アデル・ラヴィン公爵が逝去したのは初秋、一ヶ月ほど前のことだった。
雨期の折に崩した体調はいつにない盛夏の暑さに回復を阻まれたのか、その病状は悪化の一歩を
辿り、二ヶ月間の闘病ののちその生涯を閉じた。享年三十九歳――あまりに早過ぎる死を、多くの
国民が悼んだ。
アデル公は生前によく各地を廻り、悩みや苦しみを抱える様々な人々を助け導いてきたこと
から≪地方領民の救世主≫などと呼ばれ、数々の偉業を成し遂げたとして≪聖人≫と称えられて
いた。その為に、彼の死を嘆く声はカーリア大陸全土から届けられたという。
しかし優れた人格者であったアデル公も、一つの問題を残してこの世を去っていった。
後継者の無指名。アデル公は病床に着いてからも後継者を決める事はなかった。その理由は
はっきりしてはいない。
名門貴族として名を連ねるラヴィン家の当主は政務に携るだけでなく、世界の滅びを堰き止めて
いる≪北の守り≫を維持する責務が課せられている。≪北の守り≫は魔法であることから、
ラヴィン公爵には魔法を扱える者が据えられなければならない。ラヴィン家一族は類稀な魔道師を
代々輩出している為に、公爵適任者が一族内に全く存在しないという事態に陥ったことはなかったが、
前任者が不慮の事故で亡くなる以外で後継者を指名しなかったのは異例のことであった。
けれども、アデル公の姉の子息であるラシェ・シーダス卿が爵位を≪三年間だけ≫継承するだろう
と、誰もがこの問題を軽視していた。彼は優秀な言語学者であると同時に非凡な才能を持つ魔道師で
あり、ラヴィン家当主に課せられた仕事を遂行するだけの十二分の力量を持つと認められている
のだ。そして、アデル公子息のレセン公子が成人する三年後に、ラシェ卿が爵位を譲り渡すという
構図を人々は思い描いていた。
そんな構図でもって注目されていることはラヴィン家一族もよく分かっていたはずだろう。
後継者が決まったとラヴィン家から報告があったのは、アデル公が亡くなって一ヶ月近く
経ってからだった。随分と時間をかけての一族の話し合いにやきもきしていた人々は、
新しい公爵の名を聞いて、皆一様にして首を捻った。――それは一体誰の名前なのだ、と。
そして誰かがぽつりと呟いた。
『ああ、外腹の娘だ。セオリア夫人の子どもではない』
公式な場には一度として顔を見せたことがない。非公式の場には五年前に数えるほど。
彼女の印象を覚えている者は殆どいなかった。
アデル公が意図的にその存在を隠したのではないかと誰かがまた呟けば、なぜ隠していたのかと、
さまざまな臆測が飛び交った。身体が悪いのではないか。外に出せないほど醜いのではないか。
桁外れの魔力を持つ化け物で、幽閉の必要があったのではないか。禁呪に冒されているのでは
ないか。外腹の娘をアデル公自身が
疎んでいたのではないか……。
≪彼女≫についての
真しやかな噂が貴族の間では走り回っていた。
そしてその噂話は国の政治中枢の一つとされる≪防衛協議会≫の出席者たちの心をも
蝕んでいた。
議長が現われない為に議会がいつまで経っても始まらないとなると、退屈する彼らは巷で噂の
≪彼女≫について様々な議論を交わしはじめた。他の協議会とは違い、三十ほどの議席の殆どを
貴族が占めている為に、関心事は
専ら他人の醜聞だ。待たされていることへの苛立ちもあってか、
今や、室内は口さがない会話で溢れていた。こういう時は≪神殿側の貴族≫も≪宮殿側の貴族≫も
普段の確執を忘れて手を組んだように会話を盛り上げる。
それを耳に流しながら、セレド=アレクシス・パルヴィス王子は窓の外を眺めるふりを続けて
