墓と薔薇

小話:ある日の恋物語

 恋愛とは人を狂わせる、()に恐ろしい感情だ。これはその際たる話である。
 あるところに、恋に狂い、塔の最上階に愛した女を軟禁した男がいた。許しを請う彼女が軟禁状態から解放されたのは、 彼女がその男の子どもを身篭もり、妻となることを承諾した時――それは軟禁され始めてから一年経ってのことだった。その間、 彼女は幾度となく塔からの脱出を試みたものの、その度に男は執拗に彼女を追いかけ、連れ戻し、塔に閉じ込めた。
 女が妻となったのちも、心変わりを恐れた男は塔をいつでも使用できるよう常に手入れをさせていたという。

「この塔にはそんな歴史がある」
 その日、青年が娘を最後に案内したのは城の裏庭にそびえ立つ円錐形の塔だった。
 豊かな緑に隠れる小鳥の(さえず)りと、 柔らかな日差しが降り注ぐ裏庭の穏やかな雰囲気のなかで、 (くろがね)の錠で堅く閉ざされたその塔の異様さは際立つものがあった。
 その塔の入り口を前にして忌まわしい謂れを語ったのち、青年は傍らに立つ娘の様子を窺った。 世間知らずで感情豊かな彼女にこのような城の闇を話し、 その表情を曇らせ心を(さいな)ませるのは不本意であったのだ。 そもそも成人したばかりの娘には刺激が強すぎる話でもある。
 黙って話に耳を傾けながら塔を見上げていた娘は、暖かな風に揺れる長い金の髪を押さえ、青年を振り仰いだ。
「それで、その女性はどうなったのですか?」
……三児の子の母となった」
 幼さを残す面差しが目に見えるかたちでさっと曇る。穏やかならない二人がその後も子を成した、という事実が衝撃を与えたのだろう。
「その女性は、幸せだったのでしょうか?」
「さあ、な」
 明らかに落ち込んだ態で視線を落とした娘の様子に、青年は自身のそっけない一言をすぐに後悔して取り繕うように続けた。
「二人は互いを思い合っていた。それは真実だ。男の嫉妬深さが問題だったのだ。己の血をわけた子たちにすら嫉妬していたのだからな」
「それでは、御子たちは虐げられたのでしょうか」
 痛ましさを覚えたのか胸を押さえ、見知らぬ子どもたちへ心を砕く。そんな情に篤く多感な娘を微笑ましく思いながら、 青年は緩やかに首を振った。
「いや。確かに二人は子どもたちを可愛がった。ただ、夜半になれば母御へ纏わり付くことは疎まれた。 仕方なく一番上の兄が年の離れた弟たちを寝かしつける役目を負った」
「まあ。では、そのお兄様はとてもおりこうさんだったのですね」
 『おりこうさん』の幼い長男を思い描いたのか娘は優しい微笑みを浮かべたが、 反対に青年は僅かに目を細めると「そうでもない」と否定的な言葉を仏頂面で呟いた。
「このお城の敷地にある塔を使用されていたということは、――むかしの?」
 彼女らしい控えめな問い方だと青年は思った。はっきりと『貴方の先祖の話なのか?』と問わないのは、 他者を慮る彼女の慎ましやかな気質なのか、それとも心を開ききってくれていない証拠なのか。どうも後者であるような気がして、 青年は僅かな苛立ちを覚えながらも、自分たちの出会い方からすれば仕方ないのだと己を戒めた。
 けれども今はそんな自分たちの有り方の話をしているわけではないと気を取り直す。 これからもう少し衝撃の強い話を彼女にしなければならないのだ。 俗世から隔絶されるように神殿の奥で育てられた彼女には随分と酷な話となる。
 しかし先ほど自分を納得させたように、 この話はいずれ確実に彼女の耳に入る。彼女がこの塔に関する更なる事実を知るのであれば、それは自分の言葉からであることを望んだ。 もしも全てを知って傷つき、怖がらせ、恐れを覚えるようであればこの腕に抱いて慰めたい。何も不安に思うことはないと、 今度は神殿の代わりに何ものからも自分が守ると教えてやりたい。この腕の中にいれば安心だ――と。 傍らで笑っていれば良いのだと知って欲しいのだ。
