それが模様に沿って蒼い光を発して、 明かりのないこの部屋を照らしていた。
 見たことの無いその魔法陣の文様は、《召喚魔法》用のものではない事だけはデュシアンにも 理解できた。もとより召喚しにここにきたわけではない。
「どうしよう」
「ラヴィン公」
 途方に暮れて呟いた言葉に重なって、上部のバルコニーから声が降り注いだ。驚いてつい悲鳴を上げそうになるが、それに 耐えて、デュシアンは息を整えると静かに振り仰いだ。
 やや不思議そうな表情を浮かべる青年が階段を下りて来る。先程、扉の向こうにいた三人の内の 一人で、黒い軍服が金髪に映える見目の良い美青年だった。
「どなたかにお声かけなさってますか?」
「え?」
「就任されて初めての《北の守り》の視察ですよね? 作動経験がある方に指導を受けられたほうが宜しいかと存じますが」
「……あ」
 そういえばそんな事が書いてあったかもしれない。
「しまったな……」
 《北の守り》を見に行かなくては、という義務感ばかり先走って、大切なことを忘れていたらしい。 己の愚かさに呆れて、デュシアンは小さく息を吐いた。
 この土の床に保存されている魔方陣は《北の守り》へ通じている移動の為の魔方陣であり、勢いで来てしまってもどう することも出来ない。  そもそも移動魔方陣は古代魔法の一種であり、他では見ることのない太古の遺物である。魔法都市国家のララドにならば 文献が残っていると言われているが解明はされておらず、実際に稼動するのはこの部屋に保存される三つのみ。《北の守り》に 繋がっているものと、その一枚外(・・・) の《第二の守り》に繋がるもの、《北の守り》全体を見回せる場所に繋がっている ものだけなのだ。見るのも初めてならば、作動経験があるはずもない。
「もし、作動経験がある方にあてがないようでしたら、ダグラス将軍に頼まれてはどうでしょうか?」
 穏やかな笑みを浮かべる青年を見上げた。神殿に知り合いはいないデュシアンにとって、それは有りがたい助言だった。
「ダグラス将軍は《北の守り》の視察をよくなさいますし、もし手が空いていらっしゃらなくても 代わりの方を紹介して下さいますよ。とても親切な方ですから」
 柔らかい表情そのままな人柄に好感を覚え、デュシアンは苦笑して『親切なのは貴方の方です』と心の中で呟いた。
「ご助言感謝致します。きちんと資料を読んだつもりでしたが、ちょっと体当たりすぎました」
 自分の適当さを恥じ、青年に丁寧に礼を述べた。
 青年は優しい笑みで『いいえ』と首を振った。見目の良い青年の笑みは内面も相まってとても魅力的で、つい 見惚れてしまう。
「では、《魔法宮》に行ってみます」
 ダグラス・ルーズフェルト将軍がいるのは《神殿》に併設する《宮殿》内の施設、魔道師たちの属する《魔法宮》である。
「あの、《魔法宮》は、宮殿の一階から繋がっていましたよね?」
 厚かましいかと思いながらも親切ついでに訊ねてみる。それさえ分かれば宮殿の一階で魔法宮への道を 誰かに聞けば良いと思ったからだ。デュシアンは神殿以上に宮殿は詳しくない。
「宜しければご案内致します。私もダグラス将軍に用事がありますので」
 何の躊躇いも無い親切極まりない申し出に、デュシアンは唖然としてしまった。
 普通ならば『何と物を知らない公爵だ』と笑われても仕方ないことを訊ねたのだが、彼は驚くことも呆れることも なく、ただ優しい笑みを浮かべただけだった。そこに曇りは見られない。
 出来た人だ――デュシアンは関心した。物知らずな公爵を受け入れる、随分と器の大きい人なのかもしれ ないし、呆れていてもその感情を隠せるだけの節度を持ち合わせているのかもしれないが。 デュシアンは心の中で彼に賛美の言葉を送った。
「《魔法宮》は慣れないと簡単には目当てのところには辿り着けないのですよ。私はどれだけ迷ったことか……」
 デュシアンが自分の常識知らずを恥じていることに気づいたのか、彼は苦笑しながら自分の失敗を告げた。
 繊細で機転の利く心遣いをみせてくれた青年は、見た目こそどこぞの貴公子と思えるほど整った甘い容姿であるのに、昔 自分に擦り寄ってきた本物の貴公子たちとは全く性質が違っていた。そのことに何だかほっと安心した。

 彼は歩きながら、宮殿内の事と《魔法宮》のことについて丁寧に教えてくれた。その説明は必要最低限であるのに 分かり易く、かといってこちらの無知を嘲笑う態度は端にも見られない。屋敷の若執事と似通った性質から、常日頃から位の 高い人物へ気配りを必要とする仕事をする人なのかもしれないと想像しながら横を歩く彼を見上げてみるが、 文官や秘書官などには見えない。それに神殿でも帯剣を許されている。