深い溜息を吐いた。病床の父王に代わって協議会の見届け人となる為にこの場にいる彼は、
円卓に座ることはできない。十七歳の未成年であるが為に発言権はなく、こうして窓辺に
佇むことしか許されていないのだ。
普段ならば、蚊帳の外であるこの窓辺の席につくことが悔しくて堪らないのだが、今回
ばかりはここで良かったとすら思う。くだらない会話を振られる可能性が全くないからだ。
出席者の中には、噂話に全く興味のない人間もいる。各騎士団関係者や大貴族の一部は口を閉ざし
ているが、話を振られれば曖昧にでも答えなければならないその境遇を考えれば、存在すら
忘れられるこの席は今のところ一番素晴らしい特等席であった。それでも耳障りな
会話が嫌でも聞こえるのは、室内の天井が高く反響しやすいからであろうか。セレドは
小さく舌打ちし、隣りに立つ大柄な側近にじろりと睨まれることとなった。
「一体どういうつもりなのか」
「分家から一時的に当主を据え置くのではなかったのか」
「セオリア夫人に婿をとるのも良い案だと思っていたのですがね」
「私としては、アデル公が後継者を指名していなかった事は重大な過失だと思うのです。こうなった
らアイゼン公爵家が≪北の公≫となり、ホルクス伯爵家が≪第二の守護者≫となれば――」
「まてまて、アデル公やラヴィン公爵家に過失はないだろう。アデル公がお倒れになってこんなに
早く亡くなるとは誰も予想できなかったのだから」
「レセン公子が成人するまでラシェ卿に公爵を務めてもらうのでは無かったのか?」
「よりにもよって、≪外腹≫の娘が当主になるなど」
「ラヴィン家はじまって以来でしょうね」
「だいたい碌に顔見せもしておらん。私は顔を知らんぞ」
「殆どの者は知らないでしょうね」
「神学校にも通っていないとか」
「≪神殿側の貴族≫として、それで良いのでしょうか?」
「誰ぞ、教義を教えたのか?」
「どうでしょうね」
「嘆かわしい」
円卓に座す彼らが何を言おうとも、≪彼女≫が公爵となるのは最早決定事項だった。ラヴィン家一族
だけでなくカーラ神教の≪神殿≫も彼女を公爵として認めたのだ。それはつまり、継承するに相応しく
ない理由が見当たらなかったからだ。
外腹でも、社交界から遠ざかっていても、≪神殿側の貴族≫でありながら神学校に通っていなく
ても、それは爵位を継承するに関して言えば何ら問題はない――神殿上層部がそう
判断したのなら、貴族がどう騒ごうが不祥事でもない限り決定は覆られないだろう。
その時、ふいに冷たい風が頬を撫で上げた。窓も扉も閉まったこの部屋のどこから風が――不思議に
思いセレドは室内を振り返った。どうやら入り口の扉が開いたらしい。風はそこから入ってきた
ようだ。
「さあ、どうぞ」
議長であるコーエン男爵の声が響き、室内が水を打ったように静寂に包まれた。全ての人間の目が
開かれた扉に集中する。
枯れ枝のように細い男爵に連れられて入室してきたのは、たっぷりとした眩い金の巻き髪を肩に
滑らせた見目の良い十代後半の少女だった。深い紅色の詰襟の長い上着に白い細身のパンタロンを
履いたその男性的な服装は、豪華な巻き髪や幼い顔立ちのせいでどこかちぐはぐな印象を与えて
くる。しかし、室内を映す大きな愛くるしい緑の目には頑なな意思が秘められ、砂糖菓子を頬張るに
好ましいふっくらとした唇は真一文字に引き結ばれており、若さ溢れる瑞々しい少女の男装は良い
意味で充分に人目を惹くものでもあった。
「皆様、お待たせして申し訳ございませんでした。手続きにいろいろと手間取りまして」
