議会終了後、帰路につくデュシアン・ラヴィン女公爵の足は無駄に速かった。
履き慣れないパンタロンは実のところ素早い動きには打ってつけで、貴族の令嬢御用達の裾の長い服ではこうも大股で歩くこと
など難しかっただろう。騎乗するわけでもないのに男性のような格好をすることにはやや抵抗があったけれども、こんな利点も
あるのだ。その機能性についてデュシアンは考え直した。
――うまくいって、良かった……
先ほど自分が行ったことの一部始終を思い返して軽い
眩暈
と興奮に襲われる。すべては皮肉屋で口達者な従兄のおかげだと、彼に感謝した。先ほどの強気な言動は普段の彼を真似てみた
ものだと告げれば従兄は怒るだろうか。そんなことを想像すれば
僅か
に口元が綻ぶも、首元に感じる風と身軽さに唇を引き結んだ。
神殿出口、両面鏡となった廊下に差し掛かり、そっとその足を止めた。無限に映りこむのは少年のような容姿の自分。
姿見に映った頼りない風貌の己を感慨深く観察し、そっと髪に触れる。そのまま梳けば、少し動かしただけで髪は重力に従って
首元に帰っていく。華やかで混じりけのない黄金の巻き髪は、デュシアンにとって唯一自慢できるものであり自負でもあった。
しかしいつも背で揺れていた髪はもうない。
――これだけ短い髪になるの、はじめてかも
首都で暮らすようになったこの五年の間は伸びた髪の端を切り揃えることはあっても、肩より短く切ること
などなかった。長い髪は貴族の令嬢としての
嗜
みであったからだ。
――でも、もう《お嬢様》は終わり
『嫌だ』という理由で貴族の世界に背を向ける我侭はもう許されないのだ。
――引き返せない
長い髪を無造作に切り捨てることで、責務の為ならば形振りかまわない姿勢で望む決意を示し、またその髪を焼いた蒼い炎に
よって《北の公》として問題ない魔力を持ち合わせていることを示した。鍛錬してきた者であれば相手の魔法使用時に、その
魔力の
器――身体に魔力を溜めておく目に見えない精神的な
器官――の大きさを計ることができる。また蒼い炎は光の精霊に力を借りる扱いの難しい魔法でもあり、
ある程度の魔法を訓練していると知らしめるには打ってつけの魔法だった。
出席者から不信がられる事は想定していた。貴族の世界から遠のいていた自分は彼らからすれば得体の知れない娘であることは
容易に想像できる。だからこそ、このように意図的に啖呵を振るったのだ。最低限、決意と魔力だけは身に着けていることを
彼らに認めさせる為に――少々高圧的な言動ではあったが。
――あんなふうに演出したのだから、その印象を持続させる為にも頑張らなくちゃ
少しでも公爵らしくある為に。あとは己の覚悟のみだと、その唇を軽く噛んだ。
――これからは守る側に立つんだ
全ては愛する父と継母、そして異母弟のため。彼らの生活を守り、異母弟に家督を譲る為にはなんとしても爵位を
維持しなければいけない。
デュシアンは強い思いを胸に、鏡から目を離して出口へと視線を戻した。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
そして先ほどとは違い、穏やかな歩調で進みだした。
冬芝の寂しい前庭を抜けて正門を出れば、左右に名門貴族の屋敷が立ち並ぶ石畳の道が伸びる。歩道沿いに植えられた木々は
風に揺れては枯葉を落とし、緑で豪華さを偽っていた細く寒々しい枝ぶりを露出
させていた。その物悲しい姿が秋の終わりを、そして冬の到来を感じさせる。
一歩進む毎に耳に障る枯葉の崩れる音を疎ましいと思ったことなどデュシアンにとっては初めての事だった。季節の移ろいを
楽しむことができなかったのは、首都にきて久しぶりかもしれないと
徐に俯く。
「きゃあああ!」
突如、枯葉を踏みつけた音とは比べ物にならないくらいの、闇でも
劈きそうな悲鳴が前方から響き、デュシアンは弾かれたように
顔を上げた。傍を通った馬車の音よりも大きく、数少ない往来の者たちも驚き振り返っている。
数軒先の屋敷の門前に、ハンカチを手に握り締めた淑女が立っていた。絶叫は彼女のものだった。それを確認した直後に