 渦巻く激しい欲望を振り払うように青年は一度、首を振った。これでは《同じ》だ、と。
「黙っていても、いずれ分かることだから伝えておく」
 意を決すると、青年は母譲りの藍色の双眸で娘を束縛するように見つめた。
「先ほどの嫉妬深い男と軟禁された女の話は、現城主夫妻の話だ」
……といいますと」
 僅かに首を傾げ、困惑したようにぎこちなく聞きなおす。それも無理からぬこと、と青年は頷いた。
「半月後に、君の義理の父と義理の母になる二人の話だ」
 はっきりと事実を告げれば、娘は緑の瞳を丸くさせて青年を見つめたまま押し黙った。
 彼女がどんなことを考えているのは分からないが、表情や雰囲気からは恐れを覚えたようには見受けられない。 それでも青年は細心の注意を払って娘の様子を観察した。本来ならば腕の中に抱き寄せてその背を撫でて 『穏やかならない両親ですまない』と謝罪したいところなのだが、思うことを口にしてはくれない彼女の機微を覚る為にも、 腕を伸ばすわけにはいかない。それが歯がゆかった。
 思考に折り合いがついたのか、しばらくすると娘はその緑の目を穏やかな形に細めた。慈愛に満ちた表情は、 緊張していた青年の心を落ち着かなくさせる。
「では、その『おりこうさん』の一番上のお兄様は」
……私のことだろうな」
 意外な一言に自嘲の笑みを見せて応えれば、娘はくすくすと微笑んだ。ふわりと柔らかそうな金糸の巻き髪が揺れる。
 青年は惹かれたように無意識に娘へ手を伸ばしかけ、その頬に触れる寸前に我に返って手を下ろした。
 伸ばされかけた手が戻っていくさまを目で追いながら娘も笑うのをやめ、切なげな表情でしっかりと見つめてくる。
「本来の父は豪放で快活、裏表のない清廉潔白な人だ。武人としても領主としても有能であり、深く尊敬している。この アイゼン家を公爵家にまで引きあげたのも父と父の指揮した騎士団の功績だ。新興国のアレクシス国王陛下や首脳陣の 信頼が篤いのも父の采配のおかげだ」
 青年の気持ちを汲むように、娘は静かに頷いてくれた。そのいじらしさに焦燥感が湧き上がる。
「しかしその軌跡を聞かされる度に、母への仕打ちが対照的となり、私は恋というものの恐ろしさを覚えてしまったのだ。 英雄と慕われ讃えられる人間をそこまで非道に変えてしまえる恋というものが恐ろしかった」
 一度視線を彼女から外し、知らずに入っていた力を肩から抜くと荒ぶる心を落ち着かせた。
「だからこそ、妻とする者に執着せぬよう政略結婚を望んだ。賢く、野心もなく、慎み深い女性であればそれで良かった。 妻に対する恋愛感情など要らぬと」
 彼女から視線を逸らさず続けた。僅かに表情を硬くさせた彼女を見て、また心がざわめくが、すべて語らなければいけないと思った。
「神殿の奥で慎ましく暮らしていた君との政略結婚は願ってもない良縁だった。断る理由などないと思った。 これで私は父と同じ轍を踏まずに済むと安堵していたのだ」
 そう、安堵していた。
「君と出会うまでは」
……え?」
 娘は弾かれたように目を見開いた。
「私は嘆けば良いのか、喜べば良いのか解からないでいる。誰よりも深く想える女性と出会えたこと、そしてその女性を妻とできることを、 喜べばいいのか父と同じ過ちを繰り返すかもしれないという恐れを抱けばいいのか。私には解からないのだ」
 心の葛藤を素直に語った。疑いようもなく自分は彼女に恋をし、誰にも抱いたことのない部類の愛情を感じている。 それは喜ばしいことと分かっているも、父のようにその思いばかりが暴走してしまわないか、自分を信じることができないのだ。
「君を父のように傷つけないとは誓えない。ただ――大切にしたいと、強く望む」
 それだけが真実だった。
「不安になったか?」
「いいえ」
 首を振る娘の様子に、否と答えることへの偽りがあるようには思えない。
「だって、ヴィクトール様もユーリエ様もとても幸せそうで仲睦まじいではありませんか」