声まで細いコーエン男爵は言い訳を呟き、冷や汗を拭いながら続けた。
「ご紹介致します。こちらが新しき≪北の公≫ラヴィン公爵、デュシアン・ラヴィン卿です」
まるで一つの生き物であるかのように皆が一斉に息を飲んだ気配ののち、どこからとも
なくざわめきが広がった。
『この娘が、新しい≪北の公≫?』
『デュシアン・ラヴィン?』
『聖人アデル公の唯一の、汚点』
潜められた声は小さいながらも皆がそれぞれ好き勝手に呟いた為に、不興和音となって響き渡った。
不躾で悪意すら見える視線が彼女の隅々まで舐めまわすように向けられる。セレドはそれを
気の毒に思った。
彼女がただの公女であったのなら――アデル公が存命しており彼女をラヴィン公爵家の娘として
目の前にしたのなら、室内の半数以上の貴族が名門貴族ラヴィン公爵家との姻戚関係を求めて
諂って接したことだろう。
十四歳でラヴィン家に迎えられた≪外腹≫の彼女は出生について疑問視されているが、父親である
アデル公に認知されていた。隠されるかのように社交界から姿を消しては
いたが、ラヴィン家の公女であることには違いないのだ。
しかし、彼女が公爵となってこの場に現われることは誰もが望んではいないことであった。
公爵を継ぐに望ましいと皆が認める人物が爵位を継承しなかったことへの不満と、
ずっと隠されていた外腹の子が急に表舞台に出てきたことへの不信感、由緒正しい公爵家を
女が継ぐということへの拒否感など、さまざまな思いが室内を渦巻き、重苦しい雰囲気を
作り出していた。
「さあ、出席者は揃いました。はじめましょう」
皆の視線の意味、広がる声を分かっていながらも、コーエン男爵は彼女に席を勧めて議長席へと向
かった。デュシアン・ラヴィン女公爵が座ったのは、ラヴィン家とはライバルでもある≪第二の守護者
≫アイゼン家当主ライノール公やその子息ウェイリード公子の席の丁度向かい側、セレドから見れば
真正面の位置だった。
コーエン男爵の心配をよそに、議会は滞り無く進行した。それでもやはり皆、気になるのか、
探るような目があちらこちらから彼女に向けられている。好奇なのか値踏みなのか、嫌悪なのか。
彼女が全く気にした様子を見せなかったのはせめてもの幸いだと、セレドは全体
を眺めながら思った。
このまま何事もなく終わるかと思われた協議会に争いの口火を灯したのは一人の若い伯爵だった。
コーエン男爵が閉会を告げようとしたその瞬間だった。
「コーエン議長」
ベルガー青年伯爵。協議会出席者の中でも若い部類に入る彼は、アデル・ラヴィン前公爵の
妻セオリア夫人に懸想していると誰もが知っていることだった。情熱的な詩人の彼は
世間の目を憚ることなく夫人への愛を捧げる詩を発表しては人々の失笑と同情を呼んでいた。
「≪北の守り≫は辛うじて守られているというのに、彼女のような若く経験に乏しい女性に何がで
きるのでしょう? 彼女の爵位継承を許した神殿もラヴィン家一族も、出席を許したコーエン
男爵貴方も、一体どういうおつもりなのでしょうか」
演技過多なのか立ち上がって胸に手をあて真剣な眼差しで男爵を見ながらも、時折デュシアン・
ラヴィン公爵へまるで仇であるかのように鋭い視線を送り、彼は勇敢にも意見を述べた。
その言葉が波紋となり、皆が次々と口を開き始める。
「ベルガー伯爵の言う通りだ。すぐにもセオリア夫人を召喚し、ラヴィン家一族の意向を今一度
確かめるべきかと思う」
「夫人は当主になれずとも、現在あの家の主であることには変わりない。私もその意見に賛成だ」
「こんな娘に≪北の守り≫を支えるだけの力があるわけない、ただの田舎娘に――」
