墓と薔薇

1章 女公爵(4)

「本棚、ほんだな、ほん、だなー」
 デュシアン・ラヴィンの間の抜けた声が神殿の一室で響いていた。
 昨日レセンから受け取った『本棚を調べろ』というラシェの伝言の通り、神殿にある前ラヴィン 公の執務室(今はデュシアンの執務室である)に来て、その言葉を実行しようとしていたのだ。
 父が使わなくなって二ヶ月、誰も使っていなかった執務室だが埃一つないのは、気を 利かせて掃除をしてくれた神殿に仕える巫女さんたちのお陰である。
 ごたごたがありながらも小父たちを諌めて家督を継ぐことを決めた日に、この部屋に初めて 入ることを許されたのだが、その時は資料を読むほうを優先してしまったのだ。
 掃除は次に来た時にすればいい、と思っていた。
 しかしその日の帰る時に、『お掃除しておきましょうか?』という天からの助けのような親切 な巫女さんたちの言葉を聞き、この部屋の鍵を渡して掃除してもらったのだ。

「それにしても本が多いなぁ」
 デュシアンは自分より背の高い本棚を見上げていた。横幅も両手を広げた幅より長い。そんな 大きな本棚が三つもあるのだ。
 その本たちの背表紙に書かれた題名をぼうっと眺めて見た。デュシアンはこの部屋の机の 引き出しに収められていた資料等は目を通してあるがここの本たちにはまだ手を付けていなかった。 とてもではないが彼女の知識不足の頭で読むような本ではないことが題名から分かる。
 【北の公】はただ『北の守り』のみだけの知識だけではいけないのだ。国のあらゆる軍事の 機微について知らなくてはならないし、また意見も述べなくてはならない。今までただの公女 として生きてきたデュシアンは、父から【魔力】の原理や魔法の使い方などは習ってきたが、 兵法や国の騎士団や兵団、魔道師のことや神官兵団のことなんて何一つ知らなかった少女だった。
 この2ヶ月である程度の知識をラシェから分けてもらってはいたが、彼自身も来月に迫った 【法皇御前試合】のためにこれ以上の補佐は望めない。
 だれか詳しい人に話を聞かないとな、とデュシアンはため息を吐いた。
 しかし詳しい人なんて全くあてがない。
 宮殿はもとより神殿にすら知り合いらしい知り合いなんて親族以外いないのだ。 けどその頼みの親族は父の姉夫妻の子のラシェぐらい。 ラシェの父、シーダス卿はデュシアンにとっても頼りになる伯父なのだが、妻であるアデルの 実姉アドラ夫人を伴って他国に大使として駐在しているため、首都には滅多に帰ってこないのだ。
 アデルの兄弟はラシェの母君だけなので、あとの親族といったらアデルの従兄弟にあたる 遠縁の小父たちぐらいだ。しかし小父たちはデュシアンが家督を継ぐことに大変憤慨しており、 力を貸してくれるような人たちではない。
 あの気分の悪い人たちの気分の悪い言葉まで思い出してしまい、デュシアンは気分が滅入って きたので、思考を止めた。
「とにかく、今はこれ」
 取り合えず片っ端から本をどけはじめてみた。
 かなりの重労働になることが予想される。
 少し寒いのだが、腕の上がり具合の悪い膝丈まである上着をやむを得ず脱いで来客用のソファに 放り投げた。そしてインナーに着ていた白いブラウスの首元にはスカーフが付いており、 カメオで留めてあるのだがそれを少し弛めた。
 そんな彼女はとても嬉々とした瞳をしていた。
「きっと、この奥に秘密の部屋があるはず……」
 物語でよく聞く、本棚を動かしてその奥にある秘密の部屋を探すため、彼女は本を徹底的に 退けていたのだ。
 薄い本もあるのだが、大抵はとても分厚くて大きな本なので、細腕のデュシアンにはかなりの 重労働だった。しかし彼女の期待に満ちた表情はずっと変わらなかった。

 全部退け終わって、床が本まみれになった時、デュシアンはやっと首を傾げた。
「あれ? 何にもないよ?」
 デュシアンは本を取り除いた三つある本棚の一段一段をくまなく探したが、お目当てのものは 見つからなかった。引っ張るような組み紐もなければ押すようなボタンもないのだ。
 もしかしたら自分で動かすのかな、と思ってデュシアンは棚に手を掛けてみたが棚はとても 重くて彼女一人で動かすのはなかなか至難の技であった。
「ええ? ラシェは何が言いたかったんだろう?」
 徹底的に冷めているラシェを思い浮かべてみる。
 鳶色頭の従兄。彼は冗談を言うような人物ではない。 人を繰ったところはあるが、決して嘘のような類を言う人物ではないのだ。