デュシアンは青ざめ、転げるように慌てて駆け寄った。
「どうして! どうしてなの!」
近寄ってきたデュシアンの首にその淑女は手を回し、顔を近づけて興奮した様子で続けた。
「誰にやられたの! 言いなさい、デュシアン! わたくしがその者を成敗してくれます!」
美しい表情を歪ませ、怒りと悲しみに瞳に涙を湛えながら金茶の髪を振り乱し、淑女は天高く
咆哮を上げた。
「
母様、落ち着いてください」
腕の中で暴れる半狂乱の《母》と呼ぶにはあまりに若いその女性の肩を掴むと、落ち着かせるように揺さぶった。
「たしなみが、女性としての、公女としての嗜みの髪の毛が……。あんなに綺麗な髪だったのに、わたくしの楽しみが……」
興奮そのままに泣き崩れながらデュシアンの短くなった髪の毛に手を伸ばし、指先でそっと梳く。
すぐに指が通ってしまうその短さに絶望の表情を浮かべている。
困りきった表情でデュシアンはそんな《母》を見つめながら答えた。
「母様、これは自分でやりました」
その言葉を聞いた途端、何度も何度も確かめるように髪を梳いていたその白く細い指先がぴたりと動きを止める。
「母様?」
そのまま何も言わず動かない《母》を不思議に思いながら、デュシアンは身長差のない彼女をそっと覗き込んだ。
「……今、なんと言いました、デュシアン」
地の底を這いずるような低く抑えた声が《母》から響く。青玉色の
双眸が不穏な光を放つ。
「わたくしの耳がおかしくなっていないのなら、貴女は自分で自分の髪を切った、と言ったように聞こえました。それとも、
わたくしはもう耳が遠くなってしまったのかしら」
「い、いいえ、母様」
《母》の怒りに若干怯えながら、首を横に振り慌てて弁明する。
「母様。髪の毛なんて、すぐに伸びます。だから、そんな心配しなくても――」
もちろん、伸びてきたらまた短く切るつもりなのだが、今それを口にするのは
薪に油を添えるようなものだろう。
「心配します! 貴方は年頃の娘なのですよ! そんな男の子のような短い髪では嫁の貰い手もないでしょう!」
首にしがみ付いたまま一言一言強調するように耳元で叫ぶ。
軽い耳鳴りが襲い、デュシアンは顔を顰めた。しかしすぐにも、興奮冷めやらない《母》を落ち着かせようと試みる。
「あの、母様、わたしは公爵になったので、レセンが成人するまでの三年半ぐらいはお嫁にいくことはできないです」
「婚約ぐらいできるでしょう?! でもそんなでは……ああ、カーラ様」
天を仰ぎながら主神に祈り、嘆きの声を上げる。もはや彼女はこちらの言葉など聴く余裕などないようだった。
――さっきの啖呵が噂になれば、お嫁に欲しいなんて奇特な人間が余計にいなくなるよね
デュシアンは
暢気
に笑みを浮かべ、取り合えず《母》の好きなようにさせることにした。たまにこうして暴走してしまうところが
あるが、しばらくすれば気分を変えてころっと穏やかになる人だと知っているからだ。
しかし、こうした《母》とのやり取りのおかげでだいぶ緊張の糸が解れたとデュシアンは感謝していた。《母》と一緒に
いると胸の
痞えが取れるのだ。その安堵感ににこにこ微笑みながら、
まだ文句と嘆きを繰り返している母を眺めた。
「母上、姉上。いい加減恥ずかしいので中に入ってからにして頂けませんか?」
そう指摘されて初めて、そのよく知る声の主がいたことに気づく。デュシアンは母から視線を逸らし、門に背を預けている
少年を見つけた。その金茶の髪と青玉色の瞳は、一目見れば《母》との血縁関係が窺えるほどそっくりだった。
「レセン、ただいま」
「おかえりなさい。姉上」
こちらを眺めている少年は、十代半ばの年齢にしては大人びた――というよりは、どこか擦れたような態度で盛大に
溜息を吐いた。
「姉上も思いきったことをするんですね」
落ち着き払った態度で肩をすくめ、少年は微苦笑を浮かべた。デュシアンも自分の髪を撫でつけながら少し照れてしまう。
「とにかく、ここは目立ちます。中に入りましょう?」