「妾腹の――」
「確かに、今までなりを潜め、力を示さなかったわたくしにも問題はあると思います」
デュシアン・ラヴィン公爵は初めて口を開いた。しんと室内が一瞬静まり返り、
彼女の一文字一句聞き逃がさんとばかりに全ての耳が傾けられた。
「けれども、公爵として認められるには、いちいち貴方がたに魔法をお見せしなければならないの
ですか? わたくしの魔力の許容量を推し量ることはできないのですか?」
どこか刺々しい物言いに、不満が爆発したように室内は騒然となった。
彼女の言う通り、他人の魔力の許容量≪器≫を感じ取ることはできる。魔法の手解きを受ければ、
自ずと身につくちからだ。しかし、随分な言い方をするものだとセレドは眉を寄せた。
「何と無礼な娘だ! 卑しい生まれの唯人のくせに!」
ベルガー伯爵が精神不安定かのように声高になるのも分からなくもないが、その言葉の応酬は
彼女以上に酷いものであった。
扉に近い位置に座る円卓騎士団長のダリル・フォスター将軍は顔を顰めて咄嗟に何か
発言しかけていたが、隣りに座る≪魔法宮≫の老将ダグラス・ルーズフェルトに制されて
今一歩のところで踏みとどまった。その一連の流れをセレドは視界の隅で傍観しながらも、
話の中心たる彼女へと焦点を戻した。
「ご貴殿には私が唯人に見えるのですか?」
デュシアン・ラヴィン公爵は不敵に微笑むと
徐に立ち上がり、瞬時に右手に小さな氷のナイフ
を作り、戸惑う暇もなくそれを己の首筋に当てた。左手でたっぷりとした髪を掴み、切れ味の良い
ナイフがそこへくい込む。長く艶やかな髪が主から潔く離れていくさまを、室内の全ての人間が息を
飲んで見送った。
緩やかな弧を描きながらぱらぱらと首筋へ落ちる髪先は肩に遠く届かない。貴族の令嬢としては無残
であったが、短い髪は寧ろその服装には映えた。より中性的になり、不可思議な魅力が強まる。
「私の父はアデル・ラヴィンです。私の力にラヴィン家の血を感じられないのであれば、修行をやり
直された方が宜しいのではないでしょうか?」
何の理もなしに現れた青白い炎が彼女の左手を焼いた。正確には彼女の左手が掴んでいた、
たっぷりとした髪を焼いたのだ。もちろん本物の火ではない為に焼けた匂いは一切ない。しかし
一瞬で創り出された神聖なる蒼白い炎が潜在能力の高さを示すことを、彼女はよく分かっていたの
だろう。背筋を撫でられるような不快な感触は、彼女が誇示するように多くの魔力を
惜しげも無く放出しているからだ。
唖然とする者たちを後目に、デュシアン・ラヴィン公爵は短くなった髪を誇るように顎を上げた。
その肝の座った緑の双眸で室内を一周し、冷笑を浮かべて自慢気に尋ねる。そのさまは
彼女の従兄、不敵な皮肉屋のラシェ・シーダス卿によく似ていた。
「私の≪魔力≫で問題でも?」
最後にコーエン議長へと視線を落ちつかせ、軽く首を傾げてみせる。
彼女の魔力の器は相当なものだ。それは魔法に精通していないセレドにも感じ取れた。
室内には一流の魔道師が何人もいるはずなのに、誰も異を唱えず押し黙っているのが何よりの
証拠だった。彼女は≪北の守り≫の魔法を維持する≪北の公≫としては、とりあえずは合格なのだ
ろう。
コーエン男爵は背筋に氷を入れられたような顔でぶるぶると身体を一瞬震わせてから、彼女へと
引き攣った微笑みを返した。そして、議会の閉幕を宣言した。
(2003.11.12 ひぐち緋菜)
(改訂:2007.7.15)
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