「やると思った」

 その声にデュシアンは「ひゃあああ!!」と大声を上げた。
 振り向くとドアに背をもたれさせてこちらを呆れた面持ちで見ている【冷酷なる魔道師】兼 、学者のラシェが立っていた。
「ら、ラシェ!! お願いだから、何か物音させてよ!」
「図書室の司書をしていた時に身につけた癖が抜けなくてな」
 彼は散乱している床の本を見て眉を寄せながら言う。元司書の彼は本の扱いにとても煩いのだ。
「それにしても、何と愚かなことを……」
「だ、だって、ラシェがここの本棚よく調べろって!」
「誰が本を全て取り除けと言った? ん? それとも何か、お前は秘密の部屋でもあると思って組み 紐でも探していたのか?」
 図星にデュシアンは真っ赤になった。
 ラシェはそれを鼻で笑い飛ばす。
「馬鹿な奴め。そんな仕掛けを神殿からあてがわれた部屋に作れるわけないだろう」
 しかしラシェは部屋に入ってきて最初に『やると思った』と言った。やると分かっていたくせに 最小限の伝言しかわざと残さなかった。つまり、素直すぎる彼の従妹はまんまと彼の策略に のせられたのである。
 もちろん彼女は彼の意図に全く気づいておらず、それすらも彼の策通りだったのだが。
 ラシェは笑いが漏れそうになる口元を押さえながら、気づいた点を指摘する為に喉の調子を整えた。
「それから、お前。感情をすぐに顔に現す癖は直せ。会議で信頼を得られんぞ」
 ラシェのいつもと同じ、きつい言葉にデュシアンは悔しくて頬を膨らませるが、すぐにも 咎めるようなラシェの表情に気づいて慌てて大きく息を吐いて自分の癇癪を落ち着かせた。
「わかってるよ」
 悔しげに自分の手で頭を撫でる仕草をするデュシアンに、ラシェはまだ厳しい表情を 向けたまま続けた。
「ただの女でいいのなら感情は豊かな方がいい。だがお前はただの女ではなく公爵として 生きる道を選んだのだ。公爵であろうとするならそれらしく振舞えるように普段から気を つけることだ」
「はい。御教授ありがとう、ラシェ」
 デュシアンは厳しいラシェの言葉は自分にとってとても大切なことであることをよく分かって いるので素直に頷いて無理やり微笑んだ。
 昨日の議会での啖呵のお陰で黙っていれば凛々しい女公爵にもなれるかもしれないが、 議会は残念ながら駆け引きの激しいことろ。
 表情を偽って大人な会話をしなければならない。
 それを分かっているラシェに、公爵位を継ぐと決めた時約束させられたのだ。

 剥がれないメッキを普段から作るよう心がけろ。
 美しい笑みで人を魅了できるのは最初のうちだけだ。
 後は慣れる。
 議会ではそれが通用するはずもない。
 そしてそれを必要としない。
 それが出来ないのなら【北の公】を継ぐのは止めろ。
 ラヴィン家の汚点になる。