――やっぱり、騎士だよね
 背は高くて肩幅も広く、優雅な身のこなしをしてはいても胸板も厚くて鍛え抜かれた体躯は服の上からでも分かる。しかし 彼の着用する黒い軍服は神殿では見たことがなかったので、彼がどこの所属の騎士であるのかはわからなかった。


 《魔法宮》に乱雑に立ち並ぶ研究棟の一つ、蔦のたくさん覆った長細い《塔》の横に建つ真新しい棟の三階にある部屋が、 お目当てのダグラス・ルーズフェルト老将軍の研究室であった。青年がいなければ絶対に辿り着くことはできなかっただろうと、 デュシアンは来た道を振り返り思う。
「失礼致します」
 押し扉となっているその部屋に先に入ったのは青年の方だった。本来ならば女性であるデュシアンを先に通すのが紳士の 務めなのかもしれないが、初めて訪れる他人の部屋にデュシアンを先に通す事を躊躇ったのか、青年は先に入って デュシアンの為に扉を開けたままにしてくれていた。最後まで気を抜かない人だと感心する。
 広い室内の中央には大きな机が一つ置かれてあり、その上には資料と本が山積みになっていた。壁には一際大きな本棚が 置いてあり、分厚い本がぎゅうぎゅうと押し込められるように収められている。
 思ったほど魔道師らしいへんてこな機材のない室内に安堵しながら、無礼のないようにそれ以上視線を動かさず、窓辺で 一人の娘と話していたダグラス将軍に会釈した。
「失礼します、ダグラス将軍」
「これはラヴィン公。それにグリフィスか」
 ダグラス将軍はふさふさの眉を少しあげて、デュシアンとグリフィスと呼んだ青年とを見比べた。 共通点のなさそうな二人が一緒にいるのが不思議なのだろう。
「ラヴィン公?」
 大きな机の上の本を指差して口論していた青年二人も訝しげに声をあげて、こちらを振り向いた。一人はとても優しげな 風貌の青年。もう一人はとても冷めた瞳が印象的な黒髪の青年だった。どこか探るような二人の視線に怯んでしまいそうに なるも、外面だけは堂々とありたいという信念から、動揺を悟られないように二人の視線を受け止めて軽く流した。
「ああ、もしや《北の守り》の魔方陣のことですかな?」
 ダグラス将軍は眼鏡を外すと穏和な笑みを浮かべた。銀の短い顎鬚をしわしわな指先が撫でる。
 人の良さそうな好々爺に思えても、その察しの良さは流石と言わざるを得ない。こちらの演技が見破られるのも、 そう遠くはないのではないかと感じながらも、あくまで平静を保った。
「宜しければ手ほどきをお願いできますでしょうか」
 魔法宮を代表する名誉職に就くダグラス将軍が、頼んですぐにも動けるほど暇を持て余すような 身ではない事ぐらいはわきまえていた。
「今すぐでなくても宜しいのですか?」
 ここまで連れてきてくれた青年グリフィスが若干驚いたようにデュシアンを心配げに見下ろしてきたので、そんなに焦っているように 見えたのだろうかと頬が熱くなる。
「そんなに厚かましいお願いはできません」
「ですが、一応お尋ねした方が良いのではありませんか?」
 小さな声でのやり取りであったが、ダグラス将軍にも聞こえたのだろう。目を少し丸くさせて銀の顎鬚を 撫でながらこちらを眺めているようだった。余計に頬が熱くなる。
「ちょっと、その子困ってるじゃないの」
 その苛立ったような声は、窓辺で老将軍と今まで話していた娘のものだった。彼女は一歩前に出るとデュシアンの横に 立つグリフィスを睨みつけた。
 急に話に加わってきた彼女へと視線を向け、デュシアンは度肝を抜かれてしまった。
 自分と同じ緩やかな巻き髪の金髪。同じ緑の瞳。それなのに、こんなにも違うなど。それは衝撃だった。
 肩を滑るプラチナブロンドのたっぷりとした巻き髪は彼女の雰囲気そのままに豪華で、濃い睫毛に縁取られた緑の目は 高ぶった感情に輝いている。不満げに曲げられたふっくらとした桜色の唇は艶々として魅力的で、白磁のような肌に薄紅色の 花が咲いたような頬は触れてみたくなるような気にさせる。とてつもない美女なのだ。しかも豊満な胸を強調するかの ように大きく胸元の開いた上着に短いスカートという、ともすると下品になって しまいそうな服装であっても、彼女にはその恰好すら品を残したまま着ることを許される何かがあった。
 しかしすぐにもあることに気づき、デュシアンは賛美の思いからはっと我に返った。彼女の帽子だ。
 つばの広い、黒の三角帽子。そして首と腕に音が鳴りそうな程たくさんの《 護符(アミュレット)》。
――この人、《禁呪(きんじゅ)の魔女》だ!!