「それは時が解決したということもあるし、父も母も元々互いを深く想いあっていた。軟禁の始まりは、 混血という出自を気にした母が身を引こうとしたことが起因と聞いている。私たちとは違う」
「違う、のですか?」
 娘は目を細め、眉を寄せた。
「わたくしは確かに貴方様とはお会いしたばかりです。まだ半月と経っておりません。それでも……それでもわたくしは、 貴方様をお慕い申し上げております。貴方様もそうであって頂けたらと――」
 胸元に閉じた両手を当て、目尻を赤くしながら必死に語りかけてくる娘に対し、僅かに瞠目する。慎ましく穏やかで、 己の感情を言葉にすることを苦手とする娘のいじらしい姿に、嬉しさと幸福感がこみ上げてくる。
「私も、……同じ想いだ」
 何を(はばか)る必要もなくなり、彼女を腕の中に閉じ込める。 柔らかな身体に甘やかな香り。おずおず背に回る意思ある細い腕、胸に完全に預けられたその身の感触に、血流が沸騰しそうだった。
 もう戻れないと悟る。おそらく自分は父と同じように、己の愛した女性を束縛したいと思うだろう。 彼女の周りにいる男たちに激しい嫉妬を覚えるだろう。そんな利己的な自分から、なんとしても彼女を守らなければならないと誓う。
「反対だってあるかもしれません」
 腕の中、彼女がぽつりと呟く。
 続きを促すように閉じ込める腕を緩め、顔を上げる彼女を見下ろす。
「この塔に閉じ込められるのは、貴方様かもしれませんもの」
 彼女にしては珍しい主張に、軽く息を飲む。こちらに独占欲を感じてくれていると知り、胸が暖かくなる。
 ふんわりと笑う彼女に(よこしま)な思いなどあろうはずもないと分かっていながらも、 つい嬉しさに意地の悪いことを言ってしまう。
「面白い事を言うのだな。それで、君は私を閉じ込めて、どうしたいのだ」
「それは――」
 娘の頬が瞬時に朱に染まる。自分の大胆な発言にやっと気づいたのだろう。
「まさか閉じ込めておくだけで、私を放っておく気ではないだろうな?」
 右手でその真っ赤になった頬を撫でる。彼女の身体が僅かに緊張したのを感じ、その初々しさに苦笑が零れそうになる。
「一日中、こうして触れ合ってくれるのなら」
 輪郭を指先でなぞりながら頬を優しく撫で、顔を近づけて唇の傍で呟く。
「自ら望んで軟禁されよう」
 目元を潤ませ、顔を逸らそうとする娘の両頬を両手で触れて動けなくする。吐息を感じるほどの距離で見つめ合う。
「さあ、どうする?」
「お許し、くださいませ」
 愛らしい唇がちからなく降参の意を表明する。羞恥で真っ赤になり、泣きそうになっていた。
 その可愛らしさに堪えきれず、赤くなった目元に優しく口付け、ゆっくりと身を起こす。 離れれば、娘が明らかに緊張を解いたのが分かり、今度こそ苦笑した。まだ、早いのだ。
「この塔はいつでも使用できる状態で保たれているからな。今すぐ入ろうか?」
 艶を含まず、冗談めかしに尋ねれば。
「もう! 意地の悪い方!」
 まだ赤い頬を誤魔化すように膨らませ、眉を吊り上げて抗議をあげる。惚れた欲目か、そんな表情すら愛おしい。
 互いの想いをしっかりと確認し合ったことで、 これからはもっと色んな顔を見せてくれることになるだろう。それが楽しみで仕方なかった。
「はははは」
 幸福に腹の底から笑いが起こる。『笑うのはおやめください!』と怒る彼女を急に抱き寄せ、 雲ひとつない空のもと、深い充足感にしばらく笑い続けた。


 それは古い昔。
 恋を恐れていた青年と、鳥籠から解き放たれた娘の物語。



(2009/5/17)
(あとがき)
六百年ほど前の、恋物語。
このお話を読んだ後は、8章閑話での双子の魔人の言葉がほんの少しだけ、
違う意味合いに聞こえてくるかもしれません。

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