 こう言いきられた。

 デュシアンは自分の父が偉大であったことをよく知っていたし、とても尊敬し敬愛していた。
 その父の名を汚すようなことはしたくない、デュシアンはラシェとの約束を思い出し、顔が 強張った。
 ラシェは黙って彼女の思考が落ち着くのを見ていたが、彼女の表情が強張るのを見て 視線を本に落とした。
「封筒はなかったか? 大事な書類の入った封筒が本棚の奥にあったはずだ」
「封筒?」
 デュシアンは思考を解いてラシェを見上げた。
 学者と言えど鍛錬にはことかかないラシェは随分と背が高いのでデュシアンから見れば 小山のようである。頭一個分背の高い彼を見上げてデュシアンは首を傾げた。
「封筒、封筒……ふうとう……?」
 デュシアンは床に積み重なっている本たちを無造作に掴んでは放り投げて封筒を探しはじめた。
 その本の扱いの荒さにラシェは怒り浸透だが、取り合えず後で一括して怒る事にして封筒を 探す彼女を見下ろしていた。
「うーん……、ん?」
 彼女は一際大きな大辞典を抱えて横に放り、その下に埋まっていた白い封筒を見つけて ラシェを見上げた。
「これ?」
「知らん」
 ラシェはすぐ応えたのでデュシアンの恨めしそうな視線を浴びる。
「何、それ。自分が探せっていったくせに」
 憤慨だと言わんばかりにまた頬を膨らますデュシアンの無意識の表情の変化に、ラシェは 今度は咎めずに肩をすくめた。
「俺はそれをお前に見せるようアデル叔父上に言われただけだ」
「父様から? わたしに?」
「いや、お前、というよりは次の【北の公】にだ」
「……父様はやっぱりわたしではなくて、貴方を北の公にしかったんだね」
 曇ったアッシュグリーンの瞳が揺れた。
 書類を握りつぶしそうになるほど細い指に力が篭もったが、デュシアンはラシェを見上げて、
「でも、わたしは引かない」
と言いきった。
 先ほどの曇った瞳はすぐにも消えた。
 例え不安が増しても、この決意だけは翻さないと彼女の瞳は物語っているのだ。
「たった、三年半だけど。きちんとやり遂げてみせる。貴方にも、誰にも【北の公】の座は渡さない」
 それは敵を睨むような鋭い瞳だった。
「従兄をそれ程敵視して睨むのもどうかと思うがな」
 ラシェはその鋭い視線を真っ向から受けてたった。
「貴方は優秀だから。年齢も相応しいし、貴方が北の公を務めたら十八歳になってもレセンには 【北の公】は回ってこないもの」
 ラシェは応えなかった。
 分家の身だがラシェはとても優秀な青年である。そして二十七歳という世間的にも十分認められる 年齢であるし、またラシェが普通の人間であり、それなりに名声を欲する人間であることは 確かなのだ。
 レセンに【北の公】の位を渡すことを目標にしているデュシアンにはラシェにラヴィン家当主 の座を渡すわけにはいかないのだ。
 例え分家の人間であっても、【北の公】の名を盗られるわけにはいかない。
 議会の人間にとっては、優秀であるなら本家も分家も関係無い。
 ラシェの働きが良ければレセンが成人しようとそのままラシェに【北の公】を続けさせよ、と 命じるかもしれない。三年経てば確かにレセンは十八歳になって成人するがまだまだ頼れるような 年齢ではない。三十歳になるラシェと比べればかなりの見劣りがするはずだ。
 デュシアンには権力欲はなかったが、父の息子たるレセンに家督が渡らないのが許せないのだ。
 だからラシェには【北の公】を譲りたくはなかったのだ。
「そのことは今はいいだろう? とにかく、その中を確認しろ」
 デュシアンから睨まれるのが心地悪いかのようにラシェは詰襟になっている首元を指で押し開けて、 うっとおしいそうに促した。
「うん」
 デュシアンも中身が気になったのか、促されてすぐにも封筒の差込口を開けて中から束に なっている文書を取り出した。
「これ……【北の守り】に関する文書だ」
 デュシアンは青ざめて手から文書を落しそうになる。
 今までこれを探していたのだが執務室の父の机からも家の書斎からも出てこなかった。 多分本の後ろに隠してあったのだろう。そこまでは今まで探さなかった。
「良かった。これがなくて【北の守り】に行かなくちゃいけないのかと思って……」
 ほっと胸を撫で下ろして文書を抱きしめた。
「ありがと、ラシェ」
 デュシアンは穏やかな微笑を見せたので、ラシェは不服そうに腕を組んで眉根を深めた。
「今敵対したばかりなのに、随分変わり身の早い奴だな」
「だって、ラシェはわたしを貶めたりするような人じゃないってわかってるし。父様が望んだのは 貴方かもしれないけれど、実際いま公爵はわたしが継いでいるんだもの。貴方はわたしから爵位を奪おう なんて思ってないでしょ?」
「ずるいもんだな、お前は」
「ラシェが誠実だって知ってるからだよ」
 無邪気なデュシアンの物言いにラシェは毒気を抜かれたように苦笑した。
「そうか、俺は誠実か」
「違うの?」
「どうだろうな。……まあ、いい。それよりそれを見る前にこの本たちを片付けることだ」
「う……。手伝って」
「ふざけるな」
「……しょうがない、巫女さんたちに手伝ってもらおっかな」
 小さく呟いたのに、ラシェには聞こえていたらしく、彼には珍しく慌てた表情になった。
「ここには部外者を決して入れるな、馬鹿者」
 阿呆、と続ける。
 デュシアンは呆けて「え?」と目を丸くしているのでラシェは頭が痛くなってきた、と 額に手を置く。
「当たり前だろう? ここは機密文書だらけだ。下手に部外者を入れて、文書を持って行かれでも したら大変なことになるぞ」
「え……、どうしよう、ラシェ」
 消え入りそうな声と今にも泣きだしそうな崩れた従妹の顔。
 もう予想はついた。
「誰を入れた?」
 呆れたのように横目で従妹を睨むように見る。
「巫女さんたち……。お掃除してくれたの」
「お前は立ち会ったか?」
 立ち会っていたのならこんな顔はしないだろうな、とラシェは心の中で大きなため息を吐く。
「……無くなったものはないか、と確認したいが、生憎ここには何があったのか俺は知らんし お前もそうだろう?」
「で、でも、わたしこの部屋にあった文書は巫女さんたちに掃除をしてもらう前にざっと目を通して あったから、多分、無くなってたら、分かると思う……」
 語尾にだんだん力が無くなっていくのは自信がないからなのか、それとも情けなさからか。
「……ここに入った巫女の素性を調べても無くなった文書が戻ってくるわけじゃない。諦める しかないな」
「巫女さんたちが盗んだって決めちゃだめだよ。だって、親切でお掃除してくれるって言って くれたんだよ?」
「馬鹿者。良識ある巫女が重要文書だらけの【北の公】の執務室に、主の留守に入室すること を善しとするわけがないだろう」
「……ごめんなさい」
「俺に謝ってどうする? なくなって困るのは現公爵であるお前だ。誰かに許しを請うのでは なく自分の責任なのだから潔く失敗を認めて次は同じ失敗をせぬよう心がけろ。それがお前 には必要なことだ」
 厳しい言葉だった。
 けれど、とても大切な心構えを教えてくれたのだ、デュシアンは表情を引き締めて、公爵の 顔で頷いた。
 それでもまだまだ不安の残った表情であったが。
 ラシェはそれに目を瞑った。