 背筋に冷や汗が流れた。後ずさりしそうになったが、《禁呪の魔女》がダグラス将軍の弟子であることを思い出して 危うく踏みとどまった。
 《北の公》として、何事にも臆してはならない。臆している事を悟られてはいけない。そうであろうとしても、恐ろしさ が心の中に激しい警鐘を奏でて動揺を生み出した。耳元で心音がうるさく聞こえる。あまりの早い鼓動に息苦しさまで 感じてしまう。平静を装おう為にも、とにかく視線を彼女から外して自分の心臓が落ちつくのを待った。
 噂など聞く機会が殆どなかったが、《禁呪の魔女》の話だけはどこでもよく話されていたので、記憶に残っていた。 神官家の娘であるが《禁呪》を宿して生まれてきてしまい、その《禁呪》の毒牙は彼女の実父と実母を巻き込み、命を 奪ったと噂されている。《禁忌の子》、《忌み子》、《災厄の娘》、《死神》など、様々な言葉で形容される。
――でも、本当に綺麗なひと
 ちらりと視線をあげて、もう一度彼女を見つめた。
 自分より少し年上だろうか。《禁呪の魔女》でなければどれだけの男たちを魅了したか分からないほどの美しさだ。美神 も裸足で逃げ出すだろう。
 けれども神殿では禁忌とされている《禁呪》を身体に宿しているということからその存在は多くの人々から忌み 嫌われていた。古代魔法の中でも《禁呪》に認定される魔法は、研究すること事態を禁止されており、もし携われば神殿 より異端の烙印を押され、命すら取られる事もあるという。彼女はその《禁呪》を纏っている上に、《闇》の魔法の 研究し使用するという二重の禁忌を犯しているというのだが。
――それにしても……仲が良いのかな?
 デュシアンが自分の思考の波に飲まれている最中も、二人の口論は続いていた。いや、口論と いうものは互いに意見を述べ合って言い争う事を指す言葉だとしたら、この二人の場合は口論とは 言わないだろう。あまりに一方的なのだから。
「だいたいねぇ、今は研究中で、扉に札が掲げてあったでしょ?」
「急ぎの用でしたし――」
「貴方はいつもそうよね、人の都合なんておかまいなし! 来るなって言ってもわたしの研究室に来るし、 人通りの多い廊下で声を掛けてくるし!」
 だんだんと関係ない文句が混ざってきているのに、グリフィスは全く意にかえさず微笑んでいる。寧ろその深い笑みは 眩しいぐらいだ。
「今日も長いなぁ」
 そんな呟きは室内中央から零れた。優しげな風貌の青年はため息を吐いて突っ伏しながら隣りの冷静な青年を窺い、 またもや軽いため息を吐いていた。隣りの黒髪の青年は、娘の高い声が勘に触るのか、冷静というより は神経質に近いような表情で、組んだ腕の上を指で小刻みに叩きながら苛付きを体現していた。
 そしてとうとう耐えられなくなったのか、神経質そうな黒髪の青年が怒鳴りつけた。
「リディス! お前の甲高い声で頭が割れそうだ! 痴話喧嘩は 他所(よそ)でやれ!!」
「痴話喧嘩じゃないわよ!!」
 彼女は今まで一番の大音量で返答した。
 傍のダグラス将軍は耳を塞ぐのが間に合わなかったのか、彼女の叫び声に対して軽く身を仰け反らせていた。しかし 相変わらず、彼女に文句をつけられていたグリフィスはにこにこ微笑んだままだった。
 そんな一見どこにでもあるような《普通》のやりとりをしている《禁呪の魔女》たちを見て、デュシアンは不思議な 気分となった。あまりに彼女が普通の娘らしい反応をみせるからだ。それにグリフィスの方は《痴話喧嘩》などと称されて 満更でもないように見える。
 室内にる彼らは誰も彼女を《禁呪の魔女》として恐れていなかった。自分だけが偏見の目を持って彼女を恐れている ようで、居た堪れないような恥ずかしさを覚える。
「リディス、少し黙っててくれんかの?」
 ダグラス将軍は首を振りながら自分の弟子を(なだ) め、デュシアンを振り返って苦笑した。
「すみませぬな、公。先ほどのお話ですが、すぐにも《北の守り》の視察に行かれるおつもり、で宜しかったでしょうか」
 師に怒られて、見るからに気落ちしてしまったリディスという名の《禁呪の魔女》を視界の端に 入れながら、デュシアンはダグラス将軍を見上げた。
「あの、出来れば早めに見ておきたいです。将軍のお時間のある時に――」
「もし公が宜しければ、今すぐでも私は構いませんよ」
「え?」