少年――《弟》の言葉にデュシアンは周りを見回し、やっと自分たちが往来の人々の注目を集めていることに気づいた。
《母》も居た堪れなくなったのか、デュシアンの手を取ると恥ずかしげな様子で屋敷へと引っ張り出す。
「まったく。姉上のこととなると見境ないんだよな……」
呆れたような声が背後から聞こえ、デュシアンも苦笑した。
屋敷に入れば《母》は強引にデュシアンを寝室に連れ込み、鏡台の前に座らせた。背後に立って上機嫌に鼻唄を歌い
ながら
鋏を振るう母を、デュシアンは鏡越しに見つめた。
波打つ髪を緩やかにまとめ、青玉色の瞳を煌かせた《母》を《母》と呼んではいるが、血縁上ではなんら繋がりはない。つまり
は、この背後の若く美しい女性――セオリア夫人は
所謂《継母》
なのだ。年は十と少ししか離れていないのだが、本当の娘のように可愛がって貰っている。また、デュシアン自身もこの継母を
大変慕っていた。
「よし。これでどうかしら?」
鏡越しに見つめてきたその継母は、にこにこと子どものように満足そうな笑みを浮かべていた。最高級の豚の毛を使った
ブラシと鋏を握りながら浮かべるその笑みには達成感が滲んでいる。
生来の巻き髪である為に切りそろえる必要がない程まとまってはいたが、やはり魔法の刃で切りっぱなしのままというのが
継母の気に障ったのだろう。鋏を入れているうちに機嫌も良くなったのか、いつもの穏やかで気長な継母に戻っている。
デュシアンがほっとしたのは言うまでもない。
「器用ですね、母様は」
「うふふ、可愛くなったわ、デュシアン。短い髪も凛々しくてなかなか良いものね」
往来で嘆き悲しんでいた時とは打って変わって、もはや諦めたのかそれともお気に召したのか、継母は頬を緩めて
顔を寄せてきた。そのくすぐったさに、デュシアンはくすくすと笑う。
――これで少しは公爵らしくなったかな。
長い髪に裾の長い服を着て座っていれば、ただの令嬢にしか見えない。形だけでも《公爵》らしくあれればと思い
男性貴族のような礼服の袖に手を通してみたものだが、なかなかに短い髪と均衡が取れている。けれども中身は何も変わる
ことはない。家族を守るのだという固い決意を除けば、泣き虫で弱虫の臆病者の自分のままだ。
洋服を変えただけで《公爵》らしく振舞えるかといえば、それは解かったものではない。
――見た目は変わっても、中身はこれから変わらなくちゃいけないんだ
公爵となったことで拒絶した貴族の世界へ戻ることになる。今までのように『嫌だ』と言って逃げることは出来なくなって
しまったのだ。気持ちを切り替えて、正面から受けて立つ強さを持たなければいけない。しかし果たして自分にそれだけの度量が
あるかといえば、甚だ怪しいものだとついつい眉間に皺を寄せてしまう。
ふと、肩が柔らかな暖かさに包まれる。ほっとする程慣れ親しんだその温もりに、デュシアンは苦笑した。継母が
背後から抱きしめてくれたのだ。
「いいのよ、家では気負わないで」
継母の声色は先ほどまでとは全く違い、落ち着いた低音だった。
「母様」
回るその腕にそっと手を添えれば、鏡越しに視線が重なった継母の表情が曇った。
「ごめんなさい、貴方に辛い決断をさせてしまって――約束したのに……」
「母様。わたしは進んで引き受けたんです。レセンが成人するまでの間、立派に努めてみせます。それが
父様と母様へのわたしの恩返しなのですから」
鏡の中の継母の瞳が潤み、傷ついたように表情を歪めた。少し怒ったように唇を引き結ぶ。
「恩とか、そんなこと言わないで。貴方は私の娘なのですから」
一層強く抱きしめられ、デュシアンは己の失言に気づいて母の腕に添える手にちからを込めた。
「ええ、そうです。わたしはセオリア母様の娘です。だからこそ、母様を守らさせてください」
未だ公爵となったことを納得していないのか悲愴の表情でこちらを見つめる継母に、デュシアンは微笑みかけた。
(2003.11.15)
(2008.5.22 改稿)
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