 本棚から出してしまった本を入れ直し、やっと文書を読めると思った時にはもう夜中に 近くなっていた。
 ラシェは仕事が残っていると言って手伝ってくれなかったので一人泣きそうになりながら 片していたのだ。
 ちなみにラシェは手伝ってはくれないくせに、本の並べ方についてはとても詳しく 丁寧に指導していき、デュシアンの片付ける能率を大変悪くさせる要因を作ってくれた。
 無くなった文書の検出は後回しにして、デュシアンはどうしても見たかった文書を手に 取ってソファに寝そべった。二人がけのソファなので足が投げ出されるかたちで、 とても行儀が悪い。頭を肘掛の部分に置いたクッションに載せて、封筒から文書を取り出した。

【北の守りについて】

 そう題されている文書をめくると、成分表がいきなり表示されていた。 それを見る限りではかなり有毒な気体である。
「これが【瘴気】か……」
 デュシアンはその気体の成分を見ながら身体を起こしてやっぱり文机の方に行って 木製の椅子にきちんと座ると、机の上の何かの書類の裏に羽ペンで計算式を書き出した。
 何かを割り出しているようだ。
「……三日。わたしの【魔力】だと瘴気に耐えられるのは三日」
 次を捲ると【瘴気】について詳細な見解が書かれている。
「……有毒だけど、身体には蓄積されない、一過性のものなんだ」
 興味深い書類の数々にデュシアンは心が震えた。
 【瘴気】に関する詳細なデータは門外不出である。
 神殿は【北の守り】について、人々が不安を持たないようになるべく詳細を知らせたく ないのだ。だからデュシアンもこれ程までに解明されている とは思いもよらなかった。
「……伝承、じゃないんだよね」
 自分の読んでいる内容の現実に、デュシアンは不安を覚えた。
 今までただの一国民として生きてきた時は【北の守り】のことなんてほとんど意識した ことはなかったし、きっとこの国の人間の大多数の者たちは同じことだろう。
 【北の守り】はただの伝承話に過ぎないのだ、普通は。
 けれど、デュシアンがこれから対峙しなくてはならないのは紛れも無い現実であり、事実で、 しかもその伝承話を目の前で確認しなければならないのだ。
――本当にわたしに出来るのだろうか……?
 人間相手にならメッキも作れよう。
 しかし【北の守り】はメッキでどうにもできるものではない。
 やはりラシェに継いでもらった方がよかったのではないか、という考えが急に浮かんできて 慌てて頭を振ってその考えを追い出した。
「違う。【北の公】はわたしだ。確認もしてない内から弱気になるな、デュシアン」
 自分の頬をぴしゃんと叩くと、気合を入れた。
 しかし心がざわつくのは隠せない。
 恐怖が芽生えているのだ。
 それから目を反らすように、デュシアンは文書からも目を反らしてため息を吐いた。
 けれど、ラシェの言葉が頭を過ぎる。