「《北の守り》の視察は最優先とされるべき事柄と存じてます。この老骨でよろしければ 《移動魔方陣》の手ほどき、すぐにも致しましょう」
「あ、あの、研究中では――」
「最後にアデル公が入室されてから大分経っております。早めに貴女に 観て頂きたいと思うのは私の勝手ではないのですよ」
 ダグラス将軍の優しく諭すような言葉にデュシアンは自分の至らなさを恥じた。
「そうですね。《北の守り》は三ヶ月近くも放っておかれたまま。申し訳ない限りです」
「いやいや。ご事情はお察し致します」
 同情するように言われてしまい、デュシアンは否定するように小さく首を振った。そんな謂われはないのだ、と。 本来ならば、すぐにも爵位を継いで議会に顔見せを済ませるべきだったのに、それができなかったのだ。
 嫡男であるレセンは爵位を継げない未成年であり、継母は魔法を扱うことができない人だった。ラヴィン 家を継ぐに最も相応しい《血》を持つ人間は自分であるのに、それに気づくこともなくひとり殻に閉じこもって泣いて ばかりいたのだ。そんな中で自分が置かれている状況を気づかせてくれたのが、ラヴィン家当主の座を前々から虎視眈々と 狙っていた分家の者だというのだから可笑しな話だった。
 小父のダランベール伯爵がもたらした、己の息子と異母姉との縁談という名の策謀がレセンの激しい怒りを呼び、屋敷を 凍りつかせんばかりの魔法騒ぎとなったので、放心状態から抜け出すことができたのだ。
 このままではラヴィン家が小父により乗っ取られてしまうという危惧にやっと気づき、自分が爵位を継げば小父の野望も 回避できるとのことで《公爵》となる決意をしたのだ。しかしその決意までに半月以上も掛かってしまったのだが。
 もちろん継母と異母弟は《公爵》となることに対して、絶対反対だと激しく抵抗をした。貴族世界の社交が苦手でずっと逃げていた こちらを心配してのものだった。『嫌な思いをさせてまでラヴィン家の直系としての面子を守る必要なんてない』 『爵位なんてくれてしまえばいい』と二人は何度も説得してくれたのだけれども、万が一自分が公爵とならず、分家の誰かが 爵位を継げば、この邸宅に継母や異母弟は住めなくなるかもしれないし、今までのような生活ができなくなるかもしれなかった。 何も保障がない今、《公爵》となれる自分が二人を守ることを決めたのだ。
 自分を本当の子どものように愛し受け入れてくれた継母と、同じく自分を受け入れてくれた愛しい弟レセンのために。 二人が今までと同じ生活を続けられるように。そして、自分を探し出してくれた最愛の父が守ってきたラヴィン家のために。
 三人に出来る最大の恩返しだと、喜んでこの茨の道を選んだのだった。
「それでは、行きましょうか」
 穏やかな声で促され、思考から抜け出して顔をあげた。深い理解を示す薄茶の瞳に癒されるように、 デュシアンは小さく頷く。
「将軍。のちほど正式な報告書を持って参ります。それと本日の報告は後日にでも……」
 グリフィスがそう告げれば、ダグラス将軍は少し考えこむような仕草をしてから《禁呪の魔女》を 指名した。
「今日の事は後で聞くにして、報告書はリディス、お前があちらへ行って取っておいで」
「ええ?!」
 驚きに見開かれた新緑の眼はすぐにも細められ、頬は不満げに膨らんだ。
 表情の豊かなひとだとデュシアンは思った。神殿の人間は彼女を視界の端に入れることすら疎んでいるが、何ら普通の娘 と変わらない可愛らしい人なのだ。しかし《禁呪》という響きは身震いを引き起こすほど恐ろしいものだった。
「グリフィス、必ず連れて行っておくれ。たまには あちら(・・・)にリディスをやらんと、焼もちを焼く奴が おるからのう」
「そうですね」
 グリフィスは苦笑しながらも、思い当たる節があるのか頷いていた。
「では、行きましょうぞ」
 もう一度促されて、デュシアンは隣りに立つ長身のグリフィスを見上げて礼を告げた。
「助かりました。グリフィス殿」
「いえ。ラヴィン公に力添えできて光栄です」
 彼は人好きのする笑みで敬礼をくれた。最後まで気持ちの良い人であった。


(2003.11.21 ひぐち緋菜 )
(改稿:2009.1.5)

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