 ラヴィン家の汚点になる。

 それはデュシアンにとってあまり大した言葉ではなかった。
 けれどアデル・ラヴィン公の汚点、と呼ばれることが何よりも嫌だった。
 聖人アデル・ラヴィンの唯一つの汚点、と呼ばれている存在の自分だから……。
 公明正大で、深い教養を持っていた聖人と呼ばれるに相応しい功績を残したアデル・ラヴィン公 の不義の子。
 デュシアンはその不名誉な噂を立てられて、神殿で馴染めなかった。噂は酷いもので、随分と 事実を歪曲されていたものも多かった。
 それが彼女の心を大きく傷つけていたことを父母はよく分かっていたので、無理に 神殿に馴染ませようとしなかったし、普通なら神学校にでも入って【魔法】について勉強する のだが、それも別に強要しなかった。
 その代わり父が手ほどきをしてくれたのだが、そのお陰でで眠っていた自分の【魔力】を 上手に引き出すことにも成功したのだ。
 デュシアンにとっては、他を圧倒する父譲りの【魔力】が何よりも自分に自信を持たせて くれるものだった。
――それを疑ってどうする……
 自分にはこれがある。【魔力】がある。
 だからこそ、【公爵】を継げると踏ん切りがついたのだ。
 自分の能力はメッキではない。

 そう自分を奮いだたせてデュシアンは自分の中の不安を追い出した。
「明日、見に行こう。いつまでも放っておけないし」
 視線を文書戻し、そのまま食い入るように読み耽った。





 気づくと鳥たちの歌声が聞こえ、背にした窓から入る眩しい光にデュシアンは目を覚ました。
「寝ちゃったんだ……」
 最近ずっとこんな感じだった。何かしらの大切な文書を読んで、いつのまにか眠ってしまう。
――身体中痛いなぁ
 硬い木製の椅子に木製の文机。どちらも家のふかふかの寝台とは程遠い硬さだ。
 自分の腕に頭を乗せるようにして文机に突っ伏していたので腕も肩も、そして腰も痛い。 身を起こして椅子から下りると、身体を振りまわすように動かした。
 そしてもう一度昨日の文書を手に取り、柔らかいソファに座り直すと目を通しはじめた。
 そんなにたくさんの事が書いてあるわけではない。半刻もあれば読み返せる。 記憶の残っている限りでは寝る前に全て読んだつもりだが、念の為、ということだ。
――それにしても……
「おなか、へった……」
 睡眠も食事も不規則。
 デュシアンは、ここ二ヶ月間、まともな生活をしていなかったことを思い出す。
「母様の焼いたパイが食べたいなぁ……」
 朝から胃がもたれそうなものが頭に浮かんで食欲を誘う。
 自分の思考が【北の守り】の事から食事のことに移行していることに気づいて、デュシアンは ソファを起きあがって文書を封筒にしまい込んだ。
 ここから自宅まで目と鼻の先。
 朝ご飯を食べてきてからでも許されることだろう、デュシアンはそう自分に言い聞かせて 封筒を持って部屋を出た。もちろん、鍵を掛けるのを忘れずに。
――あ。鍵、変えた方がいいよね……
 昨日のラシェの言葉を思い出して金色の鍵を見つめる。
 もし、もし、巫女さんたちが何か悪用するつもりでここの部屋を掃除します、と申しでて くれたのなら、あの時鍵を渡してしまったことも問題になる。
 あの時何も盗られなくても、これから盗まれる可能性もあるのだ。
 鍵を渡してしまったから同じものを作ることだって出来るのだから……。
 取り合えず今日のところは軽い魔法でも掛けておこうと思い、デュシアンは扉の取っ手に 痺れを起こす簡単な魔法を施した。勝手に触れた相手にきつい痺れを感じさせる障害魔法だ。
――ちょっと荒っぽいけど、これで大丈夫だよね?
 うん。と自分を納得させるように頷いた。
「パイ食べたる!」
 デュシアンは嬉しそうに叫んで伸びをすると早足で帰っていったが、果たしてこんな朝から母がパイを焼いて 待っていてくれているかどうかは謎であった。
 しかし彼女の思考は色んなパイだけで埋め尽くされて、もはや引き返せないところまで きてしまっていた……。


(2003.11.18